『孤高のリヴァイアサン』 ~~人生をやり直したい偉人たちと、自分の人生を取り戻したい女子高生の異能戦争~~ 作:大和ユキ
淀んだ空気の中に仄かに埃っぽさが漂うら嗅ぎ慣れない匂いに顔をしかめる。
薄目を開けると、どこからか強い日の光が差し込む。
「……っ?」
熱気で靴下の中がぐっしょりと蒸れていて、知らない粗い布地のシーツが気色悪い。
不快な感覚に身をよじらせると、身体の下から古いベッドが軋むような音が鳴った。
それに反応するみたいに視界の端で薄橙の何かが動くけれど、まだ視界がぼやけてピントが合わなくて——。
「……大和?」
幼さの残る高い声で、私を苗字で呼び捨てする男。
「ル……イ……?」
そんな人は思い当たる限りでは一人しかいない。
彼が声をかけてくれていると分かった途端に喉の底から漏れ出る声。
少しずつはっきりとしてくる視界に、口をわなわなと震わせる彼の姿が映る。
「おはよう、大和」
「うん、おはよう……」
右肘を突きながらその場から起き上がると、バネの主張が激しい古びたベッドが、またもや音を立てながら軋んだ。
起き上がりざまに自分の格好を見回すけれど、両手両足もある五体満足の状態。
誰かが着替えさせたのか、あまり着心地が良いとは言えない古びたシャツとズボンに替えさせられていた。
……とりあえず、なんとか助かった。
なのに止めどなく溢れてくる、何かが足りない不安に押されるようにして辺りを見回す。
ちょっと硬いマットレス、知らない部屋。
公共施設特有の機能的かつ小綺麗な内装……どこかの病院か、それとも。
無事だってことが分かったのに、この無事を裏付けるものがてんで欠けていることが、胸のざわめきを余計に際立たせた。
「わかるよ、僕も。目が覚めた時なんで生きてるのか分からなくって……」
「……ルイが看ててくれたの?」
頭の中で蘇るのは、昨日ロムルスに薙ぎ払われて斃れたルイの姿。
異能の力で傷が癒えるって言っても、古いRPGゲームみたいに勝手にベット付きの施設まで運んでくれるわけじゃない。
飲み込めきれない状況を前にしてまたもや困惑が加速する。
「いいや、僕は何もしてない。ただ目が覚めてから一時間ぐらい、ここで大和が目覚めるのを待っていただけだ」
そのあとのルイの説明で、私たちは軍に助けられて病院へ移送されたこと、軍が現場に到着したときにはロムルスは姿を消していたことを教えられた。
でも……考えてみればそれもそっか。
着替えさせられていた時点でルイの看病じゃないことぐらいは分かった。
「じゃあここはどこなの。ロムルスはどこに……」
「ここは名古屋にある病院だ。僕らが居た廃工場からそう離れてないし、ここにロムルスはいやしないよ」
病院……そう、よかった。
ひとまずその言葉を聞けただけでも良かったと思うと同時に、もう一つ大事なことを思い出した。
「香蓮は!?」
気だるさでベットへ腰を埋めていたのが嘘だったみたいに、思わずベッドから立ち上がる。
周りに並べられているベッドを眺めても、そこに香蓮の姿はない。
——まさか。
細い槍で刺されたのかと思うぐらいに心臓が跳ねる。
最悪の可能性が頭をよぎると一緒に、引きつった瞼がつっかえ棒でも差し込まれたみたいになって。
「大丈夫だ、鈴原さんならこの二つの部屋でまだ寝てるよ。容態も安定してる」
「そ……そっか。よかった……」
緩む瞼の力。杞憂は杞憂のまま。
わなわなと震えていた手が勝手に胸にいくのと一緒に新しい疑問が芽吹いた。
「でもなんで私の方に居たの? 香蓮の方に居ても良かったはずじゃ」
昨日ロムルスに何をされたのか覚えていないけれど、異能でちょっとやそっとの傷なら治ってしまう。
むしろ容態が安定しているって言っても、毒で命を冒された香蓮の方が——。
そうやって私が首を傾げている傍で、ルイが下唇を悔しそうに噛んでいることに気が付いた。
「確かにそうかもね……僕も出来るなら鈴原の隣に居てやりたかった。けど今は……」
また自分の下唇を食むルイ。
容態が安定しても目の覚めない香蓮を差し置いて私の横に居るってことは……私に何かが。
自分でも正体の分からない焦りを感じつつも、再び私の身体をまさぐると。
右腕の薄く透ける袖の向こうに、
傷なら異能の力で治ってしまうはずで、しかもそれ自体に痛みはなくて——。
そんな疑問と違和感を咀嚼しながら腕を捲った先にあるものに、不意に喉を締められた。
目に入ってきたのは、両翼を広げた怪鳥が「ROME」という文字を鉤爪で鷲掴みにしたような刻印。
傷でもなくて、スタンプか何かでもなくて、かといってただのタトゥーでもなくて。
でも記憶が確かなら、これをどこかで……なんなら昨日の昨日に目にした気が。
そうだ、確かこれと同じものをジャンがロムルスの加護を受けたとかなんとか言って見せびらかして——。
「……違う! これは違う!」
そうやって正体に気が付いたときには、刻印を反対の手で掻き毟っていた。
目の奥から、何度もその男の末路がフラッシュバックしてきて。
「…………大和」
乾いた肌から垢や薄皮が白い粉となって吹き出て。
噛み合わせられた奥歯が音を立てて軋んでいて。
「大和……?」
掻きむしったところが赤く腫れ、水ぶくれみたいに皮膚が膨れて。
ここまでやってるのにこの印はいつまで経っても消えなくて。
「大和ッ!」
左手で
「やめて、ルイッ! まだ、まだ分かんないじゃん! こんなもの
「分かんないんじゃない、本当に消えちゃうからやめろと言ってるんだ!」
「じゃあなんで自由にやらせてくれないの!」
「そうなったら今度こそ僕らは終わる、今すぐあいつがここに飛んでくるぞ!」
あいつがまた、ここに。
全身の力が一気に抜ける。
割れた奥歯から滲む血の味や腕の痒みすら、俯いている間に消えていって。
そんな当たり前の痛みすら感じられない身体が、その果てにあんな神にも思える敵を寄せ付けて。
「……私、これからどうなるの」
だから、少しでも知ってる人に。
助けられてばっかだって分かってるのに、一方的にそう縋り付くことしかできなかった。
「…………これを不幸中の幸いって例えて良いのかは分からないけど、状況は大和が考えてるほど悪くはないんだ」
「私が考えてるほど……?」
「異能者の中にはその『刻印』の効果を読める人間がいてね。契約の内容も異能の根源になるエネルギーをごく僅かに譲り渡すだけで、身体の自由が奪われたりするわけじゃない」
「でもジャンみたいに何かを命じられて、失敗して、殺されるって可能性は」
「……ごめんけど。それは否定できない」
言葉を詰まらせながらもきっぱりと否定したあと俯くルイ。
でもそうか……首輪は付けられたけど鎖は短くはないってことで。契約内容は有って無いようなもの。
手を視界に入れ、握って、開く。
当たり前だけど、言うことを聞く身体。
まだ何も、冒されていない。
思えばジャンと対面した時に「ロムルス様から加護を授かった」みたいなことを言っていたけれど……いまのところ何の恩恵も感じられない。
契約って言うぐらいだから、私が何かを差し出すなら向こうも何かを差し出さなきゃいけないのだとしたら?
それならルイの説明にもかなり納得がいって……ほんとうに最悪よりは良い状況……ってこと?
でもそれなら、なんでロベールやジャンを寄越してまで私にあんなことを?
それをルイへ聴き返そうと顔を上げると、割り切れない安堵に喉を窄める私の横で口を噤んでいた彼。
手の内が白くなるぐらい強く握られた彼の両手指から、骨の鳴るような音がこの一室へ響き渡る。
「僕のせいだ」
ルイの言葉に、視線を彼の手からゆっくりと上へ上げる。
そのフレーズは私の内側から何度も聞こえてきたもので。そして、私をこの六年の間蝕み続けてきたもので。
それがルイの口から発されたことに、目を見開かざるをえなかった。