Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
レッドシューズは、机上の端末へ表示された記録をしばらく黙って見ていた。今朝シンデレラの最終メンテナンス中に検出された未承認コードと、それが通ろうとしていた補助メンテナンス系統の履歴には、彼女自身の認証情報が何度も残っている。それでもエイブは、長い付き合いの同僚を最初から犯人と決めつけるような言葉を使わず、ただ事実だけを一つずつ確認していた。
「この認証は、あなたのものだ」
「そうですね。でも、それだけでは私がコードを書いた証拠にはならないでしょう?」
「だから聞いてる。心当たりは?」
レッドシューズはもう一度画面へ視線を落とした。ネイトは壁際へ立ったまま二人を見ており、腰には10mmピストルがあるものの、まだ手を掛けてもいない。昨日一緒に茶を飲んだ相手へ、本人の認証が使われていたという理由だけで銃口を向ける気にはなれなかったし、その判断はエイブも同じらしかった。
「……ありません、と答えたら?」
「記録をもっと調べる」
「私を信じてくださるわけではないんですね」
エイブの目が僅かに伏せられる。声は普段と変わらないほど平坦だったが、その平坦さを維持するために普段以上の力を使っていることくらい、昨日から彼女を見てきたネイトにも分かった。
「信じたいことと、調べることは別」
短い返答だったが、レッドシューズはそれ以上反論しなかった。
「今から問題の系統を全部止める」
エイブは端末を操作しながら続ける。
「あなた個人だけじゃない。私も含めて、全員の書き込み権限を止める。未承認コードの監査が終わるまで、シンデレラたちのNIMPHには触らせない」
「……分かりました」
レッドシューズは抵抗せず、椅子から立ち上がった。だが扉へ向かう前に一度だけ振り返り、研究者ではなく仲間としての色を滲ませた目をエイブへ向ける。
「シンデレラは?」
「再検査中。今のところ侵食は確認されてない」
「……よかった」
目に見えて安堵した顔をしたため、ネイトは余計に判断できなくなった。その反応が演技である可能性を否定する材料はないが、昨日シンデレラの配備決定を聞いて涙を流した時と同じように、本当に安心しているようにしか見えなかった。
「しばらく自室で待機してもらう」
「拘束ではないんですね?」
「今は」
「拒否したら?」
エイブが答えるより早く、ネイトが口を開く。
「そうしてほしくないな」
レッドシューズは一度だけ彼の腰にある拳銃を見た。それから両手を身体の横へ下ろし、普段と変わらない穏やかな声で答える。
「分かりました。待っています」
◇
未承認コードを過去へ辿る作業は、予想していた以上に難航した。正式な研究所データベース上では途中から記録そのものが消えており、単純に削除されたというより、最初から通常の研究記録へ残らないよう別系統で管理されていた形跡がある。履歴を遡れば遡るほど情報は断片的になっていたが、それでも完全に痕跡を消すことには成功していなかった。
エイブが地下施設の見取り図を表示した。
「これ」
研究所の主要区画から離れた場所に、記録上はすでに閉鎖された旧研究区域がある。設備一覧では長期間使用されておらず、電源も停止したことになっているにもかかわらず、実際の電力消費記録には現在まで不自然な供給が続いていた。さらに、シンデレラへ送られようとしていたコードが保存されていた隠し領域と、その旧区域との間では過去に何度も通信が行われている。
「最後にここを使ったのは?」
「正式にはかなり前。設備も停止したことになってる」
「でも電気は食ってる」
「そうだ」
「行く?」
「行く」
即答だった。
シンデレラも同行を求めたが、エイブは迷うことなく首を横へ振った。
「連れていかない」
「私に関係することなのでしょう?」
「だから駄目」
「何が?」
「戦闘の話じゃない。今日、あなたを失いかけたかもしれない」
いつもの断定口調より少しだけ弱い声だった。シンデレラは「戦えるわ」と返したものの、エイブはしばらく言葉を探した末に、もう一度彼女を見る。
「今度は私の言うことを聞いて」
シンデレラは何か言い返しかけたが、エイブの顔を見て口を閉ざした。
「……分かったわ」
何があるか分からない以上、その判断が正しいことはネイトにも分かる。研究所の警備担当へ連絡し、エイブとネイトは数名の警備兵を伴って地下区域へ向かうことになった。
エレベーターの中で、ネイトは隣に立つエイブを何度か見た。朝から表情はほとんど変わっていないが、昨日まで同じ研究所で働き、シンデレラの門出を一緒に祝っていた相手の名前が、今は未承認コードの先に見えている。平気でいられるはずがないと思ったものの、本人へ認めさせる必要もないため、ネイトは余計なことを言わなかった。
◇
旧研究区域へ続く扉には、まだ電源が通っていた。
エイブが研究責任者としての認証情報を入力する。しかし端末へ表示されたのは許可ではなく拒否であり、条件を変えてもう一度試しても結果は同じだった。
「研究所の責任者でも入れない?」
「私とは別の権限が設定されてる」
ネイトは扉の電子ロックを覗き込む。
「こういうの得意なんだ」
「泥棒?」
「違うと言いたいけど、完全には否定できない」
戦前アメリカの電子錠とは構造も規格もまるで異なる。それでも機械である以上、認証系と物理ロックが何らかの形で繋がっていることに変わりはなく、ネイトはエイブに回路の役割を聞きながら外装を開いていった。
「前の世界じゃ、人の家に入る時によく――」
「開けて」
「即決だな」
普段なら何か返ってきたかもしれないが、今回はそれで会話が終わった。
何度か危うく警報を鳴らしかけながら回路を迂回させ、ようやく解錠表示が点灯する。
「開いた」
重い扉が動き始めた。
その向こうから冷たい空気と薬品の臭いが流れ込んできた瞬間、ネイトも軽口を続ける気を失った。
照明は生きている。奥まで続く通路にも、設備が動作する低い駆動音が響いていた。誰もいないはずの閉鎖区画とは思えないほど整然と維持された環境を進み、最初の大きな部屋へ足を踏み入れたところで、一行は揃って立ち止まった。
大型の槽が、壁際から中央まで何列も並んでいた。透明な液体の中には、一基ごとに女性型の身体が収められており、一見すれば眠っているようにも見える。ネイトは最も近い槽へ歩み寄り、Pip-Boyで生命反応を確認したが、マレーンを発見した時に拾えたような微弱な反応すら表示されなかった。
測定範囲を変えてもう一度確認しても、結果は変わらない。
「……死んでる」
隣ではエイブが研究設備へ端末を接続している。別の槽も、その隣も同じであり、どれだけ観測方法を変えても生命反応は戻らなかった。
槽の横には管理番号だけでなく、個人名が残されているものもあった。所属部隊、処置日時、投与されたコード、侵食反応、その後の経過まで、一人ずつ異なる記録が付随している。
「全員、侵食実験?」
「そう見える」
「全員死亡?」
エイブは記録を読み、首を横へ振る。
「侵食実験後に死亡してる。確認できる範囲では」
ネイトは無意識に拳を握った。
戦場で兵士が死ぬことと、研究室へ連れてこられ、本人の知らないところで実験を受けた末に死ぬことを、同じ数字にはできなかった。さらに一部には、脳へ直接処置を加えた記録まで残されている。
「何人いる?」
エイブが一覧を統合し始めた。
表示される件数は一つの部屋だけで終わらず、隣接する区画にも同じ設備があり、そのさらに奥まで記録が続いている。集計が止まった時、エイブの声は先ほどまでより低くなっていた。
「……二百人以上」
ネイトは聞き返さなかった。
報告書なら「二百」という数字は一行で書ける。しかし目の前には、その数字の中へ押し込めることのできない一人一人が、別々の名前と記録を持って槽へ収められていた。
「まだ奥がある」
エイブが感情を押し殺したような声で告げた。
二人はさらに地下へ進んだ。
◇
次の部屋へ入った瞬間、ネイトは10mmピストルを抜いた。
今度並んでいたのはニケではなく、ラプチャーだった。大型の拘束設備へ固定され、武装と移動用の部位は破壊されているものの、完全に停止しているわけではない。装甲の奥では内部機構が微かに動き続けていたため、ネイトは同行している警備兵にも手で距離を取るよう示した。
「生きてる」
エイブは安全な位置から設備へ接続する。
「侵食誘発装置も残ってる」
「絶対に近づくな。ウルトラみたいに、見た目より長いものを伸ばせるかもしれない」
拘束されているラプチャーは合計十機だった。どれも外へ出られない状態にはされているものの、何のためにここへ保管されているのかを考えれば、油断する理由はない。
エイブが遠隔でデータを読み込んでいる間、ネイトは周囲へ視線を走らせた。
そこで、一つの壁に気づく。
「エイブ」
「見えてる」
壁一面へ写真が貼られていた。
一枚や二枚ではない。整備中、訓練中、鏡を見ている姿、ガラスの靴と並ぶ姿、笑顔や横顔まで、写っているのはすべて同じ少女だった。中には本人が撮影されていることすら知らなかったのではないかと思える写真もある。
シンデレラだった。
二百人以上のニケ。
十機のラプチャー。
そして壁一面のシンデレラ。
偶然という言葉で片付けるには、すでに揃っているものが多すぎた。
◇
地下の端末には、研究記録も残されていた。
一度削除しようとした形跡はあったものの、正式な研究所設備から隔離されていたことが、逆に完全消去を難しくしていたらしい。バックアップや中間ログを繋ぎ合わせていくと、研究がどのように進んだのかを少しずつ辿ることができた。
最初の記録は、既存の侵食に関する分析だった。
「初期型」
エイブが画面を読み進める。
「侵食誘発装置からNIMPHへ命令を送る。単純なものなら、『動くな』のような行動制限」
そこから研究は、さらに複雑な命令へ進んでいた。
初期型の侵食には欠点がある。NIMPHが異常命令と認識すれば排除される場合があり、対象によっては侵食そのものに脳が耐えられない。そこでコードを変更し、単純に対象を麻痺させるのではなく、状況に合わせてより複雑な行動を取らせるよう改造していた。
ラプチャーを攻撃しない。
人類側を敵として認識する。
ラプチャー側へ有利な行動を自分で選ぶ。
しかも一部の実験では、侵食されたニケをラプチャーが攻撃しなくなったという記録まで残されている。
「……喜んでるな」
記録の文章には、望んだ結果を得た研究者の興奮が隠されていなかった。
エイブが次の項目を開き、眉を寄せる。
「人格情報を組み込んでる」
「誰の?」
「レッドシューズ自身」
コードへ複雑な判断をさせるために、レッドシューズ本人の人格情報の一部を抽出し、侵食側へ組み込んでいた。ネイトにはその技術的な仕組みまでは理解できないが、自分自身の情報を素材としてまで侵食を高度化しようとしていたことだけは分かる。
「レッドフードに入った奴に近い?」
「系統としては近い。ただし、あれはもう少し進んでる」
人類側の研究だけでは、侵食をそこまで進化させることができなかった。
記録はそこで、別の方向へ進んでいた。
ネイトの手が止まる。
「……待て」
自分たちで技術的な壁を越えられないなら、進化する存在へ渡せばいい。
「ここ」
エイブも該当部分を読み、数秒後には言葉を失った。
「侵食誘発装置を持たせて……改造したラプチャーを外へ放した?」
「そう書いてある」
レッドシューズは仮説で終わらせていなかった。
実際に改造済みのラプチャーを研究所の外へ放ち、ラプチャー自身に侵食を進化させようとしていたのである。その後、各地で観測される侵食の性質が変化し始め、侵食されたニケをラプチャーが攻撃しない、身体の制御をより深く奪う、瞳が赤く染まるといった症例が報告されるようになっていた。
「ラプンツェルから来てた報告」
エイブが時期を照合する。
「合う」
ただし、それだけを理由に現在確認されている侵食のすべてをレッドシューズが作ったと断定することはできない。彼女が改造型侵食をラプチャーへ意図的に渡し、その後に侵食が大きく変化したというところまでは記録から追えても、その後ラプチャー側で何が起きたのかは分からなかった。
さらに資料を進めると、第2世代への適用候補として一つの名前が現れる。
CINDERELLA。
エイブの顔が強張った。
「シンデレラ……」
第2世代フェアリーテールモデルの中でも特に高い性能を持ち、ゴッデスを上回る可能性まで評価されている個体。高性能なニケであれば、侵食後も単なる使い捨てではなくラプチャー側で重要な存在として扱われるのではないかという仮説が、記録には書かれていた。
壁に並ぶシンデレラの写真を、ネイトはもう一度見上げる。
昨日、レッドシューズはシンデレラの出撃が決まったことを知って泣いていた。あの時の表情まで全部嘘だったのかと一瞬考えたものの、どうしてもそうは思えなかった。
「戻る」
エイブが言った。
「もう十分だ」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
即答だった。
それでも足は止めない。
「だから本人に聞く」
ネイトも、それ以上止めなかった。
◇
レッドシューズは研究所内の会議室へ移されていた。
まだ拘束具までは付けられていないが、研究設備へのアクセス権はすべて停止され、部屋の外には警備兵が立っている。室内にも彼女が自由に使用できる端末は置かれておらず、先ほどの自室待機より明確に警戒が強められていた。
エイブとネイトが入ってくると、レッドシューズは二人の顔を順番に見た。視線が一瞬だけエイブで止まり、その表情から何かを察したように小さく息を吐く。
「見つけたんですね」
エイブは向かいの椅子へ座った。
「地下」
レッドシューズは何も答えない。
エイブは見つけたものを一つずつ口にした。
「二百人以上のニケ。侵食誘発装置を残したラプチャーが十機。侵食コードの改造記録。あなたの人格情報。改造した侵食を外へ出した記録」
最後に、シンデレラの名も加える。
レッドシューズは目を閉じ、数秒後にゆっくり息を吐いた。
「……全部、見たんですね」
否定しなかった。
ネイトは壁際に立ったまま、まずエイブへ任せた。この質問を最初にする権利があるのは、長く同じ研究所で働いてきた彼女だと思ったからだ。
「どうして?」
問いはそれだけだった。
レッドシューズは長く考えた末、静かに答える。
「戦争を終わらせたかったからです」
「二百人以上死なせて?」
「はい」
「それで?」
「……必要な過程でした」
そこでネイトが初めて口を開いた。
「その言い方はやめた方がいい」
レッドシューズが彼を見る。
「なぜですか?」
「死んだ側が聞いたら腹立つだろ」
「ですが、研究には犠牲が――」
「その二百人が何をするのか説明されて、自分で納得して参加したんなら話は別だ」
答えがない。
「してないんだな」
それだけで十分だった。
エイブが再び尋ねる。
「戦争を終わらせるって、どういう意味?」
レッドシューズは胸元へ手を置いた。
「人類は、このままではラプチャーに勝てません。人類とラプチャーが互いを敵として認識するから、戦争は終わらない。もし同じ側へ立てるのなら、争う理由そのものがなくなるかもしれないでしょう?」
「だから、侵食を強くした?」
「同じ側へ行く方法を探したんです」
「ニケを侵食させて?」
「最初はニケです」
ネイトの眉が寄る。
「その先は?」
レッドシューズは答えなかった。
「本人の意思を奪っても、それを勝利って呼ぶ?」
「滅びないのであれば」
そこで初めて、レッドシューズの声へ少し熱が混じった。
「今のニケだって、完全に自由ですか? 人間だった女性をニケにして、命令に従わせ、ラプチャーと戦わせる。使えなくなれば捨てられる。ニケがどんな扱いを受けているか、ネイトさんも見たでしょう」
「違うよ」
「どこがですか? 人類がニケにしていることと、侵食は本当にそこまで違いますか?」
ネイトはすぐには否定しなかった。
ニケへの扱いに問題があるという部分だけなら、レッドシューズは間違っていない。少し前には薔花たちが、本人たちへ知らせることもなく、最後の一人になるまで消耗させられようとしていたばかりである。
だからこそ、その先へ進む理屈がおかしかった。
「問題があるなら、その問題を直すんだ」
ネイトは彼女をまっすぐ見る。
「ニケの扱いが間違ってるなら、人間側を変える。命令の仕組みに問題があるなら、そこを変える。本人の頭の中を勝手に書き換えて、『これで辛くありません』って言うのは解決じゃない」
「人類が変わると思いますか?」
「簡単には変わらないだろうな」
そこは誤魔化さなかった。
「それなら――」
「だから何をしてもいいって話にはならない」
ネイトの声は静かなままだった。
「それに、俺が見た二百人は生き残ってなかったぞ」
今度は、レッドシューズから反論が返ってこなかった。
エイブが口を開く。
「シンデレラは?」
その名前が出た瞬間だけ、レッドシューズの顔が僅かに揺れた。
「どうしてシンデレラだった?」
「シンデレラだからです」
答えた時だけ、声が少し変わる。
「私の最高傑作だから?」
「はい」
「ゴッデス以上の力を持つ可能性があるから?」
「はい」
「本人はそれを望んだ?」
レッドシューズが黙る。
「昨日、シンデレラが言ってたよな。ゴッデスと一緒に戦いたい、勝利の女神になりたいって」
「聞いていました」
「それでも侵食させようとした」
「はい」
ネイトは額へ手を当てた。
「昨日泣いてただろ。配備が決まった時」
「ええ」
「あれも演技だった?」
「違います」
そこだけは即答だった。
「今日ゴッデスへ行くことも嬉しかった?」
「もちろんです」
「侵食を入れることも必要だった?」
「はい」
「両方本気なのか」
「……はい」
しばらく誰も言葉を続けなかった。
「矛盾していますか?」
「ああ」
「私には、そうではありません」
レッドシューズの表情は真剣だった。
「私はシンデレラを大切に思っています。家族として、あの子自身を愛しています。だからこそ――」
「そこまで」
エイブが席を立った。
「その続きを言うなら、シンデレラに直接言って」
◇
シンデレラは一人で会議室へ入ってきた。
ヘンゼルとグレーテル、セイレーンも事情を知りたがったが、エイブが止めている。いずれ説明しなければならないとしても、今朝そのNIMPHへ侵食を書き込まれようとした本人が、最初にレッドシューズの言葉を聞くべきだと判断したからだった。
シンデレラは椅子へ座らず、そのままレッドシューズの向かいまで歩いた。
「本当なの?」
レッドシューズも今度は笑わなかった。
「シンデレラ」
「今朝、私に入れようとしたものも?」
「……はい」
「地下の研究室」
「はい」
「二百人以上のニケ」
「……はい」
「侵食の研究」
「はい」
「ラプチャーを外へ放したことも?」
「はい」
シンデレラは目を閉じた。
ネイトもエイブも口を挟まず、本人が再び目を開くまで待った。
「どうして?」
「あなたなら、できると思ったからです」
「何を?」
「人類とラプチャーの間に立つことを」
「私は、そんなものになりたいって言った?」
「いいえ」
シンデレラの顔が止まる。
「なら、どうして?」
レッドシューズは本当に困ったような顔をした。
「聞けば、断ったでしょう?」
「そう」
「だからです」
その一言で、シンデレラの中に残っていた迷いが消えたように見えた。怒鳴ることも泣くこともなく、ただ静かに目の前の女性を見つめる。
「絶対に断ったわ」
「ええ」
「なら、あなたは最初から私の答えなんて必要なかったのね」
「違います」
「違わないわ」
レッドシューズが言葉を止める。
シンデレラはエイブへ一度だけ視線を向けた。
「昨日、私の出撃を喜んでくれたのも本当?」
エイブが小さく頷く。
今度はレッドシューズを見る。
「一緒にお茶を飲んだのも?」
「本当です」
「私がゴッデスと戦えることを嬉しいと思ってくれた?」
「ええ」
「私はゴッデスと一緒に戦いたい。リリスたちと人類を守って、私も勝利の女神になりたい。そのためにニケになって、ずっと今日を待っていた。あなたは全部知っていたでしょう?」
「はい」
「それなのに、今朝、私が私でなくなるかもしれないものを入れようとした」
シンデレラは自分の胸へ手を置いた。
「もちろんです」
「でも、自分が正しいと思う未来のためなら、私の願いを消してもいいと思った」
レッドシューズは何も言えなかった。
シンデレラの声は、そこで初めて少しだけ強くなった。
「美しくないわ」
レッドシューズが口を開こうとしたが、シンデレラは静かに首を横へ振った。
「私の物語を、勝手に書かないで」
「消すつもりでは――」
「同じよ。私が何を望んでいるのかを聞かずに、私が何になるのかをあなたが決めたのだから」
レッドシューズの瞳が揺れる。
「私は、あなたなら――」
「私が誰になるかは、私が決める」
シンデレラは胸へ置いていた手を下ろした。
「ラプチャーの象徴にも、あなたの理想にもならない。私は、私が美しいと思ったものを選ぶわ」
「……はい」
レッドシューズの声が、初めて小さくなった。
シンデレラは目の前の女性をしばらく見ていた。昨日と同じ顔であり、配備が決まった時に嬉しくて泣き、一緒に笑い、ゴッデスに会える日を祝ってくれた相手でもある。それらまで全部嘘だったわけではなく、むしろ本気で大切にされていたからこそ、今日されたことと簡単に切り離すこともできなかった。
「昨日あなたが笑っていたことまで、嘘だとは思わないわ」
レッドシューズが顔を上げる。
「でも、それで今日したことが消えるわけでもない」
「……はい」
「今は、その言葉をどう受け取ればいいか分からない」
「……ごめんなさい」
「だから、しばらく顔を見たくない」
シンデレラは踵を返し、扉へ向かって数歩進んだ。そこで一度だけ足を止めたものの、振り返りはしなかった。
「昨日のお茶は、おいしかったわ」
何も返ってこない。
「それまで嫌な思い出にしたくないの」
そう言い残し、シンデレラは会議室を出ていった。
ネイトも追わなかった。許したわけでも、忘れたわけでもなく、昨日までのすべてを今日一日の出来事だけで塗り潰さないこともまた、シンデレラ自身が選んだことだった。
◇
レッドシューズは、その日のうちに正式な拘束下へ置かれた。
研究権限はすべて剥奪され、個人端末、研究室、保管設備、メンテナンス設備へのアクセスも停止される。秘密研究区画は警備部隊によって封鎖され、侵食誘発装置を保持している十機のラプチャーについては、不用意に解体して何が起きるか分からないため、専門の設備と人員が整うまで拘束状態を維持することになった。
地下に残されていたニケたちについても、単なる研究廃棄物として処分することはしない。
エイブは一人ずつ調べるよう命じた。
名前が残っているなら名前を、所属が分かるなら所属を、どのような処置を受け、いつ死亡したのかまで、可能な範囲で記録へ残していく。報告書だけなら「二百人以上」で済んでしまう人数だったが、ここにいたのは数字ではなく、それぞれ別の人生を持っていた者たちだった。
秘密研究室の入口で方針を聞いたネイトは、並んだ槽を見ながら尋ねた。
「消さないんだな」
「証拠だから」
「それだけ?」
エイブは少し黙った。
「いたことまで、なくしたくない」
「そうだな」
ネイトはそれ以上何も言わなかった。
少しして、別の端末へ向かおうとするエイブへ声を掛ける。
「自分のせいだと思ってる?」
返事はすぐにはなかった。
「同じ研究所だったから?」
「責任者だった」
「秘密研究室だぞ」
「気づけたかもしれない」
ネイトはすぐに否定しなかった。
「否定しないんだ」
「できないよ。俺には、あんたが絶対に気づけなかったなんて分からないから」
エイブが彼を見る。
「別の選択をしていれば何が変わったかなんて、誰にも分からない。過去へ戻って確かめることもできないし、それは多分この先も考えることになる」
「……そう」
「でも、今やることなら分かる」
「何」
「この記録を全部調べる。外へ放たれた侵食がどこまで広がったか確認する。それからシンデレラたちの安全も調べる」
「それはやる」
「あと、研究は逃げないだろ」
エイブが少しだけ目を逸らす。
「シンデレラも?」
「今は多分逃げない」
ネイトは思わず笑った。
「ゴッデスには逃げそう」
「それはあり得るな」
エイブの口元も、本当に僅かに緩んだ。
◇
待機区画へ戻ると、シンデレラは完全装備のまま鏡の前へ立っていた。
少し離れた場所ではヘンゼルとグレーテル、セイレーンが並んで座っている。レッドシューズについて詳しい事情まではまだ聞かされていないものの、彼女が拘束され、自分たちの知らない地下区画で重大な問題が見つかったことくらいは理解しているらしく、三人とも普段より静かだった。
エイブが少し呆れたように尋ねる。
「何してるの」
シンデレラは鏡越しにこちらを見る。
「待っているの」
「何を」
「出発許可」
今度はエイブが黙った。
ネイトが後ろで苦笑する。
「まだ行く気なんだな」
「当然でしょう?」
「今日、かなり色々あったぞ」
「ええ。分かっているわ」
シンデレラは鏡から離れ、三人を一度見てからエイブへ視線を戻した。
「辛くないわけではない。レッドシューズのことも、地下にいたニケたちのことも、まだ整理できていないもの。でも、それと私が何になりたいのかは別でしょう?」
「今日じゃなくてもいい」
「分かってる」
「侵食コードは入ってない。でも、全部検査し直す」
「受けるわ」
「別の検査設備でも」
「受ける」
「経過観察も?」
「するわ」
「少しでも異常があったら?」
「すぐ言う」
一つずつ答えたあと、シンデレラは少しだけ笑った。
「もう、私が何を答えても止める理由を探しているでしょう」
「心配だから」
エイブは否定しなかった。
その一言に、シンデレラの表情が柔らかくなる。
「知ってるわ」
そして自分の胸へ手を置いた。
「だから、ちゃんと検査を受ける。それで大丈夫だと分かったら、私はゴッデスへ行く」
昨日までなら、ただ憧れているからこそ出た言葉だった。今日、その願いそのものを別の誰かに決められそうになったからこそ、同じ言葉でも意味は少し変わっている。
シンデレラはネイトへ近づいた。
「ネイト」
「何?」
「約束、まだ有効よね?」
「帰ってきたら感想聞かせてくれるって奴?」
「ええ」
「俺は破棄してないよ」
「なら必ず聞いて」
「ああ」
シンデレラは満足そうに頷くと、何かを思い出したようにもう一度ネイトを見る。
「それから、レッドフードには検査から逃げないように言っておいて」
「何で急に?」
「侵食されているのでしょう?」
「ああ」
「今日、よく分かったわ。自分では大丈夫だと思っていても、ちゃんと確認してもらうのは大事なのね」
「本人に直接言えば?」
「会ったら言うわ」
「多分喧嘩になるぞ」
「どうして?」
「レッドフードだから」
シンデレラが首を傾げる。
「変な人なのね」
「知ってる」
「あなたも十分変よ」
今度はシンデレラも笑った。
昨日とまったく同じ笑顔ではなかった。それでも、誰かに作られた表情でも、誰かに書き込まれた答えでもなく、自分で何を信じ、どこへ向かうのかを選び直した上で浮かべた笑顔だった。
安全確認にはまだ時間が必要であり、その日のうちに研究所を出発することはできない。それでも、シンデレラがゴッデスへ行きたいという願いまで失われたわけではなかった。
今はまず、彼女自身が選んだその道を、自分の意思のまま歩ける状態なのかを確かめる必要があった。