BLEACH ―断業の輪廻、ゼロの因果―   作:ネネカ大神

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第1話:異界の土踏み、因果の残照

空間の裂け目が軋みを上げて閉ざされた瞬間、鼓膜を打ったのは、どこまでも重苦しい静寂だった。

境界を貫く漆黒の通路を抜け、特殊位相の穿界門をくぐり抜けた先。肌を撫でた夜気は、現世の澄んだ冷気とも、尸魂界の霊子に満ちた清冽な大気とも、虚圏の乾燥しきった砂嵐とも決定的に異なっていた。大気そのものが奇妙な粘性を帯び、呼吸のたびに肺腑へと未知の異物が滑り込んでくるような錯覚を覚える。

神代宗弦は音もなく両足を湿った土の上へと降ろした。

足元の雑草一本すら揺らさない、極限まで無駄を削ぎ落とした着地。背に刻まれた「十四」の数字が、純白の隊長羽織とともに夜風を孕んで静かに翻る。切れ長の薄墨色の瞳が、暗がりの中に広がる鬱蒼とした原生林を素早く走査した。

そのすぐ背後、同じく一分の隙もない所作で、副隊長の如月弦が着地する。彼女は浅葱色の髪を指先で整えながら、即座に懐から小型の計器を取り出し、青白く明滅する盤面に細い指を滑らせた。

 

「……大気組成の解析を完了しました。極めて異常です」

 

弦の硬質な声が、夜の帳に低く溶ける。

 

「基礎霊子の濃度が全体の〇・一パーセントにも満たない数値を記録しています。大気中に漂うのは、六系統の異なる波長を持った未知の生体エネルギー……事前予測にあった魔力粒子と見て間違いありません」

 

「霊子の補給が望めぬ環境、ということだな」

 

宗弦は夜空を見上げた。

雲の切れ間から覗く月は、現世で見慣れたものと酷似している。だが、その周囲に散らばる星座の並びは、いかなる天体図面とも一致しない。何より、その夜気の中に漂う魂の気配が、あまりにも悍ましく淀んでいた。

 

「はい。ですが我々の霊圧総量であれば、内部循環のみで数ヶ月の活動継続は十分に可能です。また、我々の霊体とこの世界の環境エネルギーとの間に激しい拒絶反応は見られません。物理干渉および隠密行動に支障はないと判断します」

 

「……問題は大気の質ではない。この大地に染み付いた、魂魄の歪みだ」

 

本来、生あるものが命を落とした時、その魂は因果の鎖を解き、輪廻の環へと還る。それが世界の絶対的な平準化作用であり、理の根幹だ。

しかし、この世界の大気には、一度死を迎えたはずの事象が強引に過去へと引き戻された痕跡が、幾重にも重なって焼き付いていた。擦り切れかけた羊皮紙を何度も貼り直したかのような、異様な因果の摩擦熱。

 

「死を起点とし、世界そのものの時間を巻き戻している。……それも、この数日の間に幾度もだ」

 

「ええ。計器の針も、この森の北西――数キロ先の方角を強く指し示しています。死の因果が何重にも折り重なり、特異点と化している地点が存在します」

 

弦が計器を懐へ収め、静かに呼吸を整える。

 

「隊長、気配の遮断を行います。この世界の住人に鋭敏な感覚の持ち主がいた場合、我々の放つ霊圧はあまりに異質です」

 

「頼む。余計な接触は避けるに越したことはない」

 

弦が短く息を吐き、静かに言霊を紡いだ。

 

「――照らし惑わせ、『鏡眩』」

 

澄んだ解号とともに、弦の周囲から淡い光の粒子が立ち上った。光は二人を取り囲むように球状に広がり、大気の屈折率と霊圧の波動を瞬時に書き換えていく。

二人の姿、足音、果ては身に纏う霊圧の気配に至るまでが、完全なる虚無へと溶け込んだ。肉眼で捉えることも、魔力や直感で感知することも不可能な、絶対的な不可視の膜。

 

「半径五十メートル以内の光と霊圧を遮蔽しました。内側から強い霊圧を直接放たない限り、気付かれることはありません」

 

「行くぞ」

 

二人は音もなく地を蹴った。瞬歩の歩法を用いながら、大気を震わせる衝撃波すら光の膜の内側で相殺し、漆黒の森を滑るように北西へと突き進んでいく。

原生林を抜けた先に広がっていたのは、なだらかな丘陵地帯と、木造の家屋が点在する小さな集落の残骸だった。

だが、そこにあるべき人の営みは存在しなかった。

漂うのは、焼き払われた木材の燻る臭いと、冷え切った血液の鉄錆の匂い。家々の壁には刃物で付けられた無数の傷が刻まれ、生活の痕跡は無惨に破壊され散乱している。倒壊した家屋の隙間には、逃げ遅れたのであろう住人たちの遺体が物言わぬ骸となって横たわっていた。

 

「……集落が一つ、完全に壊滅していますね。生存者の生体反応は皆無です」

 

弦が周囲を冷徹に見渡し、小さく眉をひそめた。

 

「ですが、不可解です。遺体の腐敗状況から察するに死後数日は経過しているはずですが、周囲の因果にはごく最近殺されたばかりであるかのような時間のズレが観測されます。……ここでも、巻き戻しが発生した痕跡があります」

 

「死者を出さずに事態を収束させようと足掻いた結果、失敗してこの結末に至った……というところか」

 

宗弦は崩れた屋根の梁の上に立ち、薄墨色の瞳で無人の村を見下ろしていた。

生と死の境界が曖昧になり、時間の不可逆性が冒涜されている。死者たちの魂は、本来辿るべき冥府への道を見失い、歪んだ因果の檻に囚われていた。

その時だった。

 

「――クク、ヒヒッ、見ィつけたァ!」

 

森の木陰から、ぬらりと染み出すように黒い影が現れた。

一人ではない。二人、三人、十人――瞬く間に数十の影が、音もなく焼け跡の周囲を取り囲む。

全身を覆い隠す漆黒のローブ。顔深くまで被ったフードの奥から、狂気と熱狂に濁った瞳が覗いている。彼らの手には、奇妙な波刃の短剣や、鈍い魔力を放つ金属の杖が握られていた。

 

「素晴らしい、何と芳しい……! 魔女様の残り香が、この矮小な村の残骸にまで満ち満ちている……!」

 

「試練だ、これは福音書に記された愛の導き……! 奪え、屠れ、全てを捧げよォ!」

 

狂信者たちの口から漏れ出るのは、統制の取れていない狂気の賛美歌。彼らは互いの体を痙攣させ、涎を垂らしながら、無人の村の中心へとじりじりと間合いを詰めてくる。

 

「隊長、あれは……」

 

「先ほど大気中に感じた、最も濁った魂魄の持ち主たちだな」

 

不可視の領域の内側で、宗弦は冷ややかに黒装束の集団を見下ろした。

 

「理性も矜持も感じられぬ。己の意志を放棄し、何らかの妄執に魂を明け渡した人形の類だ」

 

「こちらの結界を捉えている様子はありませんが……彼らが追っているのは我々ではなく、この場に染み付いた因果の残滓のようです」

 

「ならば、手早く片付ける。この世界の情勢、そして因果を歪めている元凶の手がかりを吐かせる」

 

宗弦は屋根の上から音もなく飛び降りた。

同時に遮蔽が解かれ、二人の姿が月光の下に実体化する。

漆黒の死覇装と、純白の隊長羽織。夜の闇と鮮やかな対比をなすその異様な装束を目にした瞬間、黒装束たちの動きが一斉に止まった。

 

「……あァ? なんだァ、貴様らは……?」

 

「騎士……ではないな? ルグニカの狗め、どこから紛れ込んだ……!」

 

「異端だァ! 福音書にない不純物だァ! 殺せ、肉を削げ、魔女様の愛の肥やしにしろォォォッ!」

 

一人が叫ぶと同時に、三十人を超える黒装束が一斉に殺到した。

ある者は短剣に黒く濁った毒の魔力を宿らせて地を蹴り、ある者は杖を掲げて詠唱を開始する。大気中の魔力が急速に励起され、無数の火球と風の刃が夜空を埋め尽くした。

 

「死ねェッ!」

 

降り注ぐ魔法の奔流。

宗弦は左手を軽く前へと掲げた。

 

「『縛道の三十九・円閘扇(えんこうせん)』」

 

詠唱破棄。

宗弦の掌の前に、直径数メートルに及ぶ真円の霊圧障壁が瞬時に展開された。

次の瞬間、降り注いだ数十発の火球と風刃が、円閘扇の表面に激突する。轟音と爆煙が巻き起こり、周囲の空気が熱波で激しく歪んだ。

 

「ヒャハハッ! 消し炭になりやが――」

 

狂信者の嘲笑は、途中で凍りついた。

爆煙を切り裂いて現れた障壁には、微かな亀裂どころか煤ひとつ付いていない。圧倒的な霊圧の密度の前に、放たれた熱量と衝撃は完全に霧散していた。

 

「な……ッ!? 防御魔法だと……!? 一切の詠唱も、魔力の収束もなしに……!?」

 

「次はこちらの手番だ」

 

宗弦の姿が掻き消えた。

瞬歩。

音も風も置き去りにした超高速の踏み込み。物理法則を無視したその初速は、敵の網膜に像を結ぶことすら許さない。

 

「が――ッ!?」

 

先頭にいた大柄な男の視界が、突如として天地逆転した。

宗弦がすれ違いざまに放った、体術による掌底。胸骨を正確に捉えた打撃は、皮膚を破ることなく内部の骨と神経だけを完璧に粉砕し、男の巨体を後方の木々へと弾き飛ばした。

轟音を立てて大木がへし折れる。

 

「ひ、一人消えた!? どこだ、どこに行っ――」

 

「背後だ」

 

氷のように澄んだ声が、二人の男の耳元に落ちた。

振り返る間すらなかった。宗弦の両手が、二人の側頭部を軽く撫でるように交差する。それだけで、強靭な筋力を持つはずの狂信者たちが、糸の切れた人形のように白目を剥いて地面へと崩れ落ちた。急所への的確無比な打撃による、完全な意識の遮断。

 

「化け物めェッ! 死ね、死ねぇぇぇっ!」

 

狂乱した五人が、四方から短剣を突き出して同時に飛びかかる。完全に死角を突いた連携。

宗弦は息を乱すこともなく、低く言霊を紡ぐ。

 

「『縛道の四・這縄(はいなわ)』」

 

詠唱破棄で放たれた霊圧の光縄が、宗弦の足元から蛇のようにしなり、宙を舞う五人の手首と足首を一瞬で絡め取った。

 

「な、なんだこの光は!? ほどけな……ぎゃああっ!?」

 

空中で動きを封じられた五人は、宗弦が軽く腕を引いた慣性によって互いの頭部を激突させられ、そのまま失神して地面へと叩きつけられた。

戦闘開始から、わずか十秒。

三十人いた黒装束の半数が、ただの体術と下位の縛道によって無力化されていた。

 

「ひ、ヒィィッ……! な、なんだコイツは……!? 剣聖でもない、宮廷魔導士でもない……なんなんだァァッ!?」

 

残された十数人の顔から、狂信の笑みが消え失せていた。代わりに浮かび上がったのは、理解不能の怪異に対する根源的な恐怖。

 

「隊長、後方の術士たちが自爆魔法の術式を構築しようとしています」

 

後方で静観していた弦が、冷静に告げる。

 

「逃走、および証拠隠滅を図る気です」

 

「させん」

 

宗弦は右手を軽く掲げ、人差し指の先端を残る者たちへ向けた。

指先に収束するのは、純白の極小の霊圧光。

 

「『破道の四・白雷(びゃくらい)』」

 

バチィッ! と空間を裂く乾いた音が響いた。

指先から放たれた一条の白い雷光が、夜の闇を真昼のように照らし出しながら一直線に疾走する。

白雷は先頭の術士の杖を粉砕し、その肩を貫通すると、威力を減衰させることなく背後の隊列を次々と薙ぎ払った。貫かれた者たちは悲鳴を上げる間もなく麻痺し、泥のように地面へと崩れ落ちていく。

静寂が、再び焼け跡の村を包み込んだ。

立ち込めていた狂気と殺意は霧散し、転がっているのは完全に意識を刈り取られた三十余名の黒装束のみ。

宗弦は身なりを乱すこともなく、静かに息を整えた。

 

「……息のある者を一人、尋問用に拘束しろ。弦」

 

「了解いたしました」

 

弦は歩み寄り、比較的軽傷で倒れている男の首元に、霊圧の戒めを施した。

 

「『縛道の六十一・六杖光牢(りくじょうこうろう)』」

 

六つの光の帯が男の体幹を完璧にロックし、指一本動かせない状態を作り出す。弦はその男の懐を探り、一冊の奇妙な書物を取り出した。

黒い装丁に、禍々しい文様が刻まれた無題の本。

 

「隊長、これをご覧ください。彼らが所持していた書物です。内部に魔力的な記述は見当たりませんが……極めて特異な精神干渉の波長が残存しています」

 

弦が本を開き、頁を精査する。

 

「文字が自動で生成される仕組みのようですが、現在は白紙の状態です。……ですが、この紙質、そしてインクの残留思念から察するに、何者かが遠隔からこの者たちへ未来の行動指針を一方的に書き込んでいた形跡があります」

 

「未来を指示する書物か」

 

宗弦は薄墨色の瞳を細めた。

 

「時間を巻き戻す因果の歪みといい、この世界の理は酷く綻んでいるな。……目を覚まさせた後、この世界の勢力図と、この狂信者どもの頭目を吐かせる」

 

弦が拘束された男の額に指を当て、微弱な霊圧を流し込んで強制的に意識を覚醒させた。

 

「ガッ……!? ゲホッ、ゴホッ……!」

 

男は目を覚ますなり、自らの体が光の帯で完全に固定されていることに気付き、絶望に顔を歪めた。

 

「き、貴様ら……何者だ……! 大罪司教様に刃向かって、ただで済むと……!」

 

「大罪司教、か」

 

宗弦が静かに間合いを詰める。感情の一切籠もっていないその冷徹な眼差しに見下ろされ、男は喉を詰まらせて息を呑んだ。

 

「貴様らの素性など興味はない。問うのは三つだ。この地を統べる王国の名、貴様らが信奉する元凶の居場所、そして――」

 

宗弦は手元の通信計器が指し示す、北西の空を指差した。

 

「あの場所で、死を繰り返しながら世界の因果を引きずり回している者の名を言え」

 

「な……な、何を言って……! わ、我らはただ、福音書の導きのままに……ペテルギウス様の仰せのままに、魔女の愛を……!」

 

「ペテルギウス」

 

宗弦はその名を記憶に刻むように呟いた。

 

「それが貴様らの頭目の名か。……弦、思念走査を行え。口を割らせる時間は惜しい」

 

「はい。――『縛道の五十八・掴趾追雀(かくしついじゃく)』を応用します」

 

弦が男の頭部に手をかざすと、淡い霊子の光が男の脳裏へと浸透していった。男は白目を剥き、激しく痙攣しながら記憶を吸い上げられていく。

数分後、弦は手を離し、立ち上がった。

 

「……情報の抽出を完了しました」

 

弦は眼鏡を押し上げ、理知的な瞳で宗弦を見据えた。

 

「この世界の名は『ルグニカ王国』。現在、王不在による『王選』と呼ばれる次期指導者選びの最中にあります。そしてこの黒装束たちは『魔女教』と呼ばれる狂信集団。彼らを率いる大幹部が、大罪司教『怠惰』担当――ペテルギウス・ロマネコンティ」

 

「そして、因果の特異点については?」

 

「……北西にある森の奥、メイザース辺境伯の領地において、魔女教による大規模な襲撃が計画されています。その渦中に、異常な魔女の気配を全身に纏い、何度も死の運命を回避している謎の少年が存在するとのことです」

 

「少年、か」

 

宗弦は静かに夜空を仰いだ。

死を迎えるたびに、世界の時間を巻き戻して因果を書き換える存在。それが自らの意志によるものなのか、あるいは何者かに呪いとして植え付けられたものなのかは定かではない。

だが、確実なのは――その少年の周囲で、世界の理と魂の循環が致命的なまでに狂わされているという事実だけだった。

 

「行くぞ、弦。そのメイザース領とやらへ向かう」

 

「この者たちはどうなさいますか?」

 

転がっている三十余名の狂信者たちを見下ろし、弦が問う。

 

「命までは奪わん。だが、再び凶行に及ばぬよう力を封じ、現地の治安組織に引き渡せるよう縛道を維持しておけ。我々の任務は私刑ではない。因果の歪みの切断だ」

 

「承知いたしました」

 

弦が印を結び、倒れた者たち全員に強固な拘束結界を上書きする。

二人は再び足音もなく跳躍した。

遮蔽の膜を纏い、夜の風となって木々の梢を滑るように駆け抜けていく。

目指すは、因果の歪みが最も濃密に渦巻く地――ロズワール邸、そしてナツキ・スバルと呼ばれる特異点が待つ運命の交差点へ。

護廷十四隊隊長・神代宗弦の静かなる歩みが、異界の理を正すために動き出していた。

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