血の匂いと硝煙が、冷え切った街道の空気を重く濁らせていた。
横転した竜車の残骸から火の手が上がり、砕けた木片が爆ぜる乾いた音が響く。大地に深く穿たれた無数の爪痕のような裂け目と、地に伏して動かぬ護衛の私兵たち。その凄惨な光景の中心で、一人の男が異様な角度で首を折り曲げ、自らの指先を噛み砕いていた。
「あぁ……あぁ、何という……何という怠惰……! 愛に、魔女様の愛に応えられぬなど、何たる冒涜……我が肉体は、我が魂は、ただ福音の導きのままにあるというのに……!」
深緑の髪を振り乱し、狂気にぎらつく瞳を血走らせた男――魔女教大罪司教『怠惰』担当、ペテルギウス・ロマネコンティ。
その指先から滴る鮮血が、乾いた土を赤黒く染め上げていく。周囲を取り囲む無数の黒装束たちが、呼吸を揃えるように低く狂気の祝詞を唱えていた。
「我が名は魔女教大罪司教、『怠惰』担当……ペテルギウス・ロマネコンティィィッ! ああ、脳が、震える……ッ!」
ペテルギウスの足元には、全身を血に染めて倒れ伏す青髪の少女と、胸を掻き毟りながら絶叫の声を枯らした黒髪の少年がいた。
ナツキ・スバルは、砕けた指先で泥を掴み、届かぬ手を伸ばしながら血の涙を流していた。
「やめろ……やめろ、ペテルギウス……! レムを……レムをこれ以上、弄ぶな……ッ!」
「おやおや、おやおやおやァ! 声が小さいデスねぇ! 届きませんよ、魔女様の慈愛に! 貴方のその怠惰、その無能、全ては愛に対する裏切りデス! 試練を、試練を全うしなさい! 死してなお捧げることこそが、信徒の務めなのデスからァッ!」
ペテルギウスが両腕を広げた瞬間、背後の空間が黒く歪んだ。
スバルの瞳にしか映らない、禍々しい漆黒の腕――『見えざる手』。数十本に及ぶ長大な悪意の奔流が、大気を軋ませながら宙に蠢き、瀕死の少女へと一斉に振り下ろされようとした。
「レムゥゥゥッ――!!」
スバルの絶望の叫びが夜空に木霊する。
だが、その黒い凶刃が少女の肉体を砕くことはなかった。
突如として、街道を吹き抜ける風が止んだ。
凍てつくような、しかしどこまでも研ぎ澄まされた重圧が、その場にいた全ての存在の呼吸を縫い止める。物理的な質量すら伴った不可視の威圧感。ペテルギウスの歓喜の叫びが喉の奥で引き攣り、周囲の狂信者たちが一斉に膝を折って地面に額を擦りつけた。
「……何、デス……? この、胃の腑を掴まれるような、不愉快極まりない……重みは……ッ!?」
ペテルギウスがぎょろりと目玉を回し、夜の帳を見上げる。
街道の脇、ひときわ高く聳える枯れ木の頂に、二つの人影が音もなく佇んでいた。
月光を背に受けて揺れる、純白の隊長羽織と、漆黒の死覇装。
浅葱色の髪を風になびかせる女性死神の背後から、漆黒の長髪を束ねた男――神代宗弦が、薄墨色の冷徹な瞳で眼下の惨状を見下ろしていた。
「隊長。……酷い有様です」
弦の静かな声が、張り詰めた空気を微かに揺らす。
「あそこに倒れている黒髪の少年から、先刻観測された特異点と完全に同一の波長が検出されています。……彼自身が、世界の因果を引きずり回している核です」
「見れば分かる」
宗弦の視線は、泥に塗れて絶叫するスバルの姿を捉えていた。
その魂魄に刻み込まれた無数の亀裂。一度死を迎え、魂の鎖が弾け飛ぶ寸前で強引に時空を巻き戻された痕跡が、十数重もの黒い澱みとなって青年の全身に纏わりついている。それは世界の理を冒涜する異形そのものだったが、同時に、自らの命を削りながら世界に抗う生者の痛ましい歪みでもあった。
「そして……あの緑髪の狂人か」
宗弦の眼差しが、ペテルギウスへと移る。
「魂魄の構造が極端に変質しているな。人間の器に、別の怨念を何層も無理やり注ぎ込んだような悪臭がする」
「おやァ!? おやおやおやァッ!?」
ペテルギウスが首を真横に九十度曲げ、木の上の二人を凝視した。
「何者デスかァ!? 騎士でもなく、魔導士でもない……その悪趣味な白と黒の布切れを纏った不純物はァ! 我が福音書には、貴様らのような不確定要素の記述など一片たりとも存在しないのデスよォッ!」
「福音書、か」
宗弦は枯れ木の枝から、音もなく地面へと降り立った。
落下による風切り音すらなく、ただ羽毛が落ちるように土を踏みしめる。その一歩とともに、背の「十四」の文字が夜気に揺れた。両腕を死覇装の袂に収めたまま、静かにペテルギウスへと歩みを進める。
「貴様らの都合など知らん。私はただ、魂の循環を狂わせる因果の歪みを断ちに来ただけだ」
「理屈を! 戯れ言をォォッ! 魔女様の愛を知らぬ不信心者が、我が試練を邪魔するなど……万死に値するのデスッ!」
ペテルギウスが激昂し、両手を天に掲げた。
空間が歪み、六本の『見えざる手』が音もなく宗弦の全方位を取り囲む。人間の肉体など紙屑のように引き裂く不可視の質量が、宗弦の頭部、胸部、四肢へ向けて同時に殺到した。
「死になさい! 砕けなさい! 挽き肉となって、魔女様の愛の土壌にお帰りなさいィッ!」
スバルが血相を変えて叫ぶ。
「逃げろ! そいつの手は見えねぇんだ! 触られたら一瞬で――ッ!」
だが、宗弦の表情には微塵の動揺もなかった。
見えないのではない。常人には知覚できない魔力の塊に過ぎないそれらは、高密度の霊圧を操る死神の眼には、濁った黒泥の腕としてあまりにも明瞭に映っていた。
宗弦の足が、わずかに土を蹴る。
瞬歩。
「な――ッ!?」
ペテルギウスの絶叫が夜風に千切れた。
叩きつけられた六本の見えざる手は、宗弦の残像すら捉えることなく空を打ち、地面を爆発四散させただけに終わる。
次の瞬間、宗弦はすでにペテルギウスの眼前、呼吸すら触れ合うゼロ距離に立っていた。
「……遅い」
宗弦の右腕が袂から滑り出る。
指先を揃えただけの、無駄を極限まで削ぎ落とした手刀。
それが、ペテルギウスの鳩尾へと音もなく吸い込まれた。
ドッ――!!
大気が遅れて破裂音を響かせる。
皮膚を裂くことはない。だが、打ち込まれた強烈な勁力は、ペテルギウスの体躯を貫通して背後の空気を円錐状に吹き飛ばした。肋骨が軋みを上げて折れる鈍い感触とともに、大罪司教の巨体が真後ろへと弾け飛ぶ。
「ガハッ……!? あ、が……ッ!?」
数十メートルを転がり、血反吐を撒き散らしながら木々の根元に激突するペテルギウス。
「大罪司教様ッ!?」
「異端者を殺せェッ!」
周囲の狂信者たちが一斉に我を取り戻し、毒刃を抜いて宗弦の背後から殺到した。
宗弦は振り返りもせず、左手を軽く背後へ向けて掲げる。
「『破道の三十三・蒼火墜(そうかつい)』」
詠唱破棄。
手の平から、青白い霊圧の奔流が猛烈な爆炎となって放射された。
ゴオォォォッ! と夜の森を焼き払う蒼い閃光。襲いかかった十数名の狂信者たちは、その圧倒的な熱量と衝撃波に呑み込まれ、悲鳴を上げる間もなく街道の端へと吹き飛ばされ、沈黙した。
その光景を、ナツキ・スバルは呆然と見開かれた瞳で見つめていた。
「嘘だろ……あいつ、見えざる手を躱したのか……? それに、あの青い炎……詠唱もなしに、あんな威力の魔法を……?」
「おやおや……おやおやおやァッ!」
木々の根元から、折れた体を不気味に蠢かせながらペテルギウスが這い上がってきた。口端から血を垂れ流しながらも、その顔には歓喜と狂気がさらに深く刻まれている。
「素晴らしい……素晴らしいデスよォ! 肉体の頑強さ、不可視の神寵を捉える感覚、そして未知の術式……! ですが、ですがァッ!」
ペテルギウスが自らの頭皮を爪で引き裂く。血が噴き出すのと同時に、その背後から現れる漆黒の腕の数が、十、二十、五十――百本近くへと膨れ上がった。
空間そのものが黒い腕の質量で軋み、森の木々が次々とへし折れていく。
「これほどの愛を! 我が身に注がれる試練の重みを、貴様のような異端が受け止めきれるはずがないのデスッ! 『見えざる手』――全てを圧殺しなさいィィッ!」
百を超える悪意の奔流が、津波のように宗弦と、後方のスバルたちを呑み込まんと押し寄せる。
森全体を更地にするほどの破壊の濁流。
薄墨色の瞳を細め、宗弦は押し寄せる黒い腕の群れを冷徹に見据えた。
「弦」
「はい、隊長」
後方に控えていた弦が、静かに一歩前へと進み出る。
「あの異形の腕、構造は純粋な精神力と魔力の結合体です。霊子的な耐久値は極めて低いと推測されます」
「手早く散らせ。あの少年たちを巻き込むな」
「承知いたしました」
弦は両手を胸の前で交差させ、静かに息を吸い込んだ。
「『縛道の七十三・倒山晶(とうざんしょう)』」
詠唱破棄。
瞬時に、スバルとレムの周囲に巨大な逆三角形の青白い霊圧結晶が出現し、二人を完璧に包み込んで防護した。
そして宗弦は、押し寄せる百の腕の正面へと向き直る。
右手を天へと掲げ、冷徹な言霊を夜空に響かせた。
「散れ」
掌から放たれた高密度の霊圧が、不可視の疾風となって前方百八十度を薙ぎ払った。
ズザァァァンッ!!
激突の瞬間、ペテルギウスの誇る百の『見えざる手』が、まるで巨大なガラス細工が砕け散るかのように、一斉に光の粒子となって四散した。
「な……ッ!? 我が、腕が……魔女様の愛が、一瞬で……粉々に……!?」
ペテルギウスが絶句し、膝をつく。
その隙を見逃すことなく、宗弦の姿が掻き消えた。
瞬歩。
風すら遅れて追いつく速度で、宗弦はペテルギウスの背後に音もなく着地していた。
「貴様の妄執に付き合う気はない」
宗弦の指先が、ペテルギウスの頸椎の急所へと音もなく当てられる。
「この地を巡る因果の歪み、まずは貴様という不純物から削ぎ落とす」
大罪司教の狂気が、護廷十四隊隊長の放つ絶対的な静寂の前に、音を立てて崩れ去ろうとしていた。