Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
レッドシューズは、机上の端末に表示された記録をしばらく黙って見ていた。
今朝、シンデレラの最終メンテナンス中に検出された未承認コード。そのコードが通ろうとしていた補助メンテナンス系統の履歴と、過去に何度も行われていた更新記録。そこにはレッドシューズの認証情報が残されている。
それでも、エイブは最初から彼女を犯人と決めつけるような言葉を使わなかった。
「この認証は、あなたのものだ」
「そうですね」
レッドシューズは否定しなかった。
「でも、それだけでは私がコードを書いた証拠にはならないでしょう? 端末の使用履歴なら、日常的なメンテナンスでも残っているはずです」
「だから聞いてる」
エイブの声は普段と変わらないほど平坦だったが、ネイトには、その平坦さを保つために普段以上の力を使っているように聞こえた。
「心当たりは?」
レッドシューズはもう一度画面へ目を向けた。
「……ありません、と答えたら?」
「記録をもっと調べる」
「私を信じてくださるわけではないんですね」
「信じたいことと、調べることは別」
短い返事だった。
レッドシューズの目が僅かに伏せられる。
ネイトは壁際に立ったまま二人を見ていた。腰には10mmピストルがあるが、まだ手を掛けてもいない。昨日一緒に茶を飲んだ相手へいきなり銃口を向けるつもりはなかったし、今の段階では本人の認証が使われているという以上のことは確定していない。
だが、シンデレラへもう一度触れさせる気もなかった。
「今から問題の系統を全部止める」
エイブが告げた。
「あなた個人だけじゃない。私も含めて、全員の書き込み権限を止める。未承認コードの監査が終わるまで、シンデレラたちのNIMPHには触らせない」
「……分かりました」
レッドシューズは抵抗しなかった。
その返事も昨日と変わらず穏やかだった。
だからこそ、ネイトは余計に判断しづらかった。
「しばらく自室で待機してもらう」
「拘束ではないんですね?」
「今は」
「拒否したら?」
エイブが答えるより早く、ネイトが口を開いた。
「そうしてほしくないな」
声を荒らげる必要はなかった。
レッドシューズは一度だけネイトの腰にある拳銃を見て、それから両手を身体の横へ下ろした。
「分かりました。待っています」
扉へ向かいかけたところで、彼女は一度だけ振り返った。
「シンデレラは?」
「再検査中」
「侵食は?」
「今のところ確認されてない」
エイブが答えると、レッドシューズは目に見えて安堵した。
「……よかった」
その言葉が演技なのかどうか、ネイトには分からない。
少なくとも、その時の表情だけを見れば、本当に安心しているようにしか見えなかった。
◇
未承認コードを過去へ辿る作業は、思っていたより難航した。
正式な研究所データベース上では、途中から記録そのものが消えている。単純に削除されたというより、最初から通常の研究記録へ残らないよう別系統で管理されていた形跡があり、履歴を遡れば遡るほど情報が断片的になっていった。
それでも、完全に消し切ることはできていなかった。
「これ」
エイブが地下施設の見取り図を表示した。
研究所の主要区画から離れた場所に、記録上はすでに閉鎖された旧研究区域がある。設備一覧では長期間使用されていないことになっているにもかかわらず、電力消費記録には現在まで不自然な供給が続いていた。
さらに、シンデレラへ送られようとしていたコードが保存されていた隠し領域と、その旧区画との間には過去何度も通信が行われている。
「最後にここを使ったのは?」
ネイトが尋ねる。
「正式にはかなり前。設備も停止したことになってる」
「でも電気は食ってる」
「そうだ」
エイブの顔は、朝からほとんど変わっていない。
ただ、機嫌が悪い時よりさらに口数が減っていた。
「行く?」
「行く」
「レッドシューズは?」
「連れていかない」
即答だった。
何があるか分からない以上、それが正しいだろう。研究所の警備担当へ連絡を入れ、エイブとネイトは数名の警備兵を伴って地下区画へ向かうことになった。
シンデレラも同行を求めた。
「私に関係することなのでしょう?」
「だから駄目」
「戦えるわ」
「戦闘の話じゃない」
それでも納得しないシンデレラを前に、エイブはしばらく言葉を探していた。
「今日、あなたを失いかけたかもしれない」
いつもの断定口調より、少しだけ弱かった。
「今度は私の言うことを聞いて」
シンデレラは何か言い返しかけたものの、エイブの顔を見ると口を閉ざした。
「……分かったわ」
ネイトは地下へ向かう途中、何度かその場面を思い出した。
怖いのだ。
シンデレラだけではない。
エイブも。
昨日まで同じ研究所で働き、シンデレラの門出を一緒に祝っていた相手の名前が、今は未承認コードの先に見えている。
「あんたは大丈夫?」
歩きながら尋ねると、エイブはこちらを見た。
「何が?」
「いや」
それ以上は聞かなかった。
大丈夫ではないだろう。
だからといって、今それを本人へ認めさせる必要もなかった。
◇
旧研究区域へ続く扉には、まだ電源が通っていた。
エイブが研究責任者としての認証情報を入力する。
拒否。
もう一度試す。
結果は同じだった。
「研究所の責任者でも入れない?」
「私とは別の権限が設定されてる」
ネイトは扉の電子ロックを覗き込んだ。
「壊していい?」
「開けて」
「即決だな」
戦前アメリカの電子錠とは構造も規格もまったく異なる。とはいえ、機械である以上、認証系と物理ロックが何らかの形で繋がっていることには変わりない。エイブに回路の役割を聞きながら外装を開き、何度か危うく警報を鳴らしかけた末に、ようやく解錠表示が点灯した。
「開いた」
「こういうの得意なんだ」
「前の世界じゃ、人の家に入る時によく――」
ネイトはそこで口を閉じた。
エイブが見る。
「泥棒?」
「違うと言いたいけど、完全には否定できない」
普段なら何か返ってきたかもしれない。
今回は、それで会話が終わった。
扉を開いた途端、冷たい空気とともに薬品の臭いが流れてきたからだ。
照明は生きている。
奥まで続く通路にも、設備が動作する低い駆動音が響いている。
そして最初の部屋へ足を踏み入れた時、誰もそれ以上の軽口を口にできなくなった。
そこには、大型の槽が並んでいた。
一基や二基ではない。
広い区画の壁際から中央まで、整然と何列にも並んでいる。
その一つ一つに、ニケの身体が収められていた。
ネイトは最も近い槽へ歩み寄った。
女性の身体が、透明な液体の中に浮かんでいる。
眠っているようにも見える。
Pip-Boyを操作した。
反応はない。
もう一度、測定範囲を変えて確認する。
マレーンを発見した時に拾えたような、ごく僅かな生命反応さえ表示されなかった。
隣ではエイブが研究設備へ端末を接続している。
「……死んでる」
次の槽。
「これも」
その隣も同じだった。
ネイトは周囲を見渡した。
槽の横には番号だけでなく、個人名が残っているものもある。
所属部隊。
処置日時。
侵食反応。
投与されたコード。
その後の経過。
ひとりひとりに記録があった。
「全員、侵食実験?」
「そう見える」
「何人いる?」
エイブが一覧を統合した。
表示される件数は、一つの部屋だけで終わらなかった。隣接する区画にも同じ設備があり、そのさらに奥にも記録が続いている。
やがて数字が止まった。
エイブの声が、それまでより低くなる。
「……二百人以上」
ネイトは聞き返さなかった。
数字なら一行で終わる。
二百。
だが、今はその二百人が、目の前の槽に一人ずつ入っていた。
「全員死亡?」
「確認できる範囲では」
「実験前からじゃないよな」
エイブは記録を読み、首を横へ振った。
「侵食実験後に死亡してる」
一部には、脳へ直接処置を加えた記録も残されていた。
ネイトは無意識に拳を握った。
戦場で死ぬのと。
研究室へ連れてこられ、本人の知らないところで実験を受けて死ぬのと。
同じ数字にはできない。
「まだ奥がある」
エイブが言った。
感情を押し殺したような声だった。
二人はさらに地下区画を進んだ。
そして次の部屋へ入った途端、ネイトは10mmピストルを抜いた。
「止まれ」
同行していた警備兵にも手で合図する。
今度並んでいたのはニケではない。
ラプチャーだった。
大型の拘束器具へ固定され、武装と移動用の部位は破壊されている。しかし完全に停止しているわけではなく、装甲の奥では内部機構が微かに動いていた。
「生きてる」
エイブが安全な距離から設備へ接続する。
「侵食誘発装置も残ってる」
「数は?」
隣。
その隣。
さらに奥。
合計十機。
ネイトは全員へ距離を取るよう指示した。
「絶対に近づくな。ウルトラみたいに触手を伸ばせるかもしれない」
誰も反論しなかった。
エイブが遠隔でラプチャー側のデータを読み込んでいる間、ネイトは周囲へ視線を走らせた。
そこで、一つの壁に気づいた。
写真が貼られている。
一枚ではない。
鏡を見ている姿。
整備中。
訓練中。
ガラスの靴と一緒に写っているもの。
笑顔。
横顔。
中には、本人が撮影されていることに気づいていないように見える写真さえあった。
写っているのは、すべて同じ少女だった。
シンデレラ。
「エイブ」
「見えてる」
彼女も壁を見上げていた。
二百人。
十機。
そしてシンデレラの写真。
もはや偶然という言葉で片付けるには、揃っているものが多すぎた。
◇
地下の端末には、研究記録も残されていた。
一度削除しようとした形跡はあるが、正式な研究所設備から隔離されていたことが、皮肉にも完全消去を難しくしていたらしい。バックアップや中間ログを繋ぎ合わせると、少しずつ研究の流れが見えるようになった。
最初は、既存の侵食についての分析だった。
「初期型」
エイブが画面を読み進める。
「侵食誘発装置からNIMPHへ命令を送る。単純なものなら『動くな』のような行動制限」
「レッドフードに入った奴に近い?」
「系統としては近い。ただし、あれはもう少し進んでる」
初期型には欠点があった。
NIMPHが異常命令として認識し、排除してしまう。
侵食に身体が耐えられないニケも多い。
だから研究者はコードを変更した。
単純な麻痺ではなく、より複雑な行動を選ばせる。
ラプチャーを攻撃しない。
人類側を敵と認識する。
ラプチャー側へ有利な行動を取る。
一部の実験では、侵食されたニケをラプチャーが攻撃しなくなった記録まで残されていた。
「……喜んでるな」
ネイトが資料を見て呟いた。
記録の文章には、実験結果を得た研究者の興奮が隠されていない。
エイブは次の項目を開いた。
そして眉を寄せた。
「人格情報を組み込んでる」
「誰の?」
「レッドシューズ自身」
ネイトは画面を見る。
コードに複雑な判断をさせるため、レッドシューズ本人の人格情報の一部を抽出し、侵食側へ組み込んでいる。
麻痺させるだけの命令から、対象の状況に合わせて行動を変えるものへ。
それでも、人類側の技術だけでは越えられない壁があった。
NIMPHによる排除。
脳への負荷。
侵食コード自体の限界。
そして研究記録は、そこで別の方向へ進んでいた。
ネイトの手が止まる。
「……待て」
「何?」
「ここ」
エイブも該当部分を読む。
数秒後、彼女が言葉を失った。
自分たちで進化させられないのなら。
進化する存在へ渡せばいい。
「改造したラプチャーを……外へ放した?」
「そう書いてある」
「侵食誘発装置を持たせて?」
「そうだ」
「何のために」
答えは記録の中にあった。
ラプチャー自身に、侵食を進化させるため。
ネイトは額へ手を当てた。
「敵に研究を続けさせたのかよ……」
ラプチャーは進化する。
なら、人類の研究だけでは越えられない技術的な壁を、敵自身に越えさせればいい。
レッドシューズは、それを仮説のまま終わらせなかった。
実際に改造済みのラプチャーを研究所の外へ放っている。
その後。
各地で観測される侵食の性質が変化し始めた。
侵食されたニケをラプチャーが攻撃しない。
連れ去る。
身体の制御をより深く奪う。
瞳が赤く染まる。
エイブが画面を止めた。
「ラプンツェルから来てた報告」
「時期が合う?」
「合う」
それだけで、現在確認されている侵食のすべてをレッドシューズが作ったと断定することはできない。
しかし、彼女が作った改造型侵食をラプチャーへ意図的に渡し、その後に侵食が大きく進化したことは、もはや偶然とは考えにくかった。
さらに記録は続く。
そして、最後に現れた見出しを見て、エイブの顔が強張った。
第2世代適用候補。
登録されている名前は一つだけ。
CINDERELLA
優れたニケが侵食された場合、ラプチャー側はその性能を使い捨てにするのではなく、自陣営の重要な存在として扱うのではないか。
その仮説を検証するには、強い個体が必要になる。
第2世代フェアリーテールモデルの中でも、特に高い性能を持つ存在。
ゴッデスさえ上回る可能性を持つニケ。
シンデレラ。
ネイトは壁に並ぶ写真をもう一度見上げた。
昨日。
レッドシューズは、シンデレラの出撃が決まったことを知って泣いていた。
心から嬉しそうだった。
あれまで全部嘘だったのか。
そう考えたが、すぐに違う気がした。
おそらく。
あれも本当なのだ。
だからこそ、理解できない。
「戻る」
エイブが言った。
「もう十分だ」
「大丈夫?」
今度はネイトも尋ねた。
エイブは即答した。
「大丈夫じゃない」
それでも、もう立ち止まらない。
「だから本人に聞く」
ネイトも、それ以上止めなかった。
◇
レッドシューズは研究所内の会議室へ移されていた。
まだ拘束具までは付けられていないが、研究設備へのアクセス権はすべて停止され、扉の外には警備兵が立っている。部屋の中にも彼女が使用できる端末は置かれていない。
エイブとネイトが入ると、レッドシューズは二人を見た。
その視線が一瞬だけ、エイブの顔で止まる。
「見つけたんですね」
それだけだった。
エイブは向かいの椅子へ座った。
ネイトは壁際に立つ。
「地下」
レッドシューズは何も答えない。
「二百人以上のニケ」
沈黙。
「侵食誘発装置を残したラプチャーが十機。侵食コードの改造記録。あなたの人格情報。改造した侵食を外へ出した記録」
エイブは一つずつ口にした。
最後に。
「シンデレラ」
レッドシューズが目を閉じた。
数秒後、ゆっくり息を吐く。
「……全部、見たんですね」
否定しなかった。
エイブの手が机の上で僅かに震える。
「どうして?」
問いはそれだけだった。
ネイトも口を挟まなかった。
まず、この質問をする権利があるのはエイブだと思った。
レッドシューズは長く考えた末、静かに答えた。
「戦争を終わらせたかったからです」
エイブの眉が動く。
「あれで?」
「はい」
「二百人以上死なせて?」
「……必要な過程でした」
そこでネイトが初めて口を開いた。
「その言い方はやめた方がいい」
レッドシューズが彼を見る。
「なぜですか?」
「死んだ側が聞いたら腹立つだろ」
「ですが、研究には犠牲が――」
「その二百人が何をするのか説明されて、自分で納得して参加したんなら話は別だ」
答えがない。
ネイトはそれだけで理解した。
「してないんだな」
レッドシューズは目を逸らした。
エイブが尋ねる。
「戦争を終わらせるって、どういう意味?」
レッドシューズは胸元へ手を置いた。
「人類は、このままではラプチャーに勝てません」
「だから侵食を強くした?」
「だから、同じ側へ行く方法を探したんです」
ネイトの眉が寄る。
レッドシューズは、それが当然の帰結であるかのように話し続けた。
「人類とラプチャーが互いを敵として認識するから、戦争は終わらない。もし同じ側へ立てるのなら、争う理由そのものがなくなるかもしれないでしょう?」
「ニケを侵食させて?」
「最初はニケです」
「その先は?」
レッドシューズは答えなかった。
ネイトは彼女を見た。
「それを勝利って呼ぶ?」
「滅びないのであれば」
「本人の意思を奪っても?」
そこで初めて、レッドシューズの声に少し熱が混じった。
「今のニケだって、完全に自由ですか?」
エイブが顔を上げる。
「人間だった女性をニケにして、命令に従わせ、ラプチャーと戦わせる。使えなくなれば捨てられる。ニケがどんな扱いを受けているか、ネイトさんも見たでしょう? 人類がニケにしていることと、侵食は本当にそこまで違いますか?」
ネイトはすぐには否定しなかった。
少し前には薔花たちが、本人たちに知らせることさえなく、最後の一人になるまで消耗させられようとしていた。
ニケへの扱いに問題がある。
そこだけなら。
レッドシューズは間違っていない。
だからこそ、その先がおかしい。
「違うよ」
「どこがですか?」
「問題があるなら、その問題を直すんだ」
レッドシューズをまっすぐ見る。
「ニケの扱いが間違ってるなら、人間側を変える。命令の仕組みに問題があるなら、そこを変える。本人の頭の中を勝手に書き換えて、『これで辛くありません』って言うのは解決じゃない」
「人類が変わると思いますか?」
「簡単には変わらないだろうな」
「それなら――」
「だから何をしてもいいって話にはならない」
ネイトの声は静かなままだった。
「それに、俺が見た二百人は生き残ってなかったぞ」
レッドシューズの顔が僅かに揺れた。
「あなたの方法で」
今度は反論が返ってこなかった。
エイブが再び口を開く。
「シンデレラは?」
レッドシューズが彼女を見る。
「どうしてシンデレラだった?」
「シンデレラだからです」
その答えを口にした時だけ、声が少し変わった。
「これまでのニケでは、侵食そのものに耐えられないことが多かった。成功したとしても、ラプチャー側にとって重要な存在にはなれない。でも、シンデレラなら違う」
「私の最高傑作だから?」
「はい」
「ゴッデス以上の力を持つ可能性があるから?」
「はい」
レッドシューズの瞳に、研究の話をしていた時と同じ熱が宿った。
「シンデレラなら、使い捨てにはされない。ラプチャーの側でも特別な存在になれる。人類とラプチャーの間に立って、両方を繋ぐ存在に――」
「本人はそれを望んだ?」
ネイトが遮った。
レッドシューズが黙る。
「昨日、シンデレラが言ってたよな。ゴッデスと一緒に戦いたいって。勝利の女神になりたいって」
「聞いていました」
「今日も?」
「ええ」
「それでも侵食させようとした」
「はい」
ネイトは小さく息を吐いた。
「昨日泣いてただろ。配備が決まった時」
レッドシューズの表情が変わる。
「……はい」
「あれも演技だった?」
「違います」
そこだけは即答だった。
「嬉しかったんです。本当に。シンデレラがずっと夢見ていた日でしたから」
「今日ゴッデスへ行くことも嬉しかった?」
「もちろんです」
「侵食を入れることも必要だった?」
少しの間。
「……はい」
ネイトは額へ手を当てた。
「両方本気なのか」
「矛盾していますか?」
「ああ」
「私には、そうではありません」
レッドシューズの表情は真剣だった。
「私はシンデレラを大切に思っています。家族として、あの子自身を愛しています。だからこそ――」
「そこまで」
エイブが止めた。
レッドシューズが彼女を見る。
エイブは席を立った。
「その続きを言うなら、シンデレラに直接言って」
◇
シンデレラは一人で会議室へ入ってきた。
ヘンゼルとグレーテル、セイレーンも事情を知りたがったが、エイブが止めた。いずれ説明しなければならないとしても、最初にレッドシューズの言葉を聞くべきなのは、今朝そのNIMPHへ侵食を書き込まれようとした本人だ。
シンデレラはレッドシューズの向かいまで歩いた。
椅子には座らない。
レッドシューズも、今度は笑わなかった。
「シンデレラ」
「本当なの?」
最初の質問だった。
「地下の研究室」
「……はい」
「二百人以上のニケ」
「はい」
「侵食の研究」
「はい」
「ラプチャーを外へ放したことも?」
「はい」
「今朝、私に入れようとしたものも?」
短い沈黙。
「……はい」
シンデレラは目を閉じた。
ネイトもエイブも口を挟まない。
やがて目を開く。
「どうして?」
エイブが先ほどしたのと同じ質問だった。
レッドシューズは、今度は迷わなかった。
「あなたなら、できると思ったからです」
「何を?」
「人類とラプチャーの間に立つことを」
「私は、そんなものになりたいって言った?」
「いいえ」
「なら、どうして?」
レッドシューズは、本当に困ったような表情をした。
「聞けば、断ったでしょう?」
シンデレラの顔が止まる。
「ええ」
声は静かだった。
「絶対に断ったわ」
「だからです」
その一言で。
シンデレラの中に残っていた迷いが消えたように見えた。
怒鳴らない。
泣きもしない。
ただ、レッドシューズをまっすぐ見つめる。
「そう」
静かな声だった。
「なら、あなたは最初から私の答えなんて必要なかったのね」
「違います」
「違わないわ」
「シンデレラ。私はあなたを――」
「愛している?」
レッドシューズが言葉を止めた。
シンデレラはエイブへ一度だけ視線を向ける。
エイブが小さく頷いた。
「昨日、私の出撃を喜んでくれたのも本当?」
「本当です」
「一緒にお茶を飲んだのも?」
「ええ」
「私がゴッデスと戦えることを嬉しいと思ってくれた?」
「もちろんです」
「それなのに」
シンデレラは自分の胸へ手を置いた。
「今朝、私が私でなくなるかもしれないものを入れようとした」
レッドシューズが口を開こうとしたが、シンデレラは静かに首を横へ振った。
「美しくないわ」
レッドシューズは何も言えなかった。
「私はゴッデスと一緒に戦いたい。リリスたちと人類を守って、私も勝利の女神になりたい。そのためにニケになって、ずっと今日を待っていた。あなたは全部知っていたでしょう?」
「はい」
「でも、自分が正しいと思う未来のためなら、私の願いを消してもいいと思った」
「消すつもりでは――」
「同じよ」
シンデレラの声が、初めて少し強くなった。
「私が何を望んでいるのかを聞かずに、私が何になるのかをあなたが決めたのだから」
レッドシューズの瞳が揺れた。
「私は、あなたなら――」
「私の物語を、勝手に書かないで」
今度こそ、何の言葉も返ってこなかった。
シンデレラは目の前の女性をしばらく見ていた。
昨日と同じ顔だった。
自分の配備が決まった時、嬉しくて泣いてくれた。
一緒に笑った。
ゴッデスに会える日を祝ってくれた。
それらまで全部嘘だったわけではない。
むしろ、本当だった。
だから余計に痛い。
「昨日あなたが笑っていたことまで、嘘だとは思わないわ」
レッドシューズが顔を上げた。
「でも、それで今日したことが消えるわけでもない」
「……はい」
レッドシューズの声が、初めて小さくなった。
「私が誰になるかは、私が決める」
シンデレラは胸へ置いていた手を下ろした。
「ラプチャーの象徴にも、あなたの理想にもならない。私は、私が美しいと思ったものを選ぶわ」
長い沈黙の後。
レッドシューズが俯いた。
「……ごめんなさい」
「今は、その言葉をどう受け取ればいいか分からない」
「……はい」
「だから、しばらく顔を見たくない」
シンデレラは踵を返した。
扉へ向かって数歩進み。
一度だけ足を止める。
「でも」
レッドシューズが顔を上げた。
シンデレラは振り返らない。
「昨日のお茶は、おいしかったわ」
何も返ってこない。
「それまで嫌な思い出にしたくないの」
そう言い残し、シンデレラは会議室を出ていった。
ネイトは追わなかった。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
それでも、昨日までのすべてを今日の出来事だけで塗り潰さない。
その選択もまた、シンデレラ自身のものだった。
◇
レッドシューズは、その日のうちに正式な拘束下へ置かれた。
研究権限はすべて剥奪され、秘密研究区画も警備部隊によって封鎖された。侵食誘発装置を保持している十機のラプチャーについては、不用意な解体によって何が起こるか分からないため、専門の設備と人員が整うまで拘束状態を維持することになった。
地下に残されていたニケたちについても、単なる研究廃棄物として処分することはしない。
エイブは、一人ずつ調べるよう命じた。
名前が残っているなら、名前を。
所属が分かるなら、所属を。
どのような処置を受け、いつ死亡したのか。
可能な限り全員について記録する。
秘密研究室の入口でその方針を聞いたネイトは、並んだ槽を見ながら尋ねた。
「消さないんだな」
「証拠だから」
「それだけ?」
エイブは少し黙った。
「いたことまで、なくしたくない」
「そうだな」
二百。
その数字だけなら、いつか報告書の一行に収まってしまうかもしれない。
だが、ここにいたのは二百という数字ではない。
二百人だった。
ネイトは少し迷ってから、隣にいるエイブへ声を掛けた。
「自分のせいだと思ってる?」
返事はない。
「同じ研究所だったから?」
「責任者だった」
「秘密研究室だぞ」
「気づけたかもしれない」
ネイトはすぐに否定しなかった。
「それは多分、この先ずっと考えることになると思う」
エイブが彼を見る。
「否定しないんだ」
「できないよ。俺には、あんたが絶対に気づけなかったなんて分からないから」
過去へ戻って確かめることもできない。
別の選択をしていれば何が変わったかなど、誰にも分からない。
「でも今やることなら分かる」
「何」
「この記録を全部調べる」
「それはやる」
「外へ放たれた侵食がどこまで広がったか確認する」
「それも」
「あと、シンデレラたち」
エイブが少しだけ目を逸らした。
「研究は逃げないだろ」
「シンデレラも?」
「今は多分逃げない」
「ゴッデスには逃げそう」
ネイトは思わず笑った。
「それはあり得るな」
エイブの口元も、本当に僅かに緩んだ。
◇
実際、シンデレラは研究所から逃げてはいなかった。
ただし、ゴッデスへ行くことを諦めてもいなかった。
待機区画へ戻ると、完全装備のまま鏡の前に立っている。
エイブが少し呆れたように尋ねた。
「何してるの?」
「待っているの」
「何を」
「出発許可」
今度はエイブが黙った。
ネイトは後ろで苦笑する。
「まだ行く気なんだな」
シンデレラは鏡越しにこちらを見た。
「当然でしょう?」
「今日、かなり色々あったぞ」
「ええ。分かっているわ」
鏡から離れる。
「辛くないわけではない。レッドシューズのことも、地下にいたニケたちのことも、まだ整理できていないもの」
少し離れた場所では、ヘンゼルとグレーテル、セイレーンが並んで座っていた。
三人とも普段より静かだった。
レッドシューズについて、すべてを詳しく知らされたわけではない。それでも、彼女が拘束され、自分たちが入れない地下区画で何か重大な問題が見つかったことくらいは理解している。
シンデレラは三人を一度見てから、エイブへ視線を戻した。
「でも、それと私が何になりたいのかは別でしょう?」
「今日じゃなくてもいい」
「分かってる」
「侵食コードは入ってない。でも、全部検査し直す」
「受けるわ」
「別の検査設備でも」
「受ける」
「経過観察も」
「するわ」
「少しでも異常があったら」
「すぐ言う」
一つずつ答えたあと、シンデレラは少しだけ笑った。
「もう、私が何を答えても止める理由を探しているでしょう?」
エイブは否定しなかった。
「心配だから」
シンデレラの表情が柔らかくなる。
「知ってるわ」
その一言に、今度はエイブが僅かに目を見開いた。
シンデレラは彼女へ近づいた。
「だから、ちゃんと検査を受ける。それで大丈夫だと分かったら」
自分の胸へ手を置く。
「私はゴッデスへ行く」
昨日までは、ただ憧れていた。
自分も美しい勝利の女神になりたいと願っていた。
だが今日、その願いそのものを別の誰かに奪われかけた。
だから同じ言葉でも、昨日とは意味が違う。
「ネイト」
「何?」
「約束、まだ有効よね?」
「帰ってきたら感想聞かせてくれるって奴?」
「ええ」
「俺は破棄してないよ」
「なら必ず聞いて」
「ああ」
シンデレラは満足そうに頷いた。
それから何かを思い出し、もう一度ネイトを見る。
「レッドフードには、検査から逃げないように言っておいて」
「何で急に?」
「侵食されているのでしょう?」
「ああ」
「今日、よく分かったわ。自分では大丈夫だと思っていても、ちゃんと確認してもらうのは大事なのね」
ネイトは笑った。
「本人に直接言えば?」
「会ったら言うわ」
「多分喧嘩になるぞ」
「どうして?」
「レッドフードだから」
シンデレラが首を傾げる。
「変な人なのね」
「お前に言われたら絶対怒ると思うよ」
「ネイト」
「何?」
「あなたも十分変よ」
「知ってる」
今度はシンデレラも笑った。
昨日とまったく同じ笑顔ではない。
おそらく、もう以前と完全に同じには戻れない。
それでも、その表情は誰かに作られたものではなかった。
何を信じるか。
誰を許すか。
どこへ向かうか。
そのすべてを自分で選び直した少女が、自分の意思で浮かべた笑顔だった。
その日のうちに、シンデレラが研究所を出発することはなかった。
安全確認にはどうしても時間が必要であり、そこだけはエイブもネイトも譲らなかったからだ。
しかし、彼女がゴッデスへ向かう未来そのものは、失われていない。
レッドシューズが用意していた物語は、最終メンテナンスの途中で止まった。
その続きを選ぶのは、もうシンデレラ自身だった。