孤高のリヴァイアサン~これは異能に弄ばれた私が、それでも前へ進むと決めた話~ 作:大和ユキ
ぐちゃぐちゃになっていた思考に、バケツでインクをぶちまけられたみたいに、いきなりそれ一色で塗りつぶされる。
何かが、外れる。
理性の押さえつけが効かなくなるには、それだけで十分だった。
目線を向けた先、ジャンの視線も触手もルイに貼り付いたまま。
だから一秒でも早く。
その一心で地を踏み込む。
——この胸の中の騒がしさはなんだろう。恐さだけじゃない。
高揚感が恐怖と変に混ざり合い、感情が昂りすぎている自覚さえある。
久しい感覚もほどほどに、香蓮のいるところまで駆け寄ったところで力を込め、ジャンの背中へと飛び乗る。
咄嗟に飛んだために両脚に熱が籠もり、軋む骨。
——強化が足りなかったか。
「あ!? ……誰だ、離せッ! 殺すぞ……ッガアア!」
「めぐちゃ……っぐうっ!」
瞬間、触手が締まり香蓮が苦悶の表情を浮かべる。
だめだ、いますぐ香蓮の拘束を解かないと。
ジャンの髪を鷲掴みにして、締まる触手へと刃を突き立てる。
「ッ!?」
直後、じたばたと暴れ回るジャン。
あいつの髪をより一層強く握りしめたうえで揺れる視界も香蓮へと定め続け、筋肉質で刃の通りが悪い触手を、力任せに無理やり切り裂く。
「待っててね香蓮、今……!」
「っは……だめ! 逃げてめぐちゃん!」
息苦しさから解き放たれた香蓮が、触手の血を浴びながら口を開く。
けれど何て言ったか知らないし、聞こえない。
そして香蓮を拘束する最後の触手へ刃を突き立て、彼女を拘束から解き放った。
「めぐちゃん……! 何してるの、早く一緒ににげ——」
「……ごめん」
香蓮の襟首を掴み、ルイの方へと力任せに投げ飛ばす。
ルイは姿勢を大きく崩して尻もちをつきながら香蓮の身体を受け止めた。
既に私の足首には触手が巻かれて逃げられないから、せめて香蓮だけでも。
そう思ってのことだった。
——香蓮を、救い出せた。
ほんの一瞬の安堵の直後に響く鈍い音が、他のどこでもない私の身体の中から鳴った。
「大和————————」
「………………………………………………………………っ?」
確かに今、ルイが私を呼ぶ声が聞こえた。
何が、起きたの?
チカチカと途切れかける意識と共に走る激痛。
立たなきゃ。さっきみたいなまぐれは二度も——。
「っふ、随分と舐めた真似をしてくれたなぁ」
怒気を発しながら、こちらへ迫りくるジャン。
逃げなきゃいけないのに、力が入らない。
肺、腕、肩。
左半身のどこが折れていて、どこが無事なのかすら分からない。
四つん這いになることも出来ず、ジャンのボロボロになった触手に巻き上げられる。
「っ…………」
辛うじて動く右手で
僅かな血しぶきを立てながら斬り傷が入るだけで、両断には至らない。
——あ、これ無理だ。逃げられない。
「ぐあああああああッ……」
そう悟った瞬間、軽く締められただけで骨が軋み、声にならない叫びが漏れ出た。
「カッ、手こずらせやがってぇ」
ジャンは吐き捨てるようにそうこぼすと、その目線をルイ達の方へと向けた。
視界の端にルイに抱かれる香蓮が映る。
ルイはこちらを歯がゆそうな表情で見つめるも、ジャンは侮蔑するような目線をやるだけで、すぐに私の方へと向き直った。
香蓮たちもこのままいたぶられて、なんて心配は要らなかったな。
混沌とした思考の中に、ルイを抱える香蓮を目にしてか僅かな安堵が芽生えた。
次の瞬間、ジャンが触手を足元へ束ねてそれをバネのようにして空へと大きく飛び上がり、あっという間に遠くの山やビルよりも高いところに達した。
そして、ジャンが勢いよく飛び上がる最中。
だらんと垂れた私の頭は偶然香蓮の方を捉えていた。
ルイはやり切れない表情を、香蓮は大きく目を見開きながら視界の端に涙を浮かべていた。
よかった。二人とも怪我はなさそう。
ならもう、私がいなくても大丈夫。
これでいい——そう安堵するのとは反対に、不意に遠くの香蓮の方へと自分の手が伸びる。
ほんの少しだけ。やっぱりもっと香蓮と、一緒に居たかったと思ってしまって。
異能の力で僅かに言えた左腕で、更に前のめりになった瞬間。
「……?」
傷ついた触手が私の重さに耐えられなかったのか、私を巻き取っていたボロボロな触手が僅かに力を入れただけで唐突にちぎれた。
ジャンの触手から滑り落ち、そのまま地面へ真っ逆さまに落ちていく。
体のコントロールも完全に失って、宙に身を委ねるしかなかった。
ああ、これ。死ぬな。助かりはしない。どこからともなく、自分の運命を悟る。
そしてこんな状況だってのに、私の目は山の向こうに煌めく夕陽を見ていた。
刹那、鳴り止まなかった風切り音が止み、しんとした静寂に包まれる。
時間の流れがゆっくりに感じる。
ああ、まだあの映画観てないや。
あの路地裏のラーメン屋、最後まで行かなかったな。
香蓮から借りた本も返せてない。
最期の瞬間……いや最期だからこそ、そんなどうでもいいことばかりが湧いてくる。
……けど、最期に香蓮へ。
数年ぶりに
それだけで今までの人生が、ほんの少しだけ報われた気がした。