Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
エレベーターを降りたハンソンは、かつて毎日のように通っていた廊下を一人で歩いた。壁も照明も、受付に立つ職員の配置さえ、一年前とほとんど変わっていない。しかし、社員証一つで自由に出入りしていた頃とは違い、今の彼は正式な面会許可を受けた外部の人間だった。
CEO室の前で一度足を止める。ここを去った時、失敗して戻ってきても席はないと父から言われたことを覚えていた。自分も戻るつもりはないと答え、その言葉を後悔したこともなかった。
それでも今日は、自分からこの扉を叩く。
「入りなさい」
呼び出しに応じて扉を開けると、マスタングは以前と変わらない席に座っていた。机の上にはいくつもの資料が並んでいたが、その中にはハンソンが知らないはずのない一人のアイドルの写真も混ざっている。
「久しぶりだな、ハンソン」
「お久しぶりです」
「一年ぶりに自分から連絡してきた息子が、世間話をしに来たわけではあるまい。座れ」
勧められた椅子へ腰を下ろしても、ハンソンはすぐに本題へ入らなかった。父が何も知らないはずはないからだった。T.T.STARの活動規模も、ランキング圏外にいることも、ミート・ミートで一日二回のステージを続けていることも、調べようと思えば簡単に把握出来る。
マスタングはそんな息子を眺め、口元を歪めた。
「困っているようだな」
「知っていたんですか」
「私を誰だと思っている。元テトラ理事の息子が、ニケ三人を連れて一年も零細事務所で足掻いている。知らない方がおかしいだろう」
「なら、話は早いですね」
ハンソンは持参した資料を机へ置いた。T.T.STARの活動実績と観客数の推移、配信された映像の再生数、固定客の増加率がまとめられている。どの数字も少しずつ伸びているが、アイドルランキングだけは一度も圏内へ届いていない。
「三人には力があります。ですが、今のままでは埋もれたままです」
「それで?」
「楽曲を一曲、譲っていただきたい」
マスタングの眉が上がった。
すぐに笑われることも、拒絶されることもなかった。それがかえって、この男が興味を持ったことをハンソンへ伝えていた。
「曲?」
「オリジナル曲です。プリティーのカバーを続けても、T.T.STAR自身の名前は残らない。三人だけの曲が必要です」
「作曲家を雇えばいい」
「その資金があれば、ここには来ていません」
「随分素直になったな」
「現状を否定しても曲は出来ませんから」
マスタングは椅子へ背を預け、息子を眺めた。
「つまり、独立したはいいが金がなくなり、父親へ泣きつきに戻ってきたと」
「楽曲提供を依頼しに来ただけです。テトラへ戻りたいとは言っていません」
「似たようなものだ」
「違います」
そこだけは譲らなかった。
マスタングもそれ以上挑発せず、机上の端末を操作した。表示された楽曲データを見た瞬間、ハンソンはタイトルを読んだ。
『ALL EYES ON ME』
「未発表曲だ」
「誰のために?」
「ヨヨ」
名前を聞き、ハンソンは画面から父へ視線を戻した。
ヨヨは現在、テトラが最も力を入れているアイドルの一人であり、ランキングでは一位に立っている。そんな彼女のために用意した次回曲を、圏外のT.T.STARへ回すという話なら、単なる親子の頼み事で済むはずがなかった。
「これを譲っていただけるんですか」
「条件次第ではな」
やはり、という思いしかなかった。
「条件を聞きます」
「簡単な話だ。曲を渡す。お前はその三人へ歌わせ、ヒットさせろ」
「ヒットしなかった場合は?」
「テトラへ戻れ」
答えは即座に返ってきた。
マスタングは楽しそうに指を組んだ。
「理事に戻せとは言わん。私の下で働けばいい。それだけだ」
「T.T.STARは関係ありませんね」
「何?」
「賭けるのは私だけです。三人の所属、活動方針、契約にあなたが介入する条件なら受けません」
マスタングの笑みが少し薄くなった。
「自分だけを差し出すつもりか」
「私が依頼に来たんです。三人が頼んだわけではありません」
「曲を使うのはその三人だぞ」
「それでも、彼女たち自身を賭ける権利は私にはない」
父親から何を言われても、ここを曖昧にするつもりはなかった。プリティーを守れなかった頃の自分へ戻るのであれば、独立した意味そのものがなくなる。
しばらく息子を見つめていたマスタングは、やがて小さく笑った。
「いいだろう。T.T.STARそのものは賭けなくていい」
「ヒットの基準も決めておきましょう」
「何をもって成功とするつもりだ?」
「ランキング入りです。メジャーでなくても構わない。インディーズ百位以内へ初めて入れば、この曲でT.T.STARは圏外から抜け出したことになる」
「随分低い目標だな」
「今の私たちには、最初に越えるべき壁です」
マスタングは考えるように机を指で叩き、最後には頷いた。
「それでいい。ヒットすれば、この曲は未来のスターへの投資だったと思うことにしよう。出来なければ、お前は戻ってくる」
「分かりました」
ハンソンは席を立った。
「ところでハンソン」
扉へ向かおうとしたところで呼び止められる。
「ヨヨへ渡るはずだった曲を奪っておいて、あの三人が失敗したらどうする?」
ハンソンは振り返った。
「失敗した時の責任を取るために、私を賭けました」
「勝てると思っているのか?」
「勝たせるつもりです」
父の笑い声を背中に聞きながら、ハンソンはCEO室を後にした。
◇
「何で勝手にそんな約束するのよ!」
事務所へ戻ったハンソンを待っていたのは、予想していた以上のアニスの怒声だった。
ALL EYES ON MEの楽曲データを持ち帰ったところまでは三人とも喜んでいた。問題は、その曲を得るために何を差し出したのかまで正直に説明した後だった。
「私たちがランキング入れなかったら、ハンソンさんテトラに戻るんでしょ?」
「はい」
「はい、じゃない!」
狭い事務所では、アニスが立ち上がっただけで机との距離がほとんどなくなる。ミントも困った顔でハンソンを見ており、プリカだけが楽曲データを開いたまま黙っていた。
「私たちのために行ったんですよね?」
「正確には、事務所のためです」
「同じでしょ」
「完全には同じでは――」
「そういう屁理屈いいから!」
アニスは机へ両手をついた。
「ハンソンさん、前に『あなたはあなたのままでいい』って私に言ったじゃん。なのに自分は勝手に戻る約束してくるわけ?」
「曲が必要だったんです」
「だったら先に相談してよ」
それを言われると、反論出来なかった。
自分自身しか賭けていないから三人へ許可を取る必要はない。その考えそのものが、ハンソンの悪い癖なのかもしれなかった。プリティーの時にも、自分が我慢すれば済むことだと考え、相手へ何も話さないことが何度もあった。
「……すみません」
素直に謝ると、アニスの勢いが少し弱まった。
「本当に反省してる?」
「次からは相談します」
「絶対?」
「努力します」
「そこは絶対って言ってよ」
ミントが思わず笑い、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。
「でも、もらっちゃったものは使うんだよね?」
ミントが端末を覗き込む。
「返して、またプリティーのカバー続けるっていうのも違うし」
「その通り」
それまで黙っていたプリカが口を開いた。
「それに、この曲は使える」
「もう分かるの?」
アニスが尋ねる。
「一通り見たから。ただし、このままじゃ駄目」
プリカが作業画面を三人へ向けた。
「元々ソロ曲だから」
ALL EYES ON MEは、ヨヨ一人が歌うことを前提として作られていた。歌唱パートも見せ場も一人へ集中し、三人で歌う場合の掛け合いや重なりは存在しない。
「三人で順番に歌えばいいんじゃない?」
ミントの案に、プリカはすぐ首を横へ振った。
「それだと三人で歌う意味がない。ヨヨの曲を三分割しただけになる」
「じゃあどうするの?」
「作り直す」
プリカは迷いなく答えた。
「曲そのものは変えない。でも三人で歌うために編曲する。アニスの声を中心にするところ、ミントの見せ場、私が支えるところを決めて、サビは三人で押す」
「出来るの?」
「誰に聞いてるの?」
その自信に、アニスは苦笑した。
プリカはすでに作業を始めている。ハンソンが欲しかったのは、まさにこういう姿だった。
テトラから渡された曲を、そのまま歌うのではない。
自分たちの曲へ変える。
◇
そこからの日々は、プリティーのカバー曲を練習していた頃とはまるで違っていた。
プリカが仮の編曲を作れば、三人で歌って録音する。聴き直して違和感があれば、また修正する。アニスの声が前へ出すぎればミントとぶつかり、ミントを目立たせようとすれば今度は曲全体の勢いが落ちる。三人を均等に扱えばいいというほど単純でもなく、それぞれの長所を残しながら一曲として成立させる必要があった。
「もう一回」
録音を止めたプリカが言うと、アニスはその場へ座り込みたそうな顔をした。
「これで何回目?」
「数えてない」
「絶対数えてる顔してる」
「今のサビ、アニスだけ一拍前へ出た」
「そんな細かいの?」
「細かくない。全員同じところで出ないと気持ち悪い」
「プリカにとっては全部重大事件じゃん」
横でミントが笑うと、今度はプリカの視線がそちらへ向いた。
「ミントは二番の入りでカメラ意識しすぎ」
「歌なのに?」
「録音中まで顔作ってるのが分かる」
「そんなの分かるわけないでしょ!」
「分かる」
口では言い合いながらも、三人とも以前のような義務感だけで練習してはいなかった。
自分たちにしかないものを、初めて形にしている。
プリティーならどう歌うかではない。
他のアイドルに似ているかでもない。
T.T.STARならどう歌うのかを探す作業だった。
ハンソンも出来る限り練習へ付き合い、外では曲を世間へ届けるための準備を進めた。事務所には大規模な宣伝を打つ予算などないため、配信と小規模な広告、そして一年間世話になったミート・ミートでの初披露を中心に据える。
派手ではない。
それでも、三人が一年掛けて作った場所から始めることには意味があるように思えた。
◇
ALL EYES ON MEを初めて人前で披露した日も、ミート・ミートのステージはいつもと同じ大きさだった。
違っていたのは、店内の空気だった。
新曲をやるという告知を見て、普段より多くの客が集まっている。毎日のように来ていた常連だけではなく、T.T.STARの名前だけは知っているという者や、プリティーの元マネージャーが育てているグループを一度見てみたいという者まで混ざっていた。
ステージ脇で、アニスは何度も手を握ったり開いたりしていた。
「緊張してる?」
ミントが覗き込む。
「そりゃするでしょ」
「ニケなのに手汗出るの?」
「気分の問題よ!」
「二人とも静かにして」
プリカはそう言いながらも、自分も普段より口数が少ない。
ハンソンは三人へ最後の確認をした。
「失敗しても、途中で止めないでください」
「それ、縁起悪くない?」
「何があっても最後まで三人で歌う、という意味です」
「ハンソンさんの人生掛かってるのに?」
アニスがじろりと見る。
「その話は忘れてください」
「無理」
即答された。
「絶対ランキング入るから」
ミントも頷いた。
「テトラに戻ったら困るしね」
「私は曲が評価されない方が困る」
「プリカだけ理由違わない?」
「同じようなものでしょ」
三人がいつものように言い合う姿を見て、ハンソンはそれ以上何も言わなかった。
ステージへの呼び込みが入る。
三人は顔を見合わせると、T.T.STARとして舞台へ出た。
イントロが流れ始める。
いつものカバー曲とは違い、客席の誰も次に何が来るか知らない。最初の数秒だけは食事を続けていた客たちも、アニスが歌い始めると少しずつ顔を上げた。
ミントへ声が移る。
プリカが重ねる。
再びアニスへ戻り、三人の声が一つになる。
誰かの真似ではなかった。
プリティーを思い出すための歌でもなかった。
ステージの上にいる三人を見るための曲だった。
ハンソンは客席の端から、その変化を見ていた。
食事をしていた手が止まる。
隣の者へ話しかけていた客がステージへ顔を向ける。
端末を取り出し、撮影を始める者もいた。
一曲が終わった直後、短い静寂を挟んで拍手が広がった。大ホールを揺らすような歓声ではない。それでも、これまでプリティーのカバーを歌った後に受けてきた拍手とは明らかに違っていた。
「……もう一回!」
客席のどこかから声が上がった。
続いて別の席からも同じ声が飛ぶ。
アニスが驚いてハンソンを見る。
予定にはない。
ハンソンは少し考えたあと、頷いた。
三人の表情が一斉に明るくなった。
「じゃあ、もう一回だけ!」
その日の二回目のALL EYES ON MEは、一回目より良かった。
◇
反応が数字へ表れるまでには、少し時間が掛かった。
配信された楽曲の再生数は以前のカバー曲より早い速度で伸び、ミート・ミート以外のイベントからも問い合わせが入るようになった。それでも、ハンソンはランキングの更新日まで結果を決めつけようとはしなかった。
事務所の端末に最新ランキングが配信された朝、三人は開店前から集まっていた。
「ハンソンさん、まだ?」
「読み込んでいます」
「遅くない?」
「サーバーに言ってください」
「私が見ようか?」
「ミントが触ると余計遅くなるからやめて」
「何で私、機械音痴扱いなの?」
そんな会話をしている間に、表示が切り替わった。
ハンソンは上からではなく、インディーズランキングの下位から確認していく。
百位。
ない。
九十九位。
違う。
そして、その一つ上。
画面を見ていたハンソンの指が止まった。
「……ありました」
三人が一斉に端末へ詰め寄る。
インディーズアイドルランキング、九十八位。
そこにT.T.STARの名前が表示されていた。
「入った……?」
アニスは一度読んだだけでは信じられなかったらしく、画面へさらに顔を近づけた。
「九十八位」
プリカが確認する。
「本当に入ってる」
「やった!」
最初に跳ねたのはミントだった。
アニスへ抱きつき、そのままプリカまで巻き込もうとする。プリカは嫌そうな顔をしながらも、本気で振りほどこうとはしなかった。
「ちょっと、狭い!」
「いいじゃん今日くらい!」
「ハンソンさんも!」
「私は結構です」
「何でよ!」
「社長も来て!」
三人に囲まれ、逃げ場のない事務所で、ハンソンはとうとう諦めた。
九十八位。
メジャーから見れば遥か下であり、インディーズの中でも下位でしかない。ランキング一位のヨヨと比べれば、まだ同じ場所に立ったとすら言えない。
それでも、圏外ではなくなった。
一年間、どれだけ歌っても名前が載らなかった場所へ、T.T.STARとして初めて入った。
「おめでとうございます」
ハンソンが言うと、アニスが笑った。
「ハンソンさんもでしょ」
「私も?」
「テトラ戻らなくて済んだんだから」
「ああ……そうでしたね」
「忘れてたの!?」
「皆さんのランキングの方が重要だったので」
「そういうところだから勝手に自分を賭けるのよ!」
祝っているのか怒っているのか分からない声が事務所に響き、ハンソンもようやく笑った。
父との賭けには勝った。
だが、それ以上に価値があったのは、T.T.STARという名前で初めて結果を残せたことだった。
◇
九十八位という数字は、小さな事務所の状況を大きく変えた。
これまでこちらから頼み込んでいた出演依頼が、向こうから届くようになった。イベント、配信番組、広告、小規模な撮影、店舗ライブ。ALL EYES ON MEを聴いたという制作関係者から連絡が来ることも増え、三人のスケジュールは急速に埋まっていった。
仕事が増えれば、人手も必要になる。
ハンソンは事務処理と連絡を任せるスタッフを増やし、ようやく自分一人ですべての電話を受けなくても済む体制を作り始めた。三人も、以前より練習へ集中出来るようになった。
「ちょっと芸能事務所っぽくなったね」
新しい机を眺めながらアニスが言う。
「前から芸能事務所です」
「前はハンソンさんの個人作業部屋に私たちが集まってる感じだったし」
「否定出来ませんね」
少しずつだが、前へ進んでいる。
その実感があった。
だからこそ、異変に気づくまで少し時間が掛かった。
◇
「辞める?」
ハンソンは目の前のスタッフを見た。
「急で申し訳ありません」
事務所へ来てから数か月、事務処理を担当していた職員だった。仕事に問題があったわけではなく、本人も辞めたい様子には見えない。
「理由を聞いても?」
「別の事務所から声を掛けられまして。待遇が、かなり良くて」
「どこです?」
相手は言いづらそうに視線を逸らした。
「テトラです」
それだけで、ハンソンには十分だった。
引き止めなかった。
自分の父との争いへ無関係な職員まで巻き込み、好条件の転職を断れと言えるはずがない。だが、その一人だけでは終わらなかった。
数日後には別のスタッフもテトラから声を掛けられ、その翌週にはもう一人が退職した。提示された給与も待遇も、今の事務所では到底対抗出来ない額だった。
ようやく増えた机から、次々に人が消えていく。
「これ、絶対わざとでしょ」
アニスは怒りを隠そうともしなかった。
「偶然にしては出来すぎていますね」
「お父さんに言わないの?」
「言って認めると思いますか?」
「思わない」
「私もです」
ハンソンは父親の顔を思い浮かべた。
賭けには負けた。
だから楽曲提供を取り消すことは出来ない。
それなら別の方法で、息子が独立して活動を続けること自体を難しくすればいい。
いかにも父が考えそうなやり方だった。
さらに悪いことに、人が減ったところで仕事だけは減らなかった。
むしろ増えた。
同じ日に複数の打ち合わせが重なる。
直前になって撮影時間が変更される。
数日前には空いていると言われていた日へ、急に出演依頼が入る。
断れば「売れ始めたばかりなのに仕事を選ぶのか」と言われ、受ければ事務所側の処理能力が追いつかない。
ハンソンは電話を受けながら契約書を確認し、その隣で別の端末から次の現場へ連絡を入れるようになった。
「これ、私やる」
ある日、アニスが封筒の束を取った。
「駄目です」
「何で?」
「皆さんの仕事ではありません」
「今からレッスンまで一時間あるから出来るでしょ」
「休んでください」
「ハンソンさんが言う?」
目の下に疲労を残した本人へ言われても、説得力はなかった。
結局、アニスは発送物の整理を手伝い、ミントは届いたファンレターを分類し、プリカは翌日のスケジュール表を見て移動時間の矛盾を指摘した。
芸能事務所としては明らかにおかしい。
それでも、誰かがやらなければ回らなかった。
「私たち、アイドルだよね?」
床に座って書類を仕分けながら、ミントが尋ねる。
「一応」
プリカが答える。
「最近マネージャー助手の方が長くない?」
「売れたから忙しくなったと思えば」
「前向きすぎない?」
アニスは笑おうとしたが、その顔にも疲れが見え始めていた。
ハンソンは三人を手伝わせている現状が嫌だった。
しかし、手が足りないという事実だけはどうにもならない。
◇
そんな日の午後、事務所の電話が鳴った。
ハンソンは別の回線で取引先と話しており、アニスもミントも撮影へ出ている。プリカは奥で新しいアレンジを確認していたため、誰もすぐには電話を取れなかった。
三度目の呼び出し音が鳴ったところで、入口の扉が開いた。
「あの、すみません――」
入ってきた女性は、電話が鳴り続けている室内を見回した。返事をする余裕のある者がいないと判断すると、少し迷った末に受話器を取る。
「はい、こちらT.T.STAR所属事務所です」
ハンソンが振り返った。
女性は彼と目が合うと、勝手に出てしまったことを申し訳なさそうに示したが、すぐ電話の相手へ意識を戻した。
「本日の搬入時刻についてですね。少々お待ちください」
机の上にあった予定表を見つける。
「十九時予定となっています。変更ですか? ……二十一時。分かりました。ただ、その場合は次の現場との移動時間が成立しませんので、そちらも変更が必要になります」
返答を聞き、少し表情を変えた。
「いえ、『何とかしてください』では困ります。そちらの変更によって発生した問題ですので、会場側と次の制作会社のどちらへ調整を入れるか確認していただけますか。こちらからも連絡しますが、責任の所在は記録に残させていただきます」
ハンソンは通話を続けながら、もう一度彼女を見た。
数分後。
女性は電話を切ると、そのまま別の連絡先を予定表から探し始めた。
「次の現場へ先に変更を伝えた方がいいです。あと、この依頼元、前にも直前変更してますよね?」
プリカが奥から顔を出す。
「……誰?」
女性が振り返った。
「あ」
そこで、入口に立ったまま何をしに来たのかをようやく思い出したらしい。
「すみません。勝手に電話に出ました」
「それは構いませんが」
ハンソンはちょうど自分の通話を終え、受話器を置いた。
「どちら様でしょう」
女性は少し緊張したように姿勢を正した。
「リスと申します。こちらでマネージャーを募集していると聞いて、面接に来ました」
プリカとハンソンが同時に、机へ置かれた予定表を見る。
その日の予定には、確かに採用面接と書かれていた。
あまりの忙しさに、ハンソン自身が忘れていた。
「……申し訳ありません」
「いえ。大変そうなのはよく分かりました」
リスは事務所の中を見回した。
書類の山。
鳴り続ける端末。
空いたままのスタッフ用机。
そして、アイドル本人たちまで事務作業を手伝っている痕跡。
「募集要項に『即戦力歓迎』って書いてありましたけど」
「書きました」
「想像してたより、かなり即戦力が必要そうですね」
ハンソンは否定出来なかった。
◇
撮影を終えたアニスとミントが戻ってきた頃には、リスとの面接はすでに始まっていた。
「ただいまー……」
扉を開けたアニスが、知らない女性の後ろ姿を見て足を止める。
女性もその声で振り返った。
二人の視線がぶつかった。
「……アニス?」
呼ばれた本人は、しばらく動かなかった。
「リス?」
今度はミントとプリカが二人を見比べる。
「知り合い?」
「学校の時の……」
アニスはまだ信じられないような顔をしていた。
人間だった頃。
クラス全体から無視されていた自分へ声を掛け、最初に謝ってくれた少女。
歌やダンスを続ける自分を応援し、本気でアイドルを目指せと言ってくれた友人。
そして、プリティーの復活ライブのチケットを譲ってくれた人物だった。
「何でここにいるの?」
アニスが尋ねると、リスは少し困ったように笑った。
「それ、こっちの台詞なんだけど」
「私がアイドルやってるの知らなかった?」
「最近知った」
「何で連絡しなかったの?」
「それも私が聞きたい」
アニスが黙る。
リスは責めるような口調ではなかった。
「生きてるって知った時、びっくりしたよ」
「……ごめん」
「ニケになってアイドル始めたことも、人づてに知ったし」
「それも……ごめん」
アニスは段々小さくなる声で謝った。
「連絡しようとは思ってた。でも、まだ全然売れてないし、アイドルになるって言ったくせにこんな感じだから……」
「こんな感じ?」
「リス、昔言ってたじゃん。私がアイドルになったらマネージャーやるって」
「言ったね」
「だから、ちゃんとアイドルになってから連絡したかったの」
リスは少しだけ驚いた。
「私に失望されたくなかった?」
アニスは答えなかった。
その沈黙が十分な返事だった。
「アニス」
リスは椅子から立った。
「私、アニスが最初から特別だったから応援してたわけじゃないよ」
アニスが顔を上げる。
「歌だって最初は普通だったし、ダンスだってそんなに上手くなかった。それでもずっと練習して、少しずつ出来ること増やしてたでしょ」
「……うん」
「それを見てたら、私も思ったの。特別じゃない人でも、ちゃんと頑張れば何かになれるんじゃないかって」
リスは少し恥ずかしそうに笑った。
「だから、アニスは昔から私にとっての星だった」
アニスの目が見開かれた。
「ランキングなんて関係ないよ」
「でも、九十八位には入った」
「そこは自慢するんだ」
「初めて入ったから!」
リスが笑い、アニスもようやく笑った。
それを少し離れたところから見ていたミントが、プリカへ小声で尋ねる。
「もしかして、すごい人来た?」
「さっきの電話対応だけでもハンソンより怖かった」
「聞こえていますよ」
ハンソンが言うと、プリカは気にせず肩をすくめた。
「でも必要でしょ」
必要だった。
それどころか、喉から手が出るほど欲しかった。
ハンソンはリスの履歴書へ改めて目を通した。他事務所で実務経験を積み、スケジュール管理や契約対応、現場調整も経験している。本人の説明では、それも学生時代にアニスと交わした約束を本当に果たすためだった。
「リスさん」
「はい」
「いつから働けますか」
あまりにも早い問いに、リスが瞬きをする。
「面接、まだ途中じゃないですか?」
「先ほどの電話対応で十分です」
「ハンソンさん、採用雑じゃない?」
アニスの指摘に、ハンソンは真顔で返した。
「今の事務所をご覧になれば、悠長なことを言っていられないのは分かるでしょう」
「それは分かるけど!」
リスは事務所をもう一度見回したあと、苦笑した。
「明日からでも」
「採用します」
「早い!」
ミントまで声を上げる。
それでも、誰も反対しなかった。
◇
翌日から、事務所の空気は目に見えて変わった。
リスは最初に予定表をすべて作り直した。取引先を分類し、直前変更の多い相手には確認期限を設け、仕事を受ける段階で移動時間まで計算する。電話で口頭だけの変更を受けることもやめ、必ず記録が残る方法で確認を取らせた。
「これ、本当に全部受けてたんですか?」
初日の午後、リスはハンソンへ大量の依頼一覧を見せた。
「出来る限りは」
「駄目です」
即答された。
「でも、断れば次の仕事が――」
「倒れたら全部の仕事がなくなります」
「私はまだ倒れていません」
「アニスたちもです」
その言葉で、ハンソンは黙った。
「三人の練習時間まで事務作業で潰れてます。売り出すために仕事を取ってるのに、仕事のせいでアイドルとしての時間を失ったら本末転倒です」
「……その通りですね」
「なので整理します」
リスは遠慮しなかった。
受けるべき仕事。
断る仕事。
条件を交渉し直す仕事。
相手側の事情で変更されたもの。
こちらが多少無理をしてでも守るべき案件。
それらを一つずつ分けていく。
夕方になる頃には、机の上に積まれていた書類の山が半分以下になっていた。
「すごい」
ミントが素直に感心する。
「床が見える」
「そこまで酷かった?」
「酷かったよ」
アニスが即答した。
プリカも、新しく整理された週間予定を確認して頷く。
「これなら練習時間取れる」
「明日からは取引先ごとの注意事項もまとめるね。あと、プリカの作業時間も予定として入れておいた方がいい。曲のアレンジやるなら、それも仕事だから」
「分かってる」
「ミントは撮影前に食べ過ぎない」
「何でそれ知ってるの?」
「さっき冷蔵庫見た」
「私の自由じゃない?」
「衣装担当から苦情来たら私が受けるから駄目」
加入一日目にして、すでに誰も逆らえなくなり始めていた。
ハンソンは自分の机から四人を眺めた。
ALL EYES ON MEによって、T.T.STARは初めてランキングへ入った。
その結果、仕事が増えた。
父親からの妨害も始まった。
そして、その苦境の中でリスが来た。
順調とは到底言えなかった。
それでも以前とは違う。
何か問題が起きるたび、ハンソン一人がすべてを抱える必要はなくなりつつあった。
「ハンソンさん」
呼ばれて顔を上げる。
「何でしょう」
「これ」
リスが新しい予定表を差し出した。
「社長の休憩時間」
「必要ありません」
「必要です」
「私はアイドルではありませんから」
「人間ですよね?」
「……はい」
「じゃあ休んでください」
有無を言わせない口調だった。
アニスが横から嬉しそうに笑う。
「いい人来たね」
「そうですね」
今度はハンソンも否定しなかった。
小さな事務所の壁には、三つ星のロゴが残っている。
その下には、ランキング九十八位を知らせる画面と、ALL EYES ON MEのジャケット画像が並んでいた。
ようやく見つけた自分たちの歌。
ようやく届いたランキング。
そして、約束を本当に果たしに来た新しい仲間。
T.T.STARはまだスターと呼ぶには遠い場所にいたが、一年前までのように、どこへ進めばいいのか分からない状態ではなくなっていた。