Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
軌道エレベーターが大気圏へ戻り、観測窓の向こうへ青空が見え始めるまでには、思っていた以上に時間が掛かった。往路で受けた砲撃によって機体各所が損傷しているため、下降速度は上昇時より大幅に抑えられている。スノーホワイトによれば、新しい異常さえ起きなければ地上まで持つ見込みだというが、「何も起きなければ」という条件が付いている時点で、安心して景色を眺めていられる状態とは言い難かった。
ネイトは壁へ背を預けながら、Pip-Boyへ保存された記録を改めて確認していた。クイーンの姿、周囲の砲台配置、攻撃によって生じた損傷が再構築されるまでの時間、大出力攻撃直前に急増したエネルギー反応に加え、最後には撤退途中でスノーホワイトと一緒に記録した宇宙ステーションと軌道エレベーターの接続構造まで残っている。戦闘中に取得した情報だけに見えていない部分の方が遥かに多いとしても、何も知らずに上へ向かった時とは決定的に違っていた。
「ネイトさん」
呼ばれて顔を上げると、スノーホワイトが端末を抱えて隣へ来ていた。
「接続部の映像、もう一度見せてもらえますか?」
「これで何回目?」
「角度が違います」
「はいはい」
Pip-Boyの表示を切り替え、少女から見えるよう左腕を向ける。画面には、破損した外壁の向こうから撮影した巨大なリング状構造が映っており、宇宙ステーションは軌道エレベーターの柱と完全に一体化しているわけではなく、複数の支持構造や配管、太い接続機構によって固定されている。
スノーホワイトは画像を拡大しながら、小さく唸った。
「やっぱり、一つの建造物ではありません」
「そこはかなり確実?」
「少なくとも、最初からすべてを一つの構造として造った形には見えません。ただし、どこまでが人類側の元の設備で、どこからラプチャーが追加したものなのかまでは判断できません」
「外せる?」
その問いには、すぐ答えなかった。
「分かりません。構造上の境界があることと、分離を前提に設計されていることは別です。仮に切り離せたとしても、その後ステーションがどう動くかも分かりません」
「そのまま軌道に残るのか、落ちるのか」
「はい。姿勢を維持する推進機構があるのかも不明ですし、クイーンがステーション自体とどこまで繋がっているのかも分かりません」
分からないことばかりだった。
ネイトは一度だけ頷き、表示を閉じる。
「なら地上で考えよう。考える時間を持ち帰るために逃げてきたんだから」
スノーホワイトも小さく頷き、観測窓の方へ目を向けた。少し離れた場所では、リリスが指揮官とドロシーの話を聞いている。いつもの柔らかな表情こそ残っているものの、クイーンとの戦闘を終えてから笑う回数は明らかに減っていた。
「……倒せませんでしたね」
「そうだな」
「リリスお姉ちゃんでも」
「あれは俺も驚いたよ。今までリリスが殴って、あそこまでどうにもならなかった奴なんて見たことなかったからな」
「私もです」
ネイトは観測窓へ視線を戻した。
「でも、傷は付いた」
「治りましたけど」
「だったら次は、どうして治るのかを調べる。治るのを止められないなら、別のやり方を考える。殴って駄目だったからって、無敵だと決まったわけじゃない」
スノーホワイトは少し考えたあと、何とも言えない顔をした。
「ネイトさんって、意外と前向きですよね」
「意外は余計じゃない?」
「もっと『もっと大きな爆弾を使おう』と言うかと」
ネイトは無言で少女を見る。
「……ヌカランチャーを出していましたし」
「撃った方が問題だろ」
少し離れたところから、レッドフードまで口を挟んだ。
「女王の目の前で核しまう男前が悪いだろ」
「しまっただろ!」
「あの場で一瞬期待したあたしが馬鹿みてえじゃん」
「期待するなよ!」
「俺を何だと思ってるんだ」
スノーホワイトは真顔で答えた。
「世界一つ分ほど離れた場所に、核兵器を何発も保管している人です」
「言い返しにくいな……」
その声に気づいたらしく、リリスまでこちらを見る。
「楽しそうだね」
「クイーンに負けた帰り道で核兵器の話してる」
「やっぱり楽しそうじゃなかった」
リリスが困ったように笑い、スノーホワイトもつられて小さく笑った。
レッドフードもいつもの調子で笑っていたが、観測窓へ顔を戻した瞬間、その表情から笑みが消えた。ネイトはクイーン戦で見た二度の出来事を忘れておらず、避けられるはずの攻撃へレッドフードが反応しなかった光景は、今もはっきり頭に残っている。
一度なら判断の遅れで済ませられたかもしれない。
二度目まで同じだったことを、偶然だけで片付ける気にはなれなかった。
◇
軌道エレベーターが地上へ近づくにつれて、外から伝わってくる振動が次第に増えていった。故障によるものではなく、地上で続いている戦闘の衝撃だった。
やがて通信状態が改善し、雑音に混じって地上側の声が入ってくる。
『こちら軌道エレベーター防衛線! ゴッデス、応答できますか!?』
「こちらゴッデス! 全員生存している。そちらの状況は?」
指揮官が通信を開いた直後、返事より先に別の声が割り込んだ。
『遅いわ!』
ネイトは思わず笑う。
「元気そうだな」
通信の向こうで数秒の間があった。
『ネイト?』
「いるよ」
『リリスは?』
「いるよ」
今度は指揮官が答える。
「全員いる」
通信の向こうがほんの僅かに静かになった。
『……そう』
シンデレラの声音が柔らかくなる。
『なら、よかった』
直後に外から大きな爆発音が響いた。
『シンデレラ! 右前方、新規反応!』
少女の声が一瞬で戦闘時のものへ変わる。
『見えているわ。ガラスの靴、右へ。帰ってくる人たちの邪魔をさせないで』
外部映像へ切り替えると、軌道エレベーター基部周辺には朝とは比較にならないほど大量のラプチャー残骸が積み重なっていた。上空ではシンデレラが四基のガラスの靴を展開し、防衛線へ近づこうとする敵を次々と薙ぎ払っている。地上でも量産型ニケたちが複数方向からの攻撃を押さえ、その後方ではブレイドガードの五人が補給路を守り続けていた。
紅蓮が観測窓へ近づく。
「姉さん」
遠くには、百日紅を手に補給車両とラプチャーの間へ立つ薔花が見える。距離があるため向こうから紅蓮の姿を確認できるはずもないが、それでも紅蓮は腰の花無十日紅へ手を添えた。
「戻ったぞ」
誰へ聞かせるでもない、小さな声だった。
軌道エレベーターの速度がさらに落ち、やがて大きな衝撃とともに地上へ到着する。扉のロックが解除され、開いた隙間から流れ込んできたのは、宇宙ステーションにはなかった土と火薬、焼けた金属の臭いだった。
地上の臭いだった。
リリスが最初に外へ出る。
「リリス!」
その直後、上空から白い影が急降下してきた。
シンデレラは四基のガラスの靴を周囲へ展開したまま着地し、まずリリスの姿を確かめる。それからドロシー、ラプンツェル、スノーホワイト、レッドフード、紅蓮、指揮官、ネイトへと、一人ずつ確かめるように視線を移していった。
「……本当に全員いる」
「言ったでしょ?」
リリスが笑う。
シンデレラは一度だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「クイーンは?」
誰も取り繕わなかった。
「戦ったよ」
「会えたんですか?」
「うん」
「それでも?」
「倒せなかった」
その言葉を口にした時だけ、リリスの表情へ悔しさが滲んだ。
「強かった。今の私たちじゃ、勝てなかった」
シンデレラはしばらく何も言わなかった。自分が地上で待っている間に、憧れ続けていたゴッデスがクイーンを倒して帰ってくる姿を想像していたとしても、不思議ではない。
しかし、最初に出てきた言葉は失望ではなかった。
「帰ってきたんでしょう?」
リリスが僅かに目を丸くする。
「帰るつもりで行くって約束したでしょう?」
「うん」
「なら、約束は守ってるわ」
シンデレラは続けた。
「クイーンを倒したかったのは私も同じです。でも、倒せなかったからって、あなたたちまで帰ってこない方がずっと美しくないもの」
それからネイトにも視線を向ける。
「あなたも」
「俺?」
「一応、自分の分は守ったつもり」
「なら合格ね」
「採点されてたの?」
「もちろん」
シンデレラが笑い、その直後には再びガラスの靴を展開して接近する敵へ身体を向ける。
「話の続きはあと。まずここを終わらせましょう」
「そうだね」
リリスも戦場へ向き直った。
女王は倒せなかったが、それでも地上へ帰ってきた者たちがいる。ならば今は、最後まで帰還を終えることを優先すればよかった。
◇
人類軍が軌道エレベーター周辺から完全に撤収できたのは、夕方近くになってからだった。クイーン討伐そのものは失敗したが、進撃時の長距離攻撃と地上部隊の戦闘で軌道エレベーター周辺のラプチャーへ与えた損害は大きく、さらにシンデレラと量産型ニケたちがゴッデス不在の間も防衛線を維持していたため、帰還後は負傷者と補給部隊から順番に戦線を離脱させることができた。
ブレイドガードの五人も、最後まで後送支援へ残った。
撤収準備が進む中、紅蓮はようやく薔花のところへ向かった。姉の服や装甲には細かな汚れが増え、腰にある百日紅にも戦闘の跡が残っている。それでも五人全員が自分の足で立ち、ここまで帰ってきていた。
先に紅蓮へ気づいたのは薔花だった。
「レン」
紅蓮も足を止める。
「おかえり」
「……ただいま」
交わした言葉は、それだけだった。
百日紅も花無十日紅も、まだ返さない。紅蓮にはゴッデスでやるべきことがあり、薔花にもブレイドガードの隊長として続けたい仕事がある。借りた刀を返す日は、二人がそれぞれの役目を終えた時に来ればいい。
今はただ、返せる相手がいる場所まで戻ってきた。
◇
勝利の翼号へ戻ると、休息より先に最初の作戦報告が始まった。
作戦室中央には、クイーンの映像が大きく表示されている。巨大な女性型の上半身、異様に長い腕、翼を思わせる構造、そして周囲の設備へ繋がる大量のケーブルまで、地上へ残っていた者たちにとっては初めて見る姿だった。
シンデレラは一言も口にせず、その映像を見つめていた。
「これが……クイーン?」
「そう考えてる」
スノーホワイトが答える。
「断定できる証拠まではありません。でも、あのステーションの設備は、ほとんどすべてこの個体を中心に動いていました」
映像が進む。
リリスの拳がクイーンの胸部へ入り、装甲を大きく破壊する。レッドフードやドロシーの火力がそこへ重なり、ネイトのガウスライフルまで露出した内部へ届くが、すぐに傷が塞がっていった。
「再生?」
シンデレラの目が細くなる。
「俺には、再構築に近く見えた」
ネイトが答える。
「壊れた部分を元へ戻してるというより、失った場所へ新しい構造を作ってた。どっちにしても速すぎる。一度壊すだけならできるけど、次の一撃を準備している間にはもう戻り始める」
「供給源は?」
「まだ特定できていません」
スノーホワイトが別の記録を表示する。
「太い接続を一本破壊しましたが、すぐ別の経路が使われました。さらに予備と思われる接続構造まで展開されています。少なくとも、『このケーブルを切ればクイーンが止まる』という構造ではありません」
「全部壊せば?」
シンデレラは画面を見たまま尋ねた。
ネイトが首を横へ振る。
「俺たちも同じステーションにいる」
スノーホワイトが補足する。
「生命維持や姿勢制御へ繋がっている可能性があります。壁や床の内部へ入っている接続も多くて、どれが何の機能を持つのか分かりません。全部切るなら、少なくともその前に構造をもっと知る必要があります」
次に表示されたのは、クイーンの大出力攻撃だった。
赤黒い光が集まり、発射された一撃が巨大な区画を何層も貫いていく。シンデレラの表情が変わった。
「……これを受けたの?」
「受けてない」
ネイトは即座に否定する。
「ちゃんと隠れた」
そこでスノーホワイトが余計な情報を追加した。
「ネイトさんは、その直前にヌカランチャーを取り出しました」
シンデレラがゆっくりこちらを見る。
「ネイト」
「撃ってないぞ」
「当然でしょう?」
「だからしまっただろ!」
指揮官が腕を組む。
「クイーンの目の前で核兵器を取り出した男に言われてもな」
「最近みんな俺への信用なくない?」
レッドフードが笑う。
「女王の目の前で核を出して、結局撃たずにしまう奴なんて初めて見たぜ」
「むしろ理性を褒めろよ!」
室内の空気が少しだけ緩んだものの、それも長くは続かなかった。
最後に、スノーホワイトが撤退直前に撮影した映像を表示する。
軌道エレベーターの柱があり、その上には巨大な宇宙ステーションが存在する。両者の間には、リング状の構造と複数の支持材、接続部がはっきり映っていた。
そこで、シンデレラの表情が変わった。
「これは?」
「撤退する直前に見つけました」
スノーホワイトが画像を拡大する。
「ステーションと軌道エレベーターは、完全な一体構造ではありません。こちらが元々一つだったものを途中で壊した形にも見えません。少なくとも、明確な接続部分があります」
シンデレラは映像へ近づき、角度を変えた画像も一つずつ追っていった。
長い間、何も言わない。
やがてクイーン自身の映像と、接続構造の画像を並べた。
「……倒す必要、本当にあるのかしら」
リリスが彼女を見る。
「クイーンを?」
「ええ」
シンデレラは両方の映像へ視線を移す。
「クイーン自身を壊しても元へ戻る。あの場所で戦う限り、周りの設備まで全部クイーンの味方になる。それなら……」
指先がステーション側を示した。
「クイーンを倒すんじゃなくて、クイーンがいる場所を切り離せない?」
部屋が静かになる。
ネイトも接続部の映像を見る。
スノーホワイトも、すぐには答えなかった。
シンデレラは続ける。
「このステーションが軌道エレベーターに繋がっているから、クイーンはあそこにいるのでしょう? なら、その繋がりを切ったらどうなるの?」
「分かりません」
スノーホワイトは率直に答えた。
「切断しただけで落下するのか、そのまま軌道に残るのか、それともステーション自身に移動能力があるのか。それすら分かりません」
「じゃあ調べればいい」
シンデレラの返事は早かった。
「クイーンの身体そのものを壊すより、こっちの方が可能性があるなら」
指揮官は腕を組んだまま、接続部を見つめた。
「エイブにも繋げるか?」
「できます」
スノーホワイトが通信経路を確保する。
しばらくして、画面の一つに研究所側の映像が表示された。
『何』
開口一番、それだった。
ネイトは思わず笑う。
「久しぶりの相手への挨拶がそれ?」
『数日前に会った』
「確かに」
シンデレラはそんなやり取りを待たず、すぐ本題へ入った。
「エイブ。これを見て」
接続部の画像を送る。
エイブがしばらく黙った。
さらに別角度の画像も表示する。
『もっとデータは?』
「今あるのはこれだけ」
『少ない』
「分かってるわ」
『接続部の内部構造は?』
「分からない」
『ステーションの質量』
「分からない」
『推進設備は?』
「それも」
エイブの眉間へ皺が寄る。
『分からないことだらけ』
「だから調べるのよ」
シンデレラは引かなかった。
「切れると思う?」
エイブは再び映像を見つめる。
「可能性は?」
少しして、短く答えた。
『ある』
それだけで、シンデレラの表情が変わる。
しかしエイブはすぐ続けた。
『ただし、接続部だけ壊せばいいとは限らない。軌道エレベーター側がステーションの位置を維持しているなら、切断後の運動を計算する必要がある。ステーション自身に推進機構があるなら話も変わる。構造強度も分からないし、どこを壊せば安全に分離できるかも分からない』
「なら、まずそこからね」
『そう』
ネイトは二人のやり取りを聞きながら、口を挟まなかった。
最初に接続構造へ気づいたのは自分とスノーホワイトだった。だから記録した。そして、その記録から「クイーンではなく、クイーンのいる場所そのものを切り離す」という答えへ手を伸ばしたのはシンデレラである。
それでいい。
地上でゴッデスの帰路を守った彼女が、次に上へ行く時は、自分にしかできない役割を持っていけばいい。
「エイブ」
『何』
「全部送るわ。今日の戦闘記録も」
『分かった』
「調べておいて」
『シンデレラもやる』
「もちろん」
通信が終わる。
指揮官は接続部の画像をしばらく眺め、それから全員へ向き直った。
「まだ作戦ではない。切り離せるかどうかも、切り離した後どうなるのかも分からん。ただし、調べる価値はある」
「はい」
シンデレラは画面へ視線を戻した。
「今度は私も上へ行きます」
リリスが彼女を見る。
「行きたい?」
「はい」
「怖くない?」
「怖いわ」
シンデレラは即答した。
「でも、今度は私にしかできないことがあるかもしれないもの」
その表情を見て、リリスが小さく笑う。
「そっか」
作戦室中央には、倒せなかったクイーンの姿が今も映っている。
その隣にはすでに、次に調べるべき場所も映っていた。
◇
作戦参加者への検査は、その夜まで続いた。
ゴッデスの面々も例外ではなく、宇宙ステーション内で受けた負荷や被弾、身体の損傷を一人ずつ確認される。人間であるネイトと指揮官についても念入りな診察が行われ、ネイトが「Vault 81でもここまで検査されなかった」と口にしたところ、ラプンツェルから「どこですか、それは」と聞き返されたため、説明が長くなりそうだと適当に誤魔化す羽目になった。
なかでもレッドフードの検査には、とくに時間が掛かった。
クイーン戦で二度、明らかに回避行動が遅れている。侵食による身体制御への影響である可能性は当然最初に疑われ、ラプンツェルは検査結果を何度も過去のデータと比較した。
「分かりません」
最後に返ってきたのは、その答えだった。
レッドフードが眉を上げる。
「何が?」
「今回のことを、侵食の進行によるものだと断定できません」
同席していたネイトとリリスも顔を上げた。
「悪化してない?」
ネイトが尋ねる。
「侵食そのものは残っています。頭痛やノイズも以前から続いていますし、完全に同じ状態だとも言い切れません。ただ、今回の二度の反応遅延を説明できるような急激な変化は、少なくとも検査では確認できていません」
「じゃあ、ただの判断ミスだろ」
レッドフードがすぐに言った。
「疲れてたんだよ。戦ってりゃ一回や二回くらいあるって」
「二回だよ」
リリスが彼女を見る。
「細けえな」
「二回とも私が助けたんだけど」
「礼なら言っただろ」
「言ってない」
「じゃあ、ありがとな」
軽い調子だった。
しかし、リリスは笑わなかった。
レッドフードもそれに気づいたらしく、僅かに視線を逸らす。
「本当に、感覚がおかしくなったり、身体を動かしづらかったりはしませんでしたか?」
ラプンツェルがさらに尋ねる。
「別に」
「頭痛は?」
「いつもと同じ」
「ノイズも?」
「同じ。本当だって」
ラプンツェルは完全には納得していない様子だったが、検査で確認できないことまで断定することはできない。
「何か変化があれば、必ず教えてください」
「分かってるって、聖女様。ほら、あたしはまだ元気」
レッドフードはいつものように笑った。
ネイトは、その言葉へ返事をしなかった。
もし侵食による身体制御の遅れなら、それでも一つの説明にはなる。本人にはどうしようもない症状だと分かれば、次からはそれを前提として対応を考えることもできる。
だが、検査では今回の行動を説明する変化が見つからなかった。
それなら、ほかの可能性も考えなければならない。
◇
日付が変わる頃になっても、勝利の翼号の照明は完全には落ちなかった。持ち帰ったデータを扱う解析班はまだ作業を続け、整備区画でも損傷した武器や機体の修理が進められている。ネイトもPip-Boyへ保存した記録を研究所側へ送る作業を終え、ようやく自室へ戻ろうとしていた。
その途中、作戦室の前でリリスに呼び止められる。
「ネイト」
「まだ起きてたの?」
「それ、こっちの台詞」
「俺はデータ送ってた」
「私は考え事」
リリスは作戦室へ入り、ネイトにもついてくるよう手で示した。
室内にはもう誰もいない。中央の投影も消され、昼間までクイーンの姿が映っていた場所には何も表示されていなかった。
リリスは椅子へ腰掛けず、作戦卓の端へ片手をついた。
「レッドフードのこと」
「やっぱりそこか」
ネイトも近くへ立つ。
「検査じゃ分からなかった」
「うん」
「侵食じゃないとは言えない」
「それも分かってる」
リリスは少し黙った。
「でも、私には……二回目、避けるのが遅れたんじゃなくて、避けるのをやめたように見えた」
「俺も」
ネイトも同じだった。
一度目は、まだ分からない。広範囲攻撃だったため、単純に判断が遅れた可能性もあり、侵食が一瞬だけ身体へ影響した可能性も捨てきれない。
しかし二度目は違って見えた。
クイーンの指がまっすぐレッドフードへ向き、本人もそれを見ていた。射撃を中断すれば避けられるだけの距離があったにもかかわらず、彼女は退かず、もう一度ウルフスベインを構えようとしていた。
「私が行かなかったら、たぶん当たってた」
「ああ」
「まともに食らってたら?」
「分からない」
リリスは少し目を伏せた。
「でも、試したくない」
「同感」
しばらく沈黙が続いた。
そこでネイトは、作戦前に聞いた言葉を思い出す。
軌道エレベーターを見上げながら、レッドフードは今日ですべて片付くのも悪くないと言った。上昇中には、ここから落ちればさすがに助からないだろうと尋ねてもいる。
その二つをリリスへ伝える。
リリスの顔から、残っていた柔らかさが消えた。
「それ、いつ言ったの?」
「最初のは地上で。二つ目は上がってる途中」
「どうしてすぐ言ってくれなかったの?」
ネイトは言い訳をしなかった。
「その時は、そこまでの意味だと思わなかった。戦争が終わればいい、くらいに聞こえたんだ。落ちたら死ぬって方も、あいつなら言いそうな冗談だった。でもクイーン戦の後だと……ちょっと違って聞こえる」
リリスも否定しなかった。
「最近、先の話をすると妙に流すことがあった」
「先の話?」
「作戦が終わったら何するとか、戦争が終わったらとか」
少し考える。
「前のレッドフードなら、適当なことでも答えてたんだよ。酒飲むとか、音楽聴くとか、どこか行くとか。でも最近、そういう話になると笑って終わらせる」
「クイーン討伐が決まった時は?」
リリスは目を伏せた。
「……安心してたように見えた」
二人とも、それ以上をすぐ言葉にはしなかった。
レッドフード本人はまだ、何も説明していない。侵食という実際に存在する危険まで抱えている以上、目にした行動や断片的な言葉だけを繋ぎ合わせて、本人の考えを決めつけるには材料が足りなかった。
「明日、話そう」
リリスが言った。
「本人と」
「うん。私もいる。ネイトもいて」
「ラプンツェルは?」
「必要なら呼ぶ。でも最初からみんなで囲んだら、絶対逃げるでしょ?」
「物理的に?」
「それはありそう」
リリスが小さく息を吐く。
「私、あの子のこと分かってるつもりだったんだけどな」
「分かってるから、変だって気づいたんじゃない?」
リリスが顔を上げる。
ほんの僅かに、表情が和らいだ。
「ネイトって、たまにいいこと言うね」
「たまに?」
「普段は核兵器持ち歩いてるから」
「今それ関係ある?」
「ある」
「ない」
少しだけ空気が緩んだが、問題が消えたわけではない。
リリスはもう一度、自分へ言い聞かせるように言った。
「朝になったら、ちゃんと話す。これ以上、一人で決めさせない」
「分かった」
ネイトも頷き、二人は作戦室を出た。
廊下には誰もいないように見えた。
◇
二人分の足音が十分に遠ざかったあと、曲がり角の陰からレッドフードが姿を現した。
最初から会話を盗み聞きするつもりでそこにいたわけではない。飲み物の入ったボトルを手に廊下を歩いていたところ、自分の名前が聞こえたため、反射的に足を止めただけだった。それでも途中から出ていくタイミングを失い、結局、ネイトとリリスの話をかなりの部分まで聞くことになった。
「……ったく」
誰もいなくなった廊下を見ながら、小さく呟く。
男前も、リリスも、余計なところばかり見ている。
しばらくその場に立っていたものの、やがて自分の部屋へ戻った。扉を閉じると、壁際にはウルフスベインがあり、小さな音楽プレイヤーもいつもの場所に置かれている。
レッドフードはベッドへ腰掛け、その二つを順番に眺めてから、部屋の時計へ目を向けた。
朝になれば、話をすることになる。
何を聞かれるのかは、もうだいたい分かっていた。
そして、自分が何と答えるのかも考えなければならない。
レッドフードはしばらく動かずにいたが、やがて視線を部屋の隅へ移した。そこには、いつから用意していたのか誰にも見せていない小さな鞄が置かれている。
クイーンを倒すことはできなかった。それでもゴッデスが地上へ持ち帰ったのは、敗北だけではなく、クイーンの姿と能力、宇宙ステーションの構造、軌道エレベーターとの接続部、そして次に試すべきかもしれない一つの可能性だった。
その一方で、記録にも端末にも残らない問題も一緒に地上まで戻ってきている。
レッドフードは鞄を見つめたまま、長い夜の中で静かに座り続けていた。