夜の帳が東の空から徐々に剥がれ落ち、群青色のグラデーションが地平線を染め始めていた。
冷え切ったフラム街道の石畳に、穏やかな朝露が降り注ぐ。先ほどまで死闘が繰り広げられていた荒野には、散乱した瓦礫と深く抉られた大地の傷跡が残るのみで、立ち込めていた悍ましい瘴気は一片たりとも存在しなかった。
「……う、ん……」
『倒山晶』の霊圧結晶が静かに解かれた中心で、横たわっていた緑髪の美姫――クルシュ・カルステンが、小さく息を漏らして長い睫毛を震わせた。
「クルシュ様……! クルシュ様ぁぁぁっ!」
傍らに控えていたフェリスが、我慢できずにその胸元へすがりつき、大粒の涙を零して泣き崩れた。
「フェリス……? 私は、一体……」
クルシュは自らの両手を持ち上げ、視線を巡らせた。
白鯨を討伐した後の凱旋の記憶、街道で突如として現れた白髪の男と獣のような少年、そして己の過去や誇りが奪われ、暗闇の中へと沈んでいった感覚。その全てが、鮮明な記憶の奔流となって脳裏へと蘇っていた。
「記憶が……私の記憶が、残っている……。それに、兵たちも……」
周囲を見渡せば、倒れ伏していたカルステン領の私兵たちが、一人、また一人と身体を起こし、互いの名を呼び合って無事を確かめ合っていた。奪われた名前が戻り、存在の輪郭が世界へと再接続されたのだ。
「よかった……本当によかったにゃあ……! クルシュ様が、クルシュ様じゃなくなっちゃうところだったんだよぉ……!」
泣きじゃくるフェリスの頭を優しく撫でながら、クルシュは毅然とした面持ちで身を起こした。そして、荒野の中央に佇む異様な装束の者たち――純白の羽織を夜風に揺らす神代宗弦と、如月弦へと真っ直ぐに視線を向けた。
クルシュは乱れた軍服の裾を正し、二人の死神の前へと歩み出ると、騎士としての最大の礼をもって深々と頭を垂れた。
「……カルステン公爵家当主、クルシュ・カルステンだ。我が部隊の窮地を救い、奪われた魂の尊厳を取り戻していただいたこと、心より感謝申し上げる。貴方方の圧倒的な助力なくして、我らは皆、名もなき屍となって世界から消え去っていた」
「礼には及ばん」
宗弦は薄墨色の瞳を静かに向け、淡々と告げた。
「我らは私情で貴様らを救ったのではない。他者の因果を喰らい、世界の理を歪める不純物を排除したに過ぎん。……起き上がれたならば、速やかに負傷者を収容し、王都へ引き返せ」
その平坦でありながら芯の通った声音に、クルシュは紫紺の瞳を瞠った。見返りを求めず、ただ己の課した絶対の規律に従って事象を裁く者。その佇まいは、ルグニカ王国のいかなる騎士や賢人とも決定的に異なっていた。
「宗弦さん」
エミリアが歩み寄り、宗弦の隣で足を止めた。
「ペテルギウス、白鯨、ロズワールが囚われていた聖域の結界……そして、この街道を襲った二人の大罪司教。……これで、この国を脅かしていた大きな災厄は、全て退けられたのね」
「表層の不純物はな」
宗弦の視線が、エミリアの背後に立つナツキ・スバルへと移った。
スバルは自らの胸元に手を当て、複雑な表情で立ち尽くしていた。
仲間たちが救われ、誰も死なずに済んだ最高の結末。だが、スバルの魂の奥底には、未だあの冷たい影――『死に戻り』という名の魔女の因果が、重く沈殿しているのを自覚していたからだ。
「……なあ、宗弦さん」
スバルが意を決して前に進み出た。
「俺の魂の中にいる『嫉妬の魔女』……あいつとの繋がりは、どうなるんだ? 大罪司教を倒しても、俺が死んだらまた……世界を巻き戻しちまうのか?」
その問いに、周囲の空気が再び張り詰めた。エミリアも、クルシュも、ガーフィールも、息を呑んで宗弦の言葉を待つ。
宗弦は黒漆の鞘に収まった『断業』の鍔に、親指を静かに添えた。
「大罪司教どもが持っていた魔女の因子を回収・封印したことで、この世界に満ちていた因果の乱れは大幅に沈静化した。……だが、貴様の魂魄の最深部に根を張る『嫉妬の魔女の思念』との結合だけは、外部からの干渉だけで自然消滅することはない」
「やっぱり……そうなのか」
スバルが唇を噛み締める。
「だが、手立てがないわけではない」
宗弦の静かな一言に、スバルが弾かれたように顔を上げた。
「これまでの貴様の魂魄は、死を迎えるたびに過去へと引き戻され、因果の糸が複雑に絡まり合っていた。だが今、この世界における歪みの元凶を断ち切ったことで、貴様と魔女を繋ぐ糸は『一本の太い因果』として完全に孤立・露出している」
宗弦が『断業』をゆっくりと抜き放った。
白銀の刃が朝の陽光を反射し、澄み渡る黒銀の霊圧が静かに立ち昇る。
「私の『断業』ならば、貴様の魂魄を傷つけることなく、その奥底に巣食う魔女の因果の糸だけを寸分の狂いもなく両断できる。……だが、それを断ち切れば、貴様は二度と『死んでやり直す』ことはできなくなる。命を落とせば、貴様の魂はそのまま冥府へと送られ、二度と現世へ戻ることはない」
宗弦の薄墨色の瞳が、スバルの覚悟を試すように射抜く。
「理不尽な世界を生き抜くための唯一の武器を失い、ただの脆弱な一人の人間として生と死の理を受け入れるか。それとも、魔女の呪縛を抱えたまま、いつ訪れるとも知れぬ世界の崩壊に怯えて生きるか。……選べ、ナツキ・スバル」
静寂が支配する荒野。
エミリアが心配そうにスバルの服の袖を掴んだ。
「スバル……無理に答えを出さなくても――」
「いや、エミリア」
スバルは優しくエミリアの手の上に己の手を重ね、首を横に振った。
その瞳には、もはや恐れも迷いも微塵も存在しなかった。かつて死の恐怖に怯え、自らの命をチップにして未来を買い叩いていた少年の弱さは、幾多の仲間たちと共に歩んできた現実の中で完全に削ぎ落とされていた。
「最初から、答えは決まってるんだよ」
スバルは宗弦の前に歩み寄り、胸を張って真っ直ぐに刃を見据えた。
「俺は、死んでやり直すためにこの世界に来たんじゃない。エミリアと、レムと、みんなと一緒に……笑って明日を迎えるために生きてるんだ。もう二度と、死に逃げたりしねぇ。この命一つで、全部背負って生きてやるよ」
力強い宣告。
宗弦の口元に、極めて微かな、しかし確かな納得の気配が過った。
「よかろう」
宗弦は『断業』の切っ先を、スバルの胸元――心臓の直上へと音もなく向けた。
「動くな。魂の縫合を解く」
宗弦の唇が、静謐なる言霊を紡ぐ。
「――『断業・禊祓(みそぎはらい)』」
切っ先が、スバルの衣服を破ることなく、その肉体を透過して魂魄の深淵へと滑り込んだ。
痛みはなかった。
ただ、胸の奥深く、これまでずっと自分を縛り付けていた氷のような冷たさが、温かな光に包まれていくのを感じる。
宗弦の刃が、スバルの魂の奥底で蠢いていた「漆黒の糸」を捉え、静かに一閃された。
プツン、と世界の理が正常な位置へと嵌まり込むような澄んだ音が響いた。
スバルの胸元から、最後の黒い瘴気が一筋の煙となって立ち上り、朝の光に照らされて完全に霧散していった。長年、少年の魂を蝕み続けていた『死に戻り』の呪詛が、世界の因果から完全に切り離された瞬間であった。
「……っ、ふぅ……」
スバルが大きく息を吐き出し、自らの胸に手を当てた。
いつもそこにあった、息苦しい圧迫感と冷たい悪意の気配が、綺麗さっぱり消え失せている。自分の心臓が、自分の命のためだけに、力強く脈打っているのがはっきりと分かった。
「終わったぞ、ナツキ・スバル」
宗弦は『断業』を静かに鞘へと収めた。
カチリ、と響く鍔鳴りの音とともに、大気中の霊圧が完全に平準化され、澄み切った朝の空気が街道を満たした。
如月弦が歩み寄り、懐の観測儀を確認して宗弦へ一礼する。
「隊長。ルグニカ全土における時空の歪み、および因果の摩擦係数、全て規定値内へ復帰しました。現世および尸魂界への影響は完全に遮絶。……特務の完了を確認しました」
「うむ」
宗弦は頷き、死覇装の袂から特殊な霊符を取り出し、虚空へと掲げた。
「境界の門を開く」
宗弦の言霊とともに、街道の空間が縦に裂け、青白い光を放つ重厚な門――穿界門が出現した。現世と尸魂界を繋ぐ境界の扉。
「行っちゃうの……ですか?」
エミリアが寂しそうに声をかける。
宗弦は振り返り、エミリア、スバル、クルシュ、フェリス、そしてガーフィールたちを見渡した。
「我々の務めは世界の理を正すことであり、生者の世界に留まり続けることは許されん。……歪みは断った。この先の未来を如何に紡ぐかは、貴様ら生者が己の足で決めることだ」
宗弦の言葉に、スバルは深々と頭を下げ、そして顔を上げて最高の笑顔を向けた。
「ありがとう、宗弦さん、弦さん。……あんたたちに救ってもらったこの世界、絶対に無駄にはしねぇよ!」
「達者でな、少年」
宗弦は白羽織の裾を翻し、如月弦と共に穿界門の光の中へと足を踏み入れた。
二人の死神の背中が光に包まれ、重厚な扉が軋んだ音を立てて静かに閉ざされていく。
空間の裂け目が完全に消え去った後、フラム街道には、どこまでも青く澄み渡る朝空が広がっていた。
昇りきった朝陽が、大地に立つスバルたちの未来を、眩いばかりの光で照らし出していた。