六色の極大魔法が織り成す破壊の奔流が、精神世界の天地を完全に圧殺しようと迫っていた。
火竜の咆哮が空間を焼き尽くし、絶対零度の氷槍が光を凍てつかせ、真空の刃が次元の裂け目を刻む。四百年間、叡智の深淵を探求し続けた『強欲の魔女』が放つ、思念世界の限界値を超えた魔導の飽和攻撃。
その破滅の光芒を前に、神代宗弦の瞳は冷徹に澄み渡っていた。
黒漆の鞘から、白銀の刃が音もなく滑り出る。
抜き放たれた刀身は、過剰な装飾を排した端正な直刀。だが、その刃が外気に触れた瞬間、周囲の空間からあらゆる雑音が消失した。大気を震わせていた爆音も、魔導の光が放つ熱量すらも、刃の周囲数寸の領域において完全に凍結する。
宗弦の唇が、静かに言霊を紡いだ。
「――断ちて均せ(ならせ)、『断業(ことわりだち)』」
澄み渡る解号とともに、宗弦の全身から黒銀の霊圧が静謐な波紋となって広がった。
変化したのは刀の形状ではない。
刃の切っ先から、陽炎のように立ち上る透明な歪み。それは物理的な質量を断つ刃ではなく、万物が帯びる「因果の結び目」そのものを認識し、切り離す権能の顕現であった。
迫り来る六属性の極大魔法に対し、宗弦はただ一足、前に踏み出した。
振り抜かれる、一筋の横薙ぎ。
派手な斬撃波も、轟音もない。ただ白銀の軌跡が宙を滑った瞬間――真正面から殺到していた火炎の巨竜が、頭部から尾の先まで寸分の狂いもなく二つに両断された。
裂かれた炎は爆散することすら許されず、熱量を失ったただの光の粒子となって虚空へ霧散する。
「な……ッ!?」
エキドナの漆黒の瞳が戦慄に見開かれた。
「ボクの魔導が……爆発も拡散もせず、術式の構造そのものを解体された……!?」
宗弦の太刀筋は止まらない。
返す刃で斜め上へと切り上げられた『断業』の切っ先が、頭上から降り注ぐ絶対零度の氷槍と真空の刃を撫でるように捉える。触れた瞬間に術式の結合が断ち切られ、氷は冷気を失って水蒸気となり、真空波はただのそよ風へと還元された。
降り注ぐ六色の終焉を、宗弦はわずか三度の歩みと刃の軌跡だけで、完全に無へと帰してみせた。
「魔導であろうと、精神世界の事象改変であろうと、この世界のマナと因果の法則に縛られている限り、そこに結節点(ほころび)は存在する」
宗弦は切っ先を下げ、泥濘を踏みしめながらエキドナへと間合いを詰める。
「『断業』の刃が断つのは、肉体や魔力そのものではない。事象を繋ぎ止めている『因果の糸』だ。……貴様が編み上げた術式の理など、初めからこの刃の敵ではない」
「因果の糸を……直接切断する刃……ッ!?」
エキドナの額に、冷たい汗が滲み出る。
四百年の叡智をもってしても、理解が追いつかない。物理的な破壊でも、魔力による相殺でもない。「結果」を生み出すための「前提」そのものを刃で刈り取るという、理の根本を覆す絶対の力。
だが、強欲の魔女は退かなかった。その瞳の奥で、恐怖を塗りつぶすように狂気じみた知の渇望が燃え上がる。
「素晴らしい……! 事象そのものを切り離す異界の神剣! 魂の理を司る死神の真骨頂というわけかい! ならば――この精神世界そのものの存在理由をぶつければどうなるッ!?」
エキドナが両手を天に掲げ、自らの思念体を激しく明滅させた。
「来たまえ、四百年を紡いだ知識の亡霊たちよ! ボクの記憶、ボクの記録、その全てをもってこの異端を埋め尽くせ!」
赤黒い天蓋が割れ、虚空から無数の巨大な影が実体化した。
過去に滅び去った古代竜の幻影、天変地異を引き起こした百の大魔法陣、そしてエキドナ自身が四百年間で解析してきた幾万もの戦士や魔獣の思念。精神世界の全質量を注ぎ込んだ、純粋な情報と概念の津波が、宗弦の全方位を埋め尽くす。
世界そのものが宗弦一人を圧殺しようと崩落してくる。
逃げ場のない全方位の崩壊。
だが、宗弦の足取りは乱れなかった。
「……知識を積み上げ、世界を観測すること自体を否定はせん」
宗弦は『断業』を中段に構え、薄墨色の瞳を静かに細めた。
「だが、死者がその叡智に執着し、現世の時を止め続けることは、未来へ進む生者への冒涜に他ならぬ」
宗弦の右腕が、目にも留まらぬ速度で閃いた。
一閃。
振るわれた刃から放たれたのは、空間そのものを平準化する不可視の断線。
押し寄せていた古代竜の幻影が、その巨躯の因果を断たれて光の塵へと四散した。
連閃。
二撃、三撃、五撃――瞬時に繰り出された無数の斬撃が、天地を覆っていた幾万の思念と巨大魔法陣の結節点を正確無比に斬り裂いていく。
ギャリィィィッ……!! と精神世界の骨格が軋む音が響き渡る。
エキドナが四百年かけて編み上げた概念の防壁、記憶の集積、精神領域の絶対法則が、死神の一振りごとに音を立てて崩壊していく。
「あ……あぁ……ッ! ボクの……ボクの茶会が、世界の記録が……切断されていく……ッ!」
エキドナが膝をつき、両手で頭を抱えた。
術式の崩壊に伴い、精神世界を覆っていた赤黒い嵐が晴れ渡り、大地が再び元の平原へと戻っていく。だが、その平原すらも端から徐々に白銀の光の粒子となって解け始めていた。
足音。
土を踏みしめる静かな靴音が、呆然とするエキドナの耳朶に届いた。
顔を上げた魔女の眼前には、すでに『断業』の切っ先を喉元へ突きつける神代宗弦の姿があった。乱れた呼吸一つなく、純白の隊長羽織は一片の煤すら纏っていない。
「……チェックメイト、だね」
エキドナは自嘲気味に口元を歪めた。その漆黒の瞳には、敗北の悔しさと、未知の理に触れた満足感が奇妙に入り混じっていた。
「ボクの負けだよ、死神さん。……君の言う通り、ボクは知を求めるあまり、死してなおこの場所に留まりすぎたのかもしれないね」
「自覚があるならば、迷わず還れ」
宗弦は左手を懐へ入れ、白銀の封印筒を取り出した。
「貴様の魂魄、およびこの領域に滞留する四百年の残留思念は、護廷十四隊の名において回収する。尸魂界へと持ち帰り、因果の清算を経て輪廻の環へと導く」
「ボクの魂が、別の世界で新たな命として巡るのかい? ……ふふ、それもまた、ボクの知らない新しい『未知』かもしれないな」
エキドナは優雅に微笑み、静かに目を閉じた。
宗弦が封印筒の霊子回路を起動させると、筒の先端から淡い青白の霊光が放たれた。
光はエキドナの思念体を優しく包み込み、その輪郭を光の粒子へと分解していく。同時に、周囲の平原、青空、ティーテーブルに至るまで、精神世界を構成していた全ての事象が急速に解体され、白銀の奔流となって筒の内部へと吸い込まれていった。
カチリ、と重厚なロック音が響く。
精神世界の完全な崩壊とともに、宗弦の視界は再び眩い光に呑み込まれた。
現実の『墓所』の奥底。
石造りの回廊に、静寂が戻っていた。
宗弦は薄暗い石室の中央でゆっくりと目を開け、『断業』を静かに鞘へと収めた。カチリと鍔が鳴る音とともに、墓所の壁面に刻まれていた古代の魔法陣から青い光が失われ、四百年間この地を縛り続けていた強大な結界のマナが、大気中へと霧散していく。
墓所の外から、慌ただしい足音が響いてきた。
「宗弦さん……ッ!?」
回廊の入り口から飛び込んできたのは、スバルとエミリア、そして恐る恐る後をついてきたガーフィールであった。
スバルは周囲の空気が劇的に澄み渡っていることに気づき、目を見張った。
「結界が……消えた……? 森を覆ってたあの息苦しい圧迫感が、綺麗さっぱりなくなってる……!」
「嘘……聖域の結界が、本当に解放されたの……? 試練も受けずに……?」
エミリアが胸元の魔鉱石に手を当て、信じられない面持ちで呟く。
宗弦は二人へと向き直り、手元の白銀の筒を懐へと収めた。
「『強欲の魔女』の魂魄の回収を完了した。核を失った以上、この領域を隔離していた結界も自然消滅する。……集落の住民、およびアーラム村の避難民の解放に支障はない」
「す、すげぇ……本当に、一人で全部片付けちまったのかよ……」
スバルが呆然と呟く中、ガーフィールは石室の壁に手をつき、額の輝石を抑えながら膝を折った。
「結界が……なくなった……。オレ様たちが、ずっと閉じ込められてたこの場所が……」
長年、聖域を外敵から守る「盾」として生きてきた少年の瞳から、張り詰めていた敵意が消え去り、茫漠とした解放感が零れ落ちていた。
宗弦は彼らの動揺を一瞥しただけで、薄墨色の瞳を南東の空――王都の方角へと向けた。
「安堵するのはまだ早い」
宗弦の硬質な声が、石室の空気を引き締めた。
「聖域の因果の滞留は断った。だが、街道で暗躍する『暴食』と『強欲』、そしてこの少年の魂魄に巣食う根本的な呪詛の処理が残されている」
宗弦の懐の通信霊具が、短く青い光を点滅させた。王都方面へ先行した副隊長・如月弦からの緊急連絡であった。
世界の理を巡る戦いは、次なる特異点――大罪司教たちが蠢く王都の決戦へと向けて、急速に動き出そうとしていた。