朝の清澄な陽光が、メイザース領のなだらかな丘陵を黄金色に染め上げていた。
原生林を抜けた街道の先、石造りの家屋が規則正しく並ぶアーラム村の輪郭が見えてくる。村の周囲には、先ほど弦が展開した不可視の術式によって捕縛された魔女教徒たちが、誰一人として指一本動かせぬまま転がっていた。
「村のみんな……無事なのか……?」
竜車を引く地竜の速度を落としながら、スバルは恐る恐る村の様子を窺った。
人影はまばらだが、煙突からは朝餉を炊く煙が立ち上り、農作業の支度をする村人たちの姿が遠目に見える。魔女教の襲撃部隊が村へ到達する前に壊滅させられたため、住人たちは己の身に迫っていた破滅の危機にすら気付いていない。
「……本当に、間に合ったんだ」
スバルは膝の上に置いた拳を強く握りしめた。
幾度ものループで味わった、焼き払われた村と折り重なる村人たちの骸。あの悪夢のような光景は、どこにもない。平穏な日常が、そこには確かに残されていた。
「感傷に浸るのは後だ」
竜車の真横、虚空から宗弦の硬質な声が落ちる。
「村落の包囲部隊は排除したが、本丸である邸宅周辺の状況が未確認だ。弦、屋敷内部の生体反応を精査しろ」
「了解いたしました」
弦の指先が、懐の計器の盤面を叩く。
「邸内には四つの主要な生体マナ反応を確認。特筆すべきは、大気中のマナを異常な密度で掌握している大精霊級の反応が一体。……加えて、空間の位相を完全に切り離して屋敷深部に隠匿されている『閉鎖空間』が存在します」
「大精霊……パックか。それに閉鎖空間ってのは、ベア子の禁書庫だな」
スバルが即座に補足した。
「エミリアもレムの姉貴のラムも無事みたいだ。……おい、あんたたち。このまま屋敷に入ったら、パックやベアトリスが黙っちゃいないぞ。特にパックは、エミリアに危害が及ぶ気配にめちゃくちゃ敏感なんだ」
「敵対の意志を持たぬ相手に無駄な霊圧をぶつけるつもりはない」
宗弦の声は極めて平坦だった。
「だが、世界の理を正す上で必要な調査は行う。案内しろ」
竜車はアーラム村を迂回し、丘の頂に聳え立つロズワール邸の正門へと滑り込んだ。
白亜の外壁と豪奢な尖塔を持つ大貴族の館。
だが、その豪壮な佇まいとは裏腹に、前庭の空気は異常なまでの緊張感で凍りついていた。
門扉が開いた瞬間、鋭利な氷の結晶が数十本、天から降り注ぐように地面へと突き刺さった。
「そこまでよ!」
前庭の石畳の上、銀髪を朝風になびかせた少女――エミリアが、紫紺の瞳を鋭く尖らせて立っていた。その横には、桃色の髪をなびかせたメイド服の少女・ラムが、険しい表情で風の魔法の術式を手に宿している。
そしてエミリアの肩の上には、宙に浮かぶ小さな灰色の猫――大精霊パックがいた。普段の愛らしさは微塵もなく、その黒い瞳には冷酷な獣の光が宿っている。
「スバル……? それに、レム……!?」
エミリアが目を見張り、荷台から降りてきたスバルの姿を認めて声を上ずらせた。
「無事だったのね……! でも、どうしてこんな朝早くに……それに、森の方から信じられない規模のマナの爆発と、白鯨の咆哮が聞こえたのよ! 一体何が起きて――」
「エミリア、下がって」
パックの冷たい声が、エミリアの言葉を遮った。
猫の姿をした大精霊の視線は、スバルでも、横たわるレムでもなく――スバルの背後の「何もない空間」へと真っ直ぐに向けられていた。
「……姿を隠しているつもりかい? ルグニカの隠密術にしちゃ、随分と手の込んだ真似をしてくれるじゃないか。大気のマナを一切動かさず、光の屈折だけで存在を消すなんてね」
パックの全身から、周囲の空気を絶対零度近くまで引き下げる冷気が漏れ出す。前庭の芝生が一瞬で白銀の霜に覆われていく。
「ボクの勘が告げてるよ。そこにいる何者かは、白鯨や魔女教なんかよりも遥かに底知れない……危険な『何か』だってね。姿を現しなよ。エミリアに指一本でも触れようとするなら、この一帯ごと氷漬けにする」
「待て、待ってくれパック! こいつらは敵じゃない!」
スバルが慌てて両手を広げ、パックと虚空の間に割って入った。
「信じてくれ! ペテルギウスの野郎を倒して、白鯨を片付けて、瀕死だったレムを助けてくれたのは、この人たちなんだ!」
「スバル、貴様の戯言を聞く耳は持たないわ」
ラムが冷徹な声音で風の刃を構え直す。
「大罪司教に白鯨の討伐など、国中の騎士団を集めても不可能な妄言よ。そんな得体の知れない怪異を連れ込んで、エミリア様を危険に晒すなど万死に値するわ」
「戯言かどうかは、直に見れば判ることだ」
静かな呟きとともに、空間の光が波紋のように揺らいだ。
如月弦が術を解いた瞬間、二人の死神の姿が朝陽の下に実体化した。
漆黒の死覇装、そして純白の隊長羽織。背に刻まれた「十四」の数字が、凛とした威厳とともに朝風を孕む。
その姿が現れた瞬間、前庭の空気が目に見えて変質した。
霊圧の放出を抑えているにもかかわらず、その存在感の重みだけで、大気中のマナが恐慌をきたしたように細かく震え始める。パックの体毛が逆立ち、ラムの息が喉の奥で詰まった。
「……な、に……これ……?」
エミリアが息を呑み、思わず一歩後退した。
魔力ではない。オドでもない。
生命の本質そのものを凝縮したかのような、圧倒的な質量の気配。眼前の男――神代宗弦がただそこに立っているだけで、世界の中心がその足元へと引きずり込まれるような錯覚を覚える。
パックが浮遊したまま、眉根を深く寄せた。
「……驚いたな。マナを宿していないのに、これほどの霊的質量を持つ存在なんて、四百年生きてきて初めて見たよ。君たち、どこの異界から迷い込んできた霊魂だい?」
「護廷十四隊隊長、神代宗弦」
宗弦は薄墨色の瞳を眇め、大精霊を冷ややかに見据えた。
「こちらの世界の定義に倣うならば、冥府の法を執行する『死神』とでも呼ぶがいい」
「死神……?」
エミリアが呆然と呟く。
「隊長」
弦が歩み寄り、冷徹に告げた。
「銀髪の少女から、極めて純度の高い氷系統のマナ循環を確認。肉体構造は半魔(ハーフエルフ)……そして、その魂魄の波長は、先刻捕縛した狂信者たちが信奉していた『魔女』の因子と極めて高い親和性を示しています」
「そうか」
宗弦の視線がエミリアへと注がれる。
その凍てつくような眼差しに晒され、エミリアの肩が小さく跳ねた。だが、宗弦の瞳にあるのは偏見や差別ではなく、ただ物事の本質を解剖するかのような無機質な観測の光だった。
「魂の輪郭に混じり気はないな。外見や血統こそ特異だが、魂魄そのものは澄んでいる。世界の因果を歪めている元凶ではない」
「……何をごちゃごちゃと品定めしているのよ、不審者め」
ロズワール邸の重厚な玄関扉が、軋んだ音を立てて開いた。
現れたのは、豪奢なドレスを纏い、ドリル状に巻かれた金髪を揺らす幼い少女――禁書庫の司書、ベアトリスだった。その特徴的な蝶の模様が浮かぶ瞳が、宗弦と弦を警戒も露わに睨みつけている。
「禁書庫の結界を通り抜けて、外から悍ましい気配が流れ込んできたと思ったら……随分と珍奇な亡霊が紛れ込んできたかしら」
「ベア子!」
スバルが駆け寄ろうとするが、ベアトリスは小柄な手を掲げて制した。
「近寄るな、スバル。……お前、自分がどれほど異常なものに触れてきたのか自覚がないのかしら。お前の魂にこびりついていた魔女の瘴気……その一部が、何者かの手によって物理的に断ち切られているのよ」
ベアトリスの言葉に、パックが目を見張った。
「本当かい、ベティ?」
「ベティーの目が狂うはずがないかしら。スバルが背負っていた呪詛の結合が、不可侵の結界で無理やり引き剥がされているのよ。……あんな力業、この世界の陰魔法の理にも存在しないかしら」
ベアトリスの視線が、宗弦の羽織へと突き刺さる。
「お前たち……一体、何をしにこの屋敷へ来たのかしら」
「目的は一つだ」
宗弦は淡々と告げた。
「この地を中心に発生している、異常な因果の巻き戻り――魂魄の輪廻を阻害する歪みを完全に断絶すること。その特異点となっているのが、そこにいるナツキ・スバルだ」
「スバルが……特異点……?」
エミリアがスバルを見つめた。
スバルは唇を噛み締め、俯いた。自分が何度も死に、時間を巻き戻してきたこと。その代償として、世界の理そのものが壊れかけていること。宗弦の言葉は、スバルが誰にも打ち明けられなかった真実を、容赦なく白日の下に晒していた。
「この少年は己の死を契機に、世界そのものの時間を巻き戻す呪いを背負っている」
宗弦の冷徹な声が、静寂の前庭に響き渡る。
「彼が死ぬたびに、本来ならば尸魂界(ソウル・ソサエティ)へ還るべき死者の魂は行き場を失い、因果の摩擦によって時空の境界が擦り切れている。すでに現世や尸魂界の観測計器に破綻が生じるほどの臨界点に達している」
その言葉を聞いた瞬間、ベアトリスが怪訝そうに眉を跳ね上げた。
「…… 尸魂界……? なんなのかしら、その聞き覚えのない単語は」
パックもまた、宙に浮かんだまま首を傾げ、警戒の色を深める。
「ルグニカにも、ヴォラキアやカララギ、果ては世界の果ての大瀑布の向こうにすら、そんな名前の国や地名はないよ。君たちの言う『ソウル・ソサエティ』ってのは、一体どこのことだい?」
スバルも戸惑いの表情を浮かべた。元の世界で聞き覚えのある響きに心臓が跳ねつつも、この場における意味を測りかねて口を開く。
「おい……さっきから気になってたけど、そのソウル・ソサエティって……」
宗弦は視線を動かさず、淡々と答えた。
「貴様らが知る由もない。この世界の天蓋、そして境界線の外側に存在する、魂魄の還るべき冥府の名だ。生者が死を迎えれば魂は肉体を離れ、輪廻の環を経てそこへと導かれる。それが世界の平準化であり絶対の法だ。だが――」
宗弦の薄墨色の瞳が、スバルを鋭く射抜く。
「この少年が死の瞬間に時間を逆流させることで、一度死を迎えた無数の魂魄が冥府へ還る道を断たれ、同じ時間軸に何重にも縫い合わされている。その歪みが境界を越え、我々の世界の魂の循環にまで亀裂を生じさせているのだ」
「死に戻り……そんな、スバルが……何度も死んでたっていうの……!?」
エミリアが胸元を押さえ、信じられない面持ちで目元を潤ませた。
「そんなの……そんなの、嘘よね、スバル……? 貴方が、そんな恐ろしい目に遭ってたなんて……」
「エミリア……」
スバルは言葉を詰まらせた。
だがその時、スバルの魂魄の深部から、再びあの黒い影が這い出そうと蠢き始めた。真実を他者に認識されたことに対する、嫉妬の魔女の防衛本能。
大気が凍結し、空間が黒く歪む。
「っ……あ……が……ッ!?」
スバルが胸を掻き毟り、その場に膝をついた。
「スバル!?」
エミリアが駆け寄ろうとするが、周囲の空間から噴き出す黒い瘴気の嵐が、彼女を近寄らせない。
「またこれかしら……! 瘴気が、スバルの心臓を握り潰そうとして――」
ベアトリスが叫んだ瞬間、宗弦の一歩が踏み出された。
瞬歩。
風を裂く初速でスバルの背後へ滑り込んだ宗弦は、迷うことなく左手をスバルの後頭部へと翳した。
「二度は通さん」
研ぎ澄まされた言霊が、大気を震わせる。
「『縛道の七十五・五柱鉄貫(ごちゅうてっかん)』」
詠唱破棄。
虚空から突如出現した五本の不可視の霊圧杭が、スバルの魂魄の周囲に展開され、外部から心臓を締め付けようとしていた魔女の黒い思念を、空間ごと完全に押し潰した。
バギィィィッ! と魂の次元で何かが砕ける音が響き、黒い瘴気は霧散していった。
「ハァ……ッ! ガハッ……ゲホッ……!」
解放されたスバルが、荒い息を吐きながら地面に手をつく。
その圧倒的な術の行使を目の当たりにし、パックもベアトリスも完全に言葉を失っていた。魔女の呪詛という、この世界における最悪の概念干渉を、ただの手札の一つで易々とねじ伏せて見せたのだ。
「隊長」
弦が静かに進み出る。
「呪詛の直接的な干渉は遮断しましたが、根本的な核は依然としてこの世界の深層――『魔女の封印』あるいは『世界の根源』と繋がっています。この少年を救い、因果の歪みを完全に断つには、この世界に残存する大罪司教、そして魔女の残滓を全て掃討する必要があります」
「分かっている」
宗弦は隊長羽織を静かに払った。
その薄墨色の瞳は、驚愕に震えるエミリア、パック、ベアトリス、そして息を整えるスバルを冷徹に見据えていた。
「ナツキ・スバル。貴様がこれ以上死ぬことは、我々の任務遂行上、断じて容認できん」
宗弦の言葉には、理不尽な運命を真っ向からねじ伏せる絶対者の響きがあった。
「貴様が守りたいと願うものがあるならば、死んでやり直すのではなく、この現実の盤面で生き延びろ。貴様の命を脅かす不純物は、護廷十四隊が全て削ぎ落とす」
朝陽が昇りきり、白亜のロズワール邸を眩い光で包み込む。
世界の理を守る死神と、理不尽な運命に抗う少年。二つの世界の交錯は、ルグニカを覆う漆黒の絶望を打ち破る、決定的な転換点を迎えようとしていた。