墓所の重厚な石門から漏れ出していた澱んだマナが、夕暮れの乾いた風に溶けて完全に霧散していった。
四百年間、この地に生きる亜人たちを閉じ込め、死者の魂魄を檻に繋ぎ止め続けていた絶対の結界は、もはや影も形もない。原生林を覆っていた底なしの息苦しさは消え去り、梢の間からは茜色に染まり始めた空と、渡り鳥の羽ばたく音が穏やかに降り注いでいた。
「本当に……終わったんだな……」
ナツキ・スバルは、墓所の入り口の苔むした石段に手をつき、呆然と自らの手の平を見つめていた。
幾度ものループで味わった、出口のない袋小路。エミリアが試練に心を折られ、狂気じみた大雪が降り注ぎ、多兎の群れに肉を喰い荒らされ、ロズワールの冷酷な諦観に全てを焼き尽くされた悪夢。その幾重にも折り重なっていた絶望の未来が、神代宗弦という死神の手によって、ただの一度の死も挟むことなく、現実の盤面として塗り替えられたのだ。
「スバル……」
エミリアが歩み寄り、スバルの隣で静かに膝を折った。
その紫紺の瞳は、墓所の奥底から戻ってきた宗弦の純白の羽織を、畏敬と感謝が入り混じった眼差しで見つめている。
「私、試練を受けられなかった。自分の過去と向き合って、みんなに認めてもらうための道を通れなかった……。だけど、結界が消えて、アーラム村の人たちや聖域の人たちが救われたのは、紛れもない事実よ。……宗弦さん、本当に、ありがとうございます」
エミリアが深々と頭を垂れる。
「礼を言われる筋合いはない」
宗弦は薄墨色の瞳を夕空に向けたまま、淡々と応じた。
「貴様が自らの過去と向き合うか否かは生者の内面の問題であり、我々の監査管轄ではない。私はただ、四百年にわたり魂魄を滞留させ、現世の理を狂わせていた不純物――エキドナの残留思念を回収したに過ぎん。結界の消滅はその副産物だ」
宗弦の声には、一片の驕りも感情の揺らぎもなかった。
その背後では、金髪を逆立てた少年――ガーフィール・ティンゼルが、石段の隅に腰を下ろし、震える拳を地面に突き立てていた。額の白銀の輝石が、夕陽を浴びて鈍く光っている。
「……オレ様はよォ」
ガーフィールが、掠れた声で口を開いた。
「結界の外に出たら、みんな死んじまうと思ってた。外の世界は恐ろしい場所で、オレ様がこの森の盾になって、ババアたちを守り続けなきゃならねぇって……そう信じて疑わなかったんだよ。だけどよ……」
少年は顔を上げ、宗弦の背中を睨みつけるように見据えた。その瞳には、かつてあった獰猛な敵意ではなく、己のちっぽけさを突きつけられた悔しさと、外の世界への茫漠たる感情が渦巻いていた。
「テメェは……オレ様が手も足も出なかった結界を、ただの指先と刀一本で切り刻んじまった。……オレ様が必死こいて守ってきた四百年は、一体何だったんだよォッ!」
少年の魂の叫びが、夕暮れの森に木霊する。
宗弦はゆっくりと振り返り、冷徹な視線をガーフィールへと落とした。
「己の守るべきもののために力を振るうこと、その矜持そのものは否定せん」
宗弦の言葉は、平坦でありながら少年の胸の奥深くまで染み渡る重みを持っていた。
「だが、世界を狭い檻の中に閉じ込め、変化を拒絶することは守護ではない。ただの停滞だ。……外の世界が恐ろしい場所であるならば、恐れを抱いたまま己の足で立脚し、守るべきものの盾となれ。力なき者の停滞を、護廷は庇護せん」
「っ……!」
ガーフィールは息を呑み、奥歯を噛み締めながら泥を握りしめた。
その言葉は残酷なまでに現実を突きつけていたが、同時に、少年の頑なだった心を縛っていた鎖を完全に断ち切る響きを持っていた。
「……チッ、説教まで規格外かよ。クソが……!」
ガーフィールは乱暴に涙を拭い、立ち上がった。その双眸には、迷いを振り払った戦士の光が宿っていた。
その時だった。
宗弦の死覇装の懐から、チリ、と鋭い霊子の摩擦音が響いた。
小型の通信霊具が、激しい赤と青の光を交互に明滅させている。通常の定時連絡ではない。緊急事態の発生を告げる最高位の警報シグナルであった。
宗弦は迷わず霊具を取り出し、耳元へと翳した。
「宗弦だ。報告せよ」
霊具の向こうから返ってきたのは、風切り音と激しい爆砕音、そして――如月弦の、極限まで張り詰めた硬質な声であった。
『――隊長! 王都東方三十キロ、フラム街道上において、特異点の捕捉に成功しました!』
周囲の空気が一瞬で凍りついた。スバルとエミリアが息を呑み、宗弦の隣へと身を乗り出す。
『交戦対象は二体。……一体は、小柄な体躯で他者を喰らう狂戦士。自らを魔女教大罪司教『暴食』担当、ライ・バテンカイトスと名乗っています。対象は他者の肉体ではなく「存在」そのものを経口摂取する特殊な能力を行使。すでに街道を移動中だったクルシュ・カルステン公爵率いる輸送部隊の半数が、記憶および名前を剥ぎ取られ、心神喪失状態に陥っています!』
「クルシュさんの部隊が……!?」
スバルが顔色を変えて叫んだ。
白鯨を討伐した直後、王都へと凱旋するはずだったクルシュたちの竜車隊。魔女教の残党がまだ街道に潜んでいたのだ。
だが、弦の緊迫した報告はそれだけに留まらなかった。
『そして……もう一体です。白髪の痩身の男。自らを大罪司教『強欲』担当、レグルス・コルニアスと呼称。……隊長、この個体は極めて異質です』
通信の向こうで、轟音とともに大地が裂ける凄まじい破壊音が響いた。
『物理的打撃、霊圧による中位破道、さらには拘束を伴う縛道に至るまで……対象の肉体および衣服に対し、一切の攻撃が通用しません。傷一つ負わせることが不可能です。さらに、対象が軽く腕を振るい、あるいは足元の土片を蹴り飛ばすだけで、数十メートル規模の地形が跡形もなく消滅しています……!』
「な……んだって……!?」
スバルの背筋に冷たい悪寒が走った。
ペテルギウスだけでもあれほどの悪夢だった魔女教の大罪司教が、さらに二人。しかも、弦の術式や攻撃すら一切通じず、触れるもの全てを粉砕するような怪物が街道を蹂躙している。
「クルシュさんたちだけじゃない……戦ってるお姉さんまで危ないんじゃないのか!?」
『現在、クルシュ公爵および残存兵の退路を確保するため、私が単独で足止めを展開中ですが……相手の防御を崩す糸口が見出せません。時間の猶予は極めて僅少です!』
「了解した。無理な交戦を避け、拘束結界による遅延戦闘を維持せよ。直ちに合流する」
宗弦は通信を切ると、霊具を懐へと収めた。
その薄墨色の瞳は、すでに戦場たる東の空を冷徹に見据えていた。
「事態は急を要する。王都街道へ急行し、二体の不純物を解体する」
「俺も行く!」
スバルが一歩前に踏み出した。
「クルシュさんや、戦ってる人たちを見捨てるわけにはいかねぇ! 俺を連れて行ってくれ!」
「私も行きます!」
エミリアもまた、紫紺の瞳に強い決意を宿して進み出る。
「王選の競争相手であっても、クルシュ様は大切な仲間です。私の氷魔法なら、負傷者の防護や救護の手助けができるはずです!」
「……オレ様も連れて行きな」
ガーフィールが、鋭い八重歯を剥き出しにして拳を打ち鳴らした。
「外の世界がどんだけヤベェ化け物揃いなのか、オレ様のこの目で拝んでやるよ。足手まといにはならねぇ。盾くらいにはなってやるぜ」
宗弦は彼らの顔を静かに見渡し、短く命じた。
「足手まといになった瞬間、切り捨てる。覚悟があるならばついてこい」
宗弦は死覇装の袂から手を出し、空間へ向けて右手を掲げた。
「『縛道の七十七・天挺空羅(てんていくうら)』」
詠唱破棄。
宗弦の掌から放たれた幾何学的な霊子回路が、大気中に巨大な光の網となって広がり、瞬時に東の空――如月弦の放つ霊圧の座標を寸分の狂いもなく捕捉した。
「全員、私の羽織の裾を掴め」
スバル、エミリア、ガーフィールが即座に宗弦の背後へと密着し、その純白の布地に手を伸ばす。
宗弦の足元から、黒銀の霊圧が静かに渦を巻いた。
空間を蹴り、次元の歪みを跳躍する死神の最速歩法――空歩を交えた連続瞬歩。
ドッ――!!
大気が破裂するような衝撃音とともに、四人の姿は夕暮れの聖域から完全に掻き消えた。
時を同じくして、王都へと続くフラム街道。
荒野を切り裂く石畳の道は、凄惨を極める地獄絵図と化していた。
十数台の豪奢な竜車が木っ端微塵に粉砕され、護衛の兵士たちが血の海の中で倒れ伏している。その多くは外傷による死ではなく、己の名前と過去の記憶を根こそぎ奪われ、呼吸を続けながらも虚無の抜け殻となった「生ける屍」であった。
「あはァッ! delicious! なんて素晴らしい味わいなんだァ! 誇り高い騎士の忠誠心も、主君への忠義も、全部ぜ〜んぶ極上の蜜の味だよォッ!」
血塗れの石畳の上で、獣のように跳ね回る小柄な影があった。
ボロボロの襤褸切れを纏い、足首まで届く長大な茶髪を振り乱した狂人――大罪司教『暴食』担当、ライ・バテンカイトス。
その口端からは、他者の記憶とオドを喰らい尽くした狂気の笑みが滴り落ちていた。
そして、その数歩後方。
粉塵が舞い散る街道の真ん中に、腕を組んで不機嫌そうに佇む白髪の青年がいた。
大罪司教『強欲』担当、レグルス・コルニアス。
「……まったく、不愉快極まりないね。僕の穏やかな散歩の時間を邪魔した挙句、こんな薄汚い血生臭い場所に僕を立ち止まらせるなんてさ。君たちの存在そのものが、僕の『平穏に生きる権利』に対する明白な侵害だとは思わないかい? ええ? 答えてごらんよ、そこの女死神さん」
レグルスの濁った瞳が、十数メートル先――荒野に立つ一人の女性を捉えていた。
浅葱色の髪を風になびかせ、眼鏡の奥で冷徹に敵を観察する如月弦。
彼女の死覇装の裾は微かに埃を被っていたが、その立ち姿には一分の乱れもなかった。右手には、未だ鞘に収まったままの斬魄刀。左手には、青白く明滅する小型観測儀が握られている。
弦の背後には、意識を失った緑髪の美姫――クルシュ・カルステンと、必死に治癒魔法を施しながら震えるフェリスの姿があった。弦が展開した『倒山晶』の青白い霊圧結晶によって、二人は間一髪のところで暴食の牙から守られていた。
「……他者の権利を声高に主張しながら、己の身勝手な論理で他者の命を踏み躙る。極めて悪質な精神破綻者ですね」
弦の硬質な声が、冷え切った街道に響く。
「な……ッ!? ぼ、僕を侮辱したのかい!? 僕のどこまでも無欲で、慎み深く、ただ己の権利を全うしようとしている生き方を、その薄汚い口で否定したのかい!? 許せない、絶対に許せないねぇッ!」
激昂したレグルスが、地面の小石を足先で軽く蹴り上げた。
放たれた小石は、マナの光すら放たず、ただ不可思議な直進軌道を描いて飛翔した。触れる大気を音もなく両断し、目にも留まらぬ速度で弦の頭部へと殺到する。
弦の瞳が、冷静にその軌道を捉えた。
「――照らし惑わせ、『鏡眩』」
澄んだ解号とともに、弦が鞘から数寸だけ刃を滑らせた。
刹那、弦の全身から放たれた極小の光の粒子が、大気の屈折率を瞬時に書き換えた。
レグルスの放った小石は、弦の額を寸分の狂いもなく貫通した――ように見えた。
だが、貫かれた弦の身体は、水面に映る月のように揺らめいて光の粒となって霧散した。
「な……ッ!? 幻影だと……!?」
レグルスが目を見張った瞬間、その真上、上空二十メートルの虚空に実体化した弦の姿があった。
重力を霊子で制御し、空中に静止した弦は、両手を胸の前で高速で交差させた。
「『縛道の六十一・六杖光牢(りくじょうこうろう)』」
「『縛道の六十二・百歩欄干(ひゃっぽらんかん)』」
二重詠唱破棄。
天空から降り注ぐ無数の光の槍が大地を格子状に穿ち、同時に六本の強烈な光の帯がレグルスの体幹を四方から完璧にロックした。
ガギィィィンッ!!
激突の瞬間、凄まじい霊圧の光が荒野を真昼のように照らし出す。
だが――。
光の帯も、無数の光槍も、レグルスの身体に触れた瞬間に「最初から何も存在しなかった」かのように、一切の手応えなく砕け散った。
光煙の中から現れたレグルスは、服の皺一つ乱れていなかった。傷どころか、埃一つ付着していない。
「無駄無駄無駄ァ! 僕の肉体は、僕の世界は、何人たりとも侵すことなどできないんだよ! 君の使う小細工なんかが、僕に通用するはずがないだろうがァッ!」
レグルスが大きく息を吸い込み、弦へ向けてただ「息」を吹きかけた。
その吐息すらも、触れるもの全てを粉砕する不可視の破壊線となって大気を切り裂き、上空の弦へと迫る。
弦は空中で瞬歩を踏み、軌道をミリ単位でずらして辛うじてその切断線を回避した。背後の丘陵が、吐息の余波だけで山頂ごと綺麗に両断され、轟音を立てて滑り落ちていく。
着地した弦の額に、一筋の冷や汗が流れた。
(……不可解極まります。霊圧による拘束も、物理的な質量攻撃も、一切の干渉を受け付けない……。防御魔法の障壁とも違う、まるで彼我の間に存在する事象そのものが遮絶されているかのような異常性……)
弦が即座に戦況を分析し、次なる手を打とうとしたその瞬間。
「あはァッ! 隙だらけだねェ、お姉さんッ!」
背後の空間から、獣のような嬌声が響いた。
地面を這うような超低空の機動で、ライ・バテンカイトスが弦の死角へと肉薄していた。両手に装着された異形の短剣が、弦の細い首筋を目がけて振り抜かれる。
「君の『名前』、ボクたちに美味しく味見させておくれよォッ!」
回避は間に合わない。
弦の眼鏡の奥の瞳が、わずかに細められた。
その刹那――。
天から、黒銀の雷霆が落ちてきた。
ズガァァァァァァァァンッッ!!!!
突如として降り注いだ圧倒的な霊圧の質量が、弦とバテンカイトスの間の石畳を粉々に粉砕した。
巻き起こる衝撃波が、飛びかかっていたバテンカイトスの小柄な身体を木の葉のように吹き飛ばす。
「ギャァッ!? な、なんだァッ!?」
バテンカイトスが石畳を転がり、血反吐を吐きながら飛び起きる。
舞い散る粉塵と黒煙の向こうから、漆黒の死覇装と純白の羽織を夜風にはためかせ、一人の男が音もなく姿を現した。
神代宗弦。
その背後には、荒い息を吐きながらも敵を睨みつけるスバル、エミリア、そして全身を獣化させて咆哮を上げるガーフィールの姿があった。
「クルシュさん……! フェリス!」
スバルが血の海に倒れる味方の姿を捉え、叫ぶ。
「隊長……!」
弦が安堵の息を吐き、姿勢を正した。
宗弦は視線を動かさず、背後の弦へ向けて静かに告げた。
「よく持ちこたえた、弦。……負傷者を後方へ下げろ」
「了解いたしました」
弦が即座に身を翻し、エミリアたちと共にクルシュとフェリスの防護へと向かう。
荒野の中央。
夕闇が完全に夜の帳へと変わり、冷たい月光が荒廃した街道を照らし出していた。
血に飢えた狂気の目で睨みつける『暴食』ライ・バテンカイトス。
己の絶対性を信じて疑わず、不機嫌そうに眉を寄せる『強欲』レグルス・コルニアス。
そして――斬魄刀『断業』の柄に静かに手を添え、薄墨色の瞳で二人の大罪司教を見据える神代宗弦。
「……おやおや、また増えたね」
レグルスが鼻で笑い、不快そうに顎をしゃくった。
「ぞろぞろと湧いて出てきて、僕の平穏をこれ以上乱す気かい? 君たち全員、ここで挽き肉にして大地に撒き散らしてあげるよ」
「僕たちの晩餐の邪魔をする奴は、み〜んな喰い殺しちゃうもんねェッ!」
バテンカイトスが涎を垂らして跳躍する。
二人の大罪司教が放つ最悪の悪意と狂気。
だが、宗弦の表情には微塵の動揺もなかった。
黒漆の鞘から、白銀の刃が音もなく滑り出る。
「事象を拒絶する異形の器と、他者の魂を喰らい因果を乱す獣か」
宗弦の声が、夜の静寂を凛と切り裂いた。
「万物の理を司る護廷の前において、貴様らの狂気などただの不純物に過ぎん。……その歪んだ存在理由ごと、ここで断ち切る」
黒銀の霊圧が、満月の夜空を衝いて爆発的に立ち昇った。
異界の理不尽を解体する死神の真なる戦いが、今、白日の下に幕を開けようとしていた。