Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
翌朝、リスが目を覚ました時には、カーテン越しに人工の朝日が差し込んでいた。スマイルボックスの記憶も、ネット上に並んでいた言葉も、一晩眠っただけで消えてくれたわけではない。それでも昨日の自分が「明日」と呼んだ日まで実際に辿り着いたことには、思っていた以上の実感があった。
ソファへ目を向けると、アニスは毛布に包まりながら横になっている。人間のように長時間の睡眠を必要とするわけではないはずだが、昨夜はリスが眠るまで付き合うと言い張り、そのまま部屋へ残ったのだ。
「人の家でよく寝るなあ」
「……起きてる」
目を閉じたまま返事が来たので、リスは思わず笑った。
「じゃあ起きなよ」
「リスがちゃんと朝までいるの確認してから起きようと思ってた」
「監視継続中?」
「見ているぞ」
アニスは毛布の中から片手だけを出し、昨日覚えたスクラッパー式の仕草をする。自分の目を指したあと、リスへ指先を向けるだけの簡単なものだったが、それが昨夜とは違って冗談として使われていることに、リスは少し救われた。
「本人に怒られても知らないよ」
「喋らないんだから怒るか分かんないじゃん」
「また会う前提なの?」
「もう二回出てるし」
そこで二人とも、机の上に置かれた金属板へ視線を向けた。
got to survive, no matter what
朝になっても文字は消えていなかった。当たり前のことなのに、夢ではなかった証拠のように見える。リスは金属板を布で包み、棚へしまおうとしてから少し考え、結局鞄の中へ入れた。
「持ってくの?」
「お守りにしようかな」
「スクラッパーのお守り?」
「自分で言ってて怪しいと思う」
「でも御利益はあったじゃん」
「何の?」
「生存」
あまりにもそのままな答えに、リスはまた笑った。
昨日までなら、そんな言葉を冗談として受け取ることすら出来なかったかもしれない。自分が急に元気になったわけではないし、この先また同じ考えに捕まらない保証もない。それでも今は、アニスとこんなやり取りを続けられる程度には、昨日より少しだけ呼吸が楽だった。
その時、玄関の呼び出し音が鳴った。
「早いね。ミントたち?」
アニスが時計を見る。
「来るなら連絡するって言ってたけど」
リスは玄関へ向かい、確認画面を開いた。
映っている顔を見た瞬間、指が止まる。
「……どうしたの?」
後ろからアニスの声がする。
リスは返事をせず、画面をもう一度確認した。見間違いではない。
学生時代、クラス委員長としてアニスを孤立させた少女。後にヨヨという名でトップアイドルとなり、T.T.STARとの一件を経て芸能界を去った女が、リスの自宅の前に立っていた。
「委員長」
リスが漏らした呼び方に、アニスの表情も一変した。
「……何でいるの?」
「分からない」
「開けなくていいよ」
即座に返ってきた言葉には、迷いがなかった。
リスもその方が安全だとは思った。ヨヨが今さら自宅を訪ねてくる理由など、好意的なものとは考えにくい。昨日までの自分なら、顔を見ることすら怖くて、そのまま居留守を使ったかもしれなかった。
しかし今日は、少しだけ違った。
「アニス、後ろにいて」
「開けるの?」
「うん。でも、何かあったら止めて」
「最初から止めたいんだけど」
「お願い」
アニスは納得していない顔だったが、リスが本気だと分かると玄関から一歩だけ離れた。
リスは一度息を整え、扉を開いた。
◇
「おはよう」
ヨヨは笑っていた。
かつて画面の向こうで何万人もの視線を集めていた頃と同じ、整った笑顔だった。ただし、今の彼女は華やかな衣装ではなく地味な私服を身につけ、化粧でも隠しきれない疲労を顔に残している。トップアイドルだった頃の余裕が形だけ残り、中身だけが抜け落ちたようにも見えた。
「……何の用?」
リスが尋ねると、ヨヨはまず彼女の顔を観察した。
「思ったより元気そう」
「それを確認しに来たの?」
「まさか」
笑みが少し歪む。
「どんな顔してるのか、見てみたかっただけ」
胸の奥が僅かに縮んだ。
「どんな顔?」
「せっかく一位まで行ったのに、自分で全部止めちゃった人の顔」
昨日まで何度も読んだ言葉と重なった。
マネージャーのせいで台無しになった。
あの女が余計なことをした。
T.T.STARの足を引っ張った。
もう消したはずの文章が、頭の中で一度に蘇りかける。
「帰って」
背後から声がした。
ヨヨの笑顔が固まる。
アニスがリスの横まで歩いてきた。
「……何であなたがいるの?」
「いたら悪い?」
「どうして」
「昨日から泊まってたから」
ヨヨはしばらくアニスだけを見ていた。
「ここに?」
「友達の家に泊まるの、そんなに変?」
「友達……」
その言葉を確かめるように、ヨヨが繰り返した。
表情から、今まで浮かべていた作り物の笑みが少しずつ消えていく。
「昔からそうだった」
「何が?」
「私が休んだ時も」
リスの肩が僅かに強張る。
「私が学校を休んだ日に、この人があなたへ近づいた。勝手に謝って、勝手に友達になって……今度もまた、私のいないところで一緒にいる」
「ちょっと待って」
アニスの声が低くなった。
「何が『勝手に』なの?」
「だって、私は――」
「私、あなたのものじゃないんだけど」
ヨヨの言葉が止まった。
アニスはさらに前へ出ようとしたが、リスが腕を伸ばして制した。
「私が話す」
「でも」
「大丈夫」
そう言ってから、リス自身がその言葉を心の中でもう一度繰り返した。
大丈夫。
怖くないわけではない。ヨヨの最初の一言だけで昨日までの考えが戻りかけたし、もし一人だったなら、この場に立っていられたかも分からない。
けれど、今は一人ではない。
「そうだよ」
リスはヨヨを見る。
「あなたが休んだ日に、私からアニスへ話しかけた」
「やっぱり」
「だって、あなたがいる時に話したら、またアニスへ何をするか分からなかったから」
ヨヨの眉が僅かに動く。
「私はあなたが怖かった。家の力もあったし、クラスのみんなも逆らえなかった。私だって最初はアニスを無視する側にいたし、それをずっと後悔してる」
「今さら善人ぶってるの?」
「善人じゃないよ」
リスは迷わず否定した。
「間違えたから謝っただけ。スマイルボックスでも、もっと早く止めるべきだったと思ってる。三人が一位まで頑張りたいって言った時、私も出口が見つかるかもしれないって期待して、続けることを認めた」
隣でアニスが何か言おうとしたが、リスは一度だけ首を横へ振った。
「でも、最後に止めたことは間違いだったとは思ってない」
昨日の自分なら言えなかった。
ヨヨは黙っている。
「あのまま続けてたら、アニスたちはもっと傷ついてた。私はマネージャーだから止めたし、友達だから止めた。ランキングが落ちたとしても、そこまで謝るつもりはない」
「二十八位まで落ちたのに?」
「うん」
「メジャーデビューだって遠のいたのに?」
「それでも」
声が震えないとは言えなかった。
それでも、最後まで言葉を続けた。
「アニスたちが壊れるよりいい」
ヨヨは理解出来ないものを見るような顔をした。
◇
「何で?」
しばらくして、ヨヨが尋ねた。
「何が?」
「何であなたなの?」
リスにも、最初は質問の意味が分からなかった。
「私の方がずっと見てた」
今度はアニスの表情が変わる。
「学校でも、アイドルになってからも。私の方が先にアニスを知ってた。ずっと見てたのに、どうしてあなたが隣にいるの?」
「委員長」
「私が先だった!」
ヨヨの声が大きくなった。
廊下へ響くほどではないが、それまで保っていた外面は完全に消えていた。
「私が先に見つけたのに、あなたが勝手に入ってきた! 私が一番だった場所へアニスが入ってきて、今度はあなたまでアニスの側にいる。私から全部取っていく!」
リスはようやく理解した。
ヨヨがここへ来た理由は、スマイルボックスそのものではない。
ランキングでもない。
少なくとも、それだけではなかった。
「私がアニスを取ったと思ってるの?」
「違うって言うの?」
「違うよ」
「じゃあ何なの!」
「アニスは誰のものでもない」
リスは自分でも驚くほど落ち着いた声で答えた。
「私のものじゃないし、あなたのものでもない。誰と友達になるかも、誰の隣にいるかも、アニスが自分で決めることだよ」
「……私を選ばなかった」
「選んでもらえるようなこと、した?」
問い返すと、ヨヨは黙った。
アニスも横から何も言わない。
「無視させて、追い詰めて、アイドルになってからは仕事を取って、会話まで編集した。それで『私を選ばなかった』って言うのは違うでしょ」
「うるさい」
「嫌なら聞かなくていいよ」
「うるさい!」
ヨヨが一歩踏み込んだ。
アニスも反射的に前へ出ようとしたが、それ以上のことは起きなかった。ヨヨは拳を握っただけで、リスにもアニスにも手を出さない。
代わりに、彼女の視線が部屋の奥へ向いた。
「……何、あれ」
リスもつられて振り返る。
机の端に、布から少しだけ金属板が覗いていた。昨夜しまったつもりだったが、アニスが朝に触った時、そのままにしていたらしい。
「お守り」
「は?」
「私もよく分からないけど、昨日もらった」
「誰に?」
「都市伝説」
ヨヨが、本気で意味を理解出来ない顔をした。
「あなた、頭おかしくなったの?」
「そう思ってくれていいよ」
リスは少し笑った。
「でも、今の私には結構効いてるから」
ヨヨは数秒だけ金属板を見ていたが、やがて興味を失ったように顔を背けた。
「もういい」
そのまま踵を返す。
「帰るの?」
アニスが尋ねると、ヨヨは背中を向けたまま答えた。
「もっと惨めな顔してると思った」
リスの胸が、一瞬だけ痛んだ。
昨日なら。
たぶん、本当にそうだった。
「昨日なら、してたかもね」
ヨヨの足が止まる。
「今日は違うの?」
「少しだけ」
リスは机の方へ視線を向けた。
「明日は、多分もう少しましになる」
ヨヨは振り返らなかった。
そのまま廊下を歩いていき、やがて姿が見えなくなる。リスは扉を閉じ、施錠まで済ませてから、ようやく壁へ背を預けた。
◇
「……怖かった」
正直に言うと、アニスがすぐ隣へ立った。
「途中で追い返そうと思った」
「顔に出てた」
「何回か殴りそうにもなった」
「それはやめて」
「分かってるよ」
不満そうに答えながらも、アニスはリスの顔をじっと確認している。
「大丈夫?」
「大丈夫って言い切るのは、まだ無理かな」
「うん」
「でも昨日よりは大丈夫」
リスは自分の手を見た。
僅かに震えていた。
ヨヨの言葉は確かに痛かった。スマイルボックスを止めたせいでランキングが落ちたという事実も、都合よく消えてくれるわけではない。今夜一人になれば、また思い出すかもしれなかった。
それでも、自分の口で「止めたことは間違いではない」と言えた。
その事実も消えない。
「ねえ、アニス」
「何?」
「昨日、『明日話したいことがある』って送ったでしょ」
「うん」
「スクラッパーのこと以外にも一つある」
リスは部屋の奥へ戻り、棚から小さな記録媒体を取り出した。
「これ」
「何?」
「曲」
アニスが目を丸くする。
「プリカと前から少しずつ作ってたの。私、作曲なんてほとんど分からないから、実際に作ってるのはプリカだけど」
「聞いてないんだけど」
「内緒だったからね」
「何で?」
「完成してから驚かせたかった」
リスは記録媒体を両手で持った。
「昨日は、これも途中のまま置いていこうとしてた」
アニスの表情が曇る。
「でも、やめた」
今度は自分から笑えた。
「ちゃんと完成させたい。プリカと最後まで作って、T.T.STARに歌ってほしい」
「歌う」
返事があまりにも早くて、リスは瞬きをした。
「まだ聴いてないよ」
「完成したら歌う」
「ミントにも聞かなきゃ」
「絶対歌うって言うよ」
「プリカにも決定権あるからね」
「じゃあ全員で決める」
アニスの勢いに押され、リスは笑った。
昨日まで、自分がいなくなった後のことを考えていた。
今日は、自分がいる先のことを話している。
たった一日で全部が変わったわけではない。明日になればまた苦しくなるかもしれず、スクラッパーの金属板一枚だけで心の傷が治るほど簡単でもない。
それでも、未来へ置ける予定が一つ増えた。
「じゃあ、プリカに連絡しよう」
「今日?」
「今日でもいいけど、ハンソンに休めって言われてるし」
「ちゃんと言うこと聞くんだ」
「生き延びるには、休むのも必要らしいからね」
アニスは一瞬だけ驚いたあと、嬉しそうに笑った。
リスも、その笑顔へ無理なく笑い返すことが出来た。