Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
ハンソンが借りた事務所は、テトラで使っていた執務室と比べれば冗談のように狭かった。
入口を開ければ、来客用の小さな机と二脚の椅子、その奥にハンソン自身の机があるだけで、三人も入れば窮屈に感じる。防音設備など当然なく、歌やダンスの練習には時間単位で別のスタジオを借りなければならない。壁には以前の入居者が残した棚の跡が見え、床にも長年使われた傷が残っていた。
「……本当にここ?」
初めて訪れたアニスは、扉の外に出てもう一度部屋番号を確かめた。
「ここです」
「テトラの元理事が作った事務所って聞いたら、もうちょっとこう……キラキラしたところ想像しない?」
「私もそう思います」
「ハンソンさんが言っちゃ駄目でしょ」
自分でも否定出来ないため、ハンソンは返事に困った。独立して初めて知ったのは、テトラにいた頃は意識すらしていなかった設備の一つ一つに金が掛かるという、当たり前の事実だった。録音スタジオもレッスン室も衣装部門も、会社に存在している時には使えて当然だと思っていたが、自分で用意するとなれば話が違う。
アニスは改めて部屋へ入り、狭い室内をぐるりと見回した。
「まあ、いいか」
「いいんですか?」
「ハンソンさん、ここから何とかするって言ったじゃん」
「言いましたね」
「じゃあ、私もここからやる」
アニスは空いている椅子へ腰を下ろし、少しだけ照れたように笑った。
「プリティーだって、最初からプリティーだったわけじゃないんでしょ?」
その言葉に、ハンソンはかつての彼女を思い出した。プリティーも最初から完成されたスターではなく、失敗し、迷い、周囲に支えられながら自分の場所を作っていった。
「ええ。その通りです」
「なら大丈夫。たぶん」
「最後の一言で急に不安になりましたが」
「そこは社長が何とかしてよ」
「社長……ですか」
ハンソンは思わず周囲を見た。
社員は自分一人、所属アイドルも一人、電話応対から契約交渉まで全部自分で行う小さな事務所である。それでも会社を立ち上げた以上、肩書きだけなら確かに社長だった。
「……大丈夫にします」
数日前、病室で口にした言葉をもう一度繰り返した。
今度は少しだけ、その意味が重く感じられた。
◇
アイドルを目指すと決めたアニスが最初に直面したのは、自分が思っていた以上に何も出来ないという現実だった。
歌うこと自体は好きだった。人間だった頃にも流行曲を口ずさむ程度の経験はあり、プリティーの曲なら何曲も覚えている。しかし、それと人前で金を取れる歌を歌うことはまったく別の話だった。発声から姿勢、音程の取り方まで基礎から直され、ダンスへ移れば今度は自分の身体を思った通りに動かせない。
「ニケになったら身体能力上がるんじゃなかったの!?」
借りた練習室の床へ座り込んだアニスが叫ぶと、指導を依頼した講師は困ったように笑った。
「身体能力は上がってるよ。でも、力が強いことと綺麗に踊れることは別だから」
「騙された……」
「誰に?」
「世の中に」
ニケの身体は人間だった頃より正確に動かせる一方、その性能を扱う感覚へ慣れる必要があった。勢いをつけすぎれば動作が大きくなり、今度は抑えすぎて不自然になる。アニスは何度も同じ振付を繰り返し、失敗するたびに床へ座り込みながら、それでも次の日にはまた練習室へ来た。
ハンソンは、その様子を見ながらプリティーとは違うものを感じ始めていた。
才能がないわけではないが、最初から人を圧倒するような完成度を持っているわけでもない。歌もダンスも、今はまだ平均的な練習生と大差なかった。それでも、アニスには諦めるという選択肢が最初からないように見えた。
「もう一回」
床から立ち上がるたび、同じ言葉を口にする。
「まだやるんですか?」
「出来るまでやる」
「休憩も必要ですよ」
「じゃあ五分休んでから、もう一回」
プリティーのようになりたいという憧れだけで始めた少女が、本当にどこまで行けるのか。
ハンソン自身も、まだ答えを知らなかった。
◇
二人目が事務所を訪れたのは、アニスのレッスンが始まってしばらくしてからだった。
「ここ、アイドル事務所で合ってる?」
扉を開けて入ってきた少女は、室内を一目見たあと、隠そうともせず首を傾げた。
「……倉庫じゃなくて?」
「失礼じゃない?」
アニスがすぐに反応する。
「だって、想像より狭かったんだもん」
「私も最初そう思ったけど!」
「じゃあ同じじゃん」
「所属してから言われると腹立つの!」
まだ所属すると決まったわけではないのだが、二人はすでに言い合いを始めていた。ハンソンは間へ入る前に、訪ねてきた少女の資料を確認する。
名前はミント。
プリティーの復活ライブへ来場しており、あの日の混乱で命を落とした一人だった。アニスと同じく脳を回収され、ニケとして再び目覚めたあと、芸能関係の仕事を希望しているという。
「どうしてアイドルを?」
ハンソンが尋ねると、ミントは自分の顔を示した。
「可愛いから」
迷いのない答えだった。
「……それだけ?」
アニスが呆れたように聞く。
「十分じゃない? この顔を活かさない方がもったいないでしょ」
「すごい自信」
「自信持っちゃ駄目?」
「そこまで言い切れるのはちょっと羨ましいけど」
ミントは鏡があれば自然と自分がどう映っているのか確認し、カメラを向ければ教えなくても角度を作れる。歌やダンスはまだ磨く必要があるが、人から見られることを負担ではなく楽しめる資質を持っていた。
そして何より、アニスとは別の理由でプリティーを覚えていた。
「私もあの日、ライブにいたから」
さっきまでの軽い調子を少しだけ抑え、ミントは続けた。
「何が起きたのか全部覚えてるわけじゃない。でも、最後に見たアイドルがプリティーだったのは覚えてる。目が覚めたら私もニケになってて、それなら……同じ場所を目指してみてもいいかなって思ったの」
アニスは何も言わず、ミントを見た。
「暗い顔しないでよ。せっかく二回目もらったんだから、今度は楽しいことしたいじゃん」
「……そうだね」
「それに、一人より二人の方が絶対目立つでしょ?」
「結局そこ?」
「大事だって」
ハンソンは二人のやり取りを眺めながら、初めて事務所の中に複数の声があることに気づいた。
狭さだけは、さらに増した。
◇
三人目は、二人とは少し事情が違っていた。
プリカは人間だった頃からアイドルを目指し、すでにデビューの予定まで決まっていた。しかし、その目前で交通事故に遭い、ニケとして生きることになった。予定されていたデビューは白紙になったものの、歌やダンスの技術まで失われたわけではなく、本人にも諦めるつもりはなかった。
「元テトラ理事で、プリティーのマネージャーだった人が独立したって聞いたから来たんだけど」
事務所へ足を踏み入れたプリカは、しばらく室内を見回した。
「……本当にここ?」
ハンソンは、この反応にも慣れ始めていた。
「はい」
「もっと大きいと思ってた」
「私もです」
「社長が言うんだ」
アニスが机の向こうから顔を出す。
「ようこそ。みんな同じ反応する事務所へ」
「それ宣伝としてどうなの?」
プリカは呆れた顔をしながらも帰らなかった。
体験レッスンへ参加すると、理由はすぐに分かった。
歌もダンスも、三人の中では明らかにプリカが上だった。基礎が身についているだけでなく、自分がどう見えるかを理解して動いているため、振付を一度見ただけでも大まかな形を再現出来る。アニスが苦戦していた部分も、プリカは動きを分解しながら説明した。
「そこ、力入れすぎ。ニケの身体だからって全部性能任せにしないで」
「入れてないつもりなんだけど」
「入ってる。肩見れば分かる」
「先生より厳しくない?」
「本番で変だったら私まで同じグループだと思われるんだから当然でしょ」
「まだ同じグループになってないよ!?」
「入る気で来たから」
アニスが動きを止めた。
「決めるの早くない?」
「ハンソンなら一流のアイドルにしてくれると思ったから来たの。事務所は想像と全然違ったけど、アニスを見たら少し興味出た」
「どの辺に?」
「下手なのに諦めないところ」
「褒められてる気がしない!」
ミントが声を上げて笑い、プリカは気にせず練習を再開する。
ハンソンは三人を見ながら、これまで一人ずつ見ていた時にはなかった形が出来始めていることを感じていた。
アニスは技術で劣っているが、何度失敗しても食らいつく。
ミントは見られることに強く、表情やファンサービスを自然に楽しめる。
プリカは技術と経験があり、二人の不足を容赦なく指摘する。
同じではないからこそ、三人で並べた時に互いの足りない部分が見えてくる。
◇
「グループ名、必要だよね」
ミントが言い出したのは、三人が正式に所属することになった日のことだった。
事務所には新しく二脚の椅子が増えたが、それによってさらに狭くなっている。ハンソンが書類を整理する横で、三人は小さな机を囲みながら候補を書き出していた。
「可愛い名前がいい」
「曲の方向性も決まってないのに、可愛いだけで決めるのは嫌」
「プリカは何がいいの?」
「考えてる途中」
「じゃあ批判だけしないでよ」
アニスは二人の間に置かれた紙を覗き込み、何度目か分からない溜息をついた。
「これ一生決まらないんじゃない?」
「アニスも考えて」
「スター何とか」
「雑」
「プリティーみたいな星になりたいってところから始まったんだから、星は入れたいじゃん」
その言葉に、少しだけ空気が変わった。
三人とも、始まりにはプリティーがいる。
しかし、プリティーそのものになるために集まったわけではない。自分たちなりの形で、誰かの目に映る存在になりたいというところだけが共通している。
ハンソンは三人の横に積まれた紙を一枚取り、ペンを走らせた。
「三つ星、というのはどうでしょう」
三人が揃って顔を上げる。
「三人だから?」
「単純ではありますが」
「私は嫌いじゃない」
プリカが最初に答えた。
「三人とも違う星なら、それぞれで目立てるし」
「じゃあ、もっと響き良くしようよ」
ミントが端末で言葉を探し始める。
いくつか候補を出し、発音しては却下することを繰り返した末に、一つの名前が残った。
「トウィンクルトライスター」
アニスが声に出して読んだ。
「T.T.STAR」
「略した方が覚えやすいね」
「三つの星が輝くって、そのままだけど分かりやすい」
ハンソンは三人の顔を順番に見た。
「では、これで?」
アニス、ミント、プリカが互いに顔を見合わせる。
「私はいいよ」
「私も」
「じゃあ決まり」
その日のうちに作ったロゴは、専門のデザイナーへ頼めるほど予算に余裕がなかったため、三人とハンソンで何度も案を出しながら形にした。最後には三つの星を並べた簡素なものに落ち着いたが、アニスたちは予想以上に気に入り、事務所の壁へ最初に貼った。
そこから、四人は新しい名前を使い始めた。
輝く三つ星。
T.T.STAR。
◇
もちろん、名前が決まったからといって仕事が増えるわけではなかった。
プリティーの死後、アークでは空前のアイドルブームが起きていた。彼女に憧れて芸能界を目指す者が増え、既存の事務所も次々に新人を売り出している。街を歩けば、どこかでプリティーの曲が流れ、似た衣装を着たアイドルが歌っていた。
T.T.STARも、その流れから完全に自由ではなかった。
ハンソンにはプリティーの元マネージャーという肩書きがあり、アニスとミントは彼女が亡くなったライブの生存者でもある。その経歴は話題を集めるには十分であり、初期の仕事でもプリティーのカバーを求められることが多かった。
「次もこの曲?」
渡された予定表を見て、アニスが尋ねる。
「主催側からの指定です」
「嫌いじゃないけどさ」
プリティーの曲を歌うこと自体が嫌なわけではなかった。むしろ好きだからこそ何度も聴き、練習も続けている。しかし、自分たちが舞台へ立つたび、観客が見ているのはT.T.STARではなく、その向こうにいるプリティーなのではないかという感覚が少しずつ強くなっていた。
ミントも似たものを感じていた。
「今日のお客さん、終わったあと『プリティー思い出した』って言ってた」
「喜ぶところじゃないの?」
「最初はそう思った。でも、私たちの名前覚えてるのかな」
プリカは答えず、自分たちのライブ映像を何度も見直していた。
「悪くはない」
やがて、そう結論づける。
「歌も前より良くなってる。アニスも最初よりずっと踊れる」
「一応ありがとう」
「でも、他のグループと並んだら見分けつかない」
アニスもミントも黙った。
プリカの言葉は厳しいが、否定出来なかった。
プリティーの曲を歌い、プリティーの影響を受けた衣装を着て、プリティーを好きだった観客へ向けて活動する。そのやり方で失敗しているわけではないが、同じことをしているアイドルがアークにはいくらでもいた。
そこにT.T.STARでなければならない理由が、まだなかった。
◇
それでも、三人は活動を続けた。
大きな舞台へ呼ばれなくても、小さなイベントがあれば出演した。客がほとんどいない会場でも歌い、店舗の宣伝でも断らず、ハンソンが取ってきた仕事を一つずつこなしていく。
アニスの歌は確実に上達した。
ミントは、僅かな観客でも名前と顔を覚えて帰らせる方法を身につけていった。
プリカは二人へ厳しい指導を続けながら、自分自身も三人で歌うための表現を試し続けた。
やがて、結成から一年が過ぎた。
◇
「ありがとうございましたー!」
三人の声が揃い、小さな拍手が培養肉専門店の店内へ広がった。
ミート・ミート。
T.T.STARが一日に二回ステージへ立っている店だった。
店内の一角に作られた舞台は決して大きくなく、観客の多くもライブを見るためだけに来た客ではない。食事をしながら何となく眺めている者もいれば、途中で席を立つ者もいる。それでも、毎日のように顔を見せる客も少しずつ増えていた。
「今日、前の方にいた子、昨日も来てたよね」
ステージを降りたミントが嬉しそうに話す。
「三日前もいた」
プリカが答える。
「覚えてたの?」
「ミントが毎回同じファンサしてるから目に入る」
「同じじゃないよ。ちょっとずつ変えてるの」
「そこに労力使うなら二番の音程直して」
「今それ言う?」
アニスは二人の間を通り抜け、控室代わりに使っている従業員用スペースへ入った。机の上にはハンソンが持ってきたランキング表が置かれている。
「どうだった?」
尋ねる声に、ハンソンは少し間を置いた。
「今回も圏外です」
アニスは肩を落とした。
「またかあ」
当時のアイドルランキングは、メジャー五十位までとインディーズ百位までに分かれている。インディーズへ入るだけでも全体で百五十位以内に入らなければならないが、T.T.STARは一年活動してもそこへ届いていなかった。
「全然売れてないわけじゃないんだけどね」
ミントが机へ頬杖をつく。
「ライブに来てくれる人も増えてるし」
「だから厄介なの」
プリカはランキング表へ目を落とした。
「悪すぎないから、このままでいい気がしてくる」
ハンソンも同じことを考えていた。
三人は成長している。
固定客も少しずつ増えている。
活動自体が失敗しているわけではない。
だからこそ、一年という時間を使ってもランキング圏内へ届かない理由を、単純な実力不足だけで片づけることは出来なかった。
「皆さん」
ハンソンが三人を見る。
「次の曲についてですが、プリティーのカバーをやめようと思います」
アニスが顔を上げた。
「全部?」
「今後一切歌わない、という意味ではありません。ただ、次に前へ出るための曲までカバーにするのはやめます」
「じゃあ何歌うの?」
「オリジナルです」
ミントの表情が明るくなる。
「私たちの曲?」
「はい。T.T.STARのために作られた、T.T.STARにしか歌えない曲が必要です」
プリカも異論はなさそうだったが、一つだけ現実的な問題へ気づいていた。
「作曲家へ依頼するお金あるの?」
ハンソンは黙った。
三人も、その反応だけで理解した。
「ないんだ」
アニスが言う。
「……十分な額はありません」
「じゃあどうするの?」
「方法を考えます」
いつもの答えだった。
ただし今回ばかりは、事務所へ戻って帳簿を見直しても、どこから新しい予算を捻り出せるのか思いつかなかった。
◇
その日の二回目のステージが終わった頃には、ミート・ミートも閉店準備へ入っていた。
三人が着替えている間、ハンソンは店員と翌週の予定を確認していたが、話を終えると、店員が裏口の方を見ながら思い出したように尋ねてきた。
「三人、帰りもあっちの近道使ってます?」
「近道?」
「裏通り。最近、若い子の間で変な噂がまた流行ってるから、一応気をつけた方がいいですよ」
ちょうど出てきたアニスが会話へ加わった。
「変な噂って?」
「廃材纏いのスクラッパー」
店員が名前を口にすると、ミントが興味を示した。
「何それ。怪物?」
「昔の都市伝説ですよ。ニケの研究所だったか何だったかに、全身をガラクタで固めた化け物が現れて大暴れしたって話です」
「ガラクタで?」
「廃材とか機械の部品とか、そんな感じだったらしいです。とにかく馬鹿みたいに力が強くて、事件の後は研究所の床も壁もボロボロだったとか」
プリカはあまり興味がないらしく、荷物を整理しながら聞いていた。
「捕まらなかったの?」
「そこから先が噂になってるんですよ。地上へ上がって、今も廃材を集めながら歩いてるって話もありますけど……」
店員は少し声を落とした。
「有名なのは、まだアークの中にいるって方ですね」
「まだ?」
「暗いところに隠れて、少しずつ鎧を増やしてるとか。夜の裏道で会ったら、服とか外装とか剥がされて、そいつの鎧にされるとか」
「盛りすぎじゃない?」
アニスは笑ったが、ミントは少し顔を引きつらせた。
「それ、人間の服も?」
「噂では何でも。ニケなら外装ごと持っていかれるらしいですよ」
「今日、大通りから帰ろう」
「さっきまで怪物とか言って楽しそうだったじゃん」
「話で聞くのと会うのは別だから」
プリカは呆れたように二人を見た。
「そんなのいるわけないでしょ」
「まあ都市伝説ですからね」
店員自身も本気で信じている様子ではなかった。
「ただ、アークだと地上へ行ったって話より、地下に残ってるって話の方がずっと人気なんですよ。不思議ですよね」
「閉じた街だからじゃないですか」
ハンソンが何気なく答える。
「どこかへ消えた怪物より、今も同じ場所の暗闇にいる怪物の方が怖い」
「なるほど。そういうものかもしれませんね」
その夜、三人は結局大通りから帰った。
翌日になれば、スクラッパーの話は練習と仕事の中へ埋もれていった。
◇
ハンソンだけは、別の問題を抱えたままだった。
T.T.STARに必要なのはオリジナル曲だという確信はある。三人の技術も、一年前とは比べものにならないほど上がった。足りないのは、その成長をT.T.STAR自身の名前へ結びつける一曲だった。
しかし、良い曲を作ればいいというだけなら簡単だった。
金がない。
無名に近い独立事務所へ、一流の作曲家が将来性だけを信じて曲を提供してくれる可能性も低い。プリカには作曲の知識があるものの、三人の名前を世間へ押し出す最初の勝負曲まで、すべて任せるのは負担が大きすぎた。
ハンソンは事務所で一人、いくつもの候補を調べた。
新進の作曲家。
学生。
知人。
かつてプリティーの制作に関わったスタッフ。
連絡出来る相手はいる。
しかし、予算を提示した途端に話が止まるか、条件を下げれば求める水準へ届かない。
夜が深くなってから、ハンソンは端末の連絡先を開いた。
長い間、選ばないようにしていた名前がそこにある。
マスタング。
独立する時、自分から捨てた場所だった。
戻るつもりはない。
それでも、T.T.STARを前へ進ませるために必要なものを、父親が持っていることまで否定するつもりはなかった。
「……頭を下げるくらいなら、安いものですね」
自分へ言い聞かせるように呟き、ハンソンは連絡を入れた。
◇
数日後、ハンソンは一年ぶりにテトラ本社のロビーへ立っていた。
退職した時と変わらない華やかな内装が広がり、社員たちは忙しそうに行き交っている。以前なら自分もその一部だったが、今では来客用の受付を通り、面会許可が下りるまで待たなければ上階へ進むことも出来ない。
それを屈辱だとは思わなかった。
自分から捨てた権限なのだから、当然のことだった。
やがて受付から連絡が入り、最上階へ向かうエレベーターの扉が開く。
ハンソンは一人で乗り込んだ。
扉が閉じ、階数表示が上がっていく。
父親へ戻りたいと頼みに来たわけではない。
T.T.STARの未来を買うために来た。
そのためなら、自分自身を交渉材料にすることも厭わなかった。
エレベーターが最上階へ到着し、扉が左右へ開いた。
その先には、一年前に自分の意思で去ったCEO室が待っていた。