原生林の奥深くに立ち込める空気は、まるで底なしの沼地のように重く、肌寒かった。
頭上を生い茂る鬱蒼とした木々の枝葉が複雑に絡み合い、真昼であるはずの陽光をほとんど遮断している。冷たい湿気を含んだ土の匂いと、腐葉土の微かな饐えた香りが漂う獣道。その終端、周囲の木々が奇妙に歪んで円を描く不可思議な空間で、竜車を引く地竜が前足を止め、低く唸り声を上げた。
「……ここが、クレマルディの森――通称『聖域』の結界よ」
エミリアが竜車のステップから静かに土の上へと降り立ち、緊張に満ちた面持ちで前方の何もない空間を見つめた。
その紫紺の瞳が捉えているのは、大気中のマナが複雑怪奇な幾何学模様を編み上げ、目に見えない巨大な障壁となって空間を切り裂いている境界線であった。
「この森全体を覆っている結界には、特定の血を引く者……混血の亜人以外を拒絶し、無理に通ろうとする者の精神を直接揺さぶって意識を奪う術式が組み込まれているわ。……以前、ロズワールから聞いたことがあるの。無理に力づくで通り抜けようとすれば、反発したマナが暴走して、侵入者の精神を焼き切ってしまう危険があるって」
「混血のみを選別し、それ以外を拒絶する結界、か」
神代宗弦は音もなくエミリアの隣へと歩み寄り、薄墨色の瞳を細めた。
その視界には、大気中に張り巡らされたマナの網目が、青白く濁ったエネルギーの構造体として極めて明瞭に映し出されていた。魂魄の波長を選別し、特定の因子を持たぬ魂を弾き飛ばす選別結界。術式そのものは洗練されているが、尸魂界の技術開発局が扱う高度な霊子遮断壁や、瀞霊廷を取り囲む殺気石の結界に比べれば、その構造はあまりに有機的で、脆弱な結節点が幾重にも露出していた。
懐の通信用霊具から、王都方面へ向かった弦の冷静な声が微かに響く。
『隊長。そちらの閉鎖領域の外部結界、遠隔走査による解析が完了しました。マナの励起パターンは「隔離」と「封印」の二重構造。内部から外部への脱出を阻む拘束力が主軸であり、外部からの侵入に対する耐性はそこまで高くありません』
「理解した。通信を切れ」
宗弦は霊具への通話を終えると、右手の人差し指と中指を揃え、結界の境界線へと静かに向けた。
「待ってください、宗弦さん! 無理に破れば森全体のマナが暴走して――」
エミリアが慌てて制止の声を上げようとした、まさにその刹那。
宗弦の指先から、針のように研ぎ澄まされた極小の閃光が放たれた。
「『破道の三十一・赤火砲(しゃっかほう)』」
詠唱破棄。
だが、放たれたのは通常の紅蓮の爆炎ではなかった。極限まで熱量と範囲を絞り込み、霊圧の収束率を針の先端ほどにまで研ぎ澄ませた紅の光線。
チィッ、と空間が小さく焦げるような乾いた音が響いた。
赤火砲の閃光は結界の表面で爆散することなく、マナの結合が最も希薄な「結節点」を寸分の狂いもなく貫通した。直後、大気中に広がっていた見えない壁が水面のように細かく波打ち、大人の人間が余裕を持って通れるほどの円形の裂け目が、音もなく虚空に口を開けた。
「な……ッ!?」
エミリアが息を呑み、御者台のオットーは手綱を握ったまま硬直した。
結界の反発も、マナの暴走すら起きていない。四百年間、いかなる侵入者をも拒絶し続けてきた強固な結界が、ただの指先の一撃で、まるで鍵を開けるかのように通り道を作られたのだ。
「結界の循環を局所的に中和した。効果の持続は数十分程度だ。……進め」
宗弦は何事もなかったかのように歩き出し、裂け目をくぐり抜けて結界の内側へと足を踏み入れた。
スバルは頭を抱えながら苦笑を漏らした。
「毎度のことながら、常識ってやつが木っ端微塵だな……! おいオットー、口開けてねぇで地竜を動かせ!」
「は、はいぃぃっ! フルーベル、進んでくれ!」
オットーが慌てて手綱を叩き、竜車が軋んだ音を立てて結界の穴を通り抜ける。続いてエミリアとラム、そして目覚めたばかりのレムが足早に森の中へと滑り込んだ。
結界の内側は、外の世界とは完全に異なる異質な気配に満ちていた。
大気中のマナが酷く淀み、湿った土の匂いの中に、四百年前の怨念が染み付いたような重苦しさが漂っている。何より、宗弦の感覚には、この森の最深部に存在する巨大な構造物から、死してなお現世に留まり続ける強大な魂魄の残照が、濃密な波紋となって押し寄せてきていた。
その時だった。
突如として森の奥から、暴風のような突風が吹き荒れた。
生い茂る木々が激しく揺れ、舞い散る落ち葉の向こうから、地鳴りを伴う獰猛な獣の咆哮が轟く。
「――グルァァァッ!! どこのどいつだァ、結界をいじくり回して土足で上がり込んできたクソ野郎はよォッ!!」
空間を裂くような疾風とともに、金色の影が弾丸の如き初速で突進してきた。
木々の間から飛び出してきたのは、短く刈り込んだ金髪に鋭い八重歯を剥き出しにし、額に埋め込まれた白銀の輝石をギラつかせた筋骨隆々の少年であった。獰猛な目つきで敵を威嚇するその姿は、人の形を取りながらも純然たる野生の獣そのもの。
「誰だあいつ!? いきなり突っ込んできやがったぞ!」
スバルが見知らぬ少年の猛進に目を見張り、叫ぶ。
「結界破りの不審者どもがァ! オレ様の縄張りに踏み込んできた落とし前、その首肉引きちぎって払ってもらうぜェッ!」
金髪の少年は問答無用で跳躍すると、両腕を一瞬にして分厚い毛皮と凶悪な鉤爪を備えた猛獣の腕へと膨張させた。鋼鉄をも容易く両断する鋭利な爪撃が、先頭を歩く宗弦の頸動脈を目がけて音速を超えて振り下ろされる。
「危ないッ!」
エミリアが叫び、氷の礫を放とうとした。
だが、振り下ろされた獣の爪は、すでに宗弦の喉首へと到達していた。
激突の瞬間――宗弦の姿が掻き消える。
残像。
少年の爪は、宗弦が直前まで存在していた空間の残滓を空しく引き裂いただけだった。
「あァ……ッ!? 消え――」
「視線が高すぎる」
氷のように澄んだ声が、少年の真下から落ちた。
瞬歩による極小の沈み込み。宗弦は少年の懐、重心の真下へとすでに音もなく滑り込んでいた。
死覇装の袂から滑り出た宗弦の右手が、少年の鳩尾へと吸い込まれる。
握り拳ではない。揃えられた五本の指先が、少年の鍛え上げられた腹筋の表面に音もなく触れた。
ドッ――!!
大気が遅れて悲鳴を上げた。
外傷はない。だが、掌から撃ち込まれた高密度の勁力は、少年の強靭な筋肉と骨格を軽々と透過し、内臓と神経系を直接揺さぶった。
「ガハッ……!? ゲホッ……ッ!?」
少年の瞳から光が一瞬にして消し飛び、その巨体が弓なりに折れ曲がった。衝撃波が背中の衣服を円錐状に吹き飛ばし、少年は足の裏で大地を削りながら、数十メートル後方へと弾き飛ばされた。
ズザザザァッ! と土煙を巻き上げて止まる少年。
「ガッ……フゥーッ……! クソが、何だこの……重みは……ッ!?」
膝をつき、口端から鮮血を吐き出しながらも、少年は獣のような闘志を燃え上がらせて宗弦を睨みつけた。
「テメェ……魔法も使わずに、ただの当て身でオレ様を……! 舐めやがってェッ!」
少年の全身が膨張を始める。筋肉が裂けんばかりに隆起し、全身が完全な巨大虎へと変貌しようとするその刹那。
宗弦は息を乱すこともなく、左手を軽く振るった。
「『縛道の三十・嘴突三閃(しとつさんせん)』」
詠唱破棄。
空間から放たれた三つの巨大な光の嘴が、凄まじい速度で疾走した。
巨大虎へと変化しかけていた少年の両腕、そして下腹部へ向けて、光の嘴が寸分の狂いもなく突き刺さる。
ドガァンッ!
「グァッ……!? な、んだ……この光は……抜け、ねぇ……!?」
光の嘴は少年の身体を背後の巨木へと深々と縫い留め、その凄まじい霊圧の圧力によって、変身のプロセスそのものを強制的に中断させた。どれほど腕力を振り絞ろうと、大地の加護によって得られるマナの供給を遮断され、指一本動かすことができない。
戦闘開始から、わずか三秒。
獰猛な獣人が、一度も反撃の機会を得られぬまま、完全に無力化されていた。
「すげぇ……あんな獣みたいな奴を、あっさりと……!?」
スバルが目を見張る中、森の奥から慌ただしい足音が響いてきた。
「や、やめるのじゃ! それ以上、その子を痛めつけるでない!」
木々の間から駆け出してきたのは、淡いピンク色の長髪を揺らす小柄な少女――聖域の代表者の一人、リューズ・ビルマであった。その背後には、アーラム村の村長をはじめとする避難民たちの姿も見え隠れしている。
「ガー坊! 無事なのじゃな!?」
「ババア……! クソッ、近寄るな! こいつら……得体の知れねぇ化け物だ……!」
縫い留められたまま唸り声を上げる少年――ガーフィールを制し、ラムが静かに歩み出た。
「ガーフィール、それ以上の無駄口はやめなさい。その御方は、白鯨と大罪司教を一人で討伐された方よ。貴方の未熟な腕力でどうにかなる相手ではないわ」
「はァ!? 白鯨と大罪司教を……コイツが一人で……!?」
ガーフィールが驚愕に目を丸くし、リューズもまた信じられない面持ちで宗弦の白羽織を見つめた。
宗弦は感情を交えずに告げた。
「敵対の意志がないのであれば、これ以上の戦闘は不要だ。……我々を、ロズワール・L・メイザースの元へ案内しろ」
宗弦が指先を軽く引くと、ガーフィールを縫い留めていた光の嘴が、淡い霊子となって空気中へ溶けて消えた。
自由を取り戻したガーフィールは、痛む腹を押さえながら地面に手をつき、悔しそうに歯噛みした。だが、その瞳には宗弦への明らかな畏怖の色が刻み込まれていた。
「……チッ、ついてきな。ロズワールの旦那は、集落の奥の宿舎にいる」
聖域の集落は、苔むした石造りの簡素な小屋が立ち並ぶ、時が止まったかのような静寂に包まれていた。
アーラム村の村人たちは、スバルやエミリアの姿を認めて安堵の声を上げていたが、宗弦が通り過ぎる瞬間だけは、本能的な恐怖からか一斉に道を開け、息を潜めて頭を垂れていた。
集落の最奥、ひときわ頑丈に造られた石造りの屋敷。
その薄暗い一室の扉を開けると、室内には濃厚な薬草の匂いと、淀んだマナの気配が充満していた。
部屋の奥、寝台の上で上半身を起こしていた男が、奇異な笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
道化の化粧を顔の半分に施し、左右で色の異なる双眸――青と黄色の瞳を持つ男、ルグニカ王国屈指の宮廷魔導士、ロズワール・L・メイザース。その全身には包帯が巻かれ、聖域の結界の試練に挑んで拒絶された傷跡が痛々しく残っていた。
「やぁ〜やぁ、お待ちしていたよォ〜、エミリア様、スバルくん。……そして、私の『福音書』にすら一片の記述が存在しない、招かれざる偉大なる客人方」
ロズワール独特の抑揚のある声が、静寂の室内に響く。
その手元には、ペテルギウスが持っていたものと同質の、禍々しい気配を放つ黒い本が握られていた。
「ロズワール……」
エミリアが厳しい表情で一歩前へ出る。
「貴方に聞きたいことが山ほどあるわ。どうしてアーラム村の人たちをここに避難させたまま帰さないの? どうして、この聖域の結界を頑なに維持しようとするの?」
「おやおやァ、手厳しいねぇエミリア様。私はただ、次期国王たる貴女に、聖域の『試練』を乗り越えてほしかっただけなのだけ〜どねぇ」
ロズワールは道化の笑みを崩さず、その視線を宗弦へと向けた。
「それにしても……驚いたよ。大罪司教ペテルギウスの討伐、三大魔獣白鯨の消滅……四百年の間、誰も成し得なかった奇跡を、こうもあっさりと片付けてしまうなんて。私の愛読書たる『叡智の書』の記述が、完全に狂わされてしまった」
ロズワールの双眸が、怪しく光る。
「君は一体、何者なのかなぁ? 魔女の怨念を断ち切り、世界の因果を狂わせる……恐るべき『死神』さん?」
宗弦は寝台の前へと静かに進み出た。
その薄墨色の瞳は、ロズワールの歪んだ魂魄の構造を冷徹に見透かしていた。
「他人の書いた未来予知の書物に縋り、四百年前の死者の影を追い続ける哀れな人形か」
宗弦の声が、室内の空気を一瞬で凍りつかせた。
ロズワールの顔から、道化の笑みがピクリと引き攣る。
「貴様の魂魄には、死者への執着と、世界を意図的に破滅へと導こうとする悪意が塗り固められている。……貴様が何を企み、誰の復活を望んでいようと興味はない」
宗弦は寝台を見下ろし、容赦のない宣告を下した。
「この森の最深部、墓所に眠る魂魄の残留思念を解放する。四百年にわたる魂の滞留を解き、輪廻の環へと還す。……貴様にそれを拒む権利はない」
四百年の妄執を抱く宮廷魔導士と、世界の理を司る死神。
薄暗い石室の中で、二人の視線が静かに火花を散らしていた。