Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
送信ボタンの上で止まっていたリスの指は、しばらく動かなかった。画面に入力した「明日、話したいことがある」という一文は、文字にすればそれだけのものなのに、今夜の彼女には妙に重く見える。明日と書いた以上、自分は少なくともそこまで行かなければならない。その当たり前の約束を、今の自分が本当に出来るのかと考えてしまうこと自体が嫌だった。
机の上には、スクラッパーから渡された小さな金属板が置かれている。錆と汚れにまみれた表面へ、不揃いな文字で刻まれた一文は、明るい部屋で見ても意味を変えなかった。
got to survive, no matter what
誰が刻んだのかは分からない。あの怪物めいた存在が自分で刻んだのか、もっと昔から文字の入っていた廃材を拾って鎧へ加えていたのか、それさえ確かめようがない。それでも、胸元からわざわざ引き剥がして自分へ手渡したという事実だけは、偶然では片づけにくかった。
「……ずるいなあ」
リスは誰もいない部屋で呟いた。
何があっても生き延びろ。
理由も説明せず、正体も明かさず、そんな言葉だけを押しつけて消えていった。励ましているのか、命令しているのか、あるいは全く別の意味があるのかも分からない。しかし、今のリスには逃げ道がなくなるほど直接的な言葉だった。
視線を端末へ戻す。
そして、今度は迷いながらも送信ボタンへ触れた。
◇
既読がついたのは、ほとんど直後だった。
十秒も経たないうちに通話の着信が入り、リスは画面へ表示された名前を見て小さく息を吐いた。予想していた相手ではあるが、ここまで早いとは思わなかった。
「……早すぎない?」
『何があったの?』
通話を受けた瞬間、挨拶より先にアニスの声が飛び込んできた。
「明日話すって送ったでしょ」
『見たから電話してるの。今まで普通にメッセージしてた人が、いきなり「明日、話したいことがある」なんて送ってきたら気になるでしょ』
「大したことじゃないよ」
『本当に?』
即座に聞き返され、リスは言葉に詰まった。
自分でも、大したことではないとは思っていない。スクラッパーに会ったことだけなら笑い話に出来たかもしれないが、今夜話したいと思ったことはそれだけではなかった。
『リス、今一人?』
「一人だけど」
『分かった。行く』
「え?」
『今から行くから、ドア開けて』
「ちょっと待って。来なくていいって。もう遅いし、本当に明日で――」
『明日まで待てる話なら、それでもいいよ』
アニスの声が少しだけ穏やかになる。
『でも、今のリスを一人にしたくないって私が思った。それでも来たら迷惑?』
強引に押し切られるより、その聞き方の方が断りにくかった。
リスは机の金属板へ目を向けた。スクラッパーの意味不明な仕草と同じで、今日に限っては周囲から逃げ道を塞がれているような気がする。
「……ずるいね、みんな」
『何が?』
「何でもない。分かった」
『じゃあ待ってて』
「走らなくていいからね」
『善処する』
「それ絶対走る人の返事じゃん」
通話が切れたあと、リスは端末を机へ置いた。部屋そのものは先ほどまでと何も変わっていないのに、誰かがここへ向かっていると分かっただけで静けさの意味が違って感じられた。
金属板へもう一度視線を落とす。
「……見てる、か」
自分の顔らしき場所を指し、そのあとリスを指したスクラッパーの仕草を思い出す。本当に「見ている」という意味だったのかは不明だが、少なくとも今は、アニスまで自分を見ている。
それだけでも、先ほどより呼吸が少し楽だった。
◇
インターホンが鳴ったのは、それから二十分ほど後だった。
扉を開けると、アニスは本当に走ってきたらしく、いつもより髪が乱れていた。ニケの身体なので人間のように息切れしているわけではないが、急いできたことくらいは一目で分かる。
「走らなくていいって言ったよね?」
「走ってない」
「髪」
「風」
「アークの廊下で?」
「細かいこと気にしないで」
無理のある言い訳をしながら、アニスはリスの顔を確認した。
その視線に、冗談だけではない心配が混じっている。リスはそれ以上追及せず、部屋の中へ招いた。
「ミントとプリカには連絡した?」
「リスのところ行ってくるってだけ。ハンソンにも一応伝えた。今すぐ全員で押しかけたら嫌かなと思って、まず私だけ来た」
「……ちゃんと考えたんだ」
「失礼じゃない?」
「昔だったら三人連れて来そうだったから」
「私だって成長するよ」
アニスは適当な椅子へ座った。
リスも向かいへ腰を下ろしたが、いざ相手が目の前に来ると、何から話せばいいのか分からなくなった。アニスも急かさず、ただ待っている。
先に沈黙へ耐えられなくなったのはリスだった。
「……聞かないの?」
「何を?」
「だから、話したいこと」
「話したくなったら話して」
「電話ではあんなに急いでたのに」
「来るまでは急ぐ。でも、来たあとまで急かしたら意味ないでしょ」
言われて、リスは少しだけ笑った。
「本当に成長したね」
「それ二回目」
「だって昔と違うから」
「リスが話逸らしてるのも昔と同じだけど」
見抜かれていた。
リスは観念し、机の上に置いていた金属板を手に取った。
「今日、変なのに会った」
「変なの?」
「ものすごく変なの」
差し出された板を受け取ったアニスは、表面の文字へ目を落とした。意味を読み取ったところで眉を寄せ、裏側まで確認する。
「これ、どこで拾ったの?」
「拾ってない。もらった」
「誰に?」
リスは一拍置いた。
「スクラッパー」
アニスの動きが止まった。
「……は?」
「廃材纏いのスクラッパー。たぶん、アニスたちが前に会ったのと同じやつ」
「ちょっと待って!」
さっきまでの落ち着きが一気に消えた。
「どこで会ったの!? 何された!?」
「何もされてないよ。むしろ、これをくれた」
「何で!?」
「それが分かったら私も困ってない」
リスは今夜起きたことを順番に説明した。重い足音とともに現れたこと、以前より明るい場所で見ると信じられないほど大量の廃材を身につけていたこと、顔らしき部分から自分を順番に指して「見ている」とでも言うような仕草をしたこと。そして、鎧から小さな金属板を力任せに引き剥がし、自分へ渡してきたことまで話す。
アニスは途中から何度も金属板へ視線を落としていた。
「で、そのあとこれ」
リスは手を上げ、記憶を頼りに例の形を作った。掌を前へ向け、親指を外側へ開き、人差し指と中指、薬指と小指をそれぞれ揃えて、その二組の間だけを開く。
アニスが首を傾げる。
「何それ」
「知らない」
「挨拶?」
「多分。でも見たことない」
アニスも真似しようとして指を動かしたが、思ったように分かれず、何度かやり直した。
「地味に難しくない?」
「そこが気になる?」
「意味分かんないから、他に考えるところないじゃん」
リスは吹き出しかけ、今度こそ少しだけ普通に笑った。
「その手をやったあと、また歩いて消えた」
「本当に同じだ。私たちの時も角曲がったらいなくなった」
「今度はちゃんと追ったんだけどね。やっぱりいなかった」
「……何なの、あれ」
「私が聞きたいよ」
アニスはもう一度金属板を見る。
「でも、この言葉をリスに渡したってことは……」
「うん」
リスの笑みが消えた。
話したいことの本題は、ここからだった。
◇
「アニス」
「何?」
「ちょっと見せたいものがある」
リスは端末を手に取り、保存していた下書きを開いた。
画面には、短い一文だけが残っている。
『台無しにしてごめんなさい』
アニスは最初、その意味を理解出来なかったらしい。画面とリスの顔を何度か見比べ、やがて表情が変わった。
「……これ、何?」
「昨日まで書いてたもの」
「誰に?」
「みんなに」
声が震えそうになるのを抑えながら、リスは自分の手元へ視線を落とした。
「スマイルボックスを止めたの、私でしょ。T.T.STARは謹慎になって、ランキングの勢いも止まった。ネットを見たら、私のせいで全部台無しになったってずっと書かれてて……三人は違うって言ってくれたけど、自分がいない方がいいんじゃないかって考えるようになった」
「リス」
「分かってる。今こうやって話すと、すごくおかしいこと言ってるって分かるんだけど」
リスは一度言葉を切った。
「その時は、本気だった」
アニスの視線が、短い文章へ戻る。
「これを残して……?」
「うん」
それ以上言わなくても意味は伝わった。
アニスの手から力が抜け、金属板が机へ置かれる。何か言おうとした口が何度か開いたが、すぐには言葉にならなかった。
「でも、しなかった」
リスは先に続けた。
「出来なかった、の方が近いかもしれない」
「どうして?」
問いかける声が掠れていた。
リスは机の上の金属板を見る。
got to survive, no matter what
「どこの誰かも分からない都市伝説に、生きろって言われたから」
アニスは笑わなかった。
「それだけ?」
「それだけって言われると困るけど……本当に、それがきっかけ」
リスは自嘲するように笑った。
「正体不明のガラクタ怪人に人生止められたって、冷静に考えるとすごい話だよね」
「よかった」
その一言で、リスの表情が止まる。
「何が?」
「止められて、よかった」
アニスは真っ直ぐリスを見た。
「スクラッパーでも、幽霊でも、誰かがあの格好してたんでも、何でもいい。そいつが本物かどうかなんて今はどうでもいいよ。リスがここにいるなら、それでいい」
「でも私のせいで――」
「違う」
「ランキングだって」
「どうでもいい」
「アニス」
「本当にどうでもいい!」
声が大きくなり、アニス自身が一度息を止めた。それでも、言葉を引っ込めようとはしなかった。
「一位でも十三位でも圏外でもいい。アイドル辞めることになったっていいよ。リスがいなくなるくらいなら、そんなの全部どうでもいい」
「……星になるって言ってたくせに」
「リスがいないところでなったって意味ないでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、リスは視線を逸らした。
スマイルボックスでは泣かなかった。処分を受けても泣かなかった。ネットの言葉を一人で読んでいる時も、泣けば本当に負けたような気がして我慢していた。
今になって、全部が一度に崩れ始める。
「私、ちゃんとしたかったの」
声が震えた。
「学校の時に約束したから。アニスがアイドルになったら、私がマネージャーになるって言ったから、ちゃんと支えたかった。なのに、いざマネージャーになったら止めるの遅くて、みんな傷ついて、最後は私がイベント壊して……」
「壊したんじゃない」
「もっと出来たはずなの」
「出来なくてもいいよ」
「それじゃ駄目なの」
「じゃあ、これからやればいいじゃん」
リスが顔を上げる。
アニスの目にも涙が浮かんでいた。
「失敗したなら、明日やり直せばいい。明日駄目だったら、その次の日にまた考えればいい。それを繰り返してけばいいでしょ」
「そんな簡単に……」
「簡単じゃないよ。私だって分かってる」
アニスは机の金属板を指した。
「でも、リスだって『明日、話したいことがある』って送ってきたじゃん」
言われて、リスは自分が送った文章を思い出した。
明日。
確かに、自分で書いた。
スクラッパーが送ったわけではない。
アニスに無理やり書かされたわけでもない。
あの金属板を見たあとで、それでも最後に送信したのは自分だった。
「……うん」
リスは両手で顔を覆った。
「明日もいたい」
その一言を口にすると、それ以上は続けられなくなった。
アニスは席を立ち、リスの隣へ座った。何か気の利いた言葉を言うでもなく、ただ隣にいる。
それで十分だった。
◇
その夜、リスを一人にはしないことが決まった。
本人の許可を得てからアニスがミントとプリカへ連絡し、少し遅れて二人も部屋へやって来た。事情を聞いたミントは最初こそ泣きそうな顔をしたが、無理に明るく振る舞うことはせず、プリカも質問攻めにはしなかった。四人で簡単な食事を取り、スマイルボックスともテトラとも関係のない話を続けた。
ハンソンが訪れたのは、さらに少し後だった。
リス本人から話を聞いたあと、彼はしばらく何も言えなかった。自分がもっと早く異変へ気づくべきだったという考えが表情へ出かかったが、アニスの視線に気づき、口にする前に飲み込む。
「リス」
「はい」
「明日から、しばらく仕事を休んでください」
「もう処分は終わってます」
「処分とは関係ありません」
「でも、調査もあるし――」
「戻りたいと思えるまで戻らなくて構いません」
ハンソンは普段より慎重に言葉を選んでいた。
「必要な支援はこちらで手配します。誰かにいてほしい時は必ず連絡してください。仕事のことは、今は私たちへ任せてください」
「テトラが許しますか?」
「許させます」
珍しいほど強い断言だった。
プリカが少しだけ眉を上げる。
「珍しく強気」
「今回は父の都合へ合わせるつもりはありません」
ハンソンの目が、机の上の金属板へ向く。
「それで、これがスクラッパーから?」
「はい」
リスはもう一度、遭遇した時のことを説明した。ハンソンは途中で口を挟まず、最後まで聞いてから金属板を手に取る。
「製造元は分かりませんね」
「スクラッパーが刻んだと思います?」
ミントが尋ねる。
「判断出来ません。この傷だけでは古さも特定出来ませんし、最初から文字が入っていた板を拾った可能性もあります」
「じゃあ、あの変な手は?」
アニスが例の形を再現する。
今度は少し上手く出来たらしく、本人は妙に満足そうだった。
「これ」
ハンソンは数秒間その手を見た。
「……何ですか、それは」
「やっぱり知らない?」
「見たことがありません」
「プリカは?」
「知らない」
「ミント?」
「私も」
五人全員が意味を特定出来なかった。
軍のサインでもなければ、アークで一般的な挨拶でもない。リスが感じた通り、親しげな意味のある仕草には見えるものの、それ以上はどうしようもなかった。
「少なくとも」
ハンソンは金属板をリスへ返す。
「こちらに書かれている内容には、従っていただけると助かります」
リスは刻まれた文字を見る。
「ハンソンまで」
「今回はスクラッパーと意見が一致しました」
思いがけない言い方に、ミントが吹き出した。重かった部屋の空気が、ほんの少しだけ緩む。
リスも金属板を両手で持ちながら、今度は無理をせずに笑った。
◇
夜もかなり遅くなり、ハンソンはリスの休養手続きと調査の続きについて整理するため、一度テトラへ戻ることになった。ミントとプリカも必要な物を取りに出ることになったが、アニスだけは帰ろうとしなかった。
「私、今日ここにいる」
「ベッド一つしかないよ」
「ソファでいい」
「ニケがソファで寝るの?」
「さっきからその扱い何なの」
リスは少し考えてから、アニスに毛布を渡した。
「じゃあ借りて。私はちゃんと寝るから」
「確認するまで寝ないよ」
「監視?」
「見ているぞ」
アニスは真顔で、自分の目からリスを指す仕草をしてみせた。
「それ、今やる?」
「スクラッパー式」
「勝手に命名しないでよ」
二人とも少し笑った。
部屋の照明を落としてからも、しばらく眠気は来なかった。暗い室内では金属板の文字も読めなくなっているが、そこにあることだけは分かる。
「リス」
ソファからアニスの声がした。
「何?」
「明日話したいことって、スクラッパーのことだった?」
リスは少し考えた。
「最初はね」
「今は?」
「もっとある」
「じゃあ明日聞く」
「うん」
今度は、明日という言葉を口にしても怖くなかった。
リスは端末を開き、保存されていた下書きを表示した。
『台無しにしてごめんなさい』
しばらく見つめたあと、削除する。
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何を書くかはまだ決めていない。それでも、途中のままになっている仕事も、アニスたちと話したいことも、プリカと以前から作りかけている曲も残っている。
考える時間は、これから作ればいい。
端末を伏せる前に、リスは机の金属板へもう一度目を向けた。誰がその言葉を刻んだのか、スクラッパーがなぜ自分へ渡したのかは、今も分からない。
それでも今夜だけは、自分で意味を選ぶことにした。
何があっても、生き延びる。
明日、話したいことがあるのだから。