断界の濁流を抜けた先に広がっていたのは、見慣れた白砂の敷き詰められた静寂の回廊であった。
現世とも、あの緑深く因果の擦り切れた異界の空とも異なる、濃密で研ぎ澄まされた霊子の匂い。空には雲一つなく、白壁と黒瓦の屋根がどこまでも整然と連なる瀞霊廷の景観が、遮るもののない陽光を浴びて静まり返っていた。
背後で穿界門の重厚な障子戸が軋んだ音を立てて閉ざされ、境界の裂け目が完全に消滅する。
如月弦は小さく息を整え、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。その死覇装の裾には、フラム街道で浴びた砂塵が微かに白く残っていたが、その立ち姿はすでに瀞霊廷の副隊長としての規律正しい威容を取り戻している。
「……帰着を確認。位相誤差、時間軸のズレ共に許容範囲内です」
弦が懐の霊具を確認しながら報告する。
神代宗弦は純白の隊長羽織を静かに払った。羽織の背に刻まれた「十四」の文字が、瀞霊廷の凛とした風を受けて小さく翻る。
「うむ。回収した封印筒の状態はどうだ」
「問題ありません。大罪司教三名――『怠惰』『強欲』『暴食』から抽出した因果の核、および『強欲の魔女』の残留思念体、計四本の封印筒すべて、霊圧遮断符による二重ロックが正常に機能しています。外部への霊子漏洩率はゼロです」
弦は懐から取り出した白銀の筒を収めた漆塗りの木箱を示した。その蓋には、厳重な封印の注連縄と護廷十四隊特務符が幾重にも貼り巡らされている。
「これより技術開発局および一番隊舎へ赴き、持ち帰りし異界因果物の引き渡し、ならびに総隊長への任務完了報告へ移行します」
「いや」
宗弦は歩みを止めず、薄墨色の瞳を十四隊隊舎が位置する北西の区画へと向けた。
「技術開発局への引き渡しは後回しだ。あの連中に初手から渡せば、異界の未知なるマナ構造に目を眩ませて解剖・実験を優先し、因果の安定化を怠りかねん。まずは我が十四隊の監査室にて霊子の完全固定を行い、詳細な調書を作成した上で中央四十六室および一番隊へ提出する」
「……了解いたしました。涅隊長に知られれば少々面倒なことになりそうですが、隊長の判断に従います」
弦は口元に微かな苦笑を浮かべつつも、深く頭を下げた。
護廷十四隊――瀞霊廷の最外周、白道門近くの小高い丘陵地に構えられたその隊舎は、他の部隊のそれとは明らかに異なる空気を纏っていた。
表向きは「境界守護および霊子滞留監査」を担う特務部隊。だがその実態は、三界の境界を越えて発生する異常事態、因果の破綻、そして既存の十三隊の管轄を逸脱した超法規的脅威を秘密裏に処理・解体する、瀞霊廷の影の監査機関であった。
門をくぐると、黒の死覇装に身を包んだ十四隊の隊士たちが、整然と隊列を組んで敬礼を捧げた。
「隊長、副隊長! ご無事のお戻り、心よりお慶び申し上げます!」
「うむ。留守中の隊内、および管轄境界に異常はあったか」
宗弦が足を止めずに問うと、一番隊士が進み出て答えた。
「はっ! 境界観測班より報告。現世および断界における霊子圧の微動はすべて規定値内で推移。ただし――西方虚数領域の計器において、極めて微弱ながら、周期的な霊子波の干渉が観測されております」
「……周期的な干渉か」
宗弦の薄墨色の瞳がわずかに眇められた。
「弦。直ちに監査室の大型霊子計算機を起動させろ。持ち帰った四本の封印筒の波長と、その西方虚数領域の干渉波を照合する」
「承知いたしました」
弦が木箱を抱えて足早に地下の監査室へと向かう。
宗弦は自室である隊長執務室の引き戸を開け、静寂の中に身を滑り込ませた。
簡素を極めた部屋であった。磨き上げられた白木の床に、黒漆の文机。壁には一切の装飾がなく、ただ一本の掛け軸に『平準』の二文字が力強い筆致で刻まれている。
宗弦は腰の斬魄刀『断業』を外し、机上の刀掛けへと静かに置いた。
黒漆の鞘に収まった刃は、異界の数々の理不尽を断ち切った後であっても、一片の刃こぼれも曇りもなく、静謐な霊圧を湛えている。
宗弦は椅子に深く腰を下ろし、瞑目した。
脳裏を過るのは、あの異界で出会った少年――ナツキ・スバルの姿であった。
己の命を幾度もすり減らし、絶望の泥水を啜りながら、それでも誰かを救うために足掻き続けた脆弱な魂魄。死神の刃によって『死に戻り』という名の魔女の因果を断ち切られたあの少年は、今頃、自分自身の命の重みを噛み締めながら、あの世界の現実を歩み始めているはずだった。
(……救われた世界が、真にあるべき平穏を保ち続けられるか否か。それは生者自身の選択に委ねられている)
だが、宗弦の胸中に去来する胸騒ぎは、完全には晴れていなかった。
あの大罪司教たちの狂気、エキドナの執着、そしてスバルの魂魄の奥底に巣食っていた『嫉妬の魔女』の影。あの世界に満ちていた異様な因果の歪みは、果たしてあの四柱を封じただけで完全に根絶されたと言えるのか。
障子が静かにノックされた。
「隊長、弦です。解析の初期データが出ました」
「入れ」
弦が静かに部屋へ入り、一礼して文机の前へと進み出た。その手には、技術開発局へ提出するための羊紙の調書と、青白く発光する霊子記録符が握られていた。
「報告します。回収した四本の封印筒より抽出した因果因子の解析結果です」
弦は記録符を机上に展開し、空中に青白い立体グラフを浮かび上がらせた。
「まず、大罪司教『怠惰』ペテルギウス、および『強欲』レグルス、『暴食』ライ・バテンカイトスの三名について。彼らの魂魄を汚染していた『魔女因子』と呼ばれる異質なエネルギー体ですが……これは我々の知る虚(ホロウ)の力とも、滅却師の霊子収束とも異なる、純粋な『概念の変質体』であることが判明しました」
「概念の変質体、か」
「はい。人間の魂魄が持つ根源的な感情――執着、傲慢、食欲といった原罪の波長を極限まで増幅させ、世界の理を強制的に書き換える権能を付与する寄生物です。……恐るべきは、宿主が肉体的な死を迎えても、この因子そのものは消滅せず、波長の適合する新たな魂魄を求めて世界を漂流する性質を持っていたことです」
弦の指先が、グラフの一角を指した。
「隊長が『断業』をもって因果の糸を両断し、封印筒へと隔離したため、現世への再流出は完全に阻止されました。しかし……問題は残る因子です」
「……残る大罪、だな」
宗弦が低く呟く。
「その通りです。伝承およびエキドナの残留記憶データを照合した結果、あの世界にはまだ未確認の魔女因子が存在します。『憤怒』、『色欲』、そして暴食の残る二つの側面……。これらは依然としてあの世界のどこかに潜伏し、因果の安定を脅かしている可能性があります」
弦はさらに一枚の羊紙を机の上に置いた。
「そして……もう一点。これが最も不可解かつ深刻な観測結果です」
弦の表情が、極限まで引き締まった。
「西方虚数領域から観測されていた周期的な干渉波……これをスバルの魂魄から切断した『嫉妬の魔女の思念』の波長と照合したところ、完全に同一のサインを示しました」
「……何だと」
宗弦の薄墨色の瞳が鋭く光った。
「スバルから切り離した思念は、あくまで彼の魂に付着していた『端末』に過ぎません。本体は依然として、あの世界の最果て――大瀑布の近傍に存在する『封印の祠』に眠っていると推測されます。そしてその本体の霊子圧が……スバルとの接続を断たれたことによって、眠りから覚醒の兆候を示し、境界の壁を越えてこちらの虚数領域にまで干渉波を放ち始めているのです」
室内の空気が、目に見えて重く張り詰めた。
スバルの呪いを解いたことは、あの少年を救うためには不可欠な措置であった。だがその結果として、四百年間封印の奥底で微睡んでいた『嫉妬の魔女』本体が、失われた半身を求めるかのように、その狂気の思念を活性化させ始めているのだ。
「……因果の揺り戻し、というわけか」
宗弦は静かに立ち上がり、窓の外へと視線を向けた。
遠く、瀞霊廷の中央に聳え立つ一番隊舎の白亜の巨塔。その頂きを見つめながら、宗弦は思考を巡らせる。
「隊長。この件、一番隊の総隊長、ならびに中央四十六室へ何処まで開示すべきでしょうか」
弦が真剣な面持ちで問う。
「ありのままを報告する。隠蔽や曲解は、護廷の監査を担う十四隊の矜持に反する」
宗弦は迷いなく答えた。
「ただし、直ちに再出撃の要請を出す必要はない。あの世界のマナ循環は、スバルという特異点の解放によって一時的な安定を得ている。今我々が拙速に介入すれば、かえって魔女の封印を刺激し、世界の崩壊を早めることになりかねん」
宗弦は机の上の『断業』へと視線を落とした。
「観測網を西方虚数領域へ集中させろ。波長の振幅が臨界点を超えるその瞬間まで、我々は瀞霊廷にて刃を研ぎ、己の霊圧を練り上げる。……相手が四百年の怨念を抱く魔女の本体であろうと、理を乱す不純物であるならば、断つべき刃の筋道に揺らぎはない」
「了解いたしました」
弦は深々と一礼し、調書を手に静かに部屋を退出していった。
一人残された執務室の中、宗弦は再び机上の刀掛けへと歩み寄った。
窓から差し込む夕暮れの陽光が、白銀の鍔を静かに照らし出している。
瀞霊廷の平穏な日常の裏で、静かに、しかし確実に紡がれ始める次なる因果の糸。異界の命運を巡る死神たちの戦いは、終わりを告げたのではなく、より深き深淵へと向けて、束の間の静寂の中にその力を蓄えようとしていた。