Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
大型保存装置の前で、リリスは長いこと透明な槽を見つめていた。そこに残されている脳からは、ごく微弱とはいえ代謝と電気活動が確認されている。しかし、それがモデルナンバー1という一人の女性の意識や記憶まで残っていることを意味するわけではなく、装置の外へ戻せる保証もどこにもなかった。
「何ができる?」
ようやく尋ねられ、ネイトはすぐには答えなかった。Pip-Boyと施設側の観測値をもう一度照合し、保存装置の循環系や温度管理まで確認してから、ようやく画面を閉じる。
「まず、この古い設備から安全に移す。新しい身体を作るのは、その後だ」
「すぐには駄目なの?」
「生きてることと、元通りに戻せることは別だよ。脳がどこまで正常なのか、意識や記憶が残ってるのか、外から刺激を入れたらどんな反応をするのかも分かってない。その状態で、いきなり新しい身体へ繋ぐのは危なすぎる」
リリスも、理屈そのものは理解しているのだろう。これまで死者としてしか語ることのできなかった相手について、ほんの僅かでも別の可能性が生まれたことで気持ちが先へ進みたがっているだけだった。それでも無理をして再び失うことを望んでいるわけではなく、保存槽へ向いていた視線をようやくネイトへ戻す。
「どういうものを作るの?」
「脳を生かしておけて、外を見たり音を聞いたりできる装置。もし意識が戻ったら、こっちと話せるようにもする。それ以上の機能はいらない」
「それだけ?」
「ああ。何か問題が起きた時に、脳そのものが原因なのか、新しい身体との接続が原因なのか分からなくなるだろ。最初は単純な方がいい」
ネイトには、一つだけ思い当たる技術があった。
「似たような技術なら知ってる。ただし、元になったものはろくでもないけどな」
「それだけ聞くと不安なんだけど」
「問題は使い方だよ」
彼の頭に浮かんでいたのは、連邦で何度となく遭遇したロボブレインだった。人間の脳を生命維持しながら機械へ搭載し、その演算能力を利用するために作られた戦前技術である。その成立過程も用途も褒められたものではなかったが、脳を維持しながら神経信号を機械側の情報へ変換するという一点だけなら、今必要としているものにかなり近かった。
「人間の脳を機械へ積んで動かす技術だよ」
「それだけ聞くと、ニケとそこまで違わないような気もするけど」
「だから、そのまま真似するつもりはない。借りるのは生命維持と、脳から入出力を取るための考え方だけだ。武器も脚も付けないし、人格や記憶に手を加える機能なんてもってのほかだ」
元になった技術が何のために作られたかまで引き継ぐ理由はない。必要なのは兵器を一体作ることではなく、保存装置の中にモデルナンバー1という一人の女性がまだ残っているのかを確かめるための、安全な橋渡しだった。
「作れる?」
「俺一人じゃ無理だな。この世界のニケ用規格が分からない」
「じゃあ、誰か手伝ってくれる人が必要だね」
その人選については、勝利の翼号へ戻ったあとで悩む必要もなかった。
◇
「助っ人連れてきたぞ、男前」
作業区画の入口からレッドフードが顔を出し、その隣にはスノーホワイトが立っていた。本人を連れてきたこと以上に、自分が適任者を見つけてきたことを自慢したいらしく、レッドフードは妙に得意そうな顔をしている。
「こういうのは、おちびちゃんの出番だろ?」
「おちびちゃんって呼ばないでください!」
「じゃあスノー」
「それも勝手に短くしないでください! いつも嫌だって言ってますよね!」
「いつも呼んでるんだから、今さらだろ」
言い争いながら入ってくる二人を見て、ネイトは思わず笑った。その一言だけで今度はスノーホワイトの注意が彼へ向きかけたものの、作業台に表示されている設計図を見つけた瞬間、そちらへ完全に吸い寄せられる。
「何を作るんですか?」
「まだ何も説明してないのに食いつくの早くない?」
「レッドフードから、古い機械の技術を使うと聞きました」
「それしか言ってねえぞ?」
「十分です」
ネイトがPip-Boyからロボブレインの構造資料を表示すると、スノーホワイトの表情はたちまち技術者のものへ変わった。ただし、その設計はすでに大きく手を加えてあり、武装や移動機構、行動制御に関わる部分は最初から候補から外している。
「この中央へ脳を繋いで、循環装置で維持するんですね。こちらは神経信号を機械側へ変換する部分ですか?」
「ああ。視覚は外部カメラ、聴覚はセンサーから入れるつもりだ」
「運動出力はどうします?」
「付けない」
予想していなかったらしく、スノーホワイトが顔を上げた。
「付けないんですか?」
「長いあいだ身体を動かしてない相手を起こして、いきなり機械の脚で歩かせる気?」
「あ……それは、そうですね」
「最初は見る、聞く、話す。その三つで十分だ。意識が戻って、本人と意思疎通できるようになってから次を考える」
スノーホワイトは設計図とネイトを交互に見た。モデルナンバー1本人と面識はないものの、同じフェアリーテールモデルの先輩であり、何よりリリスが大切に思っている相手だということは聞かされている。それだけでも、彼女にとって手を貸す理由としては十分だったらしい。
「助けられる可能性はあるんですよね?」
「可能性はある。ただ、それ以上はやってみないと分からない」
「分かりました。私も手伝います」
「話が早いな」
「それなら、やってみたいです」
レッドフードが満足そうにスノーホワイトの頭へ手を伸ばすと、その手はすぐに払い落とされた。
「やる気満々だな、おちびちゃん」
「だから頭を触らないでください!」
「はいはい」
「絶対聞いてませんよね?」
ネイトは二人を眺めながら、何気なく口にした。
「仲いいな」
「どこがですか!」
「仲いいだろ?」
「レッドフードは黙っていてください!」
少なくとも、スノーホワイトを連れてきた判断についてはレッドフードを信用してよさそうだった。
仮設生命維持ユニットの製作には数日を要した。戦前アメリカのロボット技術と、この世界で使われているニケ技術には似た発想も存在するが、部品規格も信号方式もまるで違う。ロボブレインの部品をそのままニケ用設備へ繋げれば動くというほど単純ではなく、ネイトが元の構造と意図を説明し、それをスノーホワイトが現在の規格へ置き換えていくという作業を繰り返す必要があった。
最初は一つずつ言葉にして確認しながら進めていた二人も、作業が進むにつれて短いやり取りだけで意図が通じるようになった。完成に近づいた装置は元になったロボブレインとは似ても似つかず、球形の保護槽へ独立した循環装置と神経信号変換器を組み込み、外側には視覚用カメラ、聴覚センサー、音声出力装置だけを備えたものになっている。
「ネイトさん、この変換器をもう一つ使いたいんですが、ありますか?」
作業も終盤へ入った頃、スノーホワイトが部品表を確認しながら尋ねた。
ネイトがPip-Boyから保管品の一覧を開くと、長い人生で集め続けた物資が画面へ延々と並んだ。本人ですら何をどこまで残しているのか即座には把握できず、普段使う工具から何十年も触れていない武器まで順番に送っている途中で、隣から覗き込んでいたスノーホワイトの視線が一つの項目で止まる。
「ネイトさん」
「何?」
「今、ミサイルランチャーって書いてありませんでした?」
「あるよ」
あまりにも簡単に認められたため、質問した本人の方が数秒黙った。
「……あるんですか?」
「三つある」
「やっぱりあるんですね……」
「何で残念そうなんだ」
「ネイトさんの持ち物、何でも出てくるので」
「俺に言われてもな」
ネイトが一覧を送り続けると、今度は別の項目が目に入ったらしい。
「じゃあ、その下にあった『ヌカランチャー』は何ですか?」
ネイトの指が止まった。
「今必要なのは変換器だろ」
「何をする武器なんですか?」
「世の中には、知らない方が平和なこともある」
「答えになってません」
「そのうち機会があったらな」
「絶対に教えてくださいね」
「機会がなければ、その方がいい武器だよ」
そんな言い方をすれば余計に気になることくらい、ネイトにも分かっていた。それでも今は仮設ユニットの完成が先だとスノーホワイト自身も理解しており、ようやく目的の変換器を受け取ると作業へ戻りかけた。
しかし、今度は別の疑問を思い出したらしい。
「そもそも、どうしてPip-Boyから物が出てくるんですか?」
「倉庫と繋がってる」
「どこにある倉庫です?」
「遠いところ」
「どれくらい?」
ネイトは少し考えた。
「世界一つ分くらい」
工具を持っていたスノーホワイトの手が止まる。
「……冗談ですよね?」
「俺もそうだと思いたい」
「説明になってません」
「俺自身が説明できないからな」
連邦で長年使っていた保管網へ、どういうわけかこの世界からも繋がっている。その理由についてはネイト自身にも答えがない以上、これ以上まともな説明を求められてもどうしようもなかった。
「それも、あとで分かる範囲なら話すよ」
「約束ですよ?」
「ああ」
ようやく納得したスノーホワイトは、再び配線と信号変換の問題へ意識を戻した。
◇
保存装置から仮設ユニットへ脳を移す日、リリスには作業区画の外で待ってもらうことになった。
「私も中にいたら駄目?」
「駄目」
「邪魔しないよ?」
「何か起きた時に、俺とスノーがあんたの顔色まで気にすることになるから駄目」
そこまで正直に言われると、リリスにも反論しづらかったらしい。
「終わったらすぐ呼ぶ?」
「絶対」
「……分かったよ」
ようやく彼女を外へ送り出すと、保存区画にはネイトとスノーホワイト、それに設備監視を担当する技術者だけが残った。作業そのものは派手なものではなく、古い保存設備と仮設ユニットの循環系を一時的に並列接続し、環境を急激に変化させないよう数値を揃えてから、少しずつ新しい装置側へ負担を移していく。
「循環、安定しています」
スノーホワイトの報告を受け、ネイトはPip-Boy側の数値と照合する。
「こっちも問題なし。供給を二割移す」
「はい」
数値が変わるたびに、二人は時間を置いた。急げばもっと短時間で終えられる作業なのかもしれないが、今回に限って時間を節約する理由など一つもない。何らかの異常が出れば即座に古い設備へ戻せる状態を維持したまま、四割、六割、八割と新しい循環系へ負担を移していった。
脳波にも代謝にも、大きな乱れは出ない。
最後に古い保存設備からの供給を完全に止めると、長い年月動き続けていたポンプの音が静かに消えた。今度は仮設ユニットだけが生命維持を担っており、十秒、二十秒と時間が過ぎても観測値は安定したままだった。
三十秒を越えたところで、スノーホワイトがようやく息を吐く。
「……成功、ですよね?」
「ああ。少なくとも、安全に移すところまでは来た」
ネイトも張り詰めていた肩から少し力を抜いた。
区画の扉を開けると、向こうには本当に同じ場所で待ち続けていたらしいリリスが立っていた。ネイトの顔を見た瞬間、何かを言われるより先に答えを探すような目をする。
「どう?」
「大丈夫だ。移送は成功した」
「よかった……」
その一言で、顔から目に見えて緊張が抜けた。
「ただし、今日は起こさない」
「えっ?」
安心したばかりの表情が固まる。
「でも、状態は安定してるんでしょ?」
「環境を変えた直後だぞ。最低でも一日は様子を見る。ここまで何年待ったんだよ。あと一日くらい待て」
リリスは明らかに名残惜しそうな顔で仮設ユニットを見た。それでも、自分が早く声を聞きたいという理由だけで危険を増やそうとはせず、最後には小さく頷く。
「……分かった。待つよ」
その返事を聞き、ネイトもそれ以上は何も言わなかった。
◇
翌日、覚醒試験を行う部屋へ入ったネイトは、予定していたより明らかに人数が多いことに気づいた。ゴッデスの指揮官、リリス、ドロシー、ラプンツェル、スノーホワイトに加え、レッドフードまで当然のような顔で待っている。
「……何で全員いるの?」
「俺は指揮官だ。ここまでの経緯を考えれば立ち会う」
指揮官が腕を組んだまま答える。
「状態に変化があった場合、私が必要になります」
ラプンツェルも穏やかに続けた。
「ゴッデスにも関係する事案ですから、私がいることにも問題はないでしょう」
ドロシーも当然という顔をしており、スノーホワイトに至っては胸を張った。
「私も一緒に作りました」
最後にレッドフードを見る。
「あたしは見物」
「帰れ」
「何であたしだけ!?」
「一番理由が弱い」
「ひでえな、男前!」
本人は抗議したものの、本気で追い出そうとする者もいなかった。
覚醒試験が始まると、さすがのレッドフードも静かになった。ネイトとスノーホワイトが外部から入る感覚情報を最低限の強さから段階的に上げ、ラプンツェルはその間ずっと生命活動と脳波を監視する。リリスは仮設ユニットのすぐ前に立っていたが、今度は一言も発さず、作業を妨げないようただ待っていた。
しばらくは何も起きなかった。
やがて、それまで単純な活動しか示していなかった波形に変化が現れた。外部から刺激を入れるごとに反応が複雑になり、正面へ取り付けたカメラがぎこちなく右から左へ動く。何度か焦点を探すように揺れた末、視線に相当する向きが正面で止まった。
「ネイトさん」
「見えてる」
スノーホワイトに小声で答え、ネイトも数値を確認する。
音声出力装置から、僅かなノイズが流れた。
誰も急かさない。
数秒後、そのノイズの中に掠れた声が混じった。
『……ここ……』
明瞭とは言い難かったが、機械が偶然作り出した音ではない。そこにいる一人の女性が、自分の意思で声を出していた。
リリスが慎重に呼びかける。
「聞こえる?」
カメラがゆっくりと動き、彼女の姿を捉えた。しばらく焦点を合わせようとする動きが続き、やがて再び音声装置から声が聞こえる。
『……リリ……ス?』
「うん。私だよ」
その瞬間、リリスの顔がくしゃりと崩れた。泣きそうになっているのに、それと同時にどうしようもなく嬉しそうに笑っている。
『どうして……私……』
声が途切れるたび、脳波にも細かな乱れが現れる。ラプンツェルが注意深く計器を見守る中、彼女は散らばった記憶を一つずつ拾い直すように言葉を続けた。
『失敗……した……身体が壊れて……私は、リリスみたいに……なれなくて……』
「ならなくていいよ」
リリスは仮設ユニットの前へしゃがみ込み、カメラと同じ高さまで顔を下げる。
『え……?』
「私みたいにならなくていい。前はちゃんと言えなかったね。あなたは私じゃないんだから」
『でも……私は、人類の希望に……』
「うん。なりたいって言ってたね」
リリスは一度だけ言葉を切った。目の前にいる相手へ、今度こそ伝え損ねないように言葉を選ぶ。
「でも、希望になるために死ななきゃいけないなら、そんなのおかしいよ」
仮設ユニットから、しばらく返事はなかった。
やがてカメラがリリスから離れ、ネイトを捉える。
『あなたは……誰?』
「ネイト・フォーリー」
「空から降ってきた変な男」
説明を始めるより先に、レッドフードが横から口を挟んだ。
「説明雑すぎない?」
『空から……?』
「そこは今度説明するよ」
カメラはまだネイトへ向いている。
『私を……助けたの?』
「俺一人じゃない。スノーホワイトもいるし、ここにいる連中も手を貸してる。それに、まだ途中だ」
『新しい……身体?』
「今は古い保存装置から安全な方へ移して、こうして話せるようになっただけだよ。これで終わりにするつもりはない」
少し間を置き、彼女は不安そうに尋ねる。
『また……リリスみたいな?』
「それはしない」
ネイトは迷わず答えた。
「前と同じ設計にしたら、同じことが起きる。今度は壊れない身体を作る」
『でも……弱くなる?』
「ああ。前より弱くする」
『それじゃ……役に立てないかも……』
その言葉に込められた恐れを感じても、ネイトは慰めるためだけに答えを変えなかった。
「生きてなきゃ、何の役にも立てないだろ。まず壊れない身体を作って、立って歩けるようにする。普通に生活できるところまで戻して、それでも戦いたいと思ったなら、その時に考えればいい」
『私が……決めるの?』
ネイトは逆に不思議そうな顔をした。
「他に誰が決めるんだ?」
少しの間を置いて、音声装置から小さな笑い声が漏れた。
『……変な人』
「最近それ、よく言われるよ」
張り詰めていた室内の空気が、そこでようやく少しだけ和らいだ。
◇
新しい身体の設計で、ネイトが最優先したのは戦闘能力ではなかった。
モデルナンバー1に何が起きたのかについて、今度は詳細な記録を読むことができた。彼女の身体にはリリスを再現することを優先した高い出力が与えられていたものの、それを受け止める側の構造が十分ではなかった。強い力を使うほど負荷が蓄積し、戦えば戦うほど身体そのものが壊れていったのであれば、二度目の身体へ同じ思想を持ち込む理由はない。
最大出力には最初から制限を掛け、フレーム強度や冷却性能には十分な余裕を取る。一瞬だけ極端な力を出せる身体ではなく、長時間動かしても安定している身体を作るという方針だった。
それが、設計図を一緒に見ているスノーホワイトには少し物足りないらしい。
「このフレームなら、もう少し出力を上げても大丈夫だと思います」
「駄目」
「十パーセントくらいなら余裕があります」
「駄目」
「じゃあ五パーセントは?」
「駄目」
ネイトは作業を止めて、少女を見る。
「まだ交渉するの?」
「だって、せっかく作るなら少しでもいいものにしたいじゃないですか」
「その考えで一回壊れてるんだぞ」
言われた瞬間、スノーホワイトの表情が変わった。
「……そうですね」
ようやく諦めたかと思えば、数秒後には設計図を見ながら小さく呟く。
「三パーセント……」
「意外と粘るな」
「頑固じゃありません。ちゃんと計算してるんです!」
横で聞いていたリリスが堪えきれず笑う。
「スノーホワイト、こういう時は頑固だからね」
「リリスお姉ちゃんまで!」
その呼び方を聞いたネイトは、二人を見比べた。
「やっぱり『お姉ちゃん』なんだな」
スノーホワイトの頬へ僅かに赤みが差す。
「……何か変ですか?」
「いや。似合ってるよ」
「ならいいです」
少し嬉しそうに答えるあたり、本人もその呼び方をやめたいわけではないらしい。
最終的には、実際の挙動を確認しながら安全な範囲で微調整できる余地だけを残し、最初の設定には十分な余裕を取ることで決着した。
次の問題は、身体そのものをどう用意するかだった。完全に一から製造するには時間も設備も必要になるため、別の方法を考えていたところへ、ゴッデスの指揮官が一枚の書類を持ってきた。
「今日、試験フレームが一基廃棄される」
「何を言ってる。廃棄するんだぞ」
「じゃあ使えないだろ」
指揮官は平然とした顔をしている。
「廃棄された後、そいつがどこへ行ったかまで俺は知らん」
数秒ほど考え、その言葉の意味を理解したネイトは思わず笑った。
「思ったより悪い奴だな」
「お前には言われたくない」
その横で書類を読んでいたドロシーは、二人ほど楽しそうな顔をしていなかった。
「指揮官。これは公文書の改竄に当たるのでは?」
「廃棄するという記録自体は正しいぞ」
「その実物を後ほど利用するのでしょう?」
「俺は知らないな」
ドロシーはしばらく彼の顔を見ていたが、やがて書類を閉じて上品に微笑んだ。
「そうですか。でしたら、私も何も見ていません」
ネイトは今度こそ声を上げて笑った。
「お前も結構悪いな」
「何のお話でしょう?」
こうして公式記録上では正しく廃棄された試験用フレームが、数日後には大幅な改修を受け、まったく別の身体として作業区画へ横たわることになった。
◇
身体が完成へ近づくにつれ、別の問題が浮かび上がった。
これまで彼女を呼ぶ時には「モデルナンバー1」という番号を使っていたが、本人はその呼び方を聞くたびに僅かな抵抗を示すようになっている。
『モデルナンバー1って呼ばれると、また一番にならなきゃいけないような気がするから』
作業台で部品を確認していたネイトは、その言葉を聞いて顔を上げた。
「なら使わなきゃいいだろ」
仮設ユニットのカメラがネイトへ向く。
『そんな簡単に?』
「簡単かどうかは、あんたが決めることじゃないか。嫌なら別の呼び方にすればいい」
「ただし、整備記録に使う識別名称は必要です」
ドロシーが現実的な問題を付け加える。
「新しいボディを完全な無記名で管理することはできません」
「じゃあ、ゼロでいいんじゃないか」
『ゼロ?』
「一番をもう一度やり直すんじゃなくて、ゼロから始めるってことで」
ドロシーは少し考えたものの、すぐには賛成しなかった。
「フェアリーテールモデルに、そのような正式番号はありません」
「正式じゃなくてもいいんじゃないですか」
意外にも、スノーホワイトがネイトの側へ付いた。
「私たちだけが整備管理に使う非公式の識別名なら、新しく始める感じがして、私はいいと思います」
「ロストナンバーなんて呼ぶより景気いいじゃん」
レッドフードも気楽に笑う。
「あなたはもう少し真剣に考えてください」
「真剣だって、お嬢サマ」
「その呼び方をやめてください」
正式なフェアリーテールモデルの番号にはできなくても、ゴッデス内部の整備管理に使う仮の識別名としてなら問題はない。そうしてMODEL No.0という呼び方は残ることになったものの、それはあくまで機体を管理するための記号であり、本人自身の名前ではなかった。
そこでリリスが持ち込んできたのが、何冊かの古い童話集だった。
「フェアリーテールモデルなんだから、物語から名前を取るのも悪くないかなって」
本人が二度目の人生に使う名前なら、その中から自分で選んでもいい。そう提案され、彼女は新しい身体が完成するまでの間、リリスと一緒にいくつもの物語を読むようになった。
ある日、一冊の中に収められていた物語で、仮設ユニットのカメラが止まった。
そこに描かれていたのは、長い年月を暗い塔へ閉じ込められていた王女だった。王女は侍女と共に誰かが助けへ来るのを待ち続けたものの、食料が尽きかけても迎えは来なかった。そこで二人は待つことをやめ、手元にある道具で漆喰を削り、石を外し、最後には自分たちの力で塔の外へ出ていった。
『ずっと待ってたのに、誰も助けに来なかったんだね』
「そうだね」
『それでも、最後は自分で外へ出た』
カメラはしばらく開かれた頁を見つめていた。
やがて、そこに書かれた名前を自分の声で読む。
『……マレーン』
リリスが微笑んだ。
「気に入った?」
『うん』
少し間を置いて、本人がはっきりと続ける。
『私、マレーンがいい』
リリスは確かめるように、もう一度その名前を呼んだ。
「マレーン」
『うん』
返ってきた声には、それまでとは少し違う嬉しさが混じっていた。モデルナンバー1でも、ロストナンバーでもなく、誰かが失敗を示すために付けた呼び名でもない。いくつもの物語を読んだ末、本人が初めて自分自身のために選んだ名前だった。
◇
新しい身体への移植を終え、十分な経過観察を行ったあと、マレーンは自分の目を開いた。
最初に見えたのは作業区画の白い天井だった。何度か瞬きを繰り返したあと、右手をゆっくり持ち上げ、五本の指を開いては握り、もう一度開く。仮設ユニットのカメラ越しではなく、自分自身の身体から伸びた手がそこにあることを実感するまで、しばらく時間が必要だった。
「……手。私の手だ」
今度の声は、スピーカーから聞こえてくるものではなかった。
ベッドの傍らで待っていたリリスが笑う。
「おかえり」
マレーンはその顔を見つめ、少し戸惑ったように笑い返した。
「……ただいま」
ネイトとスノーホワイトはすぐに身体の状態を確認した。感覚入力、四肢の制御、循環、コア出力のいずれにも目立った異常はなく、横になっている状態で危険な負荷が掛かっている様子もない。
次は、立つことだった。
マレーンがベッドの端へ腰掛けて両足を床へ下ろすと、ネイトとリリスが左右へ立った。本人はそこまでしなくてもいいと言いたげな顔をしたが、最初くらいは付き合ってもらうしかない。
「ゆっくりな」
「分かってる」
床へ両足を置き、少しずつ力を掛ける。
身体が起き上がり、一瞬だけ重心が揺れた。リリスが反射的に手を出しかけたものの、マレーンは自分で姿勢を立て直し、そのまま一歩目を踏み出す。
「歩ける」
「そりゃ歩けるように作ったからな」
「もう少し感動してよ」
「俺は横で数値見てるから、それどころじゃないんだよ」
一歩目で問題がないことを確かめ、二歩目へ進む。
マレーンは何度か足元を見てから、今度は右手を強く握り込んだ。
「……弱い」
「それで身体が壊れたんだろ」
「ネイト。言い方」
横からリリスが軽く睨む。
「だって、前はもっと力があったから」
「事実だよ」
マレーン自身も一瞬だけ不満そうな顔をしたものの、やがて以前のことを思い出したように小さく笑った。
「……うん。そうだった」
もう一度手を握り、今度はゆっくりと開く。
「でも、痛くない」
その言葉を聞くと、ネイトもリリスもすぐには返事をしなかった。
以前の身体では、強い力を使うことが自分自身を傷つけることと同じだった。それでも「人類の希望」になるために必要なら耐えるべきだと、本人も思い込んでいたのかもしれない。今の身体は以前より弱くても、ただ立つだけで傷つくことはなく、一歩歩くたびに自分が壊れていく恐怖もない。
マレーンはもう一歩進み、今度は少し嬉しそうに尋ねた。
「歩いても壊れない?」
「壊れない」
「走っても?」
「まず歩くのに慣れてから」
「戦っても?」
「それはもっと後」
「厳しいなあ」
「前の身体で一回死にかけてるんだぞ。今度くらい慎重にやらせてくれ」
「私は悪くないんだけど」
「それは知ってる。だから今度は、身体を作る側が慎重になるんだよ」
その返事を聞いて、マレーンは少し目を丸くしたあと、納得したように表情を和らげた。
一人で歩けることが分かると、彼女は部屋の中を何度も往復し始めた。最初は一歩ごとに足運びを確かめていたが、慣れてくるにつれて少しずつ速度も上がっていく。時折重心を崩すことはあっても身体の数値に危険な変化はなく、何度歩いても壊れないという当たり前の事実を、本人だけは一歩ずつ確かめているようだった。
しばらくしてベッドの近くまで戻ると、マレーンはネイトへ顔を向ける。
「ネイト」
「何?」
「私、人類の希望になれるかな」
かつてモデルナンバー1だった頃から、最後まで手放すことのできなかった願いなのだろう。
ネイトは安易に肯定せず、少し考えてから答えた。
「分からない」
マレーンが不満そうな顔をする。
「そこは『なれる』って言ってくれるところじゃないの?」
「まず生きろ」
今度の答えには迷わなかった。
「自分の人生を生きて、その結果を見た誰かが勝手に『あいつは希望だ』って思ったなら、それでいいんじゃないか。希望だの英雄だのは、自分で名乗るもんじゃないだろ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「今言っただろ。まず生きろ」
しばらく考えたあと、マレーンは小さく笑った。
「……やっぱり変な人」
「それ、もう何回目だ?」
「数えてるの?」
「暇だったから」
「嘘」
「バレた?」
マレーンが吹き出し、隣にいたリリスもつられて笑う。
少し離れた場所では、スノーホワイトが完成した新しい身体を先ほどから熱心に観察していた。その視線へ気づいたマレーンがそちらを見ると、少女は待っていましたとばかりに口を開く。
「マレーン。あとで身体の調整をさせてもらってもいいですか?」
「分解する?」
「しません!」
ネイトも横からスノーホワイトを見る。
「本当に?」
「ネイトさんまで何なんですか!」
「Pip-Boyの前例があるからな」
「あれは見るだけです!」
「分解しようとしてたじゃないか」
「まだしてません!」
言った直後、スノーホワイト自身が失言に気づいた。
「あっ……」
「『まだ』って言ったな?」
ネイトが笑うより先に、レッドフードが堪えきれなくなった。
「はっはっは! おちびちゃん、自分で墓穴掘ってんじゃん!」
「笑わないでください!」
「スノー、男前の腕ごと持ってくなよ?」
「持っていきません!」
ドロシーは呆れながらも口元を僅かに緩め、ラプンツェルも穏やかに笑っている。リリスまで声を上げて笑い始めると、その輪の中にいるマレーンも自然と笑った。
公式記録の上では、フェアリーテールモデル・モデルナンバー1は死亡したままだった。その記録を書き換えたわけでもなく、過去に身体が壊れた事実がなくなったわけでもない。
けれど、記録とは別の場所では、一人のニケが新しい身体へ慣れるために自分の足で何度も同じ部屋を歩いていた。彼女の名前はマレーンであり、リリスを再現するために与えられた番号でも、失敗を示す呼び名でもなく、本人が自分で選んだ名前だった。
これから何者になるのかも、再び戦うのかどうかも、今ここで決める必要はない。昨日まで死者として扱われていた女性が今は笑い、自分の名前を持ち、自分の足で歩いているのだから、まずはそれで十分だった。