前庭に渦巻いていた黒い瘴気の残滓は、朝陽の柔らかな光に溶けるように霧散していった。
一度は心臓を握り潰されかけたナツキ・スバルは、額に冷や汗を滲ませながらも、自らの足でしっかりと大地を踏み締めていた。その胸元に残る『断空』の不可視の余韻が、悍ましい呪詛の侵入を完璧に遮断している。
「……信じられないかしら」
豪奢なドレスの裾を揺らし、ベアトリスが宗弦の背中を呆然と見つめていた。蝶の文様が刻まれた瞳には、四百年の知識をもってしても解き明かせぬ怪異への戦慄が滲んでいる。
「スバルの魂魄に刻まれた魔女の瘴気を、外側からの防壁だけで完全に遮断してみせるなんて……陰魔法の極致たる『空間隔離』ですら、魂そのものを覆う呪詛をこれほど精密に防護することなど不可能なのよ」
「ボクも同感だよ、ベティ」
エミリアの肩の上で、大精霊パックが腕を組み、長い髭を震わせた。
「敵対するつもりがないのは分かったけれど……君たちの存在は、この世界のあらゆる常識の埒外にある。外で立ち話をするような内容じゃないね。――エミリア、客人を屋敷の中へ案内しよう」
「え、ええ……そうね」
エミリアは戸惑いを紫紺の瞳に滲ませながらも、小さく頷いた。
ロズワール邸の二階、格式高い調度品が並ぶ豪奢な応接室。
ステンドグラスから差し込む色彩豊かな光が、磨き上げられた黒檀の円卓を照らしていた。
卓上には、桃色髪のメイド・ラムが用意した湯気を立てる紅茶が並んでいる。だが、誰一人としてその器に口をつけようとはしなかった。
ソファの上では、回道の術式によって肉体と魂魄の損壊を完全に癒やされた青髪のメイド――レムが、静かに上体を起こしていた。砕かれたはずの肋骨も、引き裂かれたはずの四肢も、痛みの痕跡すら残っていない。
「スバルくん……」
「レム……!」
傍らに膝をついていたスバルが、堪えきれずにその小さな手を両手で包み込んだ。
「よかった……本当によかった……! お前が目を開けてくれなかったら、俺は……俺はまた、全部を投げ出すところだった……」
「泣かないでください、スバルくん。レムはここにいます……スバルくんが、助けてくださったのですね」
「違う、俺じゃない。俺は何もできなかった……助けてくれたのは、あっちの二人だ」
スバルが促すと、レムはソファから静かに滑り降り、大理石の床に正座して深々と頭を垂れた。
「……私の命を繋ぎ止めていただき、心より感謝申し上げます。何より、スバルくんをお守りくださり……本当に、ありがとうございました」
「頭を上げろ」
窓際に佇んでいた神代宗弦が、振り返ることもなく平坦な声で応じた。
「礼を言われる筋合いはない。貴様の命が繋がったのは、そこにいる少年が死線を越えて足掻き、この場に因果の特異点を生じさせた結果に過ぎん。……起き上がれるなら席に着け。これより、この世界の状況を整理する」
宗弦が円卓の席へと歩み寄り、純白の隊長羽織の裾を払って腰を下ろした。その半歩後方に、副隊長の如月弦が音もなく控える。
対面にはエミリア、パック、ベアトリス、そしてラム。隣にはスバルとレムが並んで腰掛けた。
「さて」
宗弦は薄墨色の冷徹な瞳で、卓上の面々を見据えた。
「先刻、前庭で話した通りだ。我々護廷十四隊の目的は、この地に生じた異常な魂魄の滞留と、因果の歪みを排除することにある。……弦、現状の観測結果を提示しろ」
「了解いたしました」
弦が一歩前へ進み出ると、懐から取り出した掌大の計器を卓上の中央へ置いた。
弦が細い指先で計器の霊子盤を弾くと、青白い光の粒子が立ち上り、室内の空間に立体的なルグニカ全土の地図を描き出した。大気の流れ、山脈の起伏、主要な街道の配置に至るまでが、極めて精密な光の高低差をもって投影される。
「な……ッ!? 幻覚魔法……!? いいえ、マナの流れが一切存在しないかしら……!」
ベアトリスが目を見張り、身を乗り出した。
「この立体投射は、我々の世界における空間走査技術を応用したものです」
弦は動じることなく、淡々と解説を始めた。
「現在、このルグニカ王国全土において、三界の境界を揺るがすほどの重大な魂魄異常が、大きく二つの座標において観測されています」
弦の指先が、地図の南東――王都へと通じる主要街道の一角を指し示した。その地点が、不気味な赤黒い光を放ちながら明滅する。
「第一の特異点。王都へ続く主要街道上において、極めて悪質な魂魄の変質反応を感知しました。通過した数十台に及ぶ竜車、および数百名規模の生命反応から、『名前』および『記憶』に該当する魂魄の構成情報が物理的・概念的に強制剥奪されています。結果として、被害者たちの存在の輪郭そのものが世界から削ぎ落とされ、周囲の認識から消滅(ロスト)する現象が多発しています」
「名前と記憶を……喰う……!?」
スバルが息を呑み、拳を握りしめた。
「それって……三大魔獣の白鯨が使ってた霧と同じ現象か!? いや、白鯨はさっき宗弦さんが消し炭にしたはずだ……なら、一体誰が……!」
「大罪司教『暴食』、および『強欲』の仕業かしら」
ベアトリスが苦々しい表情で吐き捨てた。
「ペテルギウスと同格の、魔女教の狂人どもよ。奴らは他者の存在を喰らい、己の血肉とする権能を持っているかしら。白鯨の霧と同質の現象を引き起こしているのなら、奴らが街道で獲物を漁っていると見て間違いないのよ」
「魂魄の構成情報を喰らい、因果から消滅させるか」
宗弦の薄墨色の瞳が、氷のように冷たく光った。
「死者を冥府へ還すことすら許さず、魂そのものを私欲のために損壊させる行為……輪廻の理に対する明白な重罪だ。放置する理由は微塵もない」
「そして、もう一つの特異点です」
弦の指先が、今度は地図の北西――原生林の奥深くに位置する山岳地帯を指した。その場所には、幾重にも重なる幾何学的な結界の膜と、その中心で澱む巨大な青黒い光点が浮かび上がっていた。
「第二の特異点。このロズワール邸から北西へ数十キロ、原生林の奥深くに存在する閉鎖領域――現地名『聖域』です。この領域は、強力な空間遮断結界によって完全に隔離されていますが、その内部において、数百年に渡り肉体を失った複数の魂魄が不自然に滞留・保存されている反応が観測されます」
「聖域……!」
エミリアが顔を上げ、紫紺の瞳を揺らした。
「ロズワールが向かっている場所よ。アーラム村の人たちも、魔女教の襲撃を避けるためにあそこへ避難しているはずだわ」
「その領主――ロズワール・L・メイザースとやらが、この事態にどう関与しているのかは定かではない」
宗弦の声は、感情を排して極めて平坦だった。
「だが、死者の魂魄を現世に繋ぎ止め、四百年間もの間、輪廻の環から隔離し続けている構造そのものが、世界の理に対する重大な侵犯だ。さらに言えば、この聖域と呼ばれる領域の深層から、スバルの魂魄に巣食う『魔女の因子』と極めて同質の因果の糸が伸びている」
「ロズワールが……魔女と繋がってるってことなのか……?」
スバルの問いに、宗弦は首を横にも縦にも振らなかった。
「推測で語る段階ではない。事実を確かめるために、直接踏み込む」
宗弦は席から静かに立ち上がった。
純白の隊長羽織の裏地――消炭色が、朝の光の中で微かに揺れる。
「方針を伝える。我々はこれより、二手に分かれて事態を処理する」
「二手に……ですか」
エミリアが立ち上がり、真剣な眼差しを向けた。
「弦」
「は」
「貴様はこれより王都方面へ向かえ。街道で暗躍する『暴食』および『強欲』と呼称される不純物の追跡・捕捉、ならびに損壊された魂魄の保護を命じる。相手の異能の全容が掴めるまでは無理な交戦を避け、状況に応じて結界術式をもって封殺しろ」
「承知いたしました。速やかに任務を遂行します」
弦は迷いなく一礼した。
そして宗弦は、円卓の向かいに座るスバルたちへと視線を向けた。
「私はこの少年――ナツキ・スバルを帯同し、北西の『聖域』へ向かう。滞留する魂魄の解放、ならびに事態の背景にいるロズワール・L・メイザースと直接対峙する」
宗弦の言葉を受け、スバルは力強く頷いた。
「ああ、分かった。俺も聖域に行くぜ。……だけど宗弦さん、エミリアたちも一緒に連れて行ってほしい」
「スバル……?」
エミリアが驚いたようにスバルを見る。
スバルは真剣な表情を崩さず、宗弦の薄墨色の瞳を真っ直ぐに見据えて言葉を続けた。
「聖域には、アーラム村から避難した村人たちが囚われてるんだ。それに、ロズワールが何を考えてるのか、王選の候補者であるエミリア自身の目で確かめなきゃならない。何より……エミリアには、聖域の結界を解放するための『試練』を受ける資格があるはずなんだ。俺たち全員で、聖域の問題を片付けなきゃいけないんだよ」
エミリアもまた、決意を固めたように一歩前へと進み出た。
「私も行きます。メイザース領の民を守るのも、後見人であるロズワールに真意を問いただすのも、私の責任です。……決して、宗弦様の足手まといにはなりません」
宗弦はエミリアとスバルを静かに見つめた後、淡々と告げた。
「同行すること自体に異存はない。だが、前線において己の身を守るのは己自身だ。任務の障害となるならば、容赦なく切り捨てる」
「上等だ! 誰が足手まといになるかよ!」
スバルが不敵に笑って応じる。その瞳には、かつて絶望に押し潰されていた少年の弱さは微塵もなかった。
屋敷の馬車小屋の前では、聖域へ向かうための出発の準備が整えられていた。
漆黒の地竜が引く豪奢な竜車。御者台には、緑色の帽子を被った商人・オットーが、手綱を握りながら冷や汗を流していた。
「ちょ、ちょっとスバルさん……! 白鯨が討伐されたってだけでも腰が抜けそうなのに、あの白と黒の服を着た凄まじい威圧感の御仁は何者なんですか!? 私、ただの通りすがりの商人ですよ!?」
「騒ぐなオットー、お前の仕事は地竜を安全に走らせることだけだ。命の保証はあの人がしてくれる」
「その『あの人』が一番恐ろしい雰囲気を醸し出してるんですがねぇ!?」
オットーの悲鳴をよそに、前庭の片隅で宗弦と弦が最終確認を交わしていた。
「隊長。王都方面への移動、および空間走査の準備完了しました」
「うむ。連絡用の霊具の波長は固定してある。異常が生じた場合は即座に通達せよ」
「了解いたしました。……隊長も、かの閉鎖領域においてお気をつけて」
弦は短く頭を下げると、音もなく地を蹴った。
瞬歩。
風の乱れすら最小限に抑えられたその身のこなしにより、弦の姿は一瞬の残像を残して掻き消え、王都の方角へと一直線に疾走していった。
その超絶的な体術を目の当たりにし、見送っていたラムがわずかに眉をひそめる。
「……信じがたい移動速度ね。風魔法による身体強化の兆候すら感知できないわ」
「技術体系が異なる。驚くには値せん」
宗弦は羽織の裾を翻し、竜車の前へと歩み寄った。
「行くぞ」
宗弦が身を翻し、竜車の屋根の上へと軽く飛び乗る。その足音は、木片の擦れ合う音すら立てなかった。
車内にはエミリア、スバル、レム、そしてラムが乗り込み、オットーが手綱を強く引いた。
「ハッ! 行くぞ、フルーベル!」
地竜が力強く大地を蹴り、車輪が規則正しい音を立てて回転を始める。竜車はメイザース邸の白亜の門を抜け、北西の原生林――四百年の因果に閉ざされた「聖域」を目指して、朝の街道を疾走し始めた。
昼下がりの日差しが生い茂る木々の梢を透かし、車輪の轍に斑模様の影を落としていた。
揺れる竜車の車内、スバルは向かい合って座るエミリアと、隣で静かに息づくレムの顔を見つめていた。車窓から上を見上げれば、屋根の上に直立したまま微動だにしない宗弦の白い羽織が、風を孕んで小さく棚引いているのが見える。
スバルは意を決して、天蓋の小窓から顔を覗かせた。
「……なあ、宗弦さん」
屋根の上で遠方の地平線を見据えていた宗弦が、視線だけをスバルへと落とした。
「何だ」
「あんたたち……死神ってのは、いつもあんな風に、世界の歪みを直して回ってるのか?」
「それが護廷の務めだ」
宗弦の声は、吹き抜ける風の音に紛れることなく、澄み渡るようにスバルの耳に届いた。
「現世、尸魂界、そして境界の外縁。万物は生と死を繰り返し、魂魄を巡らせることで均衡を保っている。どれほど強大な力を持とうと、どれほど悲痛な願いがあろうと、その循環の輪を外れて世界を歪める存在は、理を乱す不純物でしかない」
「不純物、か……」
スバルは自らの掌を見つめた。
「俺の『死に戻り』も、あんたから見ればただの不純物なんだよな。……自分でも分かってるよ。何度も死んで、時間を巻き戻して、なかったことにして……そんなの、命の冒涜だって言われても言い返せねぇ」
「……スバル」
車内からエミリアが心配そうに声をかける。
だが、屋根の上の宗弦は、冷徹な響きのまま言葉を続けた。
「己の命を軽んじ、死を都合の良いやり直しの道具とするならば、それは断罪に値する愚行だ。だが――」
宗弦の薄墨色の瞳が、スバルの顔を真っ直ぐに射抜いた。
「貴様の魂魄の亀裂には、死への執着ではなく、生への妄執が刻まれていた。失いたくないものを繋ぎ止めるための、泥臭い足掻きだ。……その結果として生じた歪みは看過できんが、貴様という存在そのものを悪と断じるつもりはない」
スバルは息を呑み、目頭が熱くなるのを必死に堪えた。
「だからこそ、前にも言ったはずだ」
宗弦の言葉が、少年の胸の奥深くに重く染み渡っていく。
「死んでやり直すのではなく、この現実の盤面で生き延びろ、とな。貴様が命を懸けて繋ぎ止めたこの世界を、我々がこれ以上巻き戻させるわけにはいかん」
「……ああ。絶対に、もう二度と死なねぇよ」
スバルが強く顎を引いて頷いた、その時だった。
竜車を引く地竜が、突如として足を止め、警戒するように喉を低く鳴らした。
「止まってください! スバルさん、前を……!」
御者台のオットーが青ざめた顔で叫ぶ。
街道の先、生い茂る原生林の木々が不自然に枝を絡み合わせ、昼間だというのに薄暗い闇が広がっていた。大気中のマナが異様な密度で淀み、空間そのものが目に見えない巨大な硝子板で仕切られているかのような、強烈な圧迫感が漂っている。
「……着いたわね」
エミリアが竜車から降り立ち、前方の森を見つめた。
「ここから先が『聖域』――クレマルディの森よ。この森全体に、強力な結界が張り巡らされているの」
「結界か」
宗弦が屋根の上から音もなく地面へと降り立った。
その薄墨色の瞳は、森の入り口を取り囲む空間の歪みを冷徹に見据えていた。
四百年にわたり死者の魂を繋ぎ止めてきた、約束の地。
世界の理を正す死神の歩みが、今まさにその深淵の扉へと届こうとしていた。