Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
アニスと別れた翌日になっても、フリージアは仕事へ戻らなかった。
端末にはハンソンからの連絡がいくつも残っていたが、どれも復帰を急かす内容ではない。体調の確認と、休暇は必要なだけ延ばして構わないという言葉が大半で、ネイトから届いた一件も返事を求めるものではなかった。皆が待ってくれていることは分かる。それでも、以前と同じプリティーへ戻るだけでは何も変わらない気がしていた。
ただし、何もしたくないわけではなくなっていた。
アニスは、プリティーを見てもう少し生きてみようと思ったと言った。フリージア自身は、自分がいつの間にそんな影響を誰かへ与えていたのかさえ忘れかけていた。ニケの人権、世論、支持率、中央政府、企業との関係と、大きなものばかりを見続けるうちに、一人の人間へ何が届いたのかを数えなくなっていたのだ。
「永遠のアイドル、か……」
アニスが口にした言葉を思い返しながら、フリージアはソファの背へ身体を預けた。
自分はいつまでプリティーでいられるのだろう。ニケの身体なら、人間より遥かに長く活動し続けることは出来るかもしれない。しかし人気が永遠に続くはずはなく、いつか新しい歌が生まれ、新しいスターが現れ、人々の視線も別の誰かへ向かっていく。
それは悪いことではない。
むしろ、そうならなければおかしい。
それでもアニスは、自分にとってプリティーは特別なのだと言った。その意味を考えているところへ、ミセス・ミスから連絡が入った。
『少し会えない?』
休暇中のフリージアへ仕事の話を持ち込まないよう、周囲へ最初に言い聞かせたのは彼女だった。だからこそ、この連絡には何か理由があるのだろうと判断し、フリージアは指定されたテトラ所有の小さな応接室へ向かった。
◇
部屋にはミセス・ミス一人だけが待っていた。
「ハンソンは?」
「今日は呼んでないわ」
「珍しい」
「マネージャーを交えてする話じゃないから」
いつもなら迷わず本題へ入る人物だったが、今日は席を勧めてからもしばらく何も言わなかった。フリージアは向かいへ座り、その様子を眺める。プリティーをここまで育てたプロデューサーが、何をどう言うべきか迷っている姿を見るのは初めてだった。
「何?」
「謝ろうと思って」
フリージアは思わず周囲を見回した。
「誰が?」
「私が」
「誰に?」
「あなたに決まってるでしょう」
冗談ではなかった。
ミセス・ミスは机の上で両手を組むと、逃げずにフリージアを見た。
「私は最初から、あなたが成功すると思っていたの。ニケの人権活動をしていた少女が、自分自身もニケになって、それでも立ち上がる。あなたには人を惹きつける力もあったし、物語としても強かった」
「成功したなら、いいんじゃない?」
「成功しただけならね」
ミセス・ミスは苦く笑った。
「あなたは成功しすぎた」
今のプリティーは、一人の芸能人という枠では収まらなくなっている。ニケの権利について語られる時には必ず名前が出て、支持者は彼女を希望の象徴として掲げる一方、ニケフォビアは彼女を敵視している。テトラにとっては会社の顔となり、中央政府までその知名度と影響力を無視出来なくなっていた。
「あなた本人が、その中心でどうなるかまで考えなかった。……違うわね。考えなかったんじゃない。ある程度は分かっていて、それでも進めたの」
フリージアは何も言わずに聞いていた。
「象徴にされた人間は、本人の都合だけでは動けなくなる。疲れていても笑顔を求められるし、何か間違えれば『プリティーが失敗した』じゃなくて、『やっぱりニケは駄目だ』と言われる。そんな重荷を背負う可能性があることを、私は分かっていた」
「それでも私をプリティーにした」
「ええ」
「どうして?」
ミセス・ミスは少しも迷わなかった。
「あなたなら星になれると思ったから」
あまりにも真っ直ぐな返事だった。
フリージアは椅子の背へ身体を預け、しばらく天井を眺めた。怒ろうと思えば怒れたし、苦しかった時間を全部彼女のせいにすることも出来た。それでも不思議なほど、今は怒りが湧いてこない。
「星って、何?」
「何って?」
「みんなが見上げるもの?」
「そうね」
「本人がいなくなっても?」
ミセス・ミスが僅かに目を細めた。
「どういう意味?」
フリージア自身にも、まだ答えはなかった。ただ、アニスの言葉とミセス・ミスの話を聞いているうちに、頭の中へ別の存在が浮かんでいた。
ゴッデス。
人類を守り、今もなお伝説として語られる女神たち。
そして幼い自分が、ずっと憧れていた赤い髪のニケ。
『将来はお姉ちゃんみたいなニケになる』
昔、自分は本気でそう言った。
その記憶に触れた瞬間、別の事実まで繋がった。
「あ……」
「フリージア?」
彼女は思わず立ち上がっていた。
「私、馬鹿だ」
「急にどうしたの」
「ずっと、お父さんが何であんなことしたのか分からなかった」
マスタングから聞かされた話。
オスワルドは、ゴッデスを地上へ残した。
アークの扉を閉じ、自分が最も尊敬していた者たちを見捨てた。
そう聞いたから怒った。何を説明されても信じられないと思い、父親の顔すら見たくなくなった。
しかし、もしゴッデスがアークへ戻っていたら。
「人類を救った最強のニケがアークに戻って、中央政府の中にいたら……どうなってたと思う?」
ミセス・ミスはすぐには答えなかった。
答える必要もなかった。
利用される。
政府の権威を示すために使われる。
発言を求められ、立場を与えられ、都合のいい象徴として祭り上げられる。従わなければ、人類を滅ぼしかねない危険な戦力として警戒される可能性さえある。
今のプリティーですら、一人の個人として生きることが難しくなっている。
ゴッデスなら、その比ではない。
「お父さんは……」
久しぶりにその呼び方を口にすると、胸の奥が痛んだ。
「ゴッデスを、ゴッデスのまま残したかった?」
真相のすべてを知っているわけではない。
アーク封鎖の裏で何が起き、オスワルドがどこまで考えていたのかも分からない。それでも、少なくとも自分が聞かされたような単純な裏切りではなかったのではないか。
そう考えた瞬間、今まで無視していた記憶まで次々と蘇った。
レッドフードの話をする時の父の顔。
ゴッデスの記録を大切に扱っていた姿。
自分がニケになりたいと言った時、本気で心配していたこと。
家へ帰らなくなった後も、オスワルドは自分を責める言葉を一度も送ってこなかった。
「行かなきゃ」
フリージアは荷物を取った。
「今から?」
「今じゃなきゃ駄目」
ミセス・ミスは止めなかった。扉へ急ぐ彼女の背中へ、ただ一言だけ声を掛ける。
「フリージア」
振り返る。
「今度は、人から聞いた話だけで決めないことね」
少しだけ痛い言葉だった。
だからこそ、フリージアは素直に頷いた。
「うん」
プリティーではなく、一人の娘として部屋を出た。
◇
家の前へ着いてから、フリージアはなかなか呼び出しボタンを押せなかった。
何度も帰った場所だった。ニケになる前も、プリティーになる前も、仕事で帰宅が遅くなればオスワルドが食事を用意して待っていた。互いに忙しくてほとんど会話しない日でさえ、ここへ戻れば自分の家だった。
それを捨てたのは、自分だ。
ようやく呼び出しを押したものの、返事はなかった。
もう一度試しても変わらない。
「……いるんでしょ」
以前使っていた認証情報を入力する。
解除音が鳴った。
自分の登録は消されていなかった。
それだけで、扉を開ける手が震えた。
「ただいま」
返事の代わりに、知らない匂いが鼻についた。
酒だった。
玄関から見えるだけでも空き瓶がいくつか転がり、テーブルの上には仕事の資料が積まれたままになっている。オスワルドは酒を好む人間ではなかったし、何より部屋をここまで散らかしたままにする人ではなかった。
「……お父さん?」
奥で物音がした。
ソファに横になっていた人影が、ゆっくり身体を起こす。
「誰だ……」
掠れた声だった。
フリージアは息を呑んだ。
眼鏡を外したオスワルドは、以前よりずっと痩せて見えた。服にも皺が残り、机の周囲には読みかけの資料が何日も放置されたように散らばっている。
オスワルドも、入口に立っている人物が誰なのか理解するまで数秒掛かった。
「……フリージア?」
自分の名前を呼ばれた途端、ここまで考えてきた言葉が全部消えた。
「お父さん」
オスワルドの表情が固まった。
「今、何て――」
「お父さん」
フリージアはゆっくり近づいた。
「ごめんなさい」
「待て。君が謝ることじゃ――」
「何も聞かなかった」
父親の前まで来ると、彼女はその身体を抱き締めた。
ニケの力で傷つけないよう加減しながら、それでも途中で逃げられないくらいには強く腕を回す。オスワルドは最初こそ身体を強張らせたが、やがて力を抜いた。
「聞けばよかった。お父さんが何を考えてたのか、ちゃんと聞けばよかったのに、私、人から聞いた話だけで全部決めた」
「私が話さなかったんだ」
「それでも聞けた!」
声が震えた。
フリージアは少し身体を離し、正面からオスワルドを見る。
「私、お父さんがゴッデスを嫌いじゃないって知ってた」
オスワルドの目が僅かに揺れた。
「レッドフードの話もいっぱい聞いた。ゴッデスの記録だって大事にしてた。ずっと知ってたのに、一番信じたくない話を聞いた瞬間、それ全部忘れた」
涙が頬を伝った。
「どうして何も言わなかったの?」
オスワルドは長い間答えなかった。
何を話せるのか、どこまで言っていいのかを考えているようにも見えた。
「言えなかった」
やがて、低い声で答えた。
「今も、すべてを君へ話すことは出来ない」
「うん」
「君が聞いた話が、全部嘘だったとも言えない。私はアークの扉を閉じたし、彼女たちを地上へ残した。それ自体は事実だ」
「うん」
「だから、君に軽蔑されても仕方がないと思っていた」
「違う」
「フリージア」
「違うよ」
彼女は首を横に振った。
「お父さんは、ゴッデスをゴッデスのまま残したかったんでしょ」
オスワルドが目を見開いた。
「アークへ戻ったら利用されたかもしれない。私みたいに。それどころか、ゴッデスならもっと酷かったかもしれない」
返事はなかった。
「だから、地上に残したの?」
オスワルドはゆっくり目を閉じた。
肯定もしなかった。
否定もしなかった。
それだけで十分だった。
「馬鹿」
フリージアの声から、張りつめていたものが少し抜けた。
「……そうだな」
「大馬鹿」
「ああ」
「一人で全部悪者になって、自分から何も言わないで、勝手に苦しんで……」
そこまで言って、床に転がっている空き瓶が目に入った。
「しかも何これ!」
オスワルドの視線が僅かに逸れる。
「最近、少しだけ――」
「少しじゃないでしょ!」
「全部を一度に飲んだわけではない」
「そういう問題じゃない!」
怒鳴りながらも、フリージアは泣いていた。
オスワルドの口元に、久しぶりに見る小さな笑みが浮かぶ。
「笑わないでよ」
「すまない」
「全然反省してない」
「している」
「信用出来ない」
そこまで言ってから、フリージア自身も小さく笑った。
怒っている。
悲しい。
それでも、父親と言い合えることが嬉しかった。
「……帰ってもいい?」
聞く必要などないのかもしれない。
認証情報は消されていなかった。
おそらく自分の部屋だって残っている。
それでも、本人の口から聞きたかった。
オスワルドは眼鏡のない目元を片手で覆い、しばらく顔を伏せた。返事を待つ間、フリージアは初めて父親が泣いていることに気づいた。
「ここは」
オスワルドの声が掠れた。
「君の家だ」
その言葉を聞いた途端、フリージアはもう一度父親へ抱きついた。
「ただいま」
今度はすぐに返事があった。
「……おかえり」
◇
ネイトがプリティーを次に見た場所は、ステージではなかった。
アークの広場で開かれた、ニケの権利向上を訴える集会だった。
華やかな衣装は着ていない。大がかりな照明や音楽もなく、手にしているのは一本のマイクだけだった。それでも彼女の周囲には大勢の人が集まり、人間とニケが同じように壇上を見上げている。
「復帰ライブ?」
ネイトが隣のハンソンへ尋ねると、彼は首を横へ振った。
「本人が、まずここから始めたいと」
「歌わない?」
「今日はありません」
「踊りも?」
「ありません」
「それでもこんなに人来るんだな」
ハンソンの表情は、以前より少しだけ柔らかかった。
「プリティーですから」
壇上では、プリティーが事件について話していた。
自分が参加した催しで人間とニケの双方が命を落としたこと。憎しみがどちらか一方だけを傷つけるものではなかったこと。そして、あの光景を見てもなお、自分は人間とニケが共に生きることを諦めたくないということ。
「簡単じゃないのは、私も分かってる」
広場へ声が響いた。
「人間だからニケを怖がう必要はない、ニケだから人間を嫌う必要もないって言葉だけで、明日から全部仲良くなるわけじゃない。でも、難しいからって何もしなかったら、ずっと変わらない」
プリティーは一度、集まった人々を見渡した。
「だから私は、もう一回やる」
最初に手を叩いたのは、一人のニケだった。
その隣にいた人間が続き、やがて拍手は広場全体へ広がっていった。
ネイトも手を叩きながら、以前のプリティーとの違いを感じていた。
無理をして笑っているわけではない。
誰かに求められたから立っているわけでもない。
自分でここへ戻ってきた顔だった。
「何かあったな」
ネイトが呟く。
「ええ」
「聞いた?」
「全部は」
「俺も何も聞いてない」
ハンソンが少しだけ笑った。
「聞かないんですか?」
「本人が話したくなったら」
「あなたらしいですね」
「良い意味?」
「今回は」
壇上のプリティーがこちらに気づいた。
ほんの僅かに手を上げる。
ネイトも同じように返した。
それだけで十分だった。
◇
プリティーはアイドル活動へすぐ復帰する代わりに、人権活動へ力を注ぐようになった。
ニケが働く施設を訪ね、被害を受けたニケと人間の双方へ会いに行き、必要があれば街頭にも立った。報道される活動もあれば、カメラを一台も連れていかない場所もあり、以前よりずっと地味な日々だった。
ところが、名前は以前以上に広まっていった。
一度は活動を休止し、それでも戻ってきたニケ。
襲撃事件の後も、人間とニケが共に生きることを諦めなかったプリティー。
アイドルとして表舞台から離れている間に、その支持は全盛期を上回り始めていた。
「この数字、間違ってない?」
久しぶりに三人が同じ控室へ揃った日、プリティーは端末へ表示された支持率を見て眉を寄せた。
「正常です」
ハンソンが答える。
「ライブもしてないのに?」
「していないからでは?」
「どういう意味?」
「希少価値」
横からネイトが口を挟む。
プリティーがすぐに睨んできた。
「失礼ね。私はちゃんと活動してるわよ」
「でも歌ってない」
「アイドルは歌うだけじゃないの」
「深いな」
「今考えた」
以前の調子だった。
ネイトが笑っている横で、ハンソンは咳払いを一つすると端末の画面を切り替えた。
「それで、提案があります」
表示されたのは、大きなホールの資料だった。
プリティーの表情が変わる。
「ライブ?」
「復活ライブです」
アークリアンホール。
現在のプリティーの知名度を考えれば、過去最大規模の会場でも十分に成立する。ニケ向けの無料入場枠も設け、人間とニケが同じ場所で彼女の復帰を祝えるよう調整するつもりだと、ハンソンは説明した。
「やりたい」
プリティーの返事は早かった。
「まだ日程も正式には決まっていません」
「じゃあ早く決めて」
「会場との調整があります」
「ハンソンなら出来る」
「無茶を言わないでください」
呆れた声を出しながらも、ハンソン自身もどこか嬉しそうだった。
プリティーはもう一度、画面に映る会場を見た。
大勢の人間がいる。
大勢のニケもいる。
皆が同じ場所へ集まり、同じステージを見る。
以前なら、それを実現することだけが目的だったかもしれない。
今は違う。
アニスがいる。
ミセス・ミスがいる。
ハンソンがいる。
そして、帰れば父親がいる。
星だからといって、一人だけで空へ浮かんでいる必要はない。
「一番いいライブにする」
プリティーが言った。
「今までで一番?」
ハンソンが尋ねる。
彼女はしばらく画面を見つめ、それから明るく笑った。
「ううん。これから先も含めて」
ネイトは、その言葉を聞いた時だけ僅かな違和感を覚えた。
何が気になったのか、自分でもまだ説明出来ない。プリティーの表情は晴れており、以前のように追い詰められているようには見えなかった。
だから、その場では深く追及しなかった。
ただ、「今までで一番」ではなく、「これから先も含めて」と彼女が言ったことだけが、妙に耳へ残った。