Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
復活ライブ当日の朝、フリージアは予定より早く身支度を終えた。
鏡の前に座り、まだステージ用の化粧を施していない顔をしばらく眺める。プリティーとして人前へ立つようになってから何度も繰り返してきた朝だったが、今日だけは髪の下に隠れた頭部外装の感触が妙に気になった。
見た目は以前と何も変わらない。触れてみても継ぎ目すら分からないが、その内側にはエイブが何度も設計をやり直した犠牲区画が組み込まれている。想定した方向から弾丸を受けた場合、外装を大きく破壊させながら弾道を脳収納部から逸らし、同時に主要系統を停止させるための仕組みだった。
もちろん、万能ではない。
守れる角度は限られており、想定以上の威力なら貫通する可能性もある。何より、銃撃そのものが起きるかどうかさえ誰にも分からない。
最後に頼ることになるのは、自分自身だった。
「……出来る」
鏡へ向かって呟く。
その声を聞いたのか、部屋の入口からオスワルドが顔を出した。
「何がだ?」
「独り言」
「今日に限っては気になるな」
フリージアが振り向くと、父はいつも通りの服装をしていた。それでも普段より落ち着かないのは隠せておらず、手元の端末を確認しては意味もなく画面を閉じている。
「怖いか?」
オスワルドは誤魔化さずに尋ねた。
フリージアも、今回は強がらなかった。
「少し」
「なら、やめてもいい」
「お父さんまで同じこと言うの?」
「父親だから言っている。ハンソンやミセス・ミスとは立場が違う」
「ネイトとエイブにも言われた」
「なら四対一だな」
「数で決めないでよ」
思わず笑うと、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。オスワルドもそれを見て安心したようだったが、それ以上ライブを止めようとはしなかった。
フリージアが自分で決めたことだと、もう分かっている。
「今日は来ないでね」
「……会場へ?」
「うん」
「どうしてだ?」
「お父さんが見てるって分かったら緊張するから」
「昔はそんなことを言わなかっただろう」
「昔より大きい会場なの。それに配信でも見られるでしょ?」
オスワルドはしばらく不満そうにしていたが、最後には諦めたように頷いた。
「分かった。家で見る」
「本当に?」
「ああ」
フリージアは父親の顔を覗き込んだものの、そこに嘘を見つけることは出来なかった。
少なくとも、この時点ではオスワルド自身も本当にそのつもりだった。
「じゃあ、終わったら帰ってくる」
「遅くなっても構わない」
「待ってる?」
「当然だ」
以前なら、このライブを最後にするつもりだった。
その先の予定など必要ないと思っていた。
今は、帰宅した後の約束がある。
フリージアは立ち上がり、仕上がった衣装をもう一度確認すると、玄関へ向かった。
「お父さん」
「何だ?」
「行ってきます」
オスワルドの表情が柔らかくなる。
「行ってらっしゃい」
フリージアは笑って家を出た。
◇
それから一時間も経たないうちに、オスワルドは自分の言葉を後悔し始めていた。
仕事をしようと端末を開いても、文章が頭へ入ってこない。ライブ開始までの残り時間ばかり気になり、立ち上がっては部屋を歩き、また座るという意味のない行動を繰り返していた。
やがて机の引き出しを開く。
古い革手袋が、大切に保管されている。
かつてレッドフードから幼いフリージアへ渡され、後に自分が保護者となった礼として贈られたものだった。表面には年月が刻まれているものの、サインは今でも読める。
オスワルドは手袋へ触れたまま、深く息を吐いた。
「……無理だ」
家で待つと約束した。
配信でも見られる。
理屈では十分だ。
それでも、自分の娘が人生最大の舞台へ立つというのに、家で端末を眺めていられるほど器用な父親ではなかった。
コートを手に取る。
「見るだけだ」
誰もいない部屋で言い訳した。
「気づかれなければ、緊張させることもない」
約束を守っていることにはならない。
本人も、それくらいは分かっていた。
◇
アークリアンホール周辺は、開場前から人で埋まり始めていた。
一般販売分のチケットはすでに完売し、ニケ向けに設けられた無料入場枠にも長い列が出来ている。これまでプリティーが行ってきたどのイベントよりも規模が大きく、警備員だけでなく医療班や避難誘導担当まで大幅に増員されていた。
ネイトはスタッフ用通路から観客の流れを確認し、西側通路の警備担当と短く話してからPip-Boyへ視線を落とした。
RETURN:STANDBY
表示されている文字は、それだけだった。
プリティーの犠牲区画に想定以上の衝撃が入れば、頭部内のシステムから状態が送られる。そこから主要系統を停止し、脳だけを独立した生命維持系へ切り替えるところまでは自動だが、その後は人の手で回収しなければならない。
成功する保証はない。
だからこそ、ネイトは今日まで一度も「大丈夫」とは言わなかった。
『西側、問題ないか?』
小型通信機からエイブの声が聞こえる。
「今のところは。そっちは?」
『待機中だ。何も起きないのが一番いい』
「同感」
『お前、変に期待してないだろうな』
「するわけないだろ」
短く答えて通信を切る。
その直後、背後から聞き慣れた声がした。
「難しい顔してる」
振り向くと、ステージ衣装を着たプリティーが立っていた。
すでに髪も化粧も完璧に整えられ、そこにいるのはアーク中が知るスターそのものだった。頭部に危険な仕掛けを抱えていることなど、事情を知らなければ想像も出来ない。
「主役がこんなところまで来ていいのか?」
「正式なファンへの挨拶」
「何回目だっけ」
「十二回目」
「十一じゃなかった?」
「今日の分で十二」
「ライブ始まってないぞ」
「来場した時点で一回」
「判定が甘くなってない?」
「ファンサービスよ」
プリティーが笑う。
ネイトもつられて少し笑ったが、すぐに表情を戻した。
「最後にもう一度だけ確認する」
「やめない」
「まだ聞いてない」
「どうせ同じことでしょ」
ネイトは否定しなかった。
「怖くなったら避けろ。何も起きなかったら、普通にライブを終えて帰る。計画を成立させるために、自分から危険を探したりもしない」
「分かってる」
「弾が見えて、避けたいと思ったら?」
「避ける」
返事は以前より自然だった。
「それから?」
今度はプリティーの方から問い返した。
「それから?」
「ちゃんと帰ってくる、でしょ?」
ネイトは少しだけ目を細めた。
「ああ」
「だから待ってて」
「百回まで?」
「あと八十八回」
「先が長いな」
「長生きしてよね」
「努力する」
スタッフが遠くからプリティーを呼んだ。
彼女は手を上げて返事をすると、一歩後ろへ下がる。
「行ってきます」
「行ってこい」
プリティーはステージへ続く通路へ消えていった。
ネイトはその姿が見えなくなってから、もう一度Pip-Boyへ視線を落とした。
RETURN:STANDBY
表示は変わっていない。
変わらないまま一日が終わってくれればいい。
本気でそう思った。
◇
アニスが自分の席へ着いたのは、開演の少し前だった。
手にしているチケットは、自分一人では到底用意出来なかったものだ。クラスメートたちが金を出し合い、半ば押しつけるような形で渡してくれた時には何度も遠慮したが、最後には根負けした。
今では、来てよかったと思っている。
周囲にはプリティーの名前を口にする人間が大勢いて、その中にはニケも混じっている。誰も不自然に距離を取らず、これから同じステージを見る観客として並んでいた。
照明が落ちた。
巨大な会場が暗闇に包まれ、次の瞬間にはステージ中央へ光が集まる。
プリティーが現れた。
歓声が一斉に上がり、空気そのものが震えたように感じられた。
「……すごい」
アニスは思わず呟いた。
公園のベンチで話した時とは、まるで別人のように見える。
けれど同じ人だ。
疲れた顔で自分の話を聞いてくれた女性も、大勢に向かって笑いながら歌うスターも、どちらもプリティーだった。
最初の曲が始まる。
アニスはいつの間にか、周囲と一緒に手を振っていた。
◇
フリージアにとっても、その日のステージは特別だった。
客席の奥まで見える。
人間がいる。
ニケもいる。
隣り合って笑い、同じ歌へ手を振っている。
自分がずっと見たかった光景だった。
誰かに命令されたからではない。
キャンペーンとして無理に座らされたわけでもない。
ここへ来たいと思った者たちが、自分の意思で同じ場所へ集まっている。
歌を終えるたびに歓声が返ってくる。
以前のフリージアなら、この光景を最後にしてもいいと思っていた。
最も輝いた瞬間でプリティーを止め、それがニケを見る人々の目を変えるなら、自分自身の未来は必要ないと考えていた。
今は違う。
この先も見たい。
アニスがいつか何かを始めるなら、それも見てみたい。
ネイトを本当に百回来させるのも悪くない。
そして家へ帰って、今日のライブを父親へ自慢したい。
生きたい。
その気持ちは、以前よりずっとはっきりしていた。
だからこそ、今日何事も起こらないことを心から願っていた。
◇
オスワルドは会場後方の席に紛れていた。
帽子を深く被り、人目につかない服装を選んでいる。フリージアがステージから客席を見渡したとしても、自分まで見つけるのは難しい位置だった。
それでも、ステージは十分に見えた。
娘が笑っている。
幼い頃、レッドフードに憧れ、自分もニケになりたいと言っていた少女が、今は大勢の人間とニケから憧れられる側に立っている。
オスワルドは眼鏡の位置を直すふりをして、目元へ指を当てた。
「……来てよかった」
約束を破ったことについては、後で怒られればいい。
そんなことを考えられる程度には、幸せな時間だった。
◇
ライブが終盤へ入り、最後の曲が始まった頃だった。
アニスは周囲と一緒にステージへ向かっていた視線を、ふと別の方向へ向けた。
きっかけは小さな金属音だった。
音響設備から出たものではない。すぐ近くで何か硬いもの同士が触れたような音だった。
三人の男がいた。
そのうち一人が、周囲から隠すように何かを持っている。
最初は何なのか分からなかった。
しかし、その手が上がった瞬間に形を理解した。
銃。
銃口の先にはステージがある。
プリティーがいる。
「駄目!」
考えるより先に身体が動いた。
アニスは前にいた観客の間を抜け、銃を持った男へ飛びついた。突然横から体当たりを受けた男が体勢を崩し、銃口が一瞬大きく逸れる。
「何だ、こいつ!」
「やめて!」
腕へしがみついた。
男は振り払おうとするが、アニスも離さない。すぐ近くにいた別の男がこちらへ身体を向け、その腕が大きく振り上げられた。
強い衝撃が頭部へ入った。
視界が揺れる。
床へ倒れながらも、遠くから銃声が聞こえた。
その先を認識する前に、アニスの意識は途切れた。
◇
フリージアには、その弾丸が見えていた。
銃口が向けられた瞬間に気づいたわけではない。それでも発砲された直後には、何が自分へ向かってきているのかをはっきり認識出来た。
弾道は頸部へ向かっている。
周囲の時間が引き延ばされたように感じられ、自分だけがその中で普段と変わらず考えられる。ほんの少し身体を引けば回避出来ることも、そのために必要な動きも、ほとんど直感的に理解出来た。
エイブが測定した数値は間違っていなかった。
自分には、避ける時間がある。
以前の自分なら、ここで別の選択をしていた。
致命傷になる位置へ自分から身体を動かし、プリティーという星を最も輝いた瞬間に止める。その覚悟まで、すでに済ませていた。
けれど今は、その先を知っている。
家で待っている父親がいる。
ハンソンにも、ミセス・ミスにも、まだ言えていないことがある。
アニスにも会いたい。
ネイトとの約束も残っている。
『生きたいと思ったなら、生きる方を選べ』
エイブの声が蘇った。
『帰ってこい』
ネイトの言葉も思い出す。
フリージアは、飛んでくる弾丸から逃げなかった。
しかし、死ぬために急所を差し出したわけでもない。
頭部側面に設けられた、わずかな犠牲区画へ弾道が通るよう、身体の位置を僅かに変える。
「……帰る」
声は音楽に掻き消され、誰にも届かなかった。
直後、頭部へ凄まじい衝撃が走った。
外装が砕け、視界が白く染まる。弾丸は犠牲区画へ入り、内部構造を破壊しながら想定された方向へ逸れていった。
脳収納部への直撃はない。
その情報を認識するより早く、RETURNが作動した。
外部へ接続された主要系統が強制的に停止し、身体から一気に力が抜ける。倒れていくステージの床を最後まで見ることは出来なかった。
フリージアの意識は、補助生命維持系へ切り替わると同時に暗闇へ沈んだ。
◇
歓声は、一瞬で悲鳴に変わった。
銃声を聞いた観客の一部が出口へ走り始め、それを見た者たちが理由も分からないまま続く。転倒した人間を避けようとして別の者がぶつかり、人の流れが複数の方向へ裂け始めた。
「走るな! 出口は一つじゃない!」
ネイトはステージではなく、最初に観客側へ向かった。
プリティーの元へ行きたい。
それでも、目の前ではすでに群衆事故が始まりかけている。
「西側を開けろ! 柵を外せ!」
スタッフへ指示を飛ばしながら、倒れた観客を立たせる。途中でPip-Boyが強く振動した。
画面を開く。
RETURN:ACTIVE
SACRIFICE ZONE:BREACHED
BRAIN CRADLE:FUNCTIONING
PRIMARY SYSTEM:SHUTDOWN
ネイトは数秒だけ息を止めた。
生きている。
少なくとも、今は。
しかしそれは成功を意味しない。脳への衝撃、生命維持装置の損傷、回収までに掛かる時間、そのどれか一つで状況は変わる。
「ネイト!」
スタッフの声に顔を上げる。
「こっちにも倒れてる人がいます!」
「医療班は?」
「足りません!」
ネイトはPip-Boyを閉じた。
今、自分に出来ることをする。
それしかなかった。
少し離れた場所では、若い少女が床へ倒れていた。別の医療担当がすでに駆け寄っており、ネイトはその隣で動けなくなっていた負傷者を抱き上げる。
少女の名前は知らない。
彼女が公園でプリティーと出会ったアニスだということも、この時のネイトには分からなかった。
◇
オスワルドは人の流れへ逆らって進んでいた。
「どいてくれ!」
肩がぶつかり、何度も足を取られそうになる。それでもステージから目を離さなかった。
娘が倒れている。
頭部から赤い液体が広がっている。
「フリージア!」
その名前を叫んだ時、近くにいた何人かが振り向いた。
もう気にする余裕はなかった。
警備員が止めるより早く関係者用の通路へ入り、ステージへ上がる。以前の仕事で使っていた身分情報が、こんな場面で役に立つとは思わなかった。
「フリージア!」
倒れた身体を抱き起こす。
反応がない。
頭部の損傷を見れば、何が起きたのかは嫌でも分かる。
「嘘だろ……」
朝、自分へ笑っていた。
終わったら帰ってくると言った。
その娘が腕の中で全く動かない。
「帰ってくるって、言ったじゃないか」
声が震えた。
返事はなかった。
やがてオスワルドの目が、傷の位置へ止まった。
銃撃の瞬間を直接見ていた。
もともとの射線は、今弾丸が入った位置とは僅かに違っていたはずだ。
あのフリージアなら。
異常なほど高い身体能力を持つ娘なら、弾丸そのものを認識していた可能性がある。
避けられたのではないか。
なのに、頭部へ当たっている。
「……お前」
オスワルドの中で、一つの答えが形になった。
最も輝いた瞬間に。
プリティーという象徴を永遠に残すために。
娘は自分で選んだのではないか。
「そんなことまで……」
真実とは少しだけ違う。
けれど、RETURNの存在を知らないオスワルドが別の結論へ辿り着くことは出来なかった。
娘の身体を抱き締める。
人目を気にする余裕も、声を抑える余裕もなかった。
◇
ハンソンがステージへ辿り着いた時には、すでに医療班がプリティーを運び始めていた。
「待ってください!」
止めようとするスタッフを振り切り、搬送台の横へ並ぶ。
「状態は?」
医療担当はすぐには答えなかった。
「もう一度確認します。だから――」
「今の状態を教えてください」
声だけは冷静だった。
その顔を見て、担当者も曖昧には出来ないと判断した。
「主要機能の反応がありません。通常の脳活動も検出出来ていません」
「まだ確定ではないんですね」
「処置室で再確認します」
「お願いします」
それ以上は何も言わなかった。
言えなかった。
搬送台が通路の先へ消えていくまで、ハンソンはその場から動けなかった。
◇
正式な死亡判定が出たのは、それから間もなくのことだった。
頭部への銃創。
主要機能停止。
外部から検出出来る脳活動なし。
プリティーは死亡した。
通常の診断結果だけを見れば、疑う理由は何もない。
「もう一度、お願いします」
ハンソンは再検査を求めた。
医療担当は応じた。
結果は変わらなかった。
ミセス・ミスは少し離れた場所に立ち、何も言わずにそれを見ていた。
彼女だけは、死亡判定が計画の一部であることを知っている。
だからといって安心出来るわけではない。
フリージアが本当に犠牲区画へ当てられたのか。
脳は無事なのか。
補助生命維持系は動いているのか。
この先の回収が間に合うのか。
何一つ、ここからでは確認出来なかった。
「……プリティー」
ハンソンが小さく名前を呼んだ。
ミセス・ミスは、その声を聞いて唇を噛んだ。
計画を知る自分でさえ怖い。
何も知らない彼が何を感じているのかを考えると、真実を口にしたくなる。
それでも、約束を破ることは出来なかった。
◇
その日のうちに、アーク中へ速報が流れた。
復活ライブの最中、プリティーが銃撃を受け死亡。
犯行に関わったニケフォビアの三人は、事件後に拘束された。
会場では銃撃直後の混乱によって群衆事故も発生し、多数の負傷者と五名の死者が確認された。
大型スクリーンも家庭用端末も、同じ映像を繰り返している。
最も輝いていた瞬間に倒れた、アークの星。
人間もニケも、そのニュースを見た。
プリティーを愛していた者だけではない。彼女を嫌っていた者も、それまでニケそのものへ関心を持たなかった者も、同じ事件を目にしている。
なぜ彼女が撃たれたのか。
何を訴えていたのか。
ニケであるというだけで憎悪を向けられ、その結果として一人のスターが殺されたという事実を、誰も簡単には無視出来なくなっていた。
◇
プリティーのボディが正式な検査と事件処理を終え、テトラ側の管理へ戻された頃には、日付が変わろうとしていた。
ミセス・ミスは、外装保存と最終整備を理由に一つの処置室を確保していた。入室出来る者は限定され、監視設備も正規の保守作業として短時間だけ切り離される。
扉が閉じる。
奥の保守口から、グレイブの大きな身体が入ってきた。
「時間は?」
エイブが尋ねる。
「十五分。その後は保管区画へ移すわ」
「十分だ」
ミセス・ミスは搬送台の上に横たわるプリティーを見た。
「……本当に生きてる?」
「確認するまで断言しない」
エイブは余計な慰めを口にせず、頭部の損傷状態を調べ始めた。
数秒後。
「犠牲区画には入ってる」
ミセス・ミスの肩が僅かに下がった。
「脳は?」
「待て」
エイブは事前に設けていた頭部背面の緊急開放部へアクセスし、内部の接続を一つずつ確認する。ネイトも保守口から入ってきたが、専門作業へ手を出さず、指示された生命維持装置や搬送容器の準備だけを進めた。
「ネイト」
「ここにいる」
「補助循環、数値読め」
Pip-Boyと装置を接続する。
表示された値を読み上げると、エイブはようやく短く息を吐いた。
「生きてる」
ネイトの手が止まった。
「本当に?」
「脳活動あり。弾丸の直撃もない。ただし衝撃は入ってる。早く移すぞ」
安堵するには、まだ早い。
それでもネイトは一度だけ目を閉じた。
「よかった」
「だからまだ言うな」
「分かってる」
作業を続ける。
頭部内部の小型生命維持クレードルを切り離し、フリージアの脳を独立した搬送容器へ移す。そこから新しい身体へ接続するまで、補助循環を止めることは出来ない。
旧ボディには、事前に用意していた損傷再現用の内部材を戻した。銃撃によって破壊された頭部として見た場合に不自然な空洞が残らないよう、外側から分からない範囲を整えていく。
その身体そのものを持ち去ることはしない。
プリティーの遺体は、プリティーの遺体として残す。
ミセス・ミスは、脳を収めた搬送容器と旧ボディを交互に見た。
「これで」
声が僅かに震えた。
「プリティーは、本当にここに残るのね」
ネイトには返せる言葉がなかった。
エイブが代わりに答える。
「ああ」
ミセス・ミスは目を閉じた。
「フリージアは?」
エイブは搬送容器をグレイブの腕へ固定しながら答えた。
「これから助ける」
◇
ミセス・ミスと別れた後、ネイトとエイブは事前に確保していた搬送路を使って処置室を離れた。
外見上は廃棄設備の回収車にしか見えない車両へ生命維持容器を収め、アークの街を抜けていく。
通りに設置された大型画面では、今もプリティー死亡のニュースが流れていた。
花を抱えて立ち止まっている人間がいる。
泣いているニケもいる。
ネイトは運転席からそれを見ながら、何度も後部の状態表示を確認した。
「前見ろ」
エイブから通信が入る。
「見てるよ」
「三秒前まで横見てただろ」
「そっちも見えてるの?」
「車内カメラ」
「消しとけばよかった」
「事故ったら脳ごと終わる。真面目に運転しろ」
怒られながらも、少しだけ気持ちが楽になった。
エイブがいつも通りの調子でいる。
つまり少なくとも今すぐフリージアが死にそうな状態ではない。
そう信じたかった。
◇
向かった先は、Vault-Nではなかった。
プリティーほど有名な存在を救出した直後に秘密施設へ直接運び込むことを避けるため、エイブが事前に整備しておいた小規模施設を使用する。人目の少ない地上寄りの場所にあり、設備は最低限だが、脳移植を行うための環境だけは整えられていた。
中央の処置台には、新しいボディが横たわっている。
プリティーの身体をそのまま複製したものではない。
本人が目覚めて鏡を見た時に「自分ではない」と感じない程度には面影を残しながら、外部識別情報も内部規格も別物として作られている。何より、今後プリティーの遺体が調査された場合に同一の製造個体が二つ存在する状態にはならないよう設計されていた。
「始める」
エイブが生命維持容器を処置台の横へ固定する。
ネイトも近づいた。
「俺は?」
「必要な物を渡せ。それ以外は触るな」
「了解」
「特に脳には絶対触るな」
「分かってるって」
「念のためだ」
ネイトは少し離れた位置へ立った。
そこから先は、エイブの領域だった。
十四年間、シンデレラを探し続けた技術者。
その後も彼女の新しい身体を作り、リリスのための器を研究し続けている者。
フリージアを救うための作業まで、ネイトが横から奪う理由は一つもない。
エイブは生命維持クレードルを開き、新しい身体との接続を始めた。
一本ずつ。
神経接続を確認し、循環を移行し、脳が新たな器を拒絶していないかを測定する。
ネイトに出来ることは、求められた機材を渡し、表示された補助装置の値を読み上げるくらいだった。
長い時間が過ぎた。
途中からネイトは時計を見ることもやめた。
やがてエイブの手が止まる。
「接続完了」
新しいボディへ電力が流れ始めた。
各部の状態表示が順番に立ち上がる。
最後に脳波モニターが反応した。
弱い。
しかし、消えてはいない。
「エイブ」
「見えてる」
波形がもう一度動く。
先ほどより少し強い。
「起こせる?」
「今は起こさない。脳への衝撃がある。数日安定させる」
「どれくらい?」
「分からない」
ネイトは壁へ背を預けた。
「最近、その答えばっかり聞いてるな」
「医学と工学に絶対を求めるな」
「はいはい」
エイブはモニターから目を離さない。
ネイトも新しい身体を見た。
アークでは今夜、一つの星が死んだ。
それは、ただの演技ではない。
プリティーという名前でステージへ立ち、何万人から歓声を浴びる人生には、もう戻れない。ハンソンは彼女を失ったと思っている。オスワルドも、娘を腕の中で看取ったと信じている。
しかも会場では、プリティーとは別に本当の死者まで出ている。
この結果を、都合のいい大団円と呼ぶことは出来なかった。
それでも脳波は動いていた。
死ぬためではなく、生きて帰るために選んだ道の先で、フリージアはまだ生きている。
ネイトはモニターに残る小さな波形を見ながら、本人へはまだ届かない言葉を静かに口にした。
「おかえり」
返事はない。
今は、それでよかった。