吹き荒れる夜風が、石畳に散乱する瓦礫と砂塵を巻き上げていた。
満月の青白い光の下、荒野を挟んで対峙する死神と二人の大罪司教。街道の端では、如月弦が展開した『倒山晶』の結晶壁の中で、フェリスが青ざめた顔でクルシュの胸元に両手を翳し、必死に治癒魔法を注ぎ込んでいた。
「フェリス、クルシュ様の容体は!?」
スバルが駆け寄り、膝をついて問う。
「だ、ダメ……! 傷自体は塞がってるのに、クルシュ様の魂から『何か』が抜け落ちちゃってて……意識が戻らないの! これ、ただの怪我じゃない……!」
フェリスの声が絶望に震える。クルシュの瞳は開かれたままだが、そこには光がなく、呼吸だけを繰り返す空虚な人形と化していた。
「あはァッ! 無駄無駄、無駄だよォ!」
甲高い嘲笑とともに、ライ・バテンカイトスが地面を四つん這いで跳ね回った。
「その女の記憶も名前も、全部ボクたちの胃袋の中に収まっちゃったんだからさァ! 吐き出すわけないだろォ? 騎士としての誇りも、大切な人との思い出も、全部ボクたちの血肉になったんだよォッ!」
バテンカイトスが両手の短剣を打ち鳴らし、狂気にぎらつく瞳を宗弦へと向ける。
「ねぇ、白羽織のお兄さん! 君の魂も、すっごく上質で美味しそうな匂いがするよォ! どんな人生を歩んできて、どんな技を磨いてきたのか……ボクたちに全部味見させてよォッ!」
地を蹴るバテンカイトス。
その初速は、常人の動体視力を完全に置き去りにしていた。砂煙すら立たせぬ超低空の跳躍から、左右へジグザグに軌道を変化させ、残像を幾重にも散らしながら宗弦の死角へと肉薄する。
「速ぇ……ッ!? ガーフィール、援護を――」
スバルが叫びかけた瞬間、ガーフィールがすでに獣化させた腕を構えて飛び出そうとしていた。
「オレ様が引き裂いて――」
「退いていろ」
宗弦の静かな一言が、ガーフィールの踏み込みを完璧に縫い止めた。
宗弦の立ち姿には、いかなる予備動作もなかった。ただ半歩、右足を引いた瞬間――バテンカイトスが虚空から実体化し、宗弦の首筋へ向けて交差させた二振りの短剣を振り下ろしていた。
「いただきまぁぁぁすッ!!」
ギィィィンッ!!
夜の荒野に、耳を劈く金属音が炸裂した。
バテンカイトスの短剣を受け止めていたのは、宗弦が右手一本で掲げた『断業』の刀身であった。刃と刃が擦れ合い、火花が宗弦の薄墨色の瞳を鮮やかに照らし出す。
「な……ッ!?」
バテンカイトスの顔から笑みが消えた。
彼が振るったのは、過去に喰らってきた幾百もの達人たちの剣技を統合した必殺の一撃。いかなる甲冑も、いかなる障壁も紙のように切り裂くはずの刃が、まるで巨大な山脈に激突したかのようにピタリと制止されていた。
「他者から奪い取った技術を継ぎ接ぎしただけの、薄っぺらな太刀筋だな」
宗弦の冷徹な声が、至近距離からバテンカイトスの耳朶を打つ。
「な、舐めるなァッ! ボクたちの『暴食』を愚弄するなぁぁっ!」
バテンカイトスが身を捻り、足先から不可視の魔力刃を放ちながら、短剣の連撃を繰り出した。百の手数が一瞬のうちに宗弦の全身を覆い尽くす。
だが、宗弦の『断業』は、まるで未来の軌道を知悉しているかのように、その全てを最小限の刀線で弾き返した。
澄んだ金属音が夜空に連打される。
弾かれ、逸らされ、切り捨てられる狂刃。
「喰らい集めた魂の残滓に振り回され、己の足元すら見えておらん」
宗弦の左手が、死覇装の袂から閃いた。
掌底。
バテンカイトスの鳩尾へ、音もなく放たれた一撃。
ドッ――!!
「ゴハァッ……!?」
内臓を破裂させるほどの衝撃が小柄な身体を貫通し、バテンカイトスは目玉を血走らせて後方へと弾き飛ばされた。石畳を何度もバウンドし、数十メートル転がってようやく停止する。
「ゲホッ……ガハッ……! クソが、何なんだコイツの硬さは……!?」
吐血しながら立ち上がろうとするバテンカイトス。だが、宗弦は追撃を待たず、すでにその眼前へと音もなく移動していた。
瞬歩。
「貴様が腹に溜め込んだ魂魄の残滓、全て吐き出させる」
宗弦の『断業』が、静かに上段へと振り上げられた。
刃から立ち上る透明な陽炎が、夜の闇を歪める。
「――『断業・解縛(かいばく)』」
振り下ろされた白銀の一閃。
それはバテンカイトスの肉体を両断するのではなく、その体内に無理やり繋ぎ止められていた無数の「他者の因果の糸」だけを、寸分の狂いもなく切り裂いた。
ギャリィィィッ! と魂の次元で断絶の音が響き渡る。
「ぎゃああああっ!? ボクの……ボクたちの食べた記憶が……名前が、零れ落ちていくぅぅぅっ!?」
バテンカイトスの胸元から、無数の青白い光の奔流が噴き出した。
奪われていた魂の構成情報――記憶と名前の粒子。それらは夜空へと舞い上がり、それぞれの本来の持ち主を求めて、倒れ伏していた護衛兵たち、そして結晶壁の中のクルシュの身体へと吸い込まれるように降り注いでいった。
「……あ……」
クルシュの虚ろだった瞳に、微かな光が戻り始める。
「記憶が……戻ってきてる……!?」
フェリスが涙を流して叫んだ。
自らの権能の根幹を断ち切られたバテンカイトスは、魂を抉られたような激痛にのたうち回り、地面を掻き毟った。
「許さない……絶対に許さないぞォッ! レグルス! レグルス、助けてよォッ! この怪物を殺してぇぇぇっ!」
狂乱する暴食の叫びに応じるように、後方から冷え切った足音が近づいてきた。
「……まったく、醜態を晒すのにも程があるよ。他人の食事のマナーに口を出すつもりはないけれど、そうやって喚き散らして僕の鼓膜を震わせる行為は、僕の『静穏を享受する権利』を侵害していると何度言えば理解できるんだい?」
白髪の青年――レグルス・コルニアスが、苛立ちを露わにしながら歩み出てきた。
その濁った双眸が、宗弦を真っ直ぐに射抜く。
「君だよ、白羽織の不届き者。さっきから見ていれば、他人の能力を小馬鹿にして、自分の理屈ばかりを押し通して……傲慢だとは思わないのかい? 自分だけが正しく、他者は全て間違っているとでも言いたげなその態度は、僕という完成された存在に対する冒涜だよ」
レグルスが右手を無造作にポケットから引き抜いた。
「君のその刀も、妙な術も、僕の前では何の意味も成さない。僕の心臓は、僕の肉体は、この世の誰よりも満ち足りていて、何者にも脅かされないんだからさ」
レグルスが足元に落ちていた砂粒を一握り、掌に乗せた。
そして――ただそれを、宗弦へ向けて払うように投擲した。
放たれた数十粒の砂。
それは魔力を帯びているわけでもなく、詠唱を伴うわけでもない。だが、レグルスの手を離れた瞬間、砂粒は物理法則の全てを置き去りにした「絶対的な破壊の光線」へと変貌した。
大気が悲鳴を上げる間もなく、空間そのものが線状に削り取られ、宗弦の全身を寸断すべく殺到する。
宗弦の薄墨色の瞳が、極限まで細められた。
(……質量に対する加速ではない。投擲された瞬間から、対象の事象が「不可侵」として固定されている……!)
宗弦は『断業』を交差させ、全身の霊圧を刀身へと集束させた。
ガガガガガッ――!!!!
凄まじい衝撃音が荒野に木霊した。
宗弦の放った霊圧の障壁が、砂粒の直撃を受けて激しく火花を散らす。小石や砂粒という極小の質量でありながら、一粒一粒が巨大な攻城槌に匹敵する無限の破壊力を持って刀身を押し込む。
宗弦の足が、石畳を十数メートルに渡って深く削りながら後方へと滑った。
「隊長……!」
弦が即座に援護の術式を編もうとする。
「手を出すな、弦!」
宗弦の鋭い一喝が、戦場を制した。
宗弦は煙を上げる『断業』の切っ先を構え直し、静かに息を整えた。羽織の裾が一筋だけ裂け、夜風に揺れている。
スバルが目を見張り、息を呑んだ。
「宗弦さんの防御を……押し込んだ……!? なんだあいつの力は……ただ砂を投げただけだぞ!?」
「あはははっ! 素晴らしいね、防ぎ切ったつもりかい?」
レグルスが嘲笑いながら、一歩前へ進み出る。
「君の刀がどれほど頑丈だろうと関係ないんだよ。僕の世界には、摩擦も、衝撃も、時間の経過すら干渉できない。僕が触れたものは全て、僕の絶対性を分け与えられて、世界を均質に両断する神の刃となるのさ!」
レグルスが両腕を広げると、周囲の大気が不気味に静止した。
風が止み、舞い散る粉塵が空中でピタリと制止する。
「さあ、消え去りたまえ。僕の完璧な権利を侵害した罪を、その肉片をもって贖うといい!」
レグルスが大きく腕を振り抜いた。
放たれたのは、大気を掴んで投げ飛ばしただけの「空間の断片」。
不可視の絶対切断波が、大地を深さ数十メートルの裂け目へと変えながら、宗弦を、そして後方のスバルたち全員をまとめて消滅させるべく押し寄せる。
避ければ、後方のエミリアたちごと荒野が消滅する。
宗弦は退かなかった。
黒漆の柄を握る右手に、これまでにない高密度の霊圧が凝縮されていく。
薄墨色の瞳が、迫り来る不可侵の切断波を冷徹に見据えた。
「――己の存在を世界の理から切り離し、絶対の停滞の中に閉じ籠もるか」
宗弦の声が、破滅の轟音を貫いて響き渡る。
「いかに事象を停止させようと、貴様がこの大地に立ち、他者を害しているという『事実(因果)』が存在する限り、断てぬ道理はない」
宗弦の刃が、静かに横一文字へと構えられた。
「『断業・均整(きんせい)』」
放たれる、死神の真なる太刀筋。
停止した時空の刃と、因果を刈り取る白銀の切っ先が、今まさに真っ向から激突しようとしていた。
白銀の刃が、夜の闇を横一線に撫でた。
大気を震わせる斬撃音はない。ただ、空間の境界線が微かに揺らぎ、不可視の切断波と『断業』の刀身が寸分の狂いもなく交差した。
その瞬間――世界から摩擦の概念が消滅したかのような、絶対的な静寂が訪れた。
「……な、に……!?」
レグルスの濁った瞳が、驚愕に見開かれる。
触れるもの全てを分子レベルで平準化し、山をも両断するはずの不可侵の空間刃。それが、宗弦の放った白銀の軌跡に触れた瞬間、真っ二つに裂かれた。裂かれた切断波は左右へと軌道を逸らされ、宗弦の背後にいたスバルたちを掠めることもなく、荒野の遥か彼方の地平線を削り取って夜空へと消え去った。
轟音すら遅れて届く。
裂け目から生じた突風が宗弦の羽織を激しく煽るが、その足取りは微動だにしなかった。
「僕の……僕の完璧な攻撃が、切り裂かれた……? あり得ない、あり得ないよ! 時間を停止させた絶対の事象を、ただの刀で逸らすなんて、そんな不条理が許されていいはずがないだろうがァッ!」
レグルスが顔を真っ赤にして激昂し、髪を振り乱した。
己の理不尽こそが世界の頂点であり、何者も侵すことのできない神聖不可侵の領域であると信じ込んできた男。その絶対性が、眼前の死神によっていとも容易く否定されたのだ。
「時間の停止か。だが――」
宗弦は切っ先をわずかに下げ、冷徹な声音で告げた。
「貴様が放った刃が空間を切り裂き、他者の命を奪おうとしたという『因果』までは止まっておらん。事象が連続して世界に影響を及ぼす以上、そこには必ず接続点が存在する。『断業』はその接続を断ち、あるべき均衡へと戻す刃だ」
「理屈をこねるなァッ! 盗人め、不届き者め! 僕の権利を否定するお前のような害虫は、塵芥すら残さず消し炭にしてやるよォォッ!」
レグルスが大地を踏み抜いた。
足先が地面に触れた瞬間、半径数十メートルの石畳が一瞬で粉末状へと分解され、数万の砂塵となって宙に舞い上がった。レグルスが両腕を一閃させると、その砂粒の一つ一つが時間を停止させた絶対の弾丸となり、宗弦の全方位を埋め尽くす弾幕となって解き放たれる。
避ける隙間などない。荒野全体を消滅させるほどの密度の飽和攻撃。
宗弦は息を深く吸い込み、左手を胸の前で垂直に立てた。
「『縛道の八十一・断空(だんくう)』」
「『縛道の七十三・倒山晶(とうざんしょう)』」
二重の詠唱破棄。
宗弦の周囲に展開された透明な断空の壁、そして外側を覆う青白い霊圧結晶。
ギャギャギャギャギャッ――!!!!
数万の不可侵の砂粒が、二重結界の表面に着弾した。
火花が夜空を真昼のように照らし出し、衝撃波が周囲の土を何メートルも抉り取る。時間を停止させた砂粒の無限の貫通力に対し、事象を拒絶する『断空』と空間を固定する『倒山晶』が軋みを上げながら耐え抜く。
「くっ……これほどの密度か」
結界の内側で、宗弦の薄墨色の瞳が鋭く細められた。
完全に防ぎ切ってはいるが、レグルスが自らの肉体にその絶対性を纏わせている限り、結界を解除して踏み込めばこちらが削り取られる。相手の肉体そのものに触れずに、その「停止した因果」を如何にして解除するか。
宗弦の視線が、レグルスの胸元、そしてその周囲の空間へと向けられた。
(……観察しろ。いかに不可侵を気取ろうと、この男は喋り、怒り、思考している。己の時間を完全に止めているならば、思考の伝達も言語の発声も成立するはずがない)
宗弦の研ぎ澄まされた霊圧感覚が、レグルスの肉体と、遥か遠方の空間との間に伸びる「極めて微細な因果の糸」を捉えた。
(……なるほど。己の心臓の停止という致命的な負荷を、別の場所に存在する何者かへと分散・肩代わりさせているのか。本体の時間を止めながら、思考と運動の因果だけを外部の器と接続することで成立させている擬似的な無敵)
仕掛けは解けた。
遠方にいる肩代わりの器を探し出して破壊する必要すら、宗弦にはない。接続されている「因果の糸」そのものが視えているならば、それを断ち切るだけで事足りる。
「弦!」
宗弦の鋭い声が、結界の外へと響いた。
「はっ!」
後方で負傷者を守っていた弦が、即座に応じる。
「あの男の周囲、半径十メートルに存在する空間の霊子密度を極限まで引き上げろ。外部との魔力・因果の導線を一時的に遮絶する」
「了解いたしました! ――『縛道の七十五・五柱鉄貫』、および『縛道の六十三・鎖条鎖縛』!」
弦が印を結び、レグルスの足元と頭上へ向けて二重の高位縛道を連続展開した。
天空から落下した五本の巨大な鉄柱がレグルスを取り囲むように突き刺さり、黄金の鎖がその周囲の空間を幾重にも締め上げる。レグルス自身に直接触れることはできずとも、周囲の空間を強固な霊圧結界で檻のように包囲することは可能だ。
「な……ッ!? こんなもの、僕の体には傷一つ付けられないと――」
「貴様の肉体を狙ったのではない」
結界を解除した宗弦が、爆煙を切り裂いてすでにレグルスの頭上へと跳躍していた。
瞬歩による垂直上昇。
白羽織を夜風にはためかせ、宗弦は『断業』を両手で上段へと構えた。
刀身に収束するのは、これまでにないほど凝縮された黒銀の霊圧。それは山を砕くための一撃ではなく、空間に張り巡らされた「目に見えぬ接続」を刈り取るための絶対の刃。
「他者に己の命の重みを押し付け、その犠牲の上に成り立つ無敵など――護廷の刃が断てぬ道理はない!」
宗弦の刃が、天空から一閃された。
「――『断業・絶脈(ぜつみゃく)』」
振り下ろされた白銀の刃筋が、レグルスの頭上、彼と外部の世界を繋いでいた「不可視の因果の糸」を寸分の狂いもなく両断した。
プツン、と魂の深淵で何かが切断される音が響いた。
「え……?」
レグルスの動きが、ピタリと止まった。
彼を包んでいた絶対の不可侵、時間を停止させていた無敵の膜が、水泡が弾けるように一瞬で霧散していった。
外部との接続を断たれた瞬間、停止していたレグルス自身の「心臓」が、本来受け止めるべきだった数分間分の心停止の反動と、全身に蓄積されていた負荷を一気に吐き出したのだ。
「カハッ……!? あ、ガ……ッ!? な、なんだ……胸が……息が、できない……ッ!?」
レグルスが両手で胸を掻き毟り、その場に膝をついた。
顔面は急速に鬱血し、瞳から血の涙が零れ落ちる。無敵を失い、ただの脆弱な人間に戻った大罪司教の姿。
「ひ、酷い……! 僕の心臓が……僕の完璧な肉体が……痛い、苦しい……ッ! 誰か、助け――」
「貴様が奪ってきた幾百の命の重みだ。その身で味わうがいい」
宗弦は音もなく地上に着地すると、迷うことなく『断業』の柄頭をレグルスの鳩尾へと叩き込んだ。
ドッ――!!
不可侵を失った肉体に、宗弦の勁力がまともに炸裂する。
肋骨が砕ける鈍い音とともに、レグルスの身体はくの字に折れ曲がり、白目を剥いて石畳の上へと崩れ落ちた。もはや指一本動かす力すら残されていない。
「レグルス……!? レグルスが、やられた……!?」
後方で倒れていたライ・バテンカイトスが、信じられないものを見る目で絶叫した。
無敵を誇っていた最強の大罪司教が、手も足も出ずに完膚なきまでに叩き伏せられたのだ。
「ヒッ……化け物……! 化け物だァッ!」
バテンカイトスが四つん這いになり、脱兎のごとく荒野の闇へと逃げ出そうと地を蹴った。
だが――その逃走経路を、巨大な獣の影が遮った。
「――逃がすかよォッ! テメェの相手はオレ様だァッ!」
咆哮とともに飛び出してきたのは、全身を完全な巨大虎へと変貌させたガーフィールであった。
鋼鉄をも砕く巨大な前足が、逃げようとしたバテンカイトスの頭上から容赦なく振り下ろされる。
ドガァァァンッ!!
「ギャァッ!?」
バテンカイトスは地面へと叩きつけられ、深々と土の中へとめり込んだ。
さらにそこへ、エミリアが両手を掲げて氷の術式を編み上げる。
「これ以上、誰の記憶も奪わせないわ! ――『ウル・ヒューマ』!」
絶対零度の氷塊が瞬時にバテンカイトスの四肢を凍結させ、逃亡の自由を完全に奪い去った。
「くそ……くそぉぉぉっ! ボクたちの『暴食』が……こんなところでぇぇっ!」
氷の中で身悶えするバテンカイトス。
そこへ、如月弦が静かに歩み寄り、懐から二本の白銀の封印筒を取り出した。
「『強欲』および『暴食』の魂魄の因子、これより捕縛・封印術式へ移行します」
弦が印を結ぶと、倒れ伏したレグルスと氷漬けのバテンカイトスの胸元から、禍々しい魔女の因子の気配が吸い上げられ、白銀の筒の中へと封じられていった。
カチリ、カチリと重厚なロック音が響く。
ペテルギウス、エキドナに続き、ルグニカを脅かしていた二柱の大罪司教が、完全に無力化された瞬間であった。
静寂が、フラム街道に戻ってきた。
満月の光が、荒廃した石畳と、そこに立つ者たちを静かに照らし出している。
スバルは膝をつき、大きく息を吐き出した。
「勝った……のか……? あのレグルスとバテンカイトスを……本当に、倒したのか……?」
「ええ、スバル」
エミリアが駆け寄り、スバルの肩に優しく手を置いた。その紫紺の瞳には、安堵の涙が光っている。
「クルシュ様も、兵士の人たちも、みんな意識を取り戻し始めているわ。……誰も、失われずに済んだのよ」
「……ああ。本当によかった……!」
スバルは顔を覆い、噛み締めるように呟いた。
一度の死も、一度のやり直しも介さずに、全てを守り抜いた。それはスバルがこの異世界に召喚されて以来、初めて掴み取った「完全なる勝利」の現実であった。
宗弦は『断業』の切っ先を払い、静かに黒漆の鞘へと納刀した。
カチリ、と澄んだ鍔鳴りの音が夜気に響く。
その薄墨色の瞳は、荒野の彼方――世界の理が静かに修復され、歪んでいた因果の糸が正しく結び直されていく様を、静かに見届けていた。