原生林の樹海を裂いて伸びる街道を、地竜の駆る竜車が車輪を激しく軋ませながら疾走していた。
夜明け前の青暗い光が、地平線の彼方から微かに差し込み始めている。車蓋の隙間から差し込む冷たい朝気が、荷台に横たわるレムの寝息を静かに揺らしていた。外傷は完全に塞がり、規則正しい呼吸を刻んでいるものの、極限まで損耗した精神力とオドの回復にはまだ時間を要するようだった。
手綱を握るナツキ・スバルの掌には、冷たい汗が滲んでいた。
「……本当についてきてるんだよな」
スバルが横目で後方を盗み見ても、そこには風に揺れる木々と、ただ通り過ぎていく街道の轍があるだけだ。視界にも映らず、足音も風切り音も一切しない。だが、竜車のすぐ真横、大気そのものが凍りつくような研ぎ澄まされた気配だけが、確かに並走していた。
「――余計な視線を配るな。手綱の操作に集中しろ」
虚空から直接落ちてきたような硬質な声に、スバルは肩を跳ねさせた。
声の主は神代宗弦だ。如月弦が展開する不可視の膜の内側で、二人の死神は瞬歩の歩法を完全に制御し、時速数十キロで駆ける地竜と全く同じ速度で音もなく並走していた。
「わ、分かってるよ! でも普通、隣に姿も見えない超人が走ってたら気にするだろ!?」
「騒ぐな、少年」
今度は弦の理知的な声が、風のざわめきに混ざってスバルの耳朶を打った。
「私の術により我々の姿と気配は完全に隠蔽されていますが、貴方自身の粗忽な挙動や大声までは誤魔化せません。この先はすでに敵の勢力圏内です。潜伏している敵の哨戒網に引っかかる愚行は避けていただきたい」
「うぐっ……手厳しいな、お姉さん……」
スバルは口元を引き結び、前方の薄暗い街道へと視線を戻した。
だが、その胸の内を去来するのは、拭い去れない驚愕と戦慄だった。
これまでのループにおいて、この時間帯のスバルは常に絶望の淵にいた。ペテルギウスに嬲り殺され、レムを奪われ、白鯨の霧に呑まれ、あるいは狂気に陥って全てを失っていた。
それが今、元凶であったペテルギウスの魂は筒の中に封印され、レムは生きて呼吸をしている。そして何より、常識を遥かに超越した二人の死神が、味方としてすぐ側にいる。
(……助かるかもしれない。今度こそ、エミリアも、村のみんなも、全員助けられる……!)
握りしめた手綱に力が籠もる。だが同時に、スバルの魂の奥底には、宗弦が放った言葉が重く横たわっていた。
『貴様が死を起点にして時間を巻き戻すたび、三界の境界に綻びが生じている』
自分の命を削り、足掻くための唯一の手段だと思っていた『死に戻り』。それが、自分たちの知らない世界の理そのものを破壊しかけていたという事実。
スバルが胸元を押さえていると、並走する宗弦の冷徹な声が再び響いた。
「弦、先行索敵の結果を報告しろ」
「はい、隊長」
弦の声が、即座に事務的なトーンへと切り替わる。
「街道沿い、ここから約三キロ先――アーラム村と呼ばれる集落の周囲に、複数の異常な魔力反応を感知しました。数は約四十。配置の規則性から見て、集落を包囲し、外部からの進入および内部からの脱出を完全に封鎖するための布陣です」
「……指先どもだな」
スバルが奥歯を噛み締めた。
「ペテルギウスの手下どもだ。あいつらは村人を人質に取るか、皆殺しにして屋敷への退路を断つ気なんだよ」
「さらに厄介な反応があります」
弦の言葉が続く。
「村の北東に位置する広大な森林地帯――そこから、膨大な質量を持った生体エネルギーが急速にこちらへ向けて接近しています。魔力波長は極めて濁っており、知性を持たない純粋な破壊衝動の塊……以前、技術開発局のデータにあった巨大虚(メノスグランデ)のギリアン級、あるいはそれ以上の質量反応です」
「……白鯨か」
スバルの声が震えた。
霧の魔獣。過去のループで幾度となく自分たちを絶望の底へと叩き落とし、存在そのものを世界から消し去ってきた悪夢の巨獣。
「ペテルギウスを倒しても、あいつが来ちまったら……! ロズワール邸も、村も、全部あの霧に呑み込まれちまうぞ!」
「慌てるな」
宗弦の声は、水底の氷のように冷たく、静かだった。
「群がる狂信者どもと、空飛ぶ巨大な獣か。……事態の構造としては単純極まりない」
「単純って……! あんた、白鯨の恐ろしさを知らないからそんなことが言えるんだ! あれは数百年前から世界を荒らし回ってる三大魔獣の一角なんだぞ!?」
「巨大であろうと、獣は獣だ。魂の循環を乱す不純物であるならば、等しく排除するのみ」
宗弦の言葉には、一片の誇張も、過信も含まれていなかった。ただ定められた業務を淡々と遂行するかのような、絶対的な強者の平熱。
「弦」
「は」
「白鯨と呼ばれる個体の軌道計算を行え。接触予想地点はどこだ」
「現在の進行速度と風向きから逆算しますと、我々がアーラム村へ到達するのとほぼ同時刻――村の手前約一キロの平原部にて激突します」
「ならば好都合だ。村落への被害を防ぐため、平原にて迎撃し、そのまま一帯の狂信者ごと掃討する」
「了解いたしました。迎撃用の空間固定術式の準備に入ります」
会話のスケールがあまりにも現実離れしており、スバルは呆気にとられるしかなかった。数百年もの間、国中の軍隊や高名な騎士たちが束になっても討伐できなかった厄災を、まるで街道の落石を片付けるかのような手際で処理しようとしている。
「おいおい……マジかよ。あの白鯨を、二人だけで真っ向から迎え撃つ気なのか……?」
「二人ではない」
宗弦が淡々と訂正した。
「迎撃は私一人で行う。弦には村落の包囲網の解体と、住民の防護を命じる」
「ひ、一人……!?」
スバルが絶句する中、前方の視界が急激に白く染まり始めた。
夜明けの薄明かりを掻き消すように、森の奥から急速に流れ込んでくる濃密な霧。視界は瞬く間に十メートル先すら見通せなくなり、大気中の湿度が異常なまでに跳ね上がる。
そして――重苦しい大気を震わせて、天から轟音が降ってきた。
ギィィィィィィアァァァァァッ――!!
耳朶を貫くような、異形の咆哮。
霧の海を割り、雲海を泳ぐ巨大な影が、上空の闇から姿を現した。
全長数十メートルに及ぶ白銀の巨躯。幾重にも刻まれた歴戦の傷跡と、虚無を湛えた無数の眼球。霧を撒き散らしながら悠然と宙を泳ぐその威容は、まさに空飛ぶ災厄そのものだった。
「出た……! 白鯨だ……ッ!」
スバルが悲鳴混じりに叫び、地竜が恐怖のあまり前足を上げて甲高い嘶きを上げた。
同時に、周囲の霧の中から無数の黒装束たちがぬらりと姿を現す。アーラム村を包囲していた魔女教徒たちだ。彼らは白鯨の出現に狂喜乱舞し、奇声を上げながら短剣を構えて竜車を取り囲んだ。
「素晴らしい……! 福音の導きだ! 試練の刻が訪れた!」
「異端の竜車を止めろ! 全てを白鯨の餌となせェッ!」
前方からは霧を纏って急降下してくる巨大な白鯨。
周囲からは殺意を剥き出しにして殺到する数十の魔女教徒。
死に戻りの記憶の中で、幾度となくスバルを絶望の底へと叩き落とした完璧な「詰み」の盤面。
だが、その狂瀾のただ中に、純白の布地が静かに舞い降りた。
遮蔽の術が解かれ、竜車の天蓋の上に神代宗弦が直立する。
漆黒の死覇装、そして背に「十四」を刻んだ隊長羽織。夜明けの風を孕んで翻るその姿は、狂い咲く混沌の世界において、異様なまでの静寂を放っていた。
「弦、行け」
「はっ!」
短く交わされた命とともに、如月弦の姿が掻き消えた。
瞬歩。
霧を切り裂く一筋の疾風となった弦は、包囲する魔女教徒たちの間隙へと音もなく滑り込んだ。彼女の両手から、瞬時に青白い霊圧の光が放たれる。
「『縛道の三十・嘴突三閃(しとつさんせん)』」
詠唱破棄で放たれた三つの巨大な光の嘴が、先頭の狂信者たちの両腕と胸を貫き、背後の巨木へと縫い留めた。悲鳴すら上げさせず、弦は流れるような体術と下位縛道を連鎖させ、瞬く間に村側の包囲網を外側から解体していく。
そして、竜車の上。
急降下してくる白鯨の巨躯が、宗弦の視界全体を埋め尽くそうとしていた。
轟音とともに巻き起こる暴風。大気を震わせる超質量の突進は、触れるもの全てを粉塵へと変える絶対的な破壊力を秘めていた。
スバルが思わず腕で顔を覆い、絶叫する。
「うわああああっ! 逃げろ、潰されるぞッ!」
だが、宗弦は足の位置をミリ単位すら動かさなかった。
薄墨色の瞳を細め、頭上から迫る巨大な怪物を見上げる。その表情には、恐怖も、焦燥も、昂ぶりすらない。ただ、崩落する岩石を見つめるかのような、絶対的な無機質。
宗弦の右手が、静かに天へと翳された。
手の平の前に、信じがたい密度の霊圧が急速に凝縮されていく。青白く澄み渡るその光は、周囲の濃密な霧を一瞬で蒸発させ、夜明け前の暗がりを真昼の如く照らし出した。
紡がれるのは、死神の奥義たる高位術式。
「『破道の七十三・双蓮蒼火墜(そうれんそうかつい)』」
詠唱破棄。
宗弦の両の掌から、二条の青き奔流が解き放たれた。
それは、もはや「炎」と呼べる領域を超えていた。青白い超高密度の霊圧光が、大気をプラズマ化させながら巨大な光の柱となって天空へと直進する。
突進してきた白鯨の巨大な頭部と、双蓮蒼火墜の光柱が真っ向から激突した。
ズガァァァァァァァァンッッ!!!!
天と地をひっくり返すような大爆発が炸裂した。
衝撃波が平原の土を放射状にめくり上げ、周囲の霧を数百メートル四方に渡って完全に吹き飛ばす。
ギィィィィィィッ……!? ギャァァァァァァァッ――!!
白鯨の絶叫が木霊した。
数百年もの間、いかなる魔法も通さぬと恐れられた魔獣の強靭な表皮が、青白い霊圧の奔流によって瞬時に炭化し、抉り取られていく。超質量の突進力は完全に相殺され、数十メートルの巨体が力任せに上空へと押し戻された。
「な……ッ!?」
スバルは目を見開いたまま絶句した。
あの白鯨の突進を、ただの「魔法」――いや、素手から放たれた青い閃光一発で、真正面から押し返した。
だが、死神の攻勢はそれだけで終わらなかった。
「……巨体ゆえの頑強さか。ならば、拘束して叩き落とす」
宗弦の姿が竜車の上から掻き消えた。
瞬歩。
重力を無視し、空間を階段のように蹴り上がった宗弦は、瞬く間に上空数百メートル――悶絶する白鯨の頭上へと到達していた。
白羽織を夜風にはためかせ、宗弦は空中に静止したまま、両手を複雑に交差させて印を結んだ。
冷徹な言霊が、天空から降り注ぐ。
「『縛道の七十九・九曜縛(くようしばり)』」
詠唱破棄。
白鯨の巨躯を取り囲むように、漆黒の霊圧を宿した九つの巨大な黒円が虚空に出現した。
そしてその中心から、十文字を描くように放たれた黒い戒線が、白鯨の頭部、胴体、巨大なヒレ、そして尾を寸分の狂いもなく拘束した。
グゥゥゥゥッ……!?
空間そのものに縫い留められた白鯨は、宙を泳ぐ自由を完全に奪われ、空中で完全に静止させられた。
「嘘だろ……あのデカ物を、空中で完全に止めた……!?」
地上で見上げるスバルが震える声で呟く。
虚空に佇む宗弦は、身動きを封じられた白鯨を見下ろし、右手を天高く掲げた。
「落ちろ」
「『破道の五十四・廃炎(はいえん)』」
掲げられた掌から、紫色の猛烈な霊炎が撃ち出された。
廃炎は九曜縛で固定された白鯨の胴体へと着弾し、その霊子的な結合を内側から焼き尽くしながら、巨大な質量を地上へと叩き落とした。
ドォォォォォォォンッ!!
地響きとともに平原へと叩きつけられる白鯨。大地が大きく陥没し、土煙が空高く舞い上がる。
自由を奪われ、全身を霊炎に焼かれた魔獣は、もはや空へ飛び立つ力すら残されていなかった。
宗弦は音もなく、落下する一枚の羽のように地上へと降り立った。
その足元には、完全に沈黙し、息も絶え絶えに横たわる白鯨の巨躯。
そして後方からは、数十名の魔女教徒を全て縛道で拘束し終えた弦が、息一つ乱さずに歩み寄ってきた。
「隊長。周囲の狂信者、計四十二名、全て無力化および拘束を完了しました」
「ご苦労。……この巨大生物の処理はどうする」
「生命活動は著しく低下しています。核となっている生体マナの循環を断てば、完全に霧散します」
宗弦は薄墨色の瞳で、地に伏す白鯨を見つめた。
「ならば、魂を輪廻へと還す」
宗弦の右手が、白鯨の眉間へと翳された。
淡い霊圧の光が放たれ、魔獣の体内に渦巻いていた悍ましい怨念と魔力が、静かに分解されて大気中へと還っていく。巨躯は徐々に光の粒子となって解け、やがて朝露のように消滅していった。
静寂が、平原を取り戻した。
濃密だった霧は晴れ渡り、昇り始めた朝陽が、荒野に立つ二人の死神の姿を鮮やかに照らし出していた。
竜車の影から恐る恐る出てきたスバルは、呆然と口を開けたまま、白鯨が消え去った平原を見つめていた。
白鯨の討伐。
魔女教の包囲網の完全壊滅。
過去のループで何十人、何百人の命を犠牲にしても届かなかった結末が、わずか数分――刃を抜くことすらなく、二人の死神の手によって達成されていた。
「すげぇ……」
スバルの口から、乾いた感嘆の声が漏れた。
「すげぇよ……あんたたち、本当に何者なんだよ……!」
宗弦は振り返ることもなく、羽織の裾を正した。
「任務を遂行したに過ぎん。……弦、次の座標だ」
「はい。この平原を越えた先、丘の上に位置するメイザース伯爵邸です。……あちらの邸内からも、幾重かの特異な魔力反応、および魂魄の歪みが観測されています」
「行くぞ」
死神たちの足は止まらない。
白鯨という世界の厄災すらも、彼らにとっては任務の過程に過ぎなかった。
朝陽を背に受け、二人の死神は再び歩みを進める。その先にあるのは、運命の最終目的地――ロズワール邸。そこに待つ銀髪の少女と、世界の理を巡る因果の交差点であった。