Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
第20話 翼会議
リリスとエブラ粒子の間に見つかった相関は、それから数日間の追加試験を経ても消えなかった。高出力の運動を行った直後には周辺濃度がわずかに変動し、同程度の物理衝撃を機械だけで発生させても同じ反応は起きない。再現性そのものは少しずつ高まっていたものの、エブラ粒子がリリスの力へ関与しているのか、リリスの出力へ周囲の粒子が反応しているだけなのか、それとも両方とは別の現象を測定器が拾っているのかまでは、依然として判断できなかった。
スノーホワイトは検査記録の末尾へ、毎回ほとんど同じ注意書きを付けていた。相関あり、因果関係不明、本人による意図的操作なし、戦闘転用不可。最後の一項だけ妙に断定的だったため、ネイトが理由を尋ねると、少女は端末から顔を上げて真剣な表情を向けた。
「まだ何なのか分かっていないものを、使えるものとして数えたくありません」
「誰かに『これを利用して武器を作れ』って言われるかもしれない?」
「はい。数字だけ見れば、リリスお姉ちゃんが高出力を出した時にエブラ粒子が変化した、という記録になります。でも、私たちはまだ何が起きているか知りません」
隣にいたエイブも、その判断には異論を挟まなかった。むしろ研究所へ送るデータからは、粒子との相関を示す部分だけを別系統に分けており、通常の身体検査記録と同じ扱いにはしていない。
「分からないものを兵器にする奴はいる」
「経験ある言い方だな」
「研究所にいれば嫌でも見る」
エイブは淡々と答えたが、その視線は端末から動かなかった。レッドシューズが侵食を研究し、誰にも止められない場所で自分だけの判断を重ねた結果を知った今では、技術者としての好奇心だけを理由に未知の現象へ手を伸ばす気にはなれないのだろう。
「エブラの件は、当面この四人とスノーホワイト、ラプンツェルまで」
「四人?」
ネイトが聞き返すと、エイブはようやく顔を上げた。
「今日の会議に出る四人」
「もう俺が入ること確定してるの?」
「自分で言っただろ」
「冗談半分だったんだけど」
「残り半分を採用した」
ネイトが何とも言えない顔をすると、スノーホワイトが小さく笑った。もっとも、彼女自身は今回の会議には出席せず、リリスの身体に関する技術報告をまとめて先にアンダーソンへ提出することになっている。
「私は説明までです」
「入らないの?」
「必要なら呼んでください。でも、これから決めるのは研究だけじゃないんですよね」
「たぶんね」
ネイトも詳しい議題を把握しているわけではなかった。アンダーソンへ連絡したのはエイブであり、戻ってきてほしいと頼んだのはネイト自身だが、話したいことはリリスの身体だけに限らない。クイーン戦で持ち帰った情報、軌道ステーションの接続構造、押収されたレッドシューズの研究記録、そして人類側の戦況まで、別々に見えていた問題が少しずつ同じ場所へ集まり始めていた。
◇
アンダーソンが勝利の翼号へ戻ったのは、その日の午後だった。ここ数日は地上各地の撤退計画とアーク周辺の防衛調整へ追われていたらしく、以前より疲労の色が濃い。それでもスノーホワイトから一時間近い技術説明を受けた後、休憩を挟むどころか、そのまま小会議室へ入ってきた。
「まず聞いておく」
席につく前に、アンダーソンはリリスを見た。
「今日の状態は?」
「普通だよ」
「手は?」
「動く」
「脚は?」
「動く」
「頭痛、感覚異常、反応遅延は?」
「ないよ。ラプンツェルにも朝診てもらった」
そこでようやくアンダーソンは頷き、椅子を引いた。リリス本人が「大丈夫」と言っただけでは終わらせず、医療側の確認まで聞いてから座るところを見ると、事前にスノーホワイトからかなり念を押されたらしい。
小さな机を囲んだのは四人だった。アンダーソン、リリス、エイブ、そしてネイトであり、誰も補佐官を連れていない。扉が閉じると、アンダーソンは最初に端末を机へ置き、そのままネイトへ視線を向けた。
「それで、お前が俺を呼び戻した理由は何だ」
「リリスの身体」
「それだけなら報告で足りる」
「エイブの研究」
「それも聞いた」
「クイーン」
「聞いている」
「レッドシューズから押収した侵食研究」
アンダーソンの表情が少し変わった。
「……続けろ」
「それと、この先」
ネイトは椅子へ深く座り直した。いくつも問題を並べただけではまとまりがないように聞こえるが、自分が気にしているのは個別の内容より、それらを誰が扱っているのかという部分だった。
「今、危ないものがあちこちに散らばってる。クイーンのデータは軍。リリスの身体はスノーとエイブ。侵食研究は押収されたまま。オールドテイルズ側にも接続構造の解析がある。俺のPip-Boyにも同じ記録の一部が入ってる」
「だから一箇所へ集めたいのか?」
「逆」
ネイトは首を横へ振った。
「一人のところへ集めたくない」
エイブが僅かに視線を上げた。リリスも冗談を挟まず、ネイトが何を言おうとしているのか待っている。
「俺の世界じゃ、危ない技術を一つの組織が全部握って、『自分たちなら正しく使える』って言うのを何度も見た。実際に正しかった部分もある。でも、判断する奴が間違えた時、止める奴がいなくなる」
「Brotherhood of Steelか?」
アンダーソンが尋ねる。
「そこだけじゃない」
インスティテュートも、自分たちだけが未来を作れると考えていた。Vault-Tecに至っては、人類を救うための地下施設という看板の裏で、人間そのものを実験材料へ変えた場所がいくつも存在した。組織の名前や歴史まで全て話す必要はなくても、「正しい目的」が安全を保証しないという結論だけは、ネイトにとって嫌というほど馴染み深いものだった。
「レッドシューズも同じだった、と言いたいのか」
エイブが尋ねる。
「規模は違う。でも、自分だけで正しいと決めたところは似てる」
「……否定はしない」
エイブは短く答え、その後にもう一つ付け加えた。
「だからエブラ粒子の記録も広く出したくない。少なくとも、何なのか分かるまでは」
アンダーソンは端末へ視線を落とした。スノーホワイトから受け取った報告には、粒子変動についても記載されているものの、利用可能な能力としては一切書かれていない。
「軍へ報告しなかったことを問題にするつもりはない」
「いいの?」
リリスが尋ねる。
「問題にできるほど、俺も上を信用していない」
冗談ではなかった。アンダーソンは少し間を置いてから、別の資料を表示する。
「クイーン戦の記録とレッドシューズの押収資料についても、同じ問題がある。今は俺の権限で閲覧範囲を絞っているが、いつまでも隠し通せる保証はない」
「上から寄越せって言われたら?」
「理由を聞く。それでも命令なら、俺一人では拒否しきれないこともある」
アンダーソンがはっきり認めたことで、室内の空気が少し重くなった。指揮官として高い権限を持っていても、人類軍全体を一人で支配しているわけではない。むしろ戦況が悪化し、クイーンや侵食に対抗できる技術への需要が高まれば、高い権限を持つ者ほど「使えるものは使え」と迫られる可能性がある。
「だから四人?」
リリスがネイトを見る。
「最初はそう思った」
「最初?」
「四人で全部決めるのも、結局似たようなものだから」
ネイトの返事に、エイブが眉を寄せた。
「人数を増やし続けたら秘密にならない」
「分かってる。だから役割を分ける」
机上に空の資料を開き、ネイトは思いついた順に項目を書き始めた。一人が全分野を支配するのではなく、それぞれが自分の領域から判断し、重大な決定には複数の同意を必要とする。完璧な制度ではないが、少なくとも「研究者が一人で研究・実験・実行まで決める」構造は避けられる。
「アンダーソンは作戦と軍」
「妥当だな」
「エイブは技術。フェアリーテールモデル、侵食関係の解析、リリスの身体」
「全部同列にするな」
「担当の話だよ」
「ならいい」
ネイトは次にリリスを見る。
「リリスはゴッデスとニケ側。それと、自分の身体」
「最後の必要?」
「一番必要」
即答だったため、リリスが少し目を丸くした。
「本人がいないところで『リリスの身体をどう使うか』決めるのは禁止。出力を下げるか、実験を受けるか、新しい装置を付けるか、全部本人の同意がいる」
「軍人だぞ」
アンダーソンが言う。
「だから戦場へ行けって命令はあるだろ。でも、身体を研究材料にする命令まで同じにする気はない」
アンダーソンはすぐには答えなかった。それでも反論する様子はなく、しばらく考えた後で頷く。
「俺も異論はない」
リリスは二人を交互に見たあと、少し困ったように笑った。
「私だけ、自分担当みたい」
「自分の身体についてはな。それ以外ではゴッデス全体の代表」
「じゃあ責任重大だ」
「今さら?」
「それもそうだね」
最後に三人の視線が、自然とネイトへ集まった。
「それで」
アンダーソンが腕を組む。
「お前は何担当なんだ?」
「そこなんだよな」
「考えてなかったのか」
「途中までは」
エイブまで呆れた顔をする中、リリスが楽しそうに身を乗り出した。
「雑用?」
「スノーにも言われた」
「似合ってるよ」
「もう少し格好いいのない?」
笑いが起きたものの、ネイト自身は完全な冗談だとは思っていなかった。ニケの技術者でも、この世界の軍人でも、政府の人間でもないからこそ、どこか一つの利害へ完全には属していない。それに加えて、自分の世界で見てきた失敗例を出すことならできる。
「外から見る役でいいんじゃないか」
アンダーソンが先に答えを出した。
「外?」
「俺たち三人は、どうしてもこの世界の常識で考える。お前はそれがない」
「常識がないって言われてる?」
「概ね正しい」
エイブが真顔で同意した。
「言い方!」
リリスが笑いながら、少しだけ表現を変える。
「違う世界ならどうするか考える人、でいいんじゃない?」
ネイトは数秒考えたあと、肩をすくめた。
「それでいい。あと雑用」
「結局入れるのか」
「便利だからな」
四人の役割が、一応の形になった。
◇
そこから問題になったのは、この四人が何を管理するかだった。
最初にエイブが、リリスの身体研究とエブラ粒子の記録を挙げる。アンダーソンはクイーンおよび軌道ステーションの作戦情報を加え、押収されたレッドシューズの侵食関連資料も同じ枠へ入れることを提案した。
「全部を同じ場所へ保存する必要はない」
エイブが言う。
「むしろ分けた方がいい。侵食データとリリスの身体設計を同じネットワークへ置くのは嫌だ」
「侵食されたら?」
「最悪」
「分かりやすい」
重要なのは、四人が全ての資料を直接保有することではなかった。何が存在し、誰が保管し、誰が閲覧でき、どんな場合に別の人間へ渡すのかを共有しておく。そうすれば一箇所が破られたとしても、全部が同時に失われたり利用されたりする危険を減らせる。
「記録も残す」
ネイトが言う。
「誰が何を許可したか?」
「そう。『誰かが勝手にやった』を起こしにくくする」
「賛成」
リリスが頷いた。
「レッドシューズのことを考えると、そこは必要だと思う」
名前が出ても、誰も話題を避けなかった。彼女が何をしたかを忘れないことと、そこから仕組みを変えることは別ではなく、むしろ同じ失敗を繰り返さないためには必要だった。
アンダーソンは新しい文書を作り、暫定規則としてまとめ始めた。重大技術の利用には複数承認、本人へ直接関わる処置には本人同意、記録を残し、単独判断で実験を実行しない。緊急戦闘時の例外については後で詰める必要があるが、最低限の骨組みは作れる。
「名前が要るな」
アンダーソンが入力欄で手を止める。
「何の?」
「この集まりだ」
「必要?」
「資料へ毎回『アンダーソン、リリス、エイブ、ネイトによる秘密会議』と書くよりはな」
「秘密って書いたら秘密じゃなくない?」
「そこじゃない」
ネイトは少し考え、部屋の外へ視線を向けた。ここは勝利の翼号であり、リリスたちが長く拠点として使ってきた艦でもある。
「翼会議」
エイブが即座に嫌そうな顔をした。
「安直」
「早いな!」
「勝利の翼号で会議してるから翼会議?」
「覚えやすいだろ」
「安直」
「二回言うなよ」
ところが、リリスは気に入ったらしい。
「私は好きだよ」
「だろ?」
「翼って、帰ってくるためにも使うものだし」
その言葉でネイトが少し考える横から、アンダーソンも文書の名称欄へ入力してしまった。
「暫定名称、翼会議」
「お前まで?」
「他に案がない」
「エイブは?」
「もっと考えろ」
「代案は?」
「……今はない」
「決まり」
エイブは最後まで納得していない顔をしていたが、削除しろとまでは言わなかった。
◇
会議が一度中断されたのは、アンダーソンの通信端末へ地上撤退に関する新しい報告が入った時だった。
避難計画そのものは以前から進んでいたものの、最近は前線基地だけでなく、小規模な居住区域や医療施設まで閉鎖対象に含まれ始めている。アークへ送る人員と物資の選別も厳しくなり、移動できない負傷者や、すぐには戦線へ戻せない損傷したニケをどこへ置くかという問題も増えていた。
「全部アークへ入れられないの?」
リリスが尋ねる。
「今のところ、優先順位を付けている」
「人にも?」
「付けなければ運べない」
アンダーソンの返事に感情的な冷たさはなかった。だからこそ、状況の悪さがよく分かる。
「アークが完成すれば解決する?」
ネイトが尋ねる。
「完成しても、地上の全員を一度に収容できるとは限らない。それに、封鎖前まで地上拠点そのものは必要だ」
ネイトは机へ肘を置き、しばらく何も言わなかった。地下へ人を逃がすという発想自体には、自分の世界で嫌になるほど覚えがある。
「地下か」
リリスが聞き取った。
「何?」
「いや。俺の世界にも地下避難施設があった」
「Vault?」
以前ネイトから聞いた単語を、リリスは覚えていた。
「そう」
「安全だった?」
「場所による」
答えながら、ネイトは顔をしかめた。それだけで良い思い出ばかりではないことは伝わったらしく、リリスも深くは聞かなかった。
「Vault-Tecって会社が作った。核戦争に備えて、地下に長期間人を住ませる施設だ。水、食料、電気、医療、居住区、何年も外へ出られなくても生きられるようにする」
「それなら使える」
エイブがすぐ反応した。
「考え方はな」
ネイトは念を押した。
「中身まで真似するな」
「何があった?」
「人間を実験するVaultが山ほどあった」
室内が静かになった。
「……それは真似しない方がいいね」
「絶対にな」
リリスの言葉へ、ネイトは即答した。
それでも、施設としての構造思想まで捨てる必要はない。外部から隔離されても生活を維持でき、複数の電源系統を持ち、医療と居住を分け、食料や水を長期間確保する。地上戦が続くこの世界なら、アークとは別に小規模な避難拠点が存在する意味は十分にある。
「作る気か?」
アンダーソンが尋ねた。
「候補地があれば」
「簡単に言うな」
「家なら何百軒も建てた」
「普通の家と軍事用地下施設を一緒にするな」
「核シェルターも作った」
「なぜ?」
「必要だったから」
「お前の世界は何なんだ」
アンダーソンが額へ手を当てる横で、ネイトは机上の空白へ簡単な図を描き始めた。出入口を一つにしないこと、外から戻った者をまず検査する区画を作ること、居住区と医療区画を分離すること。工房とニケ用整備設備、独立電源、倉庫、通信室も必要になる。
「ここ、入口」
「一つ?」
「最低三つ欲しい。正面、非常口、それと荷物用」
「外から侵入される場所も増える」
「だから普段は二つ閉める」
エイブが図を引き寄せ、勝手に修正を始める。
「電源は二系統」
「三つ」
「三つ?」
「主電源、予備、最後の非常用」
「贅沢」
「全部止まった時に文句言うより安い」
リリスも身を乗り出し、空いている場所を指した。
「ここは?」
「今は何もない」
「ゴッデスが戻ってきた時に寝る場所」
「それ居住区じゃ駄目?」
「みんな一緒に使えるところがいい」
「じゃあ予備居住区」
ネイトが書き足すと、リリスは満足そうに頷いた。
「ブレイドガードも使える?」
「空いてれば」
「オールドテイルズも?」
「もちろん」
「人間は?」
「何でそこで確認するんだ」
「ニケ用の場所になりそうだったから」
「避難所なんだから、人間もニケも入れる」
そこでネイトは、医療区画の横へもう一つ部屋を追加した。
「これは?」
アンダーソンが尋ねる。
「隔離室」
「侵食?」
「それも」
レッドフードのように侵食が疑われるニケを、戦場で処分する以外の選択肢を持てる場所が必要だった。感染性の病気や未知のラプチャー由来物質に触れた者が出た場合も使えるよう、外部から独立して閉鎖できる構造にしておけば用途は広い。
「研究室?」
エイブが尋ねる。
「違う」
ネイトはすぐ訂正した。
「患者を置く部屋」
その違いを理解したのか、エイブは何も言わず図面へ換気系統の線を追加した。
◇
施設案が最初の会議とは思えない規模へ膨らんだ頃には、机の上が図面と端末で埋まっていた。正式な建設許可も候補地も資材量も決まっていないのに、居住区、医療区、工房、ニケ整備区、発電設備、備蓄庫、通信設備、隔離区画、機密データを外部ネットワークから切り離して保管する区画まで書き込まれている。
「最後のは何?」
リリスが、最深部に追加された小さな四角を指した。
「危ないデータを置くところ」
「レッドシューズの?」
「それも。クイーン、侵食、リリスの身体、エブラの記録。全部同じ端末には入れないけど、外のネットワークから切れる保管場所が欲しい」
「Vaultの中にVaultを作るのか」
アンダーソンが呆れる。
「念には念を」
「何かあった時、全部まとめて埋まるぞ」
「だから複製は別の場所にも置く」
「さらに増えるのか」
ネイトとアンダーソンのやり取りを聞きながら、リリスは図面全体を眺めていた。最初は単なる秘密研究施設の話だったはずなのに、いつの間にかベッドがあり、食堂があり、治療を受ける場所があり、誰かが帰ってくるための空間へ変わっている。
「これってさ」
三人が彼女を見る。
「戦うための基地じゃないんだね」
「武器庫や工房はあるぞ」
「そうじゃなくて」
リリスは図面の居住区を指した。
「帰るための場所なんだ」
ネイトも改めて自分が描いたものを見た。武器を整備する場所はあっても、そこから出撃するためだけの基地として考えていたわけではない。負傷者を連れ帰り、戦えない者を休ませ、次の場所へ進むまで生き延びるための施設として線を増やしてきた。
「戦う場所はいくらでも増える」
ネイトが言う。
「だったら帰る場所も増やした方がいいだろ」
リリスは少しだけ笑った。
「うん」
クイーン戦から戻った時も、レッドフードが旅立った時も、「帰る」という言葉は以前より重くなっていた。勝つための作戦を考えることと、生きて戻った者を受け止める場所を作ることは、どちらか一方だけを選ばなければならないものではない。
「じゃあ、作ろう」
リリスがそう言うと、アンダーソンは図面を見ながら小さく息を吐いた。反対する言葉ではなく、これから必要になる許可や資材、秘匿方法を頭の中で計算している時の顔だった。
「まず候補地を探す」
「許可出る?」
「表向きは後方支援施設として申請する。全容を上へ出す必要はない」
「それ大丈夫なの?」
「大丈夫にする」
ネイトが笑う。
「頼もしいね、指揮官」
「お前も責任者だからな」
「雑用じゃなかったの?」
「建設担当兼雑用だ」
「増えてる!」
エイブはそんな二人を無視し、施設名の仮入力欄を開いた。
「名前」
「また?」
「図面を保存できない」
「翼基地」
「却下」
「早いって!」
リリスが笑いながら候補を考える中、ネイトは先ほど話した自分の世界の地下施設を思い出した。
「Vault-N」
今度はエイブもすぐには否定しなかった。
「Nは?」
「まだ決めてない」
「決めてから名前を付けろ」
「後で意味を考えればいいだろ」
「安直」
「今日二回目だぞ」
リリスは端末に表示された文字を眺める。
「でも、悪くないと思う」
「ほら」
「ただし、ネイトの世界のVaultみたいなことはしない」
「絶対にな」
そこだけは、ネイトも笑わなかった。
人を閉じ込めて観察する場所にはしない。危険な研究を誰にも知られず進めるための牢獄にもせず、軍が不要と判断した者を捨てる場所にもさせない。傷ついた人間やニケが戻り、治療を受け、必要なら長く暮らし、もう一度どこかへ行くことを選べる場所にする。
正式名称も、建設地も、いつ完成するのかも決まっていない。それでも暫定図面の片隅には、すでに二つの名前が保存されていた。
翼会議。
そして、VAULT-N。
リリスは表示された図面をもう一度眺めたあと、自分の右手をゆっくり握った。数日前には一瞬だけ動かなかったその手は、今は何の問題もなく応えているが、だからといって見つかった問題が消えたわけではない。
「ここができたら」
「うん?」
「私も帰ってきていい?」
ネイトは質問の意味が分からないという顔をした。
「そのために作るんだろ」
リリスは一度だけ目を瞬き、それから普段と変わらない笑顔を見せた。
「そっか」
戦うために空へ向かう場所は、すでにいくつもあった。
今度は、生きて帰るための場所を作ればいい。