Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
夜明けまでは、まだ少し時間があった。勝利の翼号の艦内は昼間とは別の場所のように静まり返り、動いているのは最低限の設備と夜間勤務の人員くらいである。クイーン討伐作戦から帰還したばかりとあって整備区画の一部では今も作業音が続いていたが、居住区まで来れば換気設備の低い音が遠く聞こえるだけだった。
ネイトは自室へ戻る途中、その静けさの中で一人分の足音を聞いた。作戦後で眠れない者が歩き回っているだけなら珍しいことでもなく、整備や検査に呼ばれている者もいる。それでも廊下の向こうへ消えていった赤い髪を見た瞬間、昨夜から胸の奥に残っていた違和感が再び強くなり、ネイトはそのまま進行方向を変えた。
レッドフードが向かった先は、食堂でも医療区画でもなかった。後を追って格納区画まで来ると、外へ続く巨大な扉の前に彼女の姿があり、ウルフスベインだけでなく普段より明らかに大きな荷物まで背負っている。腰には弾薬と最低限の携行品がまとめられ、いつも使っている音楽プレイヤーまで身につけているとなれば、数時間ほど外を歩いて戻ってくる格好には見えなかった。
「旅行?」
声を掛けると、レッドフードの肩が僅かに揺れた。ゆっくり振り返った顔に浮かんだのは驚きより諦めに近く、どうやら誰にも見つからずに出られるとは本人も完全には思っていなかったらしい。
「……男前。こんな時間に何してんだよ」
「そっちの台詞だろ」
「散歩」
ネイトは何も言わず、まずウルフスベインを見た。それから肩の荷物、腰へまとめられた携行品、最後に本人の顔へ視線を戻す。
「ウルフスベイン担いで?」
「地上だからな」
「食料も持って?」
「腹減るかもしれねえだろ」
「部屋の私物も減ってたけど」
そこでレッドフードが黙ったため、ネイトは数メートル手前で足を止めた。出口を身体で塞ぐことも、銃へ手を掛けることもしないまま、ただ荷物を抱えた彼女と向かい合う。力ずくになれば勝負にすらならず、外へ出ようと思えば彼女一人で簡単に振り切れることくらい、二人とも分かっていた。
「もう少し上手い言い訳を考えてから出てこいよ」
「人の部屋勝手に見るなって」
「扉が開いてた」
「閉め忘れた」
「侵食で?」
レッドフードの目が鋭くなったが、怒ったというより図星を突かれた時の反応に近かった。ネイトが表情を変えずに待っていると、彼女は不満そうに舌打ちしながら視線を逸らす。
「それ出すの卑怯じゃね?」
「だったら普通に答えろ」
しばらく二人とも動かなかった。巨大な扉の向こうには荒れ果てた地上があり、一度開閉機構を動かせば、レッドフードがそのまま外へ消えることもできる。それでも彼女は操作盤へ手を伸ばさず、やがて観念したように長く息を吐いた。
「故郷」
「何?」
「あたしの故郷。帰ろうと思ってる」
「何で今?」
「帰りたくなった」
「それだけ?」
返事はなかったが、ネイトには昨日の戦闘が嫌でも浮かんだ。広範囲攻撃を前にした一度目は、誰より敵の動きを読むはずのレッドフードが動き出すまでに不自然な間があり、二度目にはクイーンの指が自分へ向いていることを見ながら回避より射撃を続けようとしていた。どちらもリリスが救い、帰還後の検査でも、その二度を説明できるほど急激な侵食悪化は確認されていない。
「クイーンのところで死ぬつもりだった?」
今度は曖昧な聞き方をしなかった。レッドフードの表情から軽さが消えたものの、すぐに答える気もないらしく、僅かに眉を寄せてネイトを見る。
「……何でそうなるんだよ」
「二回目。あんた、避けられただろ」
「判断が遅れただけだ」
「リリスもそう思ってない」
その名前が出た瞬間、レッドフードの眉が僅かに動いた。昨夜、リリスと話していた時には誰もいないと思っていたが、その反応を見る限り、どうやら本人の耳へ届いていたらしい。
「聞いてた?」
「偶然な」
「だったら余計に聞く。クイーンを死に場所にしようとしてた?」
長い間、レッドフードは答えなかった。出口の向こうへ視線を向けたまま立ち尽くしていたが、やがて逃げ道を探すことをやめたように肩から力を抜く。
「……ちょうどいいと思った」
声は普段よりずっと小さかった。
「侵食が治るかも分からねえ。いつまであたしでいられるかも分からねえ。だったら、敵の大将相手に戦って終われりゃ、それなりに格好つくだろ」
「最低だな」
「そこは『らしいな』とか言えよ」
「死に場所を格好で選ぶ発想が最低だって言ってる」
「厳しいねえ」
軽口の形だけは保っていたが、いつもの笑い方には戻らなかった。ネイトも距離を詰めようとはせず、彼女自身が答えられる位置に立ったまま、もう一つだけ確認する。
「クイーンで死ねなかったから、今度は故郷?」
レッドフードは答えなかった。
「そこで静かに死ぬつもりだった?」
否定も返ってこない。やがて彼女は、誰かを説得するというより自分自身へ言い聞かせるように口を開いた。
「誰にも迷惑掛からねえだろ」
ネイトが僅かに眉を寄せると、レッドフードは握った拳へ少しずつ力を込めた。
「今はまだ、あたしだ。男前と馬鹿な話して、おちびちゃんからかって、お嬢サマ怒らせて、センセイと喧嘩できる。でも侵食が進んだらどうなる? ある朝いきなり、目の前の仲間へウルフスベイン向けるかもしれねえ」
声にはもう笑いが混じっていなかった。
「その時、誰があたしを殺す?」
ネイトには、すぐ答えられなかった。リリスかもしれず、指揮官かもしれず、紅蓮が刀を向けなければならない可能性もある。何より彼女自身が最も避けたい相手を考えれば、まだ若いスノーホワイトにその役を背負わせる未来を恐れていることくらい想像できた。
「それが嫌なんだよ」
レッドフードの声から、ようやく最後の強がりまで消えた。
「死ぬことじゃねえ。あたしじゃなくなって、あいつら傷つけて、最後に誰かへ後始末させるのが嫌なんだ」
ネイトは一度だけ目を伏せた。侵食は実際に存在し、治療法も見つかっておらず、レッドフードの中には今も異常な信号が残っている以上、その恐怖を根拠のない慰めだけで否定することはできない。だからこそ、助かると約束するのではなく、今分かっている範囲だけをそのまま伝えることにした。
「治るなんて言わないよ」
顔を上げ、レッドフードを見る。
「俺には治せない。エイブにも今は方法がない。明日悪化するかもしれないし、一年このままかもしれない。そこは分からない」
「なら――」
「だから調べてるんだろ」
レッドフードが黙り、ネイトはそのまま続ける。ウルトラから回収した触手も、Pip-Boyに残った異常信号も、シンデレラのNIMPHへ未承認コードが入りかけた時に役立った比較データも、最初から答えが分かっていたから集めたものではない。
「分からないから調べる。分からないから記録する。ウルトラの触手も持ち帰ったし、シンデレラの時だって、あんたのデータがあったから異常に気づけた」
ネイトはそこで初めて一歩だけ前へ出た。
「未来が分からないってのは、未来がないって意味じゃない」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
今度はネイトの声も少し強くなった。根拠もなく大丈夫だと言うつもりなどなく、むしろ助からない可能性まで含めた上で、それでも今ここで自分からすべてを終わらせる必要はないと伝えたかった。
「俺は『絶対助かるから安心しろ』なんて一回も言ってない。助からない可能性もある。悪化する可能性もある。でも、それが分からない段階で自分から可能性をゼロにするなって言ってるんだ」
レッドフードは何か返そうとしたものの、言葉が出てこなかった。
「故郷へ帰ることまで止める気はない」
「……え?」
予想外だったらしく、今度こそ明らかな驚きが浮かんだ。ネイトはそれを見ても考えを変えず、彼女自身の故郷へ帰る権利と、そこで死ぬつもりで消えることは別だと切り分ける。
「帰りたいなら帰ればいい。生まれた場所を見たいなら見てくればいい。それはあんたが決めることだ」
「じゃあ何で止めてんだよ」
「死ぬために帰ろうとしてるからだよ」
そこだけは譲らなかった。
「故郷へ帰るのと、故郷を墓場に決めるのは別だ。それと、黙って消えるのも無し」
「何でだよ」
「顔見たら行けなくなるから?」
レッドフードの表情が固まる。
「……聞こえてたのか?」
「昨日の夜、自分で言ってただろ」
「そこまで聞いてんのかよ……」
「聞かせたくなきゃ大声で喋るな」
「うるせえ」
苦々しそうに顔を背けた、その時だった。格納区画へ続く通路から小さな金属音が響き、二人が同時に振り返ると、床へ落ちた工具の向こうにスノーホワイトが立っていた。
少女は整備用の服装のままで、夜通し自分の装備でも点検していたのだろう。落とした工具を拾うことさえ忘れ、レッドフードの肩にある荷物だけをじっと見つめている。
「……スノー?」
レッドフードの顔が、クイーンを前にした時より分かりやすく強張った。
ネイトが静かに尋ねる。
「どこから聞いてた?」
スノーホワイトは答えず、そのまま二人のところまで歩いてきた。泣いているわけではなかったが、いつものように機械のことだけを考えている時の表情とも違っている。
「故郷に帰るんですか?」
「ああ」
「どうして?」
「今の、聞いてただろ」
「聞きました」
スノーホワイトは荷物を見たあと、まっすぐレッドフードへ視線を戻した。
「故郷に帰ることは、悪くないと思います」
「そうなの?」
「帰りたい場所があるなら、帰っていいです。でも……死ぬために行くのは嫌です」
その答えが意外だったのか、レッドフードの表情が僅かに変わった。少女は彼女を縛りつけたいのではなく、どこへ行くのかを本人が選ぶこと自体は受け入れているのだと分かる。
「それに、黙っていなくなるつもりだったんですよね」
「……ああ」
「約束したじゃないですか」
その言葉を聞いた瞬間、レッドフードの顔からまた余裕が消えた。
スノーホワイトにとっても忘れられる約束ではなかった。ウルトラとの戦いへ出る前、自分がレッドフードの服を掴んでいた時のことを、少女は今も覚えている。
「レッドフードが、いなくなるのは嫌です」
「最後までいるよ」
「約束ですか?」
「約束」
あの時のレッドフードは、嘘をついたつもりなどなかった。本当に最後までいるつもりだったし、それで目の前の少女を安心させたかったからこそ、今になってその言葉が重くのしかかっている。
「……悪い」
「謝らないでください」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
珍しく、困っているのはレッドフードの方だった。
スノーホワイトは少し俯き、すぐには答えなかった。以前と同じ約束をそのまま守れと言えば、故郷へ帰るという本人の意思まで否定することになるため、何を求めればいいのか時間を掛けて考えているようだった。
やがて顔を上げる。
「約束を変えてください」
「変える?」
「最後までここにいる、じゃなくていいです」
スノーホワイトはレッドフードから目を逸らさなかった。
「死ぬためには行かないって約束してください」
今度は、レッドフードがすぐ答えられなかった。一度は本気で、誰にも告げずに約束そのものから消えようとしていたのだから、ここで軽く「分かった」と言えばいい話ではないことを本人が一番よく分かっている。ネイトもスノーホワイトも答えを急かさず、彼女自身が言葉を選ぶのを待った。
しばらくして、レッドフードが自分に確かめるように口を開いた。
「……死ぬためには行かない」
「本当ですか?」
「故郷には帰る。でも、墓探しにはしねえ」
「自分から死のうともしない?」
「しない」
スノーホワイトはまだ不安そうだった。
「帰ってきますか?」
今度の問いには、すぐ答えが返らなかった。
レッドフードがネイトを見るものの、彼は何も助け舟を出さない。答えるのは本人であり、守れるかどうかも分からない約束を、周囲が代わりに作ることはできなかった。
「……帰るつもりで行く」
スノーホワイトが目を瞬く。
「絶対帰るとは言えねえ。侵食がどうなるかも、途中で何が起きるかも分からない。でも、帰るつもりで行く。それなら約束できる」
少女はしばらくレッドフードを見つめていた。確実な帰還ではなくても、出発する時点から死ぬつもりではないという答えなら信じていいと思ったのか、やがて小さく頷く。
「……はい」
そこでようやく、三人の間に張りつめていたものが少しだけ緩んだ。レッドフードも頭を掻きながらネイトを睨み、いつもの調子を取り戻そうとする。
「これで満足かよ、男前」
「半分」
「まだあんの!?」
「みんなに話せ」
「嫌だ」
「じゃあ俺が話す」
「お前ほんっと最悪だな!」
スノーホワイトが思わず小さく笑い、それを見たレッドフードも結局つられた。クイーン戦から戻ってきて以降では、今の笑い方が一番いつもの彼女に近い。
「……朝まで待ちゃいいんだろ」
「ああ」
「分かったよ」
レッドフードは出口へ向いていた身体を反対側へ向けた。荷物はまだ背負ったままだが、今すぐ外へ消えるためではなく、仲間へ事情を話すために勝利の翼号の奥へ戻っていく。スノーホワイトも自然に隣へ並び、ネイトは少し後ろから二人を見ながら歩き出した。
侵食が治ったわけでも、何か確実な方法が見つかったわけでもない。それでも、自分一人だけで終わりを決めて外へ出ようとしていた者が、一度足を止めて仲間のいる方へ戻った。その違いだけは、今夜の三人が確かに作ったものだった。
◇
朝になり、ゴッデスが集まった会議室には作戦図もクイーンの映像も表示されていなかった。リリス、ドロシー、ラプンツェル、紅蓮、シンデレラ、スノーホワイトが揃い、指揮官とネイトも席についている。最後にレッドフードが入ってくると、昨夜の荷物こそ持っていなかったものの、普段とは違う空気を感じたのか、全員の視線が自然と彼女へ集まった。
レッドフードは部屋の中央まで来ると、一度だけ仲間たちを見回した。冗談から始めることも、笑って誤魔化すこともせず、そのまま必要なことを先に口にする。
「話がある。故郷へ帰る」
ドロシーが僅かに眉を寄せた。
「休暇のお話ですか?」
「いや」
レッドフードは首を横へ振る。
「ゴッデスを離れる」
今度こそ、室内の空気が目に見えて変わった。ラプンツェルは胸元で手を握り、紅蓮は腕を組んだまま本人から目を逸らさず、シンデレラも何かを言いかけてから、まず最後まで聞こうと口を閉じる。
リリスだけはしばらくレッドフードを見たあと、一言だけ返した。
「馬鹿」
「いきなりそれ!?」
レッドフードが思わず声を上げる。
リリスはまったく笑っていなかった。
「だって馬鹿でしょ。クイーンを自分の死に場所にしようとして、失敗したら今度は黙って故郷へ行って死のうとしてたんでしょ?」
室内の視線が一斉にレッドフードへ向いた。
「男前!」
「俺じゃないぞ。スノーも聞いてる」
「逃げ道塞ぐなよ!」
「逃げようとしてたからだよ」
ドロシーがゆっくり腕を組む。
「つまり、昨夜は私たちへ何も告げずに出ていくつもりだったのですか?」
「……まあ」
「勝手です」
「悪かったって」
「故郷へ帰ることを言っているのではありません」
ドロシーの声音は冷たかったが、その怒りが向けられている場所は明確だった。本人が自分の意思で部隊を離れて故郷へ戻ることと、仲間へ何も告げず夜中に姿を消すことは別であり、彼女が責めているのは後者だった。
「あなたが自分の意思で部隊を離れ、故郷へ戻ることまで私が決める権利はありません。ですが、何も言わず夜中に消えるという選択は最低です」
「そこまで言う?」
「言います。私たちが朝起きて、あなたの部屋が空になっていたらどう思うか、それくらい考えてください」
レッドフードは少し目を逸らした。
「……考えたから、顔見たくなかったんだよ」
ドロシーの目がさらに細くなる。
「なお悪いです」
その返しには、さすがのレッドフードも反論できなかった。
続いて前へ出たラプンツェルは、怒っているというより傷ついた顔をしていた。治療法が存在しないことを誰より理解しているからこそ、自分に助けを求めても無駄だと思われたのではないかという気持ちが表情へ滲んでいる。
「私たちは、そんなに頼りなかったですか?」
「そういう意味じゃ――」
「症状が変わったことも、全部は教えてくれなかったんですよね」
「……ああ」
「治療法が見つかっていないことは、私も分かっています。できることが少ないのも承知しています。それでも、何も知らせてもらえなければ、本当に何もできません」
レッドフードが顔を上げる。医療を担当していながら今は治す方法を持っていないラプンツェルが、そのことを気にしていないはずもないと、ようやく本人にも伝わったらしい。
「聖女様」
「治せないから頼っても無駄だと思いましたか?」
「違う」
その返事だけは強かった。
「逆だよ。頼ったら、離れられなくなると思った」
ラプンツェルの表情が僅かに崩れる。
「だから、一人で行こうとした」
リリスがもう一度呆れたように息を吐いた。
「……本当に馬鹿ですね」
今度はレッドフードも怒らなかった。
「知ってるよ」
それまで黙っていたシンデレラが、そこで初めて口を開いた。
「故郷へ帰る理由は、もう変わったの?」
「ああ」
「死ぬためじゃない?」
「違う」
「なら私は止めないわ」
少し意外な答えだったのか、何人かがシンデレラを見る。彼女はレッドフード自身へ視線を向けたまま、誰かに自分の進む物語を決められそうになった経験があるからこそ、故郷へ帰るという本人の選択まで奪うつもりはないと続けた。
「私も、誰かに自分の物語を決められそうになったから。レッドフードが自分で故郷へ帰ると決めたなら、その選択まで奪いたくない」
そこで少しだけ目を細める。
「でも、侵食に最後を決めさせるのは美しくないと思う」
レッドフードが苦笑した。
「昨日、おちびちゃんと男前にも似たこと言われたよ」
「なら三人目ね」
「人数で圧かけるなって」
そこへ紅蓮が口を開いた。
「私からも一つ言う」
「センセイまで説教?」
「説教ではない」
紅蓮は腕をほどき、腰の花無十日紅へ手を添えながらレッドフードを正面から見る。薔花から借りた刀を今も返さずにいる彼女にとって、戦いながら生きて帰るという考えは、以前よりずっと身近なものになっていた。
「死ぬつもりで振るう刃と、生きて帰るつもりで振るう刃は違う」
レッドフードから笑みが消える。
「私も以前なら、戦場で死ぬことを恐れぬ者こそ強いと思っておった。しかし今は、少し考えが変わった」
紅蓮は花無十日紅の柄を一度だけ確かめるように握った。薔花がいて、ブレイドガードがあり、返さなければならない刀と、そこへ戻るための場所がある。そのすべてを説明する必要はなく、続く言葉だけで十分だった。
「避けられる攻撃を避けぬ者を、強いとは言わん」
クイーン戦のことだと、レッドフードにも分かった。
「……見てた?」
「見ておった」
「そりゃそうか」
「次は避けよ。そして、次に手合わせする時まで生きておれ」
レッドフードは少しだけ目を丸くしたが、やがていつもの笑みを戻した。
「センセイこそ、あたしがいない間に鈍るなよ」
「誰に言っておる」
「じゃあ決まりだな。帰ってきたら一戦」
「望むところだ」
そこまで聞いてから、指揮官が口を開いた。
「正式には一時離隊扱いにする」
「は?」
レッドフードが勢いよく振り返る。
「抜けるって言っただろ」
「死亡も除隊も確認していない兵士を勝手に籍から外せるか。帰還した時に手続きを一からやり直すのも面倒だ」
「帰る前提じゃん」
「違うのか?」
指揮官は真顔だった。
レッドフードはしばらく彼を見つめていたが、やがて諦めたように笑う。
「……好きにしろよ」
「そうする」
最後に、リリスが一歩前へ出た。先ほどまでの怒りをそのままぶつけることはせず、昨夜ネイトと話した時に確かめたかったことだけを本人へ聞く。
「一つだけ確認。死ぬために行く?」
「行かない」
今度は迷わなかった。
「帰るつもり?」
「ああ」
リリスはそれ以上引き留めなかった。故郷へ帰るという選択はレッドフード自身のものであり、必ず生還するという守れるかどうかも分からない保証まで要求するつもりもないのだろう。
だから最後に選んだ言葉も、別れではなかった。
「なら、いってらっしゃい」
レッドフードはしばらく何も言えずにいた。
やがて、小さく頷く。
「……おう。行ってくる」
◇
出発は、その日の昼になった。昨夜とは違い、格納区画にはレッドフードを見送る者が集まっており、彼女ももう誰かの目を避けるような時間を選んではいない。ウルフスベインと弾薬、補修資材についても指揮官から正式に持ち出しを認められ、一人で地上を進む以上、必要な装備を持たせることに反対する者はいなかった。
ネイトはそこへ、さらに大きな袋を一つ追加した。
「これも」
受け取った瞬間、レッドフードの腕が僅かに下がる。
「重っ!」
「食料、水、応急用品。あとは交換できそうな消耗品」
「こんなにいらねえよ!」
「持ってけ」
「男前、あたしニケだぞ? 人間ほど飯食わなくていいんだけど」
「途中で誰かに会うかもしれないだろ」
レッドフードは袋を開け、中身を確認してから眉を寄せた。
「余ったら?」
「持って帰ってこい」
「重いって!」
「文句言う元気あるなら問題ないな」
「お前ほんっと……」
散々文句は言ったものの、袋を返そうとはしなかった。
マレーンも少し離れた場所から見送りに来ていた。まだ本格的な戦闘へ出る段階ではない身体のまま、山のようになったレッドフードの荷物を眺め、それから本人へ視線を向ける。
「帰るんだって?」
「ああ」
「故郷?」
「そう」
「いいところ?」
レッドフードは少し考えた。
「昔はな」
「じゃあ、帰ってから教えて」
「何を?」
「今もいいところだったか」
レッドフードが黙った。目の前の少女もまた、帰れるかどうかを問い詰めるのではなく、帰ってきた後に話すことがあるのを当然のように受け入れている。
「……おう」
「約束?」
「今日は約束多すぎだろ」
「駄目?」
マレーンの顔を見ると、最後にはレッドフードの方が笑った。
「分かったよ。約束」
マレーンも満足そうに頷いた。
その少し後ろではドロシーとラプンツェルが待っていた。ラプンツェルは最後まで心配そうではあったものの、すでに本人が決めた出発を覆そうとはせず、医療担当として言うべきことだけをもう一度念押しする。
「どうか、無理だけはしないでください」
「聖女様もな」
「少しでも症状が変わったら連絡してくださいね」
「分かってる。連絡できる場所ならする」
「本当に?」
「……できるだけ」
「レッドフード」
「する! するって!」
ようやくラプンツェルが少しだけ表情を緩めた。
ドロシーは腕を組んだまま、レッドフードを上から下まで眺める。
「次に会うまでに、もう少しましな冗談を覚えてきてください」
「お嬢サマ、普通に寂しいって言ってくれてもいいんだぜ?」
「では予定を変更します。今すぐ出ていってください」
「ひでえ!」
いつものようなやり取りを交わしながらレッドフードが通り過ぎようとすると、ドロシーは小さく言葉を付け加えた。
「……お気を付けて」
レッドフードは振り返らなかったが、片手を上げた。
「おう」
紅蓮とは、帰還後の手合わせを改めて確認した。シンデレラも「今度は私とも戦ってみる?」と口にしたものの、レッドフードが「センセイの次で」と答えれば、当然のように条件を付け加える。
「まずリリスに勝ってからでしょう」
「まだ言うか!」
紅蓮の抗議に、周囲へ少しだけ笑い声が広がった。
最後に、スノーホワイトが前へ出る。昨日までならレッドフードの方から何も考えず頭を撫でにいったはずだが、今日は一度だけ手を上げかけて止め、今朝交わした約束を思い出すように少女を見た。
「スノー」
「はい」
「じゃあ――」
言いかけて、一度言葉を選び直す。
「……行ってくる」
スノーホワイトの口元が僅かに緩んだ。
「いってらっしゃい」
「おう」
そこでようやく、レッドフードはいつものように少女の頭へ手を乗せた。少し乱暴に撫でられても、スノーホワイトはその手を払い落とさず、出発するまでそこに立っていた。
◇
格納区画の外へ出ると、乾いた地上の風が吹いていた。レッドフードはウルフスベインを背負い直し、ネイトから渡された余計に重い袋へもう一度文句を言ってから、音楽プレイヤーの電源を入れる。少しノイズが混じったあと、何度も聞いてきた古い曲が風の中へ流れ始めた。
「それ、そろそろ修理した方がいいんじゃない?」
横からネイトが言う。
「古いもんは多少調子悪いくらいが味なんだよ」
「その考え方、身体には使うなよ」
レッドフードは一瞬だけ黙った。
「……分かってるって」
以前なら笑って流していたかもしれないが、今回はちゃんと答えた。
外へ出て数歩進んだところで、レッドフードは足を止めた。昨夜なら顔を見れば決心が揺らぐと思って振り返らなかったはずだが、今は同じ理由で前だけを見る必要はない。ゆっくり振り返ると、そこには自分を送り出すために集まった仲間たちがいた。
リリスも、ドロシーも、ラプンツェルも、スノーホワイトもいる。紅蓮、シンデレラ、指揮官、マレーンも並び、その少し横にはネイトが立っている。レッドフードは一人ずつ顔を見たあと、最後にネイトと目を合わせた。
「男前」
「何?」
「結局、止めなかったな」
「故郷へ帰るのはな」
「もし昨日のままだったら?」
「リリス呼んでた」
「やっぱ卑怯だろ!」
「勝てばいいんだよ」
レッドフードは思わず吹き出した。
「ほんっと嫌な奴」
「知ってる」
前へ向き直りかけたところで、レッドフードはもう一度だけ足を止めた。今度は昨夜のように、見つからないうちに消えるためではなく、自分から言葉を残すために振り返る。
「行ってくる」
ネイトは頷いた。
「行ってこい」
必ず帰ってこいとも、絶対に死ぬなとも言わない。侵食がこれからどうなるのかも、故郷へ辿り着くまでに何が起きるのかも分からない以上、守れるかどうか分からない約束を増やすより、自分の意思で出発する相手を送り出せばよかった。
レッドフードは大きく片手を上げ、そのまま荒れた地上へ歩き出した。背後から複数の「いってらっしゃい」が重なり、その中ではやはりスノーホワイトの声が一番よく聞こえる。振り返る代わりに上げた手だけを軽く振ると、音楽プレイヤーから流れる古い曲へ耳を傾けながら歩幅を整えた。
侵食は今も残っており、治療法も見つかっていない。この先の旅で何が起きるのかは、出ていく本人にも、見送った者たちにも分からなかったが、昨夜までとは出発する理由が違っている。
目指しているのは、自分が死ぬための場所ではない。
自分が生まれた故郷だった。
そこで何を見て、何を思うのかは、まだレッドフード自身にも分からない。それでも、その先でもう一度別の道を選びたくなったなら、今歩いて離れていく背後には、再び戻ることのできる場所が残っている。
古い曲を聞きながら、レッドフードは荒れた道を進んだ。旅の終わりを侵食にも、戦争にも、自分自身の恐怖にも決めさせず、まず故郷へ帰るために。