Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
テトラへ移籍してから最初の数日間、T.T.STARの三人が新しい環境へ抱いた印象は、意外なほど悪くなかった。
これまで時間単位で借りていた練習室は、社内の専用施設を予約すれば使えるようになった。録音設備も衣装制作部門も同じ建物の中にあり、スタッフの数も小さな事務所とは比較にならない。アニスたちが練習を中断して書類を運ぶこともなくなり、リスが一人で複数の取引先へ電話を掛け続ける必要もなくなった。
「悔しいけど、設備はすごい」
プリカは新しい録音室を一周しながら、壁や機材を確かめていた。
「前のところだと、予約時間を気にしながら録ってたでしょ。ここなら直したいところがあっても、すぐやり直せる」
「衣装室もすごかったよ」
ミントは鏡の前で照明の角度を変え、自分の顔がどう映るのかを楽しそうに確認している。
「私専用の衣装、もっと増やしてもらえないかな」
「T.T.STARの衣装でしょ」
「私の分だけちょっと多くてもよくない?」
「よくない」
いつものように言い合う二人を見ながら、アニスは部屋の隅へ置いた荷物へ目を向けた。その中には、あの小さな事務所から持ってきた古い三つ星のロゴも入っている。テトラ側からは新しいデザイン案も出されていたが、三人ともそれを捨てようとはしなかった。
環境がどれほど立派になっても、T.T.STARを作ったのはテトラではない。
何もなかった事務所でハンソンと始め、ミントとプリカが加わり、リスが追いついてきた。その時間まで会社へ渡したつもりはなかった。
ただし、すべてが良くなったわけでもない。
◇
「話が違います」
ハンソンはCEO室で、父親を正面から見ていた。
「T.T.STARの担当は私が続ける。それが条件だったはずです」
「続けているだろう」
マスタングは書類から視線を上げようともしなかった。
「スケジュールを見ることも出来る。現場へ同行することも許可している。リスも残した。何が不満だ?」
「企画への拒否権がありません」
「必要ないからだ」
「宣伝方針も、出演先も、最終決定は別部署です。これでは私は、三人の予定を確認するだけの人間になる」
マスタングはそこでようやく息子へ目を向けた。
「その三人は、もう零細事務所のアイドルではない。メジャー十三位の商品だ。会社全体で動かす以上、お前一人の判断へ任せられるわけがないだろう」
「商品という言い方をやめてください」
「芸能は商売だ」
「彼女たちは人間です」
「ニケだ」
「そういう話をしているんじゃない!」
思わず声が強くなり、ハンソンは一度言葉を止めた。
父親は何も変わっていない。
ハンソンが独立した理由も、プリティーのことで何を悔いていたのかも、理解するつもりなど最初からないのだろう。息子が戻り、T.T.STARがテトラの所属になった。その結果だけで十分なのだ。
「安心しろ」
マスタングは再び書類へ視線を落とした。
「十三位まで来た商品を、自分から壊すほど私は愚かではない」
「あなたが言う価値と、私が守りたいものは同じではありません」
「なら、せいぜい近くで見ていろ。お前が大切に育てたという三人が、どこまで行けるかをな」
それ以上話しても意味がないことだけは分かった。
ハンソンは何も答えず、CEO室を出た。
父親の最後の言葉だけが、妙に耳へ残った。
◇
新しい企画の説明が行われたのは、それから数日後だった。
会議室の大型画面には、明るい色で描かれた箱と笑顔のマークが表示され、その下に「SMILE BOX」という文字が並んでいる。名前だけなら、子供向けの交流イベントに使われても不思議ではない。
「スマイルボックス?」
アニスが読み上げると、担当者は笑顔で頷いた。
「市民参加型の交流企画です。最近のアークでは、地上奪還の停滞や経済状況への不安から、市民のストレスが高まっています。そこでT.T.STARの皆さんに、市民の不満を直接受け止めてもらいたいんです」
「相談会みたいなもの?」
ミントが尋ねる。
「もう少し気軽なものですね。参加者には日頃の鬱憤を自由に吐き出してもらい、皆さんはそれを笑顔で受け止める。それによって、少しでも気持ちを軽くして帰ってもらうという企画です」
プリカは説明の中の一部分へ引っかかったらしく、資料から顔を上げた。
「自由にって、どこまで?」
「もちろん安全には配慮します。あくまで交流イベントですから」
説明だけを聞けば、それほど危険なものには思えなかった。
生活への不満や仕事の愚痴を聞き、最後に笑って帰ってもらう程度なら、アイドルと市民の交流として成立する。アニス自身、人の話を聞くことが嫌いなわけでもなかった。
「やってみてもいいんじゃない?」
アニスが二人を見ると、ミントも肩をすくめた。
「怒鳴られるくらいなら平気。私、聞き流すの得意だし」
「それ褒めるところ?」
「便利な能力でしょ」
プリカだけは最後まで少し警戒していたが、契約上、三人に企画を拒否する権利はほとんど残されていなかった。
ハンソンは資料を閉じた。
「危険だと判断した場合は止めます」
担当者が視線を向ける。
「安全には配慮すると仰いましたね。なら、問題ありませんよね?」
「もちろんです」
その時の返答は、あまりにも簡単だった。
◇
初日のスマイルボックスは、本当に説明された通りの企画だった。
「最近、何でも高すぎるんだよ!」
最初の参加者が大声で訴えると、アニスは笑顔で頷いた。
「分かる。食べ物も前より高くなったよね」
「仕事だって減ってる! 上司は無茶ばっかり言うし、地上奪還だって全然進まない!」
「今日は全部言ってっていいよ。私たち、聞くためにいるんだから」
男はしばらく会社や行政への不満を吐き出し続けたが、話し終える頃には肩の力が抜けていた。最後には少し照れたように礼を言い、三人へ手を振って帰っていく。
その後も似たようなものだった。家族への不満、職場の愚痴、生活への不安、軍や中央政府への文句。声を荒らげる者はいても、T.T.STARそのものへ悪意を向ける参加者はほとんどいなかった。
「これなら、案外いい企画なのかも」
休憩に入ったアニスは、用意された飲み物を手に取った。
「ずっと笑ってるのは疲れるけど」
「ニケがそれ言う?」
ミントが笑う。
「身体じゃなくて気分の話」
プリカも警戒を完全に解いたわけではなかったが、この段階では止める理由を見つけられなかった。
問題は、それが何日も繰り返された後だった。
◇
「お前らが十三位とか、アークのアイドルも終わってんな」
ある日の参加者が笑いながらそう言った時、アニスは一瞬だけ表情を固くした。それでもすぐ営業用の笑顔へ戻り、冗談めかして肩をすくめる。
「厳しいなあ。じゃあ、もっと頑張らないとね」
「プリティーの後釜みたいな顔してるけど、足元にも及ばないだろ」
「そのくらい分かってるよ」
「ニケのくせに」
男は最後にそう吐き捨て、満足したように去っていった。
それを境にしたように、三人そのものを傷つけるために来る者が増え始めた。ミントの容姿を執拗に貶す者もいれば、プリカの歌い方を目の前で馬鹿にする者もいる。アニスについては、人間だった頃の噂までどこかから拾ってきて、反応を試そうとする参加者まで現れた。
「今日、かなり酷くなかった?」
終了後の控室で、ミントがようやく笑顔を消した。
「昨日より悪い」
プリカは端末を開いた。
「多分、明日はもっと増える」
「何で分かるの?」
「これ」
画面に表示されているのは、スマイルボックスについて語る掲示板だった。
何を言っても笑っている。
どこまでやれば怒るのか。
ニケなのだから多少乱暴に扱っても壊れない。
そんな書き込みが、体験談として面白がられている。
「これ、ファンなの?」
アニスが尋ねた。
誰もすぐには答えられなかった。
ファンでないことだけは分かっていた。
◇
翌朝、ハンソンはそれまでの映像と書き込みをまとめ、企画の中止を要求した。
「当初の説明から逸脱しています。市民の不満を聞く交流企画ではなく、T.T.STARをどこまで傷つけられるか試す場になっている」
担当部署は資料へ目を通したが、返ってきた答えはハンソンが期待したものではなかった。
「注目度は上がっています」
「何ですって?」
「T.T.STARの検索数、関連動画の再生数、ランキング推移のすべてが上昇しています。数字だけを見れば企画は成功しています」
「三人がどう扱われているかも、その成功の一部だと言うんですか」
「現時点で、ニケのボディへ重大な損傷を与える行為は確認されていません」
ハンソンは相手を見つめた。
「身体が壊れなければ、何をされても構わないと?」
「スマイルボックスは、参加者の感情を笑顔で受け止める企画です」
その言い方を聞いて、ハンソンは最初の説明に含まれていた曖昧さを理解した。
安全に配慮する。
その「安全」が守る対象に、三人の心は最初から含まれていなかった。
「この判断は誰が?」
「運営部署です」
「父の承認は?」
「回答出来ません」
否定ではなかった。
ハンソンは中止要求を取り下げなかったが、その日の企画が止まることもなかった。
◇
罵声だけだった行為は、日を追うごとに形を変えていった。
食べかけの物を投げつけられ、衣装へ飲み物を掛けられる。床へ落とした食べ物を拾うよう命じられたり、顔のすぐ近くから唾が飛ぶほど怒鳴られたりする日もあった。それでも運営側へ抗議すれば、「身体への損傷は確認されていない」という言葉が繰り返される。
皮肉なことに、ランキングは上がっていた。
スマイルボックスそのものが話題になり、T.T.STARを応援する者だけでなく、彼女たちがどこまで耐えるのかを見たい者まで注目するようになったからだった。
「もうやめよう」
その日の終了後、リスは三人を見回した。
「違約金なんて知ったことじゃない。こんなの、仕事じゃないよ」
「二百億だよ」
ミントの声には、いつもの軽さがなかった。
「分かってる。でも、だからって毎日こんなことされて平気なふりするの?」
「平気だなんて思ってない」
プリカは端末へ表示されたランキングを見た。
移籍前よりさらに順位は上がっている。
「でも、もう少し上まで行けば、会社だって私たちをこんな企画に使えなくなるかもしれない」
「『かもしれない』でしょ」
リスの声が強くなる。
「分かってるよ」
今度はアニスが答えた。
「分かってるけど、他に出口が見えないのよ。辞めれば二百億。続けても地獄。でも、もっと上まで行けば何か変わるかもしれないなら……今はそこに賭けたい」
リスは反論出来なかった。
三人が名声へ執着しているのではない。ここから逃げる方法として、唯一目の前に見えている数字へ縋っているのだと分かってしまったからだった。
「じゃあ約束して」
リスは三人を見る。
「一位まで行ったら、もう一度止めるよう要求する。会社が何を言っても、今度は私も引かない」
アニスは少しだけ迷い、それから頷いた。
「うん」
その約束だけを頼りに、スマイルボックスは続いた。
◇
その日の会場には、これまでで最も長い列が出来ていた。
ネットではスマイルボックスが半ば挑戦企画のように扱われ、「今日は何をしても笑っていられるか試す」と公言する者まで現れている。客席側から端末を向けている市民も多く、T.T.STARを見るためではなく、何かが起きる瞬間を撮影するために来た者が混じっていることは明らかだった。
最初の参加者は食べ物を投げた。
次の参加者はミントの衣装へ飲み物を掛けた。
プリカの目の前で曲を罵倒する者もいれば、アニスの髪へ勝手に手を伸ばして乱す者もいた。三人は笑顔を作り続けたが、以前のように自然なものではなくなっていることは、近くで見ているリスにもハンソンにも分かった。
「もう危険です。止めてください」
ハンソンが運営スタッフへ訴えても、返事は変わらない。
「ボディへの損傷は確認されていません」
「その基準を誰が決めたんです!」
「規定です」
「以前より明らかに警備の介入が遅い。参加者へ何を許可しているんですか」
スタッフは答えなかった。
その間にも、新しい参加者が前へ進み出た。
手には、濁った水の入った容器がある。
「それは何ですか」
リスが即座に反応した。
男は容器を揺らして笑う。
「ストレス発散用」
「中身を確認していない物は持ち込めないはずです」
「確認済みですよ」
答えたのは、男ではなく運営スタッフだった。
リスが振り返る。
「確認した?」
「ニケのボディへ重大な損傷を与える成分ではありません」
その言葉を聞いた瞬間、リスの顔から血の気が引いた。
つまり、運営側は知っていた。
何を持ち込むつもりなのか分かったうえで、通した。
男はアニスの前へ立つと、容器を傾けた。
「笑えよ」
濁った水が頭から掛けられる。
髪を伝い、顔や衣装へ流れ落ちる中、アニスは反射的に閉じた目を開いた。周囲から笑い声が上がり、いくつもの端末がこちらへ向けられている。
アニスは震える口元を持ち上げた。
「……満足した?」
「まだ」
男は容器に残った液体を見せた。
「口開けろよ」
アニスの表情から、笑顔が消えた。
「何?」
「残ってるだろ。飲めよ」
男が一歩近づく。
容器の口がアニスの顔へ向けられた。
ハンソンが動くより早く、リスが二人の間へ飛び込んだ。
「やめて!」
男の手がアニスへ伸びる。
リスは両手でその胸元を押した。
男は体勢を崩して床へ倒れ、手から離れた容器が転がった。残っていた汚水が床へ広がると、それまで面白がっていた会場から笑い声が消えていった。
「いい加減にして!」
リスはアニスを背中へ庇ったまま叫んだ。
「何がストレス発散なの! この子たちがあなたたちに何をしたの!?」
運営スタッフが近づいてくる。
それでもリスは止まらなかった。
「毎日笑ってるからって、何されても平気なわけじゃない! ニケだから壊れなければいいなんて、そんなわけないでしょう!」
アニスはリスの背後で俯いていた。
もう笑っていなかった。
「……やだ」
小さな声だった。
リスが振り返る。
「もう、やりたくない」
ミントもプリカも、同じ顔をしていた。
ハンソンは運営側が何を言おうと、これ以上続けさせるつもりはなかった。
スマイルボックスは、そこで初めて中断された。
◇
それでも、会社が最初に決めたのは企画責任者への処分ではなかった。
T.T.STARには三日間の謹慎。
リスには、参加者へ手を出してイベントを中断させたことを理由に、三日間のテトラ施設への出入り禁止。
決定を聞いたハンソンは、その場で抗議した。
「参加者がアニスに何をしようとしていたのか、映像を見たんですか」
『見た』
通信画面の向こうで、マスタングは平然と答えた。
「なら、どうしてリスが処分されるんです!」
『先に参加者へ手を出したのは彼女だ』
「汚水を無理やり飲ませようとしていたんですよ!」
『ニケの身体へ有害なものではなかった』
「そういう問題ではないでしょう!」
ハンソンは机へ手をついた。
「三人も被害者です。なぜ謹慎を受ける側になる!」
『契約された企画を中断した。その結果に処分があるのは当然だ』
「父さん」
『感情だけで会社は動かん』
その一言で、ハンソンは何を言っても結論が変わらないことを理解した。
通信を切る。
それでも、このまま終わらせるつもりはなかった。
まず処分への異議申立てを行い、スマイルボックスの運営記録を請求する。警備介入基準がいつ変更されたのか、誰が持ち込み物の許可を出したのかも確認する必要がある。
ハンソンはその作業を始めるため、三人とリスへ先に帰るよう伝えた。
「私も残ります」
リスが言ったが、すでに出入り禁止処分は発効している。
「駄目です。今ここで違反を増やせば、また利用されます」
「でも」
「今日は三人についていてください」
ハンソンはアニスたちを見る。
「お願いします」
リスはしばらく迷った末、頷いた。
◇
アークの照明は、すでに夜間設定へ切り替わっていた。
正面側にはスマイルボックス中断の噂を聞きつけた記者や野次馬が残っていたため、四人はスタッフ用の裏口からテトラを出た。アニスは一度洗ってもらったものの、髪にはまだ僅かに汚水の臭いが残っている。
「ハンソン、一人で大丈夫かな」
ミントが尋ねた。
「一人で何とかしようとしたら、明日怒る」
リスはそう答えた。
「今夜は私たちも休もう。もう何も考えなくていいから」
「考えないって難しいね」
アニスが呟いた。
「目閉じると、あの容器が出てくる」
リスは何と答えるべきか迷ったが、安易に忘れろとは言えなかった。
「じゃあ一人にならないで。今日は誰かのところに集まろう」
「リスの家?」
「狭いけど、それでいいなら」
ようやく行き先を決めたところで、背後から笑い声が聞こえた。
「いたぞ」
四人が振り返る。
少し離れたところに、スマイルボックスの会場で見た顔を含む数人の市民がいた。
「イベント中止したアイドル様じゃん」
「何されても笑えるんじゃなかったの?」
リスが三人の前へ出る。
「企画は終了しました。これ以上つきまとうなら通報します」
「マネージャーがファン殴って逃げたって?」
「殴ってない」
アニスが言い返す。
「あの人が私に無理やり――」
「言い訳してんじゃねえよ」
男が持っていた食べ物の包みを投げた。
リスが腕で庇い、内容物が地面へ散る。
「行こう」
プリカが周囲を確認した。
「相手しない方がいい」
四人は人通りの少ない脇道へ入った。以前なら暗い裏道を選ぶことに抵抗を感じたかもしれないが、今は後ろから追ってくる者たちと距離を取ることが先だった。
それでも足音は消えなかった。
「待てよ、スター様!」
「逃げんなって!」
角を一つ曲がっても追ってくる。
ミントが警備へ通報しようと端末を取り出した、その時だった。
後方から聞こえていた笑い声が、突然途切れた。
四人も足を止めた。
「……何?」
アニスが振り返る。
追ってきた市民たちは、こちらを見ていなかった。
路地のさらに奥。
暗がりの中を見つめたまま、動かなくなっていた。
◇
金属同士が擦れ合う、重い音が聞こえた。
一度ではない。
一定の間隔を置きながら、暗い路地の奥から少しずつ近づいてくる。何か大きな鉄板を引きずっているようでもあり、歩くたびに複数の部品がぶつかっているようでもあった。
やがて、人工照明の届きにくい場所から大きな人影が現れた。
人型ではある。
しかし身体のほとんどは、幾重にも重なった廃材に覆われていた。歪んだ金属板、機械の外装、太いパイプ、用途の分からない部品が無秩序に組み合わされ、それらが歩くたび鈍い音を響かせている。
アニスは、それを見た瞬間に以前聞いた話を思い出した。
「……スクラッパー」
ミート・ミートの店員から聞いた都市伝説。
昔、ニケ研究所へ現れて施設を壊し、その後は地上へ消えたとも、今もアークの暗い場所へ潜んでいるとも言われる怪物。
「嘘でしょ」
ミントの声が掠れた。
追ってきた市民たちも、同じものを思い出したらしい。
「おい、あれ……」
「違うだろ。ただのコスプレだって」
「じゃあ何でこんなところにいるんだよ」
廃材を纏った巨体は、一言も発しなかった。
アニスたちへ近づこうともせず、追ってきた市民たちへ身体を向けたまま立っている。
やがて片腕が上がった。
武器を構えるわけでもない。
拳を握るわけでもない。
伸ばされた指先が、ただ市民たちへ向けられた。
それだけだった。
誰も笑わなかった。
暗い路地の中で、顔さえ分からない怪物から黙って指をさされ続ける。その光景は、都市伝説を馬鹿にしていた者たちにも耐えられなかったらしい。
「……逃げようぜ」
誰かが呟いた。
一人が踵を返す。
それをきっかけに、残りの者たちも走り出した。
「待てって!」
「無理だろ、あれ本物じゃねえの!?」
「捕まったら剥がされるぞ!」
悲鳴と足音が遠ざかっていく。
スクラッパーは追わなかった。
向けた指もすぐには下ろさず、最後の一人が角の向こうへ消え、その足音まで聞こえなくなるのを待つように同じ姿勢を保っていた。
やがて。
腕がゆっくりと下がる。
そこで初めて、巨体が四人へ向き直った。
◇
「……次、私たち?」
ミントが小声で尋ねた。
「分からない」
プリカは身構えた。
アニスも無意識にリスの前へ出ようとしたが、リスが逆に彼女の腕を掴んだ。
「動かない方がいい」
スクラッパーは何も言わなかった。
何秒か、四人を見ているようだった。
顔に当たる部分も廃材に覆われているため、本当に視線があるのかさえ分からない。それでも、自分たちを認識しているという感覚だけはあった。
四人の誰も動けないでいると、スクラッパーはゆっくりと身体の向きを変えた。
「……え?」
アニスが声を漏らす。
襲いかかってこない。
腕を伸ばすこともない。
四人へ背を向け、そのまま路地の奥へ歩き始めた。
歩調はひどく遅かった。
一歩進むたび、纏った廃材同士が擦れ合い、重い音が響く。急ぐ様子などまったくないのに、不思議と呼び止める気にもなれなかった。
「怖いけど……」
ミントが呟く。
「何?」
「ちょっと頼もしくない?」
「今言う?」
アニスが思わず返した。
その間にも、スクラッパーは少しずつ遠ざかっていく。
曲がり角へ差しかかる直前。
廃材の隙間から、小さな黒い物体が外れた。
乾いた音を立てて、地面へ落ちる。
「あ」
プリカが最初に気づいた。
「何か落ちた」
四人の視線が一瞬だけ足元へ向く。
手のひらに収まる程度の、黒い部品のようなものだった。
すぐに顔を上げた時には、スクラッパーの背中が角を曲がり終えるところだった。
「待って!」
アニスが走り出す。
残る三人も続いた。
ところが、数秒後に曲がり角へ飛び込んだ四人を待っていたのは、誰もいない細い路地だった。
「……いない」
アニスは左右を見た。
一本道に近く、大きな身体が隠れられそうな場所はほとんどない。設備用の扉はいくつかあるが、どれも閉まったままだった。
「走った?」
ミントが尋ねる。
「無理でしょ」
プリカが首を横へ振る。
「あんな歩き方してたのに」
何より、あれほど大きかった金属音が消えている。
四人はしばらく誰もいない路地を見つめ続けた。
都市伝説を信じるかどうか以前に、今見たものを説明出来る者がいなかった。
「落としたやつ」
リスが思い出した。
四人は来た道を戻った。
◇
地面へ落ちていたのは、黒いデータモジュールだった。
表面は深く傷つき、角の一つが欠けている。古い型らしく、アニスたちには用途が分からなかったが、リスは裏面へ刻まれたマークを見て眉を寄せた。
「これ、テトラのじゃない?」
「分かるの?」
「ロゴが古いけど、形式は似てる」
プリカも覗き込む。
「壊れてるね」
「読めるかな」
リスが携帯端末へ接続すると、認識までにかなり時間が掛かった。内部データの大部分は破損しており、ファイル名さえ復元出来ないものが多い。
それでも、断片的な文字列が一つずつ画面へ現れた。
最初に読めた言葉を見て、アニスの表情が変わった。
「……スマイルボックス?」
画面には、完全な文書ではない記録が表示されていた。
PROJECT:SMILE BOX。
参加者反応値の上昇。
対象への精神的負荷について、許容範囲と判断したらしい記録。
警備による介入基準の変更。
参加者排除を制限し、企画継続を優先する指示。
そして、その上部に残っていたのは、通常の現場責任者よりも上位の承認を示す表示だった。
「EXECUTIVE……?」
ミントが読み上げる。
「これ、上からの指示ってこと?」
「これだけじゃ分からない」
リスはすぐに結論を出さなかった。
「誰が入力したのかも分からないし、途中がほとんど壊れてる。書き換えられてない保証もない。でも……」
今日、運営スタッフは汚水の中身を事前に確認していた。
それでも参加者を通した。
警備の介入も、以前より明らかに遅くなっていた。
偶然だと思っていたことが、目の前の記録と繋がり始める。
「ハンソンに見せよう」
リスはモジュールを慎重に外した。
「今すぐ?」
「今すぐ」
アニスはもう一度、スクラッパーが消えた路地を振り返った。
「これ、あいつが私たちに渡したかったのかな」
「落としただけかもしれない」
プリカが答える。
「でも、落とした場所が出来すぎてない?」
「だから分からない」
リスにも答えは出せなかった。
あれが本当に都市伝説のスクラッパーなのか。
誰かが姿を真似ているだけなのか。
テトラの被害者か、内部の人間か、それともまったく別の何かなのか。
何一つ分からない。
ただ一つ、黒いモジュールだけは手の中に残っていた。
◇
ハンソンが四人と合流出来たのは、日付が変わる頃だった。
リスは三日間テトラへ入れないため、五人は彼女の自宅へ集まった。ハンソンが到着すると、アニスたちは路地で起きた出来事を最初から説明した。
市民たちに追われたこと。
廃材を纏った大男が現れたこと。
何も言わず、市民だけを指さしたこと。
逃げていく者を追わず、完全にいなくなるまで見送ったこと。
その後に自分たちへ振り返ったものの、何もせず立ち去ったこと。
そして、曲がり角を一つ越えただけで消えたこと。
「廃材纏いのスクラッパー……ですか」
ハンソンは話を聞き終え、困惑した顔をした。
「知ってる?」
アニスが尋ねる。
「名前だけなら。昔、ニケ研究施設で大規模な破壊事件があり、それが都市伝説になったという話は聞いたことがあります」
「本当にいたの?」
「事件そのものについては古い記録があります。ただ、皆さんが見たものと同じ存在なのかは分かりません」
「私たち、四人で見たんだけど」
「あなたたちが何かを見たことを疑っているわけではありません」
ハンソンはそう答えてから、机に置かれたモジュールへ目を向けた。
「問題はこちらです」
手に取る。
表面を確認し、裏側へ返した瞬間、ハンソンの表情が変わった。
「この番号……」
「知ってるの?」
リスが尋ねる。
「古いテトラの資産管理番号です」
「どこの部署?」
ハンソンは傷で一部読めなくなった番号を指でなぞった。
「私が理事だった頃でも、通常部署ではほとんど使われていませんでした」
「じゃあ?」
「CEO直轄系統です」
部屋の空気が変わった。
「お父さんの?」
アニスが尋ねる。
「少なくとも、父の周辺で管理されていた物である可能性は高いです。ただし、これだけで父本人の指示だったとは断定出来ません」
ハンソンは持参した解析端末へモジュールを接続した。
アニスたちが路地で確認したものより多くの文字列が復元されたが、それでも全体の半分にも届かない。スマイルボックスの企画名、参加者の行動が過激化した後も継続する方針、警備介入の制限らしき記録は残っているが、承認者の名前は欠損していた。
「分かってたんだ」
アニスが画面を見つめる。
「私たちが何されてるか分かってて、止めなかった」
「その可能性は高いです」
ハンソンは慎重に答えた。
「ですが、まだ証拠とは言えません。作成日時、作成部署、改変の有無、それからこのモジュールが本当に当時の運用記録から抜き出されたものなのかを調べる必要があります」
「これ持ってお父さんのところへ行っても駄目?」
「壊れたデータを路地で拾った、と言えば終わります」
リスは悔しそうに画面を見た。
「じゃあ、使えない?」
「いいえ」
ハンソンは首を横へ振った。
「答えではありませんが、入口にはなります」
スマイルボックス。
CEO直轄系統。
古い資産管理番号。
そこから辿れる記録を探せばいい。
「今回だけではありません」
ハンソンは画面を閉じなかった。
「スタッフの引き抜き。仕事の集中。ヨヨの件。契約の違約条項。それぞれ別の出来事だと思っていましたが、同じ系統から繋がっている可能性があります」
「全部調べるの?」
ミントが尋ねる。
「調べます」
即答したハンソンへ、アニスがじっと目を向けた。
「一人で?」
そこで、ハンソンは言葉を止めた。
「また一人で全部やるつもりだったでしょ」
「……少しは」
「駄目」
アニスははっきり言った。
「私たちも巻き込まれてるんだから、一緒にやる。リスもそうでしょ?」
「もちろん」
リスは迷わなかった。
ミントとプリカも異論はない。
ハンソンは四人を見回し、少し困ったように息を吐いた。
「分かりました。調査出来たことは共有します」
「『必要なことだけ』とか言わないでよ」
「努力します」
「そこは約束して」
「……約束します」
アニスの口元へ、久しぶりに少しだけ笑みが戻った。
机の上には、傷だらけの黒いデータモジュールがある。
誰が持ち出したのかは分からない。
なぜスクラッパーの廃材に混ざっていたのかも分からない。
偶然外れただけなのか、あの存在が意図して残したのかさえ確かめる方法はなかった。
けれど、これまでハンソンたちには耐える以外の手段がほとんどなかった。
父親が否定すれば、それ以上追えない。
会社が契約だと言えば、従うしかない。
今夜拾ったものは、その状況を一気に覆せる証拠ではなかった。それでも、どこを掘ればいいのかを初めて具体的に示している。
ハンソンはモジュールを保全ケースへ収めた。
「まず、これが本物か確かめます。その後、番号から関連記録を追います」
「私たちは?」
「三日間は休んでください」
「またそれ?」
アニスが不満そうな顔をする。
「今回は謹慎中でしょう」
「そうだった」
「それに」
ハンソンは四人を見る。
「休むことも必要です」
その言葉を、以前なら自分自身には適用しなかっただろう。
リスが気づいたらしく、少しだけ笑った。
「ハンソンもね」
「私は調査が――」
「休憩時間は作ります」
「……分かりました」
素直に答えたことに、今度はアニスたちが笑った。
スマイルボックスそのものは終わっていない。
二百億クレジットの契約も残っている。
テトラから自由になったわけでもなく、何一つ解決してはいない。
それでも、今日までとは一つだけ違う。
誰かが残した傷だらけのモジュールを手掛かりに、彼らは初めて、父親が作った仕組みを外側からではなく内側から調べ始めることが出来る。
そして、廃材を纏った正体不明の存在が何者だったのかについては、五人の誰にも答えを出せなかった。