Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
フリージアが最初に感じたのは、自分の身体が自分のものではないような違和感だった。
意識はある。目を開けたいと思えば瞼が動き、指を曲げようとすれば手も反応する。それなのに、長いあいだ使い続けてきた身体とは重心が微妙に違い、呼吸を模した胸部の動きも、関節から返ってくる感覚も、どこか一枚薄い膜を挟んでいるように感じられた。ニケになった時にも似た経験はしたはずだったが、あの頃の記憶より今回はずっと鮮明だった。
「……プリティー」
自分の名前を呼ぼうとして、声が掠れた。
「起きた」
別の声が返ってきた。
視界が少しずつ焦点を結び、最初に見えたのは大柄なグレイブの身体だった。エイブが診察装置へ視線を落としたまま、フリージアの脳波と各部の反応を確認している。その少し後ろにはネイトが立っており、こちらが目を開けたことへ気づくと、張りつめていた肩からゆっくり力を抜いた。
「おはよう」
「……何日?」
「六日」
「そんなに?」
「最初の二日は安定しなかった」
エイブの答えに、フリージアはもう一度自分の手を見た。
知っていた。
この身体については、計画を始める前から説明を受けている。もしRETURNが成功した場合、銃撃を受けた旧ボディはそのままプリティーの遺体として残し、自分の脳だけを別のボディへ移す。顔立ちや身体の感覚を大きく変えれば思考転換の危険を増やすため、本人が自分だと認識出来る範囲では似せる一方、プリティーとして知られた身体とは内部規格も識別情報も別物にする。
説明は聞いていた。
それでも、実際に目覚めてみると話は違った。
「鏡」
「まだ起きるな」
「鏡見たい」
「あとで」
「エイブ」
「駄目だ」
以前なら強引に身体を起こしたかもしれない。しかし今は、自分の身体がどこまで動くのかすら分からない。フリージアは不満そうに息を吐き、仕方なく頭を枕へ戻した。
「成功したの?」
今度の質問には、エイブもすぐ答えなかった。
「お前が目を覚ましたという意味なら成功だ」
「他の意味は?」
「記憶を確認する」
エイブは端末を手に取った。
「自分の名前」
「プリティー」
一瞬だけそう答えた。
それから首を横へ振る。
「フリージア」
「養父」
「……オスワルド」
「マネージャー」
「ハンソン」
「復活ライブの前に最後に会った人間」
「いっぱい会ったわよ」
「そういう屁理屈が言えるなら大丈夫そうだな」
「質問が悪いの」
ネイトが少し笑った。
エイブは笑わず、さらにいくつか確認を続けた。ミセス・ミス、アニス、ニケフォビア、復活ライブ、犠牲区画。名前と出来事は途切れず出てきた。
最後に銃声が蘇った。
頸部へ飛んでくる弾丸。
遅くなった世界。
避けられると理解したこと。
それでも身体を動かしたこと。
「……当てた」
フリージアは頭部へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「ちゃんと?」
「ああ」
エイブが答えた。
「数ミリずれてたら、今こうして喋ってなかった」
「怖いこと言わないで」
「事実だ」
「もう終わった後なんだから、少しくらい褒めたら?」
エイブは端末から視線を上げた。
「よくやった」
あまりにも素直な返事だったので、今度はフリージアの方が黙った。
「……そういうの急に言わないでよ」
「何でだ」
「心の準備があるの」
「面倒だな」
ネイトが吹き出した。
その笑い声を聞いているうちに、フリージア自身も少しだけ笑った。
生きている。
ようやく、それを実感した。
◇
鏡を見せてもらえたのは、その日の夕方だった。
エイブに支えられる必要はなかったが、歩行系の感覚を確認するため、フリージアはゆっくり診察台から降りた。最初の一歩では以前より脚が軽く感じられ、二歩目で無意識に補正が入る。数分歩く頃には、まだ慣れていないだけで問題なく動けることが分かった。
部屋の隅に置かれていた姿見の前へ立つ。
「あ……」
そこには、自分がいた。
完全に同じではない。
プリティーの衣装に合わせて作られていた外見上の特徴はいくつか薄くなり、髪型も以前より自由に変えられる。顔は、自分が自分だと分かる程度に残されているが、街ですれ違った人間が一目でプリティーだと叫ぶほどではなかった。
「どう?」
ネイトが尋ねる。
フリージアは左右へ少し顔を動かした。
「……美人」
「そこは変わらないんだ」
「当然でしょ」
「本人が納得してるならいい」
「エイブ」
「何だ」
「ありがとう」
エイブは作業端末を閉じた。
「お前が設計に注文つけまくった結果だ」
「顔は大事なの」
「内部規格の方が大事だ」
「だからエイブはアイドルのマネージャーに向いてないのよ」
「まだ言うのか」
六日前までと同じ会話が出来る。
それだけでも、少し安心した。
しかし鏡の中の自分を長く見ているうちに、別の疑問が浮かんだ。
「……プリティーは?」
室内の空気が変わった。
ネイトがすぐには答えない。
「ニュースでは」
フリージアは鏡から目を離した。
「どうなってる?」
ネイトは一度エイブを見る。
止める理由はなかった。
「死んだ」
短く答えた。
「復活ライブで、ニケフォビアに頭を撃たれて死亡。犯人は三人組で、事件から二十分くらいで捕まった」
「……そっか」
知っていたはずだった。
それが計画だった。
自分が生きても、プリティーは死ぬ。
それなのに、他人の口から「死んだ」と聞くと胸の中が奇妙に空いた。
「ハンソンは?」
「生きてる」
「お父さん」
「生きてる」
そこで少しだけ息を吐いた。
「ミセス・ミスも無事だ」
「アニスは?」
ネイトの返事が止まった。
フリージアの表情から笑みが消えた。
「ネイト」
「……座ろう」
「答えて」
彼は逃げなかった。
「会場の混乱で、死者が五人出た」
フリージアは動かなかった。
「アニスも、その中にいる」
「嘘」
「……本当だ」
「だって、あの子」
言葉が続かない。
公園のベンチ。
自分を見て、生きようと思えたと言った少女。
いつか誰かを元気に出来る人になりたいと笑っていた。
「何で?」
返事のない質問だった。
「何でアニスが死ぬのよ」
ネイトは黙っている。
「私を見るために来ただけでしょ」
手が震えた。
「私のライブに来ただけじゃない」
新しい身体の指が握り込まれる。
「私がやらなかったら」
「フリージア」
「復活ライブなんてやらなかったら、あの子は──」
「それは違う」
ネイトの声は強くなかった。
だからこそ、フリージアは顔を上げた。
「ライブを決めたのは君だ。でも、銃を持ち込んだのは君じゃない。引き金を引いたのも、人を押し倒したのも君じゃない」
「でも!」
「責任がないなんて言ってない」
ネイトは彼女の前へ立った。
「君はこの事件を一生覚えてると思う。たぶん、それでいい」
「……」
「でも、自分が死ねば償えるって方向には行くな」
その言葉に、フリージアは何も返せなかった。
以前なら。
プリティーが死ぬことで誰かを救えるなら、それでいいと思っていた。
そして今。
本当に誰かが死んだ。
自分だけが生きている。
その事実が、想像していたよりずっと重かった。
「私だけ……」
声が震えた。
「私だけ帰ってきちゃった」
「そうだ」
ネイトは否定しなかった。
「帰ってきた」
「……」
「だから、ここから何をするか考えろ」
フリージアは俯いた。
涙が落ちた。
ニケの身体になっても、泣く時は泣ける。
それが今は、ありがたくなかった。
◇
その夜、フリージアは一人でニュースを見た。
ネイトもエイブも止めなかった。見るべきではないと判断することも出来たが、それを決めるのは本人だと考えたからだった。
画面には、自分の顔が映っていた。
プリティー。
享年を示す数字。
復活ライブでの凶弾。
アーク初の芸能人ニケ。
ニケ人権活動の象徴。
画面が切り替わると、アークリアンホールの前へ大量の花が置かれている。人間もニケも同じ列に並び、中には泣きながらプリティーの歌を流している者もいた。
『彼女が何を訴えていたのか、もう一度考える必要があります』
街頭インタビューを受けた男性が話していた。
『ニケだからって、何をしてもいいわけじゃないだろ』
別の女性が言う。
以前ならニケフォビアへ公然と反論することを避けていた者たちまで、今は怒りを隠していない。
プリティーが望んだものだった。
死が、人々を変えている。
「……本当に」
フリージアは画面へ向かって呟いた。
「変わるんだ」
だからこそ嬉しくなかった。
自分の死に意味があったことを喜びたい気持ちと、そのために五人が本当に死んだという現実が、同じ場所に存在している。
ニュースは次の映像へ移った。
ハンソンだった。
記者たちに囲まれているが、普段の落ち着いた姿とは別人のように疲れている。質問にはほとんど答えず、プリティーについて一言だけ求められると、長い沈黙の末に口を開いた。
『……彼女は、最後までプリティーでした』
それだけだった。
フリージアは画面を止めた。
「ごめん」
届くはずのない言葉だった。
「ハンソン、ごめん」
今すぐ連絡出来る。
秘密の通信を用意すれば、一言伝えることくらいは可能かもしれない。
生きている。
それだけでも。
しかし、その瞬間にハンソンへ別の人生を背負わせることになる。嘘をつき続け、自分が生きていることを隠し、周囲の悲しみまで演技しなければならなくなる。
そしてもし秘密が漏れれば。
プリティーの死そのものが疑われる。
「……まだ駄目」
フリージアは自分へ言い聞かせた。
父にも。
ハンソンにも。
まだ伝えない。
苦しかった。
それでもこれは、自分で選んだ結果だった。
◇
フリージアをVault-Nへ移す話が出たのは、さらに三日後だった。
新ボディの状態は安定し、短時間なら通常のニケと同じように活動出来るまでになっている。このまま仮設施設へ置く理由はなくなったが、アークへ戻すことは出来ない。
「秘密基地?」
説明を聞いたフリージアが言った。
「言い方が子供っぽい」
「地下に隠してるんでしょ?」
「まあ」
「秘密基地じゃない」
「避難施設だ」
エイブが訂正する。
「研究所?」
「それだけでもない」
「軍事基地?」
「違う」
「じゃあ何?」
ネイトが少し考えた。
「帰る場所」
フリージアが彼を見る。
「誰の?」
「必要な奴の」
それ以上の説明を、ネイトはしなかった。
実際に見た方が早かった。
◇
Vault-Nの入口を通過するまで、フリージアは何度も周囲を見回していた。
何重もの隠蔽と認証を抜け、地上から地下へ降りていく。巨大企業の研究施設ほど洗練されてはいないが、途中で見える設備の種類が妙に多い。住居、医療、整備、貯蔵、発電、通信が一つの施設へ詰め込まれており、単純な軍事施設ではないことだけはすぐ分かった。
「ここ、何人いるの?」
「時期による」
「適当」
「地上から運び込まれた人間もいるし、ニケもいる。ずっと住んでる奴もいれば、治ったら出ていく奴もいる」
「テトラの施設じゃないのよね?」
「違う」
「中央政府?」
「違う」
「じゃあ、本当に誰の?」
ネイトは歩きながら肩をすくめた。
「俺たちの」
通路の向こうから、年配の女性が歩いてきた。
「ようやく来た」
マレーンだった。
「この人が?」
「ああ」
「プリティー?」
フリージアの表情が少し固まる。
マレーンはすぐに首を振った。
「ごめん。今は違うね」
「……フリージア」
「私はマレーン。ここじゃ、好きな方で呼ばせてもらうよ」
自然な言い方だった。
フリージアは少し戸惑ったあと、頷いた。
「フリージアで」
「分かった」
マレーンはそれ以上何も聞かなかった。
死亡したはずのアイドルが新しい身体で目の前にいることへ驚いていないわけではないだろう。それでも、本人が説明したくなるまで待つという空気があった。
そのことが、フリージアには少しだけ楽だった。
◇
居住区画を一通り見た後、ネイトは足を止めた。
「もう一人、会ってほしい人がいる」
「誰?」
「その前に確認」
「何よ」
「ここから先で見聞きしたことは、外に出さない」
「外に出られない私に言う?」
「念のため」
「分かった」
ネイトは頷いた。
それから生命維持区画へ続く扉を開いた。
内部は静かだった。
複数の監視装置と独立電源が並び、中央には大掛かりな生命維持設備が置かれている。人の姿はない。
「誰もいないじゃない」
『いるよ』
スピーカーから声がした。
フリージアの身体が止まった。
どこかで聞いたことのある声だった。
古い記録。
ゴッデスの映像。
幼い頃、何度も見た。
「……嘘」
『初めまして、でいいのかな?』
明るい声だった。
フリージアはゆっくりネイトを見る。
「まさか」
「ああ」
「でも」
言葉が上手く出てこない。
「死んだって」
「そういうことになってる」
フリージアの目が大きく見開かれた。
「リリーバイス……?」
『正解』
スピーカーの向こうで、少し笑う気配がした。
『でも、みんなにはリリスって呼ばれてるよ』
フリージアは生命維持装置を見た。
ここにいる。
ゴッデスのリーダー。
人類最強と呼ばれたニケ。
自分が幼い頃に憧れた存在が。
身体を失い。
世間には死んだと思われたまま。
それでも生きている。
「本当に……?」
『本当だよ』
フリージアはしばらく何も言えなかった。
やがて、笑いとも泣き声ともつかない息が漏れた。
「何よ、それ」
『何が?』
「先に教えてよ」
ネイトが口を挟む。
「俺一人の秘密じゃないって言っただろ」
「これのことだったの?」
「一部」
「一部!?」
思わず大声が出た。
リリスが楽しそうに笑った。
『ネイト、相変わらず説明下手だね』
「俺が悪いの?」
『だいたい』
「ひどいな」
そのやり取りを聞いているうちに、フリージアの緊張が少しずつ抜けていった。
『それで』
リリスが言う。
『なんて呼べばいい?』
「……え?」
『プリティー? フリージア?』
簡単な質問だった。
フリージアは答えるまで少し時間を使った。
プリティー。
アークの星。
自分が作り、自分が愛し、自分で死なせた名前。
捨てたいわけではない。
あの名前で過ごした時間まで消したいわけでもない。
けれど今、ここにいる自分は。
「フリージア」
答えた。
「ここでは、フリージアがいい」
『分かった』
リリスはすぐ受け入れた。
『じゃあ、よろしくね。フリージア』
「……はい」
『敬語じゃなくていいよ』
「無理よ!」
即答だった。
『どうして?』
「ゴッデスのリリーバイスよ!?」
『今は脳しかないけど』
「もっと無理!」
ネイトが笑いを堪えている。
「笑わないで!」
「いや、ごめん」
『そのうち慣れるよ』
「絶対?」
『たぶん』
フリージアは頭を抱えた。
数日前まで、自分はアーク最大のステージに立っていた。
今は秘密の地下施設で、死んだはずのゴッデスのリーダーと話している。
人生というものは、ニケになってからも予想通りには進まないらしい。
◇
それからしばらく、二人で話した。
最初はフリージアが一方的に質問した。
ゴッデスのこと。
レッドフードのこと。
スノーホワイトのこと。
リリスが答えられる範囲だけを話すと、今度は逆にプリティーについて尋ねられた。
『アイドルってどんな感じ?』
「大変よ」
『楽しい?』
フリージアは少し考えた。
「楽しかった」
過去形になった。
胸が少し痛んだ。
リリスはそれを指摘しなかった。
『私も見てみたかったな』
「ライブ?」
『うん』
「録画ならあると思う」
『本当?』
「ネイト」
「俺?」
「持ってきて」
「どこから?」
「何とかして」
「無茶言うなあ」
『正式なファンなんでしょ?』
フリージアが振り向く。
「なんで知ってるの!?」
『聞いた』
「ネイト!」
「長い時間あったからさ」
「百回まで付き合わせる話も?」
『八十何回残ってるんだっけ?』
「全部喋ってるじゃない!」
生命維持区画に笑い声が響いた。
笑っているうちに。
フリージアは、不思議なことに気づいた。
プリティーが死んでから初めて。
罪悪感でも悲しみでもなく。
ただ楽しいと思っている。
そのことを認めるまで、少し時間がかかった。
◇
部屋を出る前、リリスがもう一度声を掛けた。
『フリージア』
「はい?」
『生きててよかったね』
胸の奥へ、まっすぐ入ってきた。
フリージアはすぐに答えられなかった。
「……でも」
アニス。
他の四人。
ハンソン。
オスワルド。
自分のせいではないと言われても、簡単に消えるものではない。
『うん』
リリスは否定しなかった。
『それも一緒に持ってればいいよ』
「一緒に?」
『忘れなくても、生きてていいでしょ?』
フリージアは目を伏せた。
死んだ人を忘れないこと。
自分が生き残ったこと。
二つは、どちらか一方だけを選ばなければならないものではない。
「……そうですね」
『また敬語』
「これはしばらく無理です」
『じゃあ待つよ』
リリスは軽く答えた。
『待つの、得意だから』
その言葉の重さを、フリージアはまだすべて知らない。
ただ。
「また来ます」
『うん』
今度は迷わず約束した。
◇
フリージアには、Vault-Nの一室が与えられた。
豪華ではない。
以前住んでいた家とも、プリティーのためにテトラが用意していた部屋とも比べられないほど小さい。
それでも、ベッドがあり。
机があり。
鏡がある。
鏡の前へ立つ。
そこには、プリティーではない自分がいた。
「フリージア」
名前を口にする。
違和感はない。
ずっと自分の名前だった。
プリティーも自分だった。
どちらかが偽物だったわけではない。
ただ一人は、アークに残った。
最も輝いた瞬間に時間を止めて。
もう一人は、地下へ降りてきた。
その先を生きるために。
扉がノックされた。
「誰?」
「ネイト」
「どうぞ」
彼が入ってくる。
手には小さな箱があった。
「何それ」
「生活用品。マレーンから」
「もう?」
「仕事早いからな」
机へ置く。
フリージアは箱の中を覗き、衣服や日用品に混じって小さな写真立てがあることに気づいた。
中身は空だった。
「写真、ないの?」
「入れたいものがあったらって」
「……そっか」
すぐに思い浮かんだ。
お父さん。
ハンソン。
ミセス・ミス。
アニス。
今は一枚も手元にない。
「ネイト」
「うん?」
「いつか」
フリージアは空の写真立てを持ち上げた。
「お父さんには言いたい」
「ああ」
「ハンソンにも」
「ああ」
「今じゃなくても」
「分かってる」
ネイトはそれ以上約束しなかった。
いつ出来るか分からない。
状況次第では出来ないかもしれない。
だから安易に「必ず」とは言わない。
そのことが、今は信頼出来た。
「それまで」
フリージアは写真立てを机へ置いた。
「ここにいる」
「ようこそ、Vault-Nへ」
「遅くない?」
「正式には今だから」
「歓迎会は?」
「いる?」
「アイドルよ?」
「死んでるけど」
「その言い方やめて!」
思わず笑った。
ネイトも笑う。
扉の外では、誰かが廊下を歩いている。
発電設備の低い振動が壁を通じて伝わり、遠くから工房の作業音も聞こえてくる。
地上でも。
アークでもない。
誰にも知られていない地下。
そこに、帰る場所が一つ増えた。
◇
アークでは今も、人々がプリティーを悼んでいた。
広場には花が増え続け、彼女の歌は以前より多く流れ、ニケへの暴力を許すべきではないという声も日ごとに大きくなっている。
プリティーは死んだ。
その事実は変わらない。
彼女の死を知った人々が、何を考え、何を変えるのかも、Vault-Nから操作するつもりはなかった。
地下の一室では、フリージアが初めて自分用の端末を開いていた。
外部通信には繋がらない。
代わりに、Vault-N内部の記録と娯楽データが並んでいる。
その中に、ネイトがどこからか入手してきた一つの映像ファイルが追加されていた。
『PRETTY STAR──復活以前ライブ記録』
「早いじゃない」
再生する。
画面の中で、以前の自分が笑っていた。
今より少し若く。
迷いも多かった頃のプリティー。
フリージアはベッドへ座り、その映像を最後まで見た。
もうステージへ戻れない。
それでも、目を逸らさなかった。
最後の曲が終わると、画面の中から歓声が聞こえる。
「……お疲れ様」
フリージアは、自分へ向かって言った。
端末を閉じる。
天井を見上げる。
空はない。
星も見えない。
それでも。
地下には、確かに一つの星が残っていた。
誰にも見つからない場所で。
今度は誰かに見上げられるためではなく。
自分自身の明日を見るために。