【第1部完結】Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:神木レイト
第64話 記録する男、もう一度
冷凍ポッドの内部へ白い照明が差し込んだ時、ネイトが最初に考えたのは、今度はいったい何年経ったのかということだった。身体へ感覚が戻るより先にその疑問が浮かぶあたり、自分でも随分この目覚め方へ慣れてしまったらしい。透明な蓋が開き、冷気が床へ流れ落ちる向こうでエイブの姿を確認すると、ネイトはまだ力の入りきらない腕を使ってゆっくり上体を起こした。
「先に聞くぞ。何年だ?」
「一年も経ってない」
「よし」
「その基準で安心するな」
エイブに支えられながらポッドから降り、ネイトは左腕のPip-Boyが正常に動作していることを確認した。十四年という数字を聞かされた過去を思えば、数か月程度なら昨日の続きに近い。もっとも、自分が眠っている間にもアークではかなり大きな出来事があったらしく、エイブから渡された簡単な報告だけでも、知らない名前や事件がいくつも増えていた。
「ハンソンがマスタングになった?」
その一項だけは、さすがに二度読みした。
「そうらしい」
「俺が寝てる間に何があったんだ」
「色々」
「便利な言葉だな、それ」
「全部知りたいなら本人に聞け。私は芸能界の事情まで追ってない」
もっともな話だった。ネイトも、自分が眠っている間に起きたすべてを把握するつもりはない。誰かが自分を必要とした時に起こしてくれと言って冷凍へ戻ったのであり、世界の出来事を漏れなく観察するために眠っているわけではなかった。
「で、今回は誰だ?」
尋ねると、エイブは通路の先へ顎を向けた。
「フリージアが待ってる」
その名前を聞いた瞬間、ネイトは少しだけ表情を引き締めた。
◇
フリージアはVault-Nの小さな談話室にいた。プリティーだった頃のものとは異なる新しいボディにも、今ではかなり慣れている。棚には昔のライブ映像やアークで流通していたプリティー関連の記録が並んでいたが、それらを現在の自分そのものと混同する様子も、以前に比べればずっと減っていた。
ネイトが入室すると、フリージアはすぐに立ち上がった。
「おはよう、ネイト」
「数か月ぶりらしいな」
「寝起きの感想がそれ?」
「十四年よりはいい」
「その話、エイブからも聞いた」
少し笑ったあと、フリージアはテーブルへ置いていた端末を伏せた。普段ならもう少し雑談を続けるところだが、今日はそのためにネイトを起こしたのではないことが表情から分かる。
「パパのことなんだけど」
ネイトは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「オスワルドか」
「うん」
フリージアが頷く。
「最近、表に出ることがほとんどなくなってる。昔の記録を集めたり、残したりする仕事をずっと続けてるみたいなんだけど……年齢も年齢だから」
「会いたいのか?」
すぐには返事がなかった。
かつてフリージアとオスワルドの間には、先代マスタングによって深い溝が作られた。プリティーとして活動していた頃には、その傷を埋める機会を得られないまま、公の歴史から退場することになった。現在のフリージアが生きていることを知る者はごく限られており、父親であるオスワルドさえ、その事実を知らない。
「会いたい」
やがて、フリージアは正直に答えた。
「すごく会いたい。でも、今の私がそのまま出ていったら駄目なのも分かってる。プリティーは死んだことになってるし、パパが守ってるものまで危なくなるかもしれない」
「なら、俺が伝える?」
フリージアは顔を上げた。
「いいの?」
「そのために起こしたんじゃないのか?」
「最初は……頼んでいいのか迷ってた」
彼女は指先を重ね、少しだけ俯いた。
「ネイトはまた眠るために時間を残してるんでしょ。私の家族のことで起こしていいのかなって」
「俺が必要になるようなことがあったら起こせって言っただろ」
「これは必要?」
「お前が一人じゃ出来ないなら、十分だ」
ネイトにとっては、それ以上の理由はいらなかった。
もっとも、Vault-Nに関わる秘密を一人の判断で外へ持ち出すわけにはいかない。ネイトが目覚める前に、フリージアはすでにエイブやリリスたちへ相談していた。オスワルド本人に限って自分の生存を伝えることについては了承が得られており、リリス自身も、必要になった場合には現在の状態を話して構わないと認めている。
「じゃあ、何て言ってほしい?」
ネイトが尋ねると、フリージアは長い時間を掛けて言葉を選んだ。
「プリティーは死んだって」
「そこは変えないんだな」
「うん。あの子はあの日に終わったから」
そこに自己否定や後悔の響きはなかった。プリティーとして生きた時間を自分の中から消そうとしているわけでもない。ただ、あの名を永遠に背負い続けるのではなく、今はプリティーではなく、フリージアという本来の名前を持つ一人の女性として生きることを選んだのだ。
「でも」
フリージアはネイトを見た。
「フリージアは生きてるって言って」
「ああ」
「元気だって」
「ああ」
「それから……」
そこで声が少し震えた。
「会いたいって言ったら、困るかな」
「それを決めるのはオスワルドだろ」
ネイトは肩をすくめた。
「伝えるところまで俺がやる。返事はあいつに考えさせればいい」
フリージアは目元を拭い、小さく笑った。
「お願い」
「任された」
それだけ言って立ち上がろうとすると、フリージアが慌てて呼び止めた。
「ネイト」
「何だ?」
「パパにだけだからね」
「アーク中に放送したりしない」
「そういう意味じゃない!」
「分かってるよ」
軽口を返しながらも、ネイトはその頼みがどれほど重いものか理解していた。死んだと思っていた娘が生きている。その事実を、何十年も娘の死を抱えて生きてきた父親へ届けなければならない。これまで幾つもの戦場を歩いてきたネイトだったが、銃を持って敵の前へ出る方が、よほど気楽な仕事に思えた。
◇
オスワルドの現在地を探すこと自体は、以前ならかなり難しかった。しかし現在のネイトには、アーク最大級の企業を動かす知人がいる。
安全な中継地点から通信を繋いだ時、画面に現れた人物を見て、ネイトはしばらく何も言わなかった。
『どうしましたKA?』
「……ハンソン?」
『今はマスタングですYO!』
「何があった」
『非常に長い話になります』
「服も?」
『必要なんです』
「喋り方も?」
『かなり必要なんですYO!』
最後だけ妙に力が入った。事情を全部聞く時間はなかったが、少なくとも画面の向こうにいる男が自分の意思でその姿になったことだけは確認出来た。
ネイトは笑いを堪えながら本題へ入り、オスワルドという人物を捜してほしいと頼んだ。
『理由を伺っても?』
「古い友人に会いたい」
『それだけですか?』
「それだけで探してくれると助かる」
マスタングは少し考えた。
『分かりました。ただし、中央政府の記録に直接触れる可能性があります。時間はいただきますYO』
「頼む」
通信を終えた三日後、指定されたアーク市街の外れにある古いテトラの資材倉庫で、ネイトは再びマスタングと顔を合わせた。
「三日も?」
「むしろ三日で見つけたことを褒めていただきたいですね」
「CEOって便利だな」
「あなたのためにCEOになったわけではありません」
「知ってる」
派手な外見とは裏腹に、口調が一瞬で以前のハンソンへ戻った。そのことを指摘すると本人が嫌そうな顔をしたため、ネイトはそれ以上からかわなかった。
テーブルには、アークの図書館施設と、その地下にある管理区画の見取り図が表示されている。
「オスワルドさんは、表向きにはほぼ引退状態です。ただ、アーク創設期から残る記録群の整理と保全に今も関わっています」
「やっぱり記録か」
「知っていたんですか?」
「昔からそういう男だった」
戦場で誰が何をしたのか。どんなニケが戦い、誰が帰らなかったのか。そして、勝者の都合で何が消されそうになっているのか。オスワルドは昔から、そうしたものが忘れ去られることを嫌う男だった。
「本人へ、俺が行くって伝えたか?」
「いいえ。あなたの希望通り、何も知らせていません」
「助かる」
「本当に突然行くんですか?」
「その方が逃げられない」
「旧友への会い方として正しいのか疑問ですが」
ネイトは見取り図を端末へ保存した。
「一つ借りが出来たな」
「でしたら、いずれ返していただきます」
「利息は?」
「高いですよ」
「やっぱりCEOって嫌いだ」
マスタングが僅かに笑った。それ以上、彼はネイトの目的を尋ねず、ネイトも自分から話そうとはしなかった。
◇
アークの図書館は、人類が地下へ移り住んだ時代から積み重ねられてきた記録を抱えていた。一般区画を抜け、許可された者しか入れない管理通路をいくつも通過すると、華やかな閲覧室とはまるで違う古い一角へ辿り着く。そこには紙媒体から初期型の記録装置まで、保存形式の異なる資料が年代ごとに並べられていた。
新しい設備に置き換えられた場所もある一方で、あえて古いまま残されている棚も多い。ネイトには、その理由が何となく分かった。新しいデータベースだけに頼れば、管理者が変わった時に記録ごと消される危険があるが、紙や独立した記憶媒体まで分散させておけば、すべてを一度に消し去ることは難しくなる。
「相変わらず用心深いな」
小さく呟きながら進んでいると、奥の机に一人の老人が座っているのが見えた。
白髪は大きく増え、背中も以前より少し丸くなっている。それでも、机へ向かって資料を読む横顔には、ネイトが知っている頃の面影がはっきりと残っていた。
ネイトはすぐには声を掛けなかった。最後に直接顔を合わせた時、自分はまだ今ほど長い眠りを繰り返すつもりではなく、オスワルドもここまで年老いてはいなかった。眠ることで時間を飛び越えた人間と、その時間を一日ずつ生き続けた人間の差が、目の前にそのまま現れているようだった。
「老けたな、オスワルド」
老人の手が止まり、ゆっくりと顔が上がった。最初は何を見ているのか理解出来なかったらしい。次に幽霊でも見たような顔になり、そのあとで目を細めた。
「……ネイト?」
「久しぶりだ」
「君は……」
オスワルドは椅子から立ち上がった。
「君は、何で昔と同じ顔をしているんだ」
「寝てた」
「何だと?」
「長い話だ」
何十年ぶりかの再会で最初に説明することが冷凍睡眠だとは、ネイト自身も思っていなかった。
事情を簡単に聞き終えると、オスワルドは深く椅子へ腰を下ろした。
「君という男は……」
「そこまで呆れることか?」
「普通は、自分の寿命を冷凍保存で分割しようとは考えない」
「俺の元いた世界じゃ、冷凍庫から二百年以上あとに出されることもある」
「比較対象がおかしい」
「それはそうだな」
昔と変わらない返しが戻ってきたことに、ネイトは少しだけ安心した。オスワルドも同じだったらしく、しばらく互いの顔を見たあと、小さく笑った。
「本当に、久しぶりだ」
「ああ」
今度は冗談を挟まなかった。
◇
オスワルドは、ネイトを記録区画のさらに奥へ案内した。並んでいるのは英雄の記録だけではない。名も知られない兵士や量産型ニケ、避難民を守るために帰還しなかった部隊、行方不明のまま処理された人々についても、可能な限り経歴や最期が残されていた。
多くの記録の末尾には、同じ一文が添えられている。
敬意と感謝を。
「全部、お前が?」
「私一人ではない。協力してくれた人間もいるし、これから引き継ぐ者もいる」
オスワルドは棚を見上げた。
「ただ、始めた理由は単純だ。忘れられたら、本当にいなくなると思った」
ゴッデスもそうだった。アークを守るため地上へ残りながら、政治的な都合で英雄として迎え入れられることはなかった。むしろオスワルド自身が彼女たちへ門を閉ざした男として、その憎しみを引き受けることになった。
「まだ、自分を悪役にしたままか」
ネイトが尋ねると、オスワルドは苦笑した。
「必要だった」
「ゴッデスを捕まえさせないために?」
「あの時、アークへ入れれば安全になる保証はなかった。むしろ彼女たちの身体も、戦闘記録も、すべて中央政府の管理下へ置かれていただろう」
「だから門を閉じた」
「彼女たちに恨まれる方がましだった」
ネイトは否定しなかった。正しい選択だったと簡単に美化するつもりもない。結果としてドロシーたちは深く傷ついたが、それでもオスワルドが彼女たちを憎んで切り捨てたわけではないことを、ネイトは知っている。
「記録まで残してるんだから、説得力はあるな」
「誰かは覚えていなければならない」
オスワルドは一冊の記録を棚へ戻した。
「私が死んでも残る形で」
「死ぬ気が早くないか?」
「君と違って普通に年を取るんだ」
「それ言われると弱いな」
ネイトは笑ったが、オスワルドは少しだけ寂しそうな顔をした。
「君はこれからも眠るのか?」
「必要ならな」
「百年後にも同じ顔で現れそうだ」
「その時はさすがに起こした奴へ文句を言う」
「君なら言うだろうな」
昔の話をしているうちに、時間だけが妙に巻き戻ったように感じられた。しかし、ネイトがここへ来た理由は思い出話だけではない。伝えなければならないことがある。
◇
「オスワルド」
声の調子が変わったことに、相手も気づいた。
「何だ?」
「今から話すことは、ここにも記録しないでくれ」
その一言だけで、オスワルドの表情が引き締まった。
「理由は?」
「まだ記録に残った方が危ない人間がいる」
「分かった」
迷いなく頷いた。
「聞こう」
ネイトはまず、リリスについて話した。公には死んだことになっており、その事実を今すぐ覆すつもりはない。しかし脳そのものは失われておらず、Vault-Nで生命維持が続けられている。エイブたちは本人が再び自分の身体で立てる日を目指して新しいボディの研究を続けており、その可能性をまだ諦めてはいなかった。
オスワルドは、話の途中からほとんど動かなかった。
「……リリスが?」
「ああ」
「生きているのか」
「身体はない。起きて歩ける状態でもない。でも、生きてる」
オスワルドは目を閉じた。長い人生の中で、何度も彼女たちの記録へ向き合ってきたのだろう。
「そうか」
声は小さかった。
「そうか……」
同じ言葉をもう一度繰り返した。ネイトは急かさず、相手が自分で顔を上げるのを待った。
「それを私へ教えてよかったのか?」
「本人も了承してる」
「彼女が?」
「ロボブレインに入れる案だけは今でも嫌がってる」
オスワルドは一瞬きょとんとしたあと、堪えきれず笑った。
「それは……本人らしいな」
「全力で拒否された」
「容易に想像出来る」
重くなりすぎた空気が少しだけ和らいだ。それでも、次の話はネイトにとってさらに難しかった。
「もう一人いる」
オスワルドがこちらを見る。
「誰だ?」
ネイトは一度だけ息を整えた。
「プリティーは死んだ」
老人の表情が固まった。
「何を──」
「最後まで聞いてくれ」
ネイトは真っ直ぐ相手を見た。
「プリティーという名前で生きたあいつは、あの日のライブを最後に公の歴史からいなくなった。それは変えないし、旧ボディも死亡したプリティーのものとして残された」
オスワルドの手が僅かに震えている。
「でも、フリージアは生きてる」
言葉が止まった。時計も、空調も、遠くで動いている記録装置も、すべての音が急に遠くなったように感じられた。
「……何だって?」
「フリージアは生きてる」
ネイトはもう一度言った。
「俺たちが助けた」
「待ってくれ」
オスワルドは机へ手をついた。
「待ってくれ、ネイト。プリティーは死亡した。遺体も確認された。私は──」
「分かってる」
「私は、娘を……」
「分かってる」
ネイトは相手を急かさず、話せる範囲であの日のことを説明した。プリティーという公的な存在は、あの日を最後に終わったこと。旧ボディも公の歴史上は死亡したプリティーのものとして残された一方で、フリージア本人だけは密かに救い出され、新しいボディで生きる道を得たこと。そして、その旧ボディが後にどのような運命を辿ったのかまでは、自分も知らないことを伝える。
「本人から許可をもらって来た」
最後にそう告げた。
「お前にだけは、生きてるって伝えていいって」
オスワルドは椅子へ座り直し、両手で顔を覆った。声は聞こえなかったが、指の隙間から落ちたものを、ネイトは見ないふりをした。
「……何て言っていた」
しばらくして聞こえた声は、ひどく掠れていた。
「フリージアが」
「元気だって伝えてくれって」
「元気……」
「ああ」
「本当に?」
「少なくとも俺が寝る前はな。昔のライブ映像見ながら、自分にツッコミ入れられるくらいには元気だった」
オスワルドが泣きながら笑った。
「そうか」
その一言に、何十年分もの感情が混じっていた。
「それから」
ネイトは続けた。
「会いたいって」
オスワルドの笑みが止まった。
◇
「場所は聞かないでくれ」
ネイトは先に言った。
「お前を信用してないわけじゃない。Vault-Nを知る人間を増やしたくないんだ」
「分かっている」
「ただ、来る気があるなら連れていける」
オスワルドはすぐには答えなかった。
「今すぐでも?」
「ああ」
ネイトとしては、そのまま連れて帰るつもりでいた。フリージアは何年も父親と会えておらず、オスワルドも娘が死んだと思ったままここまで生きてきた。秘密を守れるなら、これ以上二人を引き離しておく理由はないように思えた。
しかし、オスワルドは静かに首を横へ振った。
「行けない」
「……何でだ?」
「ここがまだ終わっていない」
ネイトは思わず周囲の記録へ目を向けた。
「後継者はいるんだろ?」
「いる。だが、まだ全部を任せられる状態ではない」
「娘より記録を取るのか?」
少し厳しい問いになったが、オスワルドは怒らなかった。
「違う」
老人はゆっくり立ち上がり、棚へ手を触れた。
「私はフリージアに会いたい。今すぐにでも会いに行きたい。生きていると聞いた今、この足で君についていかない理由を探す方が難しい」
「なら──」
「だからこそだ」
オスワルドは振り返った。
「今、突然私が消えれば、この保管庫を調べる人間が出る。私が何を残していたのか、誰と接触したのかを追う者も出るだろう。もしその先に君たちがいると知られれば、フリージアまで危険に晒す」
ネイトは言葉を止めた。
「それに、ここには私以外に守れる者がまだ少ない。ゴッデスだけではない。名前すら残らなかった兵士も、量産型ニケも、私が今手を離せば再び消される可能性がある」
「ずっとここにいるつもりか?」
「いや」
その答えは意外だった。
「引き継ぐ」
オスワルドははっきり言った。
「今度こそ、本当に誰かへ任せる。私がいなくても残る形にする。それが終わったら……」
そこで初めて、老人は迷った。
「フリージアに会いたい」
ネイトは肩の力を抜いた。
「それなら最初からそう言え」
「簡単に言えることではない」
「娘に会いたいって言うくらい簡単だろ」
「君には分からん」
「俺も息子がいる」
オスワルドが黙った。
ネイトも、それ以上は説明しなかった。世界も時代も違う。もう会えない息子を持つ父親と、生きている娘へ会いに行ける父親。その違いがあるからこそ、後者には残された機会を捨ててほしくなかった。
「じゃあ伝えるぞ」
「何を?」
「記録の引き継ぎが終わったら会いに行くって」
オスワルドは少し考え、頷いた。
「頼む」
「それと?」
「それと?」
「他に言うことあるだろ」
ネイトが促すと、オスワルドは困ったように目を伏せた。中央政府の重責を背負い、ゴッデスへアークの扉を閉ざした時でさえ、ここまで言葉へ詰まる男ではなかった。
「……すまなかった、と」
「それは自分で言え」
ネイトは即座に返した。
「何十年分の親子喧嘩を俺に仲介させるな」
「親子喧嘩で済む話ではない」
「だったらなおさら自分で言え」
オスワルドは苦笑した。
「君は昔から容赦がないな」
「代わりに一つくらいなら伝える」
「では……」
少しだけ考えたあと、オスワルドは小さく息を吐いた。
「元気でいてくれて、ありがとう、と」
ネイトはその言葉を覚えた。
「分かった」
◇
帰る前に、ネイトはもう一度保管庫を見渡した。棚を埋める無数の記録は、そのどれもが、かつて確かに生きた誰かの痕跡だった。
「一つ聞いていいか」
ネイトが尋ねる。
「何だ?」
「自分の記録は?」
オスワルドは答えなかった。その反応だけで、ネイトには十分だった。
「残してないな?」
「必要ない」
「おい」
「ここは犠牲になった者を記録する場所だ。私は記録する側にすぎない」
「またそれか」
「何がだ?」
「自分だけ外す癖」
ゴッデスを逃がすため、自分が悪役になる道を選んだ。フリージアを守ろうとして、自分の気持ちは後回しにした。今度は人々の記録を残しながら、自分自身だけをそこから消そうとしている。
「お前も生きてただろ」
ネイトは言った。
「失敗したこともある。間違えたこともある。それでも、守ったものだってある。だったら、お前の記録だけ消していい理由にはならない」
「自分で自分を英雄として残せと?」
「誰が英雄って言った」
ネイトは鼻で笑った。
「面倒くさい記録係として残せばいい」
「ひどい評価だな」
「事実だろ」
オスワルドも笑った。それでも、ネイトは最後だけ冗談にしなかった。
「今度こそ、お前自身も幸せになれ」
オスワルドの表情が変わった。
「記録が終わったあとまで仕事を探すな。娘が待ってるんだ。そこから先くらい、自分のために使え」
「……努力しよう」
「努力じゃなくてやれ」
「フリージアにも似たことを言われそうだ」
「親子だな」
ネイトは手を差し出した。オスワルドが、その手をしっかりと握り返す。
若いままの手と、年老いた手だった。二人の間に流れた時間は大きく違っていても、その握り返す力には昔の面影が残っている。
「またな、オスワルド」
「ああ」
今度の別れには、次がある。そう思えるだけで十分だった。
◇
Vault-Nへ戻ったネイトを、フリージアは入口近くで待っていた。予定より遅くなったことを責めるより先に、彼女はネイトの顔を見ただけで立ち上がる。
「会えた?」
「ああ」
「元気だった?」
「年は取ってた」
「それは知ってる!」
「相変わらず面倒くさい男だった」
「それも知ってる!」
返事が速い。ネイトは少し笑ってから、余計な焦らし方をやめた。
「伝えたよ」
フリージアの表情が止まる。
「プリティーは死んだ。でも、フリージアは生きてるって」
「……うん」
「元気だってことも」
「パパ、何て?」
ネイトはオスワルドから預かった言葉を、そのまま返した。
「『元気でいてくれて、ありがとう』って」
フリージアは泣いた。顔を覆って誤魔化そうともせず、その場で声を押し殺しながら泣いた。ネイトは何も言わず、少し離れた場所に立ったまま、彼女が自分から顔を上げるまで待った。
やがてフリージアは目元を拭い、息を整える。
「会いに来る?」
「あいつの仕事が終わったらな」
「仕事?」
「記録を誰かへ引き継いでから来るって言ってた。突然消えたら、こっちまで追われるかもしれないからって」
「……パパらしい」
「俺もそう思う」
「すぐ来ればいいのに」
「それも言った」
フリージアは泣いたまま笑った。
「頑固だったでしょ」
「かなり」
「知ってる」
しばらくして、彼女はもう一度尋ねた。
「待ってていいんだよね?」
「ああ」
ネイトは頷いた。
「今度は会える」
その言葉だけは、迷わず返した。
◇
ネイトが再び冷凍へ戻ることを決めたのは、それから数日後だった。今回起こされた理由は果たしており、Vault-Nに差し迫った危機もない。リリスの生命維持は安定し、エイブもグレイブの身体で活動を続けている。シンデレラも健在で、ヘンゼルとグレーテルは自分たちの選んだ場所で人々を守っていたが、セイレーンについては依然として確かな情報が得られていなかった。
何もかも解決したわけではない。それでも、今この瞬間にネイトが起き続けなければならない理由もなかった。
「また寝るの?」
フリージアが冷凍区画までついてきていた。
「人間は便利じゃないからな」
「それ、普通の人間は冷凍睡眠しないと思うけど」
「俺の普通は二百年前に置いてきた」
「説得力ありそうでないね」
隣では、リリスも生命維持装置越しに会話へ加わっていた。
『次に起きた時には、身体が出来てるといいな』
「ロボブレインなら早いんじゃないか?」
『絶対に嫌』
「まだ駄目か」
『永遠に駄目』
変わらない拒絶に、ネイトは笑った。
エイブがポッドの最終確認を終え、冷却系の状態をチェックしている。今回も眠る長さは決めない。数か月かもしれず、何十年になるかもしれなかった。
「ネイト」
ポッドへ入る直前、フリージアが呼び止めた。
「今度パパが来た時、寝てたらどうする?」
「起こさなくていい」
「いいの?」
「親子の再会だろ。俺が真ん中に立つ必要はない」
「でも」
「あとで話を聞かせてくれればいい」
フリージアは少し考え、それから頷いた。
「分かった」
「それと、もしあいつが記録の仕事を理由にまた逃げようとしたら」
「したら?」
「引っ張ってこい」
「任せて」
その返事は頼もしかった。
ネイトはポッドへ横になり、透明な蓋が下り始める前に、最後にVault-Nを見渡した。ここはもう、失われた者を取り戻すためだけの場所ではない。帰ってくる誰かを待ち、生き延びた者が次の朝を迎え、必要になれば自分自身もまた戻ってこられる場所になっている。
「じゃあ、またな」
「うん」
フリージアが手を振った。
『おやすみ、ネイト』
リリスの声が続く。
「おやすみ」
蓋が閉じると、ポッドの内部へ冷気が満ち始めた。意識がゆっくりと遠ざかっていく中で、ネイトは今回も自分が何かを救ったとは思わなかった。ただ、長い間離れたままだった親子の間へ、一つだけ言葉を運んだ。
それだけで、今回は十分だった。
◇
VAULT-N:正常
リリス:生命維持安定
PROJECT LILY:DECOY ACQUISITION 1/2
シンデレラ:活動中
エイブ/グレイブ:活動中
ヘンゼル:生存確認
グレーテル:生存確認
セイレーン:未確認
フリージア:生存/Vault-N滞在
オスワルド:記録継承作業継続
ネイト・フォーリー:冷凍睡眠
表示された項目は、しばらく何も変わらなかった。PROJECT LILYはまだ半分しか揃っておらず、セイレーンの所在も分からない。地上には今もラプチャーが存在し、アークも決して理想郷にはなっていなかった。これまで救えなかった者も、取り戻せなかったものも、いくつも残っている。
それでも、Vault-Nの灯りは消えなかった。
それは失ったものを数え続けるための灯りではない。まだ帰ってこられる者を迎え、いつか誰かが扉を叩いた時、ここが変わらず「帰る場所」であり続けるための灯りだった。
――記録官より、ここまでの記録を読んだ誰かへ。
序章のはじめに、私は「歴史とは、起きた出来事のすべてではない」と記した。
ここまで読み進めたあなたなら、その意味を少しは理解してもらえただろうか。
女神たちが戦ったこと。アークの扉が閉ざされたこと。英雄と呼ばれた者が死に、やがて別の誰かがその名を継いだこと。それらは形を変えながらも、人類の歴史に残されている。
けれど、その記録だけでは分からないこともある。
死んだことになった者が、誰にも知られない地下で今日も生きていること。人類に見捨てられた者たちが、それでも誰かを守ることを選んだこと。歴史から名前を消された者が、別の誰かの記憶の中では決して消えていないこと。そして、本来この世界に存在するはずのなかった一人の男が、何度も眠りながら、そのすべての傍らを歩いてきたこと。
この場所には、そうした記録が残されている。
英雄だけのためではない。勝者だけのためでもない。救えた者と、救えなかった者。帰ってきた者と、今も帰りを待たれている者。そのどちらも、存在しなかったことにはしないために。
ネイト・フォーリーは再び眠った。
しかし、彼の物語がここで終わったわけではない。
PROJECT LILYは未だ完遂されず、セイレーンの所在も分からない。地上にはラプチャーが残り、アークでは彼の知らない世代が生まれ、戦い、そしてそれぞれの人生を歩き始めている。
やがて、彼が眠っている間に積み重なった歴史と、彼が残してきたものが、再び交わる時が来る。
その時まで、いったんこの記録を閉じよう。
灯りは消さない。
誰かが帰ってきた時、ここがまだ「帰る場所」であるために。
――Vault-N記録官