孤高のリヴァイアサン~これは異能に弄ばれた私が、それでも前へ進むと決めた話~ 作:大和ユキ
「ねえ知ってる? 血ってさ、オキシ系の漂白剤じゃないと落ちないんだよ」
私が住んでる街の少し外れ、パレットやら何に使うのか分からない機械やらが大量に棄てられている産業ゴミの集積場。
陽が沈んでしばらくしたこの時間になると誰も居なくなる、薄暗くて陰険な場所で。
血の乾いたシャツをつまんで見せつけながら、目の前で座り込む男へそんなことを聞いた。
「スカートには漂白剤なんて使えないしさ、シャツも汚れが絶対落ちるわけでもないんだよね。しかもオキシってちょっと高いし。どうしてくれるの、これ」
追い詰めたのは、高いゴミ山の合間にできた袋小路の最奥部。
そこで一人の浅黒い肌をした彫りの深い男が、右肩を押さえながら打ち捨てられた冷蔵庫に体重を預けている。
「何の話だ」
「私、あんたらみたいな奴らに生活壊されてばっかだからさ。うんざりしてるって話」
「クソっ……
……舐められてる。
別にそれ自体はどうでもいいんだけど、だからっていつまでも軽々しく襲ってきたらキリがない。
って言ってもまだ見ぬ異能者にお灸を据える方法もないし、こうやって一人ずつ後手後手で対処するしかないんだけどさ。
「あんた名前は? 軍に突き出すのに要るから教えてほしいんだけど」
持っていた学校鞄を段ボールの山へ向かって放り投げ、右手を突き出す。
掌に集まった砂金のような光の粒子が、瞬時に一本の剣を形作る。
金の柄、そして切っ先が割れるように欠けた細身の剣——
「アフマド・シャー。私はアフマド・シャーだ! 大和めぐみ、貴様の命必ず貰うぞ!」
——私の命、ね。
男の方も大きく湾曲した刀身を、空に浮かぶ光の粒子から取り出す。
あいつもその例に漏れず一世一代の大勝負と言わんばかりに、血をたぎらせたような表情を浮かべていた。
「そ、アフマドね。了解」
だけど、これは私にとっては数ある戦いの一つ。
たった一人の親友とのかけがえのない日常を守るための作業。
「どあーッ!」
前傾姿勢になりながら、私の方へ勢いよく踏み込んでくる男。
腕を固めながら行う、腰だめでの突進。
「それ、さっき見たから」
アフマドが突き立てようとする刃を、左手で直で手掴みにすると。
私は男の背中へ向け、殺さないよう皮膚をなぞるように
******
夜が深まり、誰もがとっくに寝静まったあと。
薄黒いカビの生えた風呂場で、茶色がかった染みの残るシャツをぬるま湯で揉む。
その度に土汚れが桶の中で広がりながら雲を浮かばせ、乾いてから時間が経って繊維の奥に潜んでいた血の臭いが蘇って鼻を強く強く刺してきた。
「はあ……こんなもんか」
スカートとシャツを桶に漬け置きし、傍に置いてあった徳用大容量のバケツ売り漂白剤を手に取ってバスマットへと足を踏み入れると。
「ん」
なんだか胸元のあたりがひんやりと冷たくなっているのを感じた。
肩に掛かっていた髪を一房摘むと、跳ねた湯がかかっていたのか、青いインナーカラーの入った黒髪が濡れてしまっていた。
「……めんどくさ」
手早く拭いてしまおうと突っ張り棒に吊るしてあるバスタオルへ左手を伸ばすも、次はその手に目が釘付けになる。
そろりと長くて、右手とは違って手豆のない綺麗な白い掌。
けれど、そこに何時間か前にはあった抉るような深い刺し傷はない。
……今回も治ってしまった。
掌を握り込むと一緒にないはずの痛みが走る。
「リリリ! リリリ!」
洗面台に積んだ古着や洗濯用品の山へ置いたスマホから、唐突に高いベルの音が鳴り響く。
こんな時間にいったい誰だ——そんな疑問は、〇五から始まる見慣れた電話番号を目にしたところで、しょうもない答えへと帰結した。
「もしもし、こちらは大和めぐみ様の携帯電話でお間違いないでしょうか。夜分にご迷惑かけます、日本陸軍春日井駐屯地からお電話させていただいている——」
「何の用ですか。早くしてください」
電話を耳にあてがいながらワンルームの真っ暗なキッチンを横切り、折り重なったゴミの中に浮かぶソファへと歩みを進める。
その道中目に入ったのは、キッチンのシンクの上に置かれた封筒。
送り主の名義はまたもや軍の基地、面会だのなんだのといった戯言が表紙に書かれているのを視界に入れた瞬間、封を開けず慣れた手つきでゴミ箱へ投げ捨てた。
「本日拘束していただいたアフマドを名乗る異能者ですが、軍病院へ搬送後に意識が回復したそうです」
「……そ、命があって何より」
瞬間、彼の背を斜めに切るように刃を通したときの情景が目に浮かぶ。
結果から言うと、彼は傷を癒すのが私ほど得意じゃなかった。
塞がらない傷。溢れ出す鮮血。もしかして殺してしまうんじゃ、と本気で焦った。
けれど弱いって言っても異能者、存外早く目が覚めたことは安心ね。
「ご連絡感謝。じゃ、切るわね」
「あ、お待ちください。まだ重要な連絡が何個か——」
スマホから耳を離すと同時に、スマホに表示された赤い終了ボタンをタップする。
「重要な連絡って、どうせまた勧誘でしょ」
どう来ても私は応じないにしろ、アプローチ変えるとかいろいろあると思うんだけど。
時間を取られた苛つきで胃が煮えるけど、今日は劇場版鬼平犯科帳の深夜放送日。
ソファに横になりながら映画を見て、今日あった嫌なことは全っ部忘れて寝落ちするんだ、とリビングのテレビの方へ視線を上に向けた途端——
「……嘘でしょ」
臨時ニュースが映し出されたテレビの画面に映るのは臨時ニュースの文字列。
……レイトショーがこの一瞬でなくなった? しかも臨時ニュース?
悲嘆に暮れる私の気の落ち込みも知らずに、白いヘルメットを被った現地レポーターが何かを話しながらカメラへと目線を向けていた。
「名駅前センタービルへ先ほど陸軍が突入して十数分が経過しましたが、中では一体何が行われて——あっ! 見てください、容疑者の異能者が拘束されて建物から出てきました!」
そうして出てきたのは彫りの深い顔をした、それでいて台車に拘束された男。
その周りには銃を持った兵士達が立ち並んでおり、警察らしき人たちが近付いてくる野次馬やマスコミに離れるよう声を掛けている。
「十一世紀の宗教指導者、ハサン・サッバーフを名乗る異能の容疑者は、昨日日没後に犯行に及んだとされ……」
——異能者。
それを証明するように、男がもがく度に身体から白い靄が漏れ出ている。
煙って情報だけで潜伏や催眠、更に言うなら致死性のガスへと可能性を瞬く間に広げてしまえる自分の境遇がどうしようもなく嫌になった。
「また、か」
呆れ混じりにテレビのリモコンへ手を伸ばし、親指を電源ボタンへ添えるも。
肝心の親指に力が入らない。
「深夜一時過ぎに拘束された模様で——」
どうでもいい、どうでもいい。
焦りのような何かが、貧乏揺すりとなって漏れ出る。
「軍と容疑者の格闘は数時間続き——」
だから違う。
軍とか警察が組織としてどう頑張ったかはどうでもいい。
「死者、負傷者共に確認されていませんが——」
「……ふう」
そこになってふっと何かが切れた。
ようやくテレビの電源を切ってソファへ身を投げ出した途端、風船から空気が抜けるみたいに全身が疲労の脱力感に襲われた。
映画が潰れたことに腹を立てる気力も、ベッドへ移動する気力すらも残っていなくて。
見上げる天井も、どこまでも先がないみたいに真っ暗で。
ああ、もう。
何もかも、全っ部台なしだ。
「……もう、