Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
リスが加わってから、事務所はようやく「仕事が増えるほど壊れていく場所」ではなくなった。出演依頼を受ける基準が整理され、取引先との確認事項も記録へ残されるようになったことで、直前の予定変更に振り回される回数は目に見えて減っている。アニスたちが郵便物や契約書の整理を手伝う必要もなくなり、ハンソンにも人間らしい休憩時間が予定表へ強制的に組み込まれた。
「十五分しかないんですが」
「前はゼロだったでしょ」
「それはそうですが」
「じゃあ進歩です」
リスはそう言って、ハンソンの机から仕事用端末を取り上げた。返してほしそうに手を伸ばされても無視し、そのまま休憩終了まで自分の机へ置いておく。最初の頃は戸惑っていたハンソンも、最近では抵抗しても意味がないと理解し始めていた。
T.T.STARの方も、ALL EYES ON MEをきっかけに着実に順位を伸ばしていた。初登場はインディーズ九十八位だったが、一度名前を覚えられると、それまで積み重ねてきた一年間の活動まで掘り起こされるようになった。ミート・ミートで撮影された過去の映像にも再生数が付き、三人がプリティーの模倣ではなく自分たちの色を探してきた過程そのものを支持する客も増えている。
「次、七十一位だって!」
更新されたランキングを見たミントが声を上げると、アニスもすぐ端末へ顔を寄せた。
「上がりすぎじゃない?」
「上がって困るの?」
「困らないけど、ちょっと怖い」
「私はまだ足りないと思う」
プリカだけは落ち着いていたが、その手元には新しいアレンジ案が開かれていた。順位が上がれば喜びながらも、次の仕事へ使える時間を計算しているあたりは変わらない。
リスはそんな三人を眺めながら、ようやく学生時代の約束へ追いつけたような気持ちになっていた。
アニスがアイドルになったら、自分がマネージャーになる。
子供じみた約束だったはずなのに、本当にここまで来た。
だからこそ、その日の来客を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
◇
「久しぶり」
事務所の入口に立っていた少女を見て、アニスの表情から笑みが消えた。
顔そのものは映像や広告で何度も見ている。現在のメジャーランキング一位、テトラが全面的に売り出しているトップアイドル、ヨヨ。過去を一切公開しないことまで含めて神秘的なイメージを作り上げ、プリティー亡き後の芸能界で最も大きな注目を集めている人物だった。
しかし、アニスが見ていたのはヨヨではない。
「……委員長」
学生時代、クラス全員へ自分を無視するよう指示した少女がそこにいた。
リスも椅子から立ち上がった。顔立ちは変わり、身体もニケのものになっている。それでも、中心に立って周囲を支配することが当然だと思っていた頃の目は忘れようがなかった。
「その呼び方、懐かしい」
ヨヨは笑った。
「今はヨヨだけどね」
「何しに来たの」
アニスの声は低かった。
ハンソンは外部との打ち合わせで不在だったため、事務所にいるのは三人とリスだけだった。ミントとプリカは事情を知らないものの、アニスの態度から歓迎すべき客ではないことを察し、黙って様子を見ている。
「謝りに来たの」
「……は?」
「昔のこと」
ヨヨは用意していたように言葉を続けた。
「子供だったし、私も色々余裕がなかった。アニスに酷いことしたと思ってる。本当にごめんなさい」
あまりにも滑らかな謝罪だった。
アニスは返事をせず、ヨヨの顔を見つめた。
「それを言うためだけに?」
「それだけじゃないかな。せっかく同じアイドルになったんだから、ちゃんと話しておきたくて」
「私がアイドルになったから、あなたもなったの?」
ヨヨの笑顔がほんの少し変わった。
「そうだよ」
リスが息を止める。
「ニケにまでなって?」
「そう」
「何で?」
「負けたくなかったから」
謝罪のために整えていた声が、そこで初めて本人のものへ変わった。
「昔からそうだった。私が一番だったのに、あなたが入ってきて全部おかしくなった。孤児の特別枠で来ただけなのに、みんなあなたを見るようになった。行事でも前へ出て、歌えば褒められて、私がずっと持ってたものを少しずつ取っていった」
「だから無視させたの?」
「怖かったのよ」
ヨヨは躊躇しなかった。
「あなたが何も持ってないくせに楽しそうだったから。私より下にいるはずなのに、私より人に好かれてたから」
アニスは黙って聞いていた。
「それで今度はアイドル? しかもニケになった私より後から来て、どんどん上がってくる。だから今度こそ負けたくないの」
「謝りに来たんじゃなかったの?」
「謝ったでしょ」
「それで終わり?」
「許してくれたらね」
アニスはしばらくヨヨを見つめ、それから首を横へ振った。
「無理」
ヨヨの表情が固まった。
「許さない。でも、昔のことを世間に言いふらすつもりもない」
「……どうして?」
「あなたを落として勝っても意味ないから」
アニスは一歩だけ前へ出た。
「私はアイドルとしてあなたに勝つ。あなたが一位なら、そこまで行く。それだけ」
リスは、その言葉を聞いて初めて少しだけ肩の力を抜いた。
一方で、ヨヨの手元へ視線を落とした時、別のものが気になった。
ヨヨが持っている小型端末には、テトラで使われている音声編集ソフトの画面が開いていた。芸能関係の仕事に就いていたリスには、録音済みの音声波形が表示されていることまで分かる。
「その端末、何?」
リスが尋ねると、ヨヨはすぐ画面を伏せた。
「仕事用だけど」
「今、録音してた?」
「何の話?」
「波形が動いてた」
ヨヨは数秒間リスを見たあと、何でもないことのように端末を鞄へ入れた。
「アイドルはいつ何を言われるか分からないから。自衛だよ」
「謝罪しに来た相手との会話を、黙って録音するのが?」
「何か困ること言った?」
リスは答えなかった。
ヨヨもそれ以上説明せず、出口へ向かう。
「じゃあね、アニス」
扉の前で振り返り、もう一度だけ笑った。
「私のところまで来られるといいね」
「行くよ」
アニスは即答した。
「だから待ってて」
ヨヨが去ったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのはミントだった。
「……何、あの人」
「昔のクラスメイト」
「それは分かったけど」
「私をいじめてた人」
アニスは自分の席へ戻った。
声は平静だったが、指先には力が入っていた。
「リス」
「何?」
「昔の話、ハンソンさんにも言わなくていいから」
「でも録音は気になる」
「そこは言って。昔の方はいい」
「本当に?」
「うん」
アニスは一度だけ閉じた扉を見た。
「今はアイドル同士だから」
◇
その後、T.T.STARに届くはずだった大きな仕事が一つ消えた。
生活用品メーカーの新CMだった。事前の打ち合わせまで進み、正式契約を残すだけだったにもかかわらず、制作会社から突然「企画方針の変更」を理由に取り下げられた。
数日後、そのCMへ出演していたのはヨヨだった。
「偶然だと思う?」
リスが資料を机へ置く。
ハンソンはすぐには答えなかった。
「同じ制作会社ですよね」
「そう。しかも撮影日も、うちに提示されてた日と同じ」
「差し替えたということですか」
「少なくとも、最初から別企画だったとは思えない」
アニスは怒っていたが、以前のようにすぐヨヨへ乗り込もうとはしなかった。
「アイドルとして勝つって言ったのに」
「アニス」
「分かってる。今行ったら向こうの思う壺でしょ」
その成長を喜んでいいものなのか、ハンソンにも分からなかった。
さらに一週間ほど経った頃、今度はネット上へ奇妙な音声が流れ始めた。
アニスの声だった。
『昔のことを全部話したら、あなたなんて終わりだから』
『一位から引きずり下ろしてやる』
短い音声だけを聞けば、アニスがヨヨを脅迫しているようにしか聞こえない。
「言ってない」
アニスは再生が終わるより先に断言した。
「分かっています」
リスも同意した。
「あの日、そんなこと言ってない」
「でも声は私だよね」
「素材は、あの日の会話でしょう」
プリカが音声波形を見ながら眉を寄せる。
「切って繋いでると思う。私じゃ確定出来ないけど」
ハンソンは、リスから聞いていた編集端末の話を思い出した。
すぐに公の場で反論することはしなかった。
相手がテトラのトップアイドルである以上、零細事務所のマネージャーが「編集された」と主張しただけでは、負け惜しみと受け取られる可能性がある。ましてヨヨは過去を公開していないため、何を目的に脅迫するのか説明しようとすれば、アニス自身が伏せておきたい学生時代の話へ踏み込まなければならない。
「専門家へ回します」
ハンソンは音声ファイルを保存した。
「どこへ?」
「テトラ以外です」
以前の仕事で残っていた繋がりを使い、エリシオンとミシリスへ同じデータを送った。音声編集の痕跡があるかどうかだけを調べてもらうためで、アニスの過去まで伝える必要はない。
ところが、その結果が戻るより先に事態が動いた。
ヨヨの学生時代について、匿名の情報提供が報道機関へ届いたのである。
◇
最初は小さな記事だった。
ヨヨが人間だった頃、学校の支援者の娘という立場を利用し、一人の同級生をクラス全体から孤立させていたという内容だった。被害者の名前は伏せられていたものの、元クラスメイトを名乗る複数の人物から同じ証言が出ると、話は急速に広がった。
やがて、その被害者が現在活動中のアニスではないかという推測まで出始める。
ヨヨ側は即座に否定した。
そして、例の音声を正式に公開した。
アニスがトップアイドルを引きずり下ろすため、昔のいじめを捏造している。その証拠として提示されたのが、「一位から引きずり下ろしてやる」という声だった。
「……そう使うために録ったんだ」
アニスはニュース画面を見ながら呟いた。
怒っているというより、呆れているように聞こえた。
「最初から、私が昔の話をした時の保険だったんだね」
「可能性は高いです」
ハンソンの端末へ、待っていた返答が届いた。
エリシオンとミシリス、双方の分析結果はほぼ同じだった。
公開された音声には不自然な接続箇所があり、複数の発言を切り貼りした編集データである可能性が極めて高い。さらに音声圧縮の履歴から、一度編集ソフトを通した後に再出力された痕跡も確認されていた。
ハンソンは両社の許可を取ったうえで、その結果を公表した。
流れは一気に変わった。
昔の同級生たちも証言へ加わり、アニスを無視するよう委員長から指示されていたこと、ヨヨの家の影響力を恐れて逆らえなかったことが語られた。リスも、当時自分がいじめへ加担していたことを含めて証言した。
「私も最初は、言われた通りアニスを無視しました」
取材へ答える声は震えていたが、逃げなかった。
「だから、自分まで被害者だったみたいに話すつもりはありません。間違っていたから謝って、友達になりました。ヨヨには、その機会が何度もあったと思います」
アニス自身は、必要以上のことを語らなかった。
「昔のことについて、私はもう話しました。許すつもりはありません。でも、アイドルとしてはステージで勝ちたかったです」
その一言だけだった。
ヨヨは急速に支持を失った。
過去そのもの以上に、謝罪を装ってアニスとの会話を録音し、編集した音声を準備していたことが決定的だった。テトラも庇い切れなくなり、最終的には彼女の引退を発表する。
同時にテトラ側は、過去の隠蔽やT.T.STARへ予定されていたCMの差し替えについて、すべてヨヨ個人が行ったものだったと発表した。
「全部あの人のせいにした」
声明を読んだリスが呟く。
ハンソンは画面を見たまま答えた。
「父らしいやり方です」
「ヨヨがやったことは悪いよ」
アニスが言う。
「でも、全部一人で出来るわけないよね」
「ええ」
ハンソンは短く答えた。
父がどこまで関与していたのか、それを示す証拠はまだなかった。
ただ、息子には分かっていた。
この程度で終わる人ではない。
◇
ヨヨの引退後、T.T.STARの順位は一気に伸びた。
それまでヨヨに集中していた注目の一部が三人へ向いたことに加え、ALL EYES ON MEで積み上げてきた評価もあった。インディーズからメジャーへ上がり、そのまま順位を伸ばし続け、最終的には十三位まで到達した。
「十三位……」
更新画面を見たアニスは、しばらく数字を読み直していた。
「前まで九十八位で大騒ぎしてたのに」
「大騒ぎしてたのはアニスでしょ」
「ミントも抱きついてきたじゃん」
「今回は?」
「抱きつかなくていい」
そう言いながら笑っていた三人だったが、喜びは長く続かなかった。
ランキングが上がったにもかかわらず、仕事が減り始めた。
出演依頼の数は最も多かった時期の三分の一ほどまで落ち、すでに進んでいた企画まで理由の曖昧なまま保留される。問い合わせても、どの制作会社も「編成上の都合」「社内判断」「方向性の変更」としか答えなかった。
リスが業界内の知人へ聞き回り、ようやく理由らしいものが見えてきた。
「みんな、テトラを怖がってる」
事務所へ戻ったリスは、悔しそうにそう報告した。
「ヨヨの件でT.T.STARとテトラが完全に対立したと思われてる。うちと仕事したら、テトラ系列の案件を回してもらえなくなるんじゃないかって」
「実際に何か言われたって人は?」
「そこまでは誰も言わない。言えないんだと思う」
露骨な命令など必要ない。
テトラほどの企業が不快に思っているらしいという噂だけで、周囲は勝手に距離を取る。
ハンソンには、その構図に覚えがあった。
父は何も命令していない顔をしたまま、相手へ選択肢を残さない。
「私が話してきます」
立ち上がろうとしたハンソンを、リスが止めた。
「今行っても、否定されるだけです」
「ですが」
「証拠を探してから。ここまで来たのに、感情だけで動いたら向こうの思う通りです」
ハンソンは数秒考え、座り直した。
「……分かりました」
「素直になりましたね」
「あなたたちに何度も怒られましたから」
アニスが満足そうに頷いた。
「学習してる」
その日は、それで終わった。
問題が起きたのは、ハンソンが翌日外出している間だった。
◇
「初めまして、ではない人もいるかな」
小さな事務所へ現れたマスタングを見て、リスはすぐ立ち上がった。
アニスたちも映像では何度も見ている。テトラCEOであり、ヨヨを支えていた人物。そして、ハンソンが一年以上前に離れた会社の頂点にいる男だった。
「ハンソンさんは外出中です」
リスが告げると、マスタングは残念そうな表情を作った。
「知っている。今日は彼ではなく、君たちへ話があって来た」
「私たちに?」
アニスが警戒したまま尋ねる。
マスタングは狭い室内を見回し、壁に飾られた三つ星のロゴへ目を向けた。
「いい事務所だな」
褒めているようにも、狭さを皮肉っているようにも聞こえた。
「息子がここまでやるとは思わなかった」
「息子?」
ミントが聞き返した。
マスタングは驚いたように三人を見る。
「聞いていないのか?」
リスの表情が変わった。
「ハンソンは私の息子だ」
三人が揃って黙った。
「……聞いてない」
アニスの声が低くなる。
「まあ、そうだろうな。あれは昔から家のことを話したがらない」
マスタングは椅子へ座らず、壁のロゴを見たまま続けた。
「私たちは長い間うまくいっていない。私も父親として良い人間だったとは言えん。あれが会社を辞めた時も、息子の考えを理解するより先に、自分のところへ戻すことばかり考えた」
リスは相手の話を聞きながら、違和感を覚えていた。
あまりにも素直だった。
「今回のヨヨの件も、結果的にあれとの溝を深くした」
「結果的に?」
アニスが聞き返す。
「私はヨヨを支援した。それが息子の育てているアイドルと競合した。そこは否定しない」
マスタングはアニスへ向き直った。
「君たちに迷惑を掛けたことも謝ろう」
頭までは下げなかった。
しかし、テトラCEOが自ら謝罪の言葉を口にしたこと自体、三人には予想外だった。
「私は、ハンソンと和解したい」
その言葉が本題だった。
「だが、あれは私が何を言っても聞かない。そこで、君たちへ協力してほしい」
「何をすればいいんですか」
プリカが尋ねる。
「テトラへ来ないか」
マスタングは用意していた契約書を取り出した。
「T.T.STARをテトラ所属にする。ハンソンは今まで通り君たちの担当を続けられるし、リスもマネージャーとして同行してもらう。活動方針についても、可能な限り今の体制を維持しよう」
リスが契約書を受け取る。
「どうして今なんですか」
「十三位のグループを放っておく理由がない、という経営上の理由もある」
それだけなら、まだ理解出来る。
「だが一番は、息子ともう一度話す機会が欲しい。あれが大切に育てたものを私も支えれば、少しは関係を直せるかもしれないと思った」
アニスの表情が揺れた。
ハンソンが父親についてほとんど話さなかったことを、今になって思い出していた。テトラのことを尋ねても必要以上には答えず、一人で何でも抱え込もうとする理由の一部がそこにあるのかもしれない。
「ハンソンさんには?」
「私から言っても断る」
「だから先に私たちへ?」
「卑怯だと思うか?」
「ちょっと」
「否定はしない」
そこまで認められると、逆にアニスは言葉を失った。
リスは契約書を読み続けていた。
所属後もハンソンを担当マネージャーとして維持する条項がある。リスの雇用も継続され、T.T.STARの名称や既存ロゴも使用出来る。楽曲権利の扱い、収益配分、施設利用についても、少なくとも表面上は不自然な条件ではない。
「今日決める必要はありません」
マスタングが言った。
「ハンソンへ相談しても構わない。ただし、相談すればあれは内容を見る前に拒否するだろう。君たち自身が、どこで活動したいのか考えてほしい」
その一言が三人に残った。
◇
結局、三人はその場で長い時間話し合った。
リスも契約書を何度も確認し、参照されている規定や付属条件まで出来る限り開いた。通常の芸能契約よりテトラ側の権限は強いが、巨大企業である以上それだけで異常とは言えない。
「私、行ってもいいと思う」
最初に言ったのはミントだった。
「仕事減ってるのも事実だし、ちゃんとしたスタジオ使えるなら今より出来ること増えるよ」
「私も」
プリカも頷く。
「設備は欲しい。曲作るのも録音するのも、今は制限多すぎる」
アニスだけは迷っていた。
「でも、ハンソンさん怒らないかな」
「怒ると思う」
リスは正直に答えた。
「だから、ハンソンのために契約するって考え方はやめた方がいい。自分たちがテトラへ行きたいかで決めて」
アニスはしばらく壁の三つ星を見ていた。
「私は……もっと上に行きたい」
九十八位へ入った時の喜びを覚えている。
十三位まで来た。
ここまで来たのなら、もっと先へ行きたい。
「それに、本当に親子で仲直り出来るなら、それも悪くないと思う」
その考えが甘かったのかどうかは、この時点では誰にも判断出来なかった。
契約書には四人が署名した。
T.T.STARの三人。
そして、同行するマネージャーとしてリス。
◇
ハンソンが戻ってきた時、事務所には妙に重い空気が漂っていた。
「何かありましたか」
誰もすぐに答えない。
アニスが最終的に契約書を差し出した。
「……ごめん」
ハンソンは書類を受け取り、最初の頁を読んだ。
次の頁。
さらに次。
父親の名前へ辿り着いたところで、一度だけ目を閉じた。
「来たんですね」
「うん」
「何を言われました」
アニスたちは、最初から説明した。
父親であること。
和解したいと言っていたこと。
テトラへ所属してもハンソンとリスは残せること。
設備やスタッフも用意されること。
ハンソンは責めなかった。
「契約書を全部見せてください」
「私も確認しました」
リスが言う。
「不利な条項はいくつかあります。でも、芸能契約として致命的なものは見つけられませんでした」
「付属規定は?」
「確認しました」
「一般契約規定だけではなく、所属アーティスト運営規則から参照されている内部基準も?」
リスの顔から血の気が引いた。
「……内部基準?」
ハンソンは頁を戻し、一見ありふれた文章を指した。
契約解除に関する規定は、別の一般規約を参照している。その一般規約から、さらにテトラ所属芸能人の運営規則へ飛び、そこからまた別の損害算定基準へ繋がっていた。
一つずつ読んでいる限り、不自然には見えない。
しかし、すべてを繋げると意味が変わる。
ハンソンが端末で最終的な算定額を表示した。
「二百億クレジット」
誰もすぐには理解出来なかった。
「……何が?」
ミントが尋ねる。
「契約をこちらから解除した場合の違約金です」
アニスの顔が固まった。
「二百……億?」
「はい」
「そんなの書いてなかった」
リスが契約書を取り返すように確認する。
「金額そのものは、どこにも直接書いていません」
ハンソンの声に怒りはなかった。
だからこそ、リスには余計に苦しかった。
「複数の規定へ分けてあります。契約時点の想定利益、プロモーション費用、設備優先利用権、機会損失補償を合算する方式です。この契約内容なら、その算定結果が約二百億になる」
「私……見落とした」
「あなたのせいではありません」
「でも私はマネージャーなのに」
「見落とさせるために作ってあります」
ハンソンには、それが分かった。
父親のやり方を知っているからこそ。
「すみません」
アニスが言った。
「私たちが勝手に――」
「謝らないでください」
「でも」
「皆さんは、提示された条件を信じて選んだ。それ自体は間違いではありません」
ハンソンは契約書を閉じた。
「間違っているのは、信じた相手を罠へ掛ける方です」
◇
その日のうちに、ハンソンはテトラCEO室へ向かった。
「やはり気づいたか」
父親は驚かなかった。
「二百億」
「契約書に書いてある」
「直接は書いていない」
「読めば分かる」
「普通の人間には分からないように分けてあるでしょう」
マスタングは答えず、椅子へ身体を預けた。
その沈黙だけで十分だった。
「スタッフを引き抜いたのもあなたですね」
「そうだ」
あっさり認めた。
「仕事を過剰に集中させたのも」
「そうだ」
「CMをヨヨへ回したのも?」
「あれは私が許可した」
「ヨヨの録音と編集は?」
「そこまでは指示していない」
マスタングは鼻で笑った。
「あれは勝手にやりすぎた。使えないと判断したから切った。それだけだ」
ハンソンの中で、怒りが冷えていく。
「何がしたいんです」
「分からないのか?」
「私を戻したい?」
「そうだ」
父親は迷わなかった。
「お前は私の息子だ。零細事務所で電話番をして終わる男ではない」
「誰がそれを決めるんです」
「私だ」
「昔から、そうでしたね」
ハンソンは父親を見つめた。
「私が何をしたいかではなく、あなたが私をどう使いたいかだけだった」
「だからここまで育った」
「それで何人壊しました?」
マスタングの目が細くなる。
「プリティーも商品だった。ヨヨも商品だった。今度はT.T.STARですか」
「芸能とはそういうものだ」
「私はそうしないために出ていったんです」
「だが戻ってきた」
その言葉が、何よりも重かった。
契約は成立している。
解除出来ない。
三人だけを残して自分が逃げれば、今度こそ彼女たちを父親へ渡すことになる。
「条件があります」
「言ってみろ」
「T.T.STARの担当は私が続けます。リスも残す。三人の現場へ、私の承認なしに別の専属マネージャーを付けないでください」
「構わん」
「それから、今の事務所で使用している名称とロゴ、既存の制作物はそのまま持ち込みます」
「好きにしろ」
父親にとっては、取るに足らない条件なのだろう。
それでもハンソンには必要だった。
「……分かりました」
その一言を口にするまで、少し時間が掛かった。
「テトラへ戻ります」
マスタングが満足そうに笑った。
ハンソンはその笑顔を見ながら、一つだけ理解した。
父親から離れるだけでは駄目だった。
逃げれば追ってくる。
外で何かを作れば、その周囲から少しずつ奪っていく。
ならば、いつか別の方法で止めなければならない。
ただし、その方法はまだ見えていなかった。
◇
小さな事務所を閉じる日は、思っていたより早く来た。
机や椅子は処分するものと持ち込むものへ分け、壁へ貼っていた予定表や写真も一枚ずつ外していく。最初はほとんど何もなかった部屋なのに、片づけ始めると驚くほど多くのものが残っていた。
アニスは最後まで壁の三つ星へ触れなかった。
「これ、持ってっていいんだよね」
「もちろんです」
ハンソンが答えると、アニスはようやくロゴを壁から外した。
紙と簡単な素材で作った、今となっては少し古びたマークだった。テトラへ行けば、もっと立派なものをいくらでも作れるだろう。
それでも三人は、これを捨てるつもりがなかった。
「また戻ってこられるかな」
アニスが部屋を見回しながら尋ねた。
ハンソンはすぐには答えなかった。
「この部屋へ、という意味ですか」
「ううん」
アニスはロゴを抱え直した。
「自分たちだけでやる方に」
ハンソンは、閉じられていく事務所を見た。
ここで何もないところから始めた。
アニス一人だけだった。
ミントとプリカが加わり、三つ星の名前を付け、ALL EYES ON MEを歌い、リスも約束を果たしに来た。
失敗も多かったが、すべて自分たちで選んできた場所だった。
「戻る、というより」
ハンソンは答えた。
「いつか皆さん自身が、どこで活動するかを自由に選べるようにしたいです」
「テトラにいても?」
「はい」
「出来るかな」
「出来るようにします」
以前なら、その言葉を一人で背負っていた。
今は違う。
「ただし、私だけで何とかするとは言いません」
リスが振り返った。
ミントとプリカもハンソンを見る。
「次に何かあった時は、皆さんと相談します」
「やっと覚えた」
アニスが笑った。
「遅すぎるよ」
「否定出来ません」
最後の荷物を運び出し、ハンソンは部屋の照明を消した。
父親は人を奪った。
仕事を奪った。
選択肢を奪い、最後には彼らが作った場所まで手放させた。
それでも、T.T.STARそのものまで奪われたわけではない。三人の名前も、リスとの約束も、ここで積み重ねた時間も、契約書のどこにも所有権など書かれていなかった。
ハンソンは鍵を掛け、四人とともに廊下を歩き出した。
これから入るのは、父親が支配する巨大な会社だった。
以前の自分なら、そこへ戻ることを敗北だと思っただろう。
今は、まだ終わっていないと考えていた。
奪われたままでいるかどうかまで、父親に決めさせるつもりはなかった。