薄暗い石室の空気が、軋みを上げて凍りついた。
道化の化粧の下、ロズワール・L・メイザースの青と黄色の双眸から、嘲るような軽薄さが完全に消え失せていた。彼が四百年の長きにわたり、幾代もの血脈を乗り換え、己の魂をすり減らしてまで守り続けてきた唯一の存在理由――恩師たる魔女の復活。その悲願の根幹を、眼前の死神は一片の躊躇もなく「解放し、輪廻へ還す」と言い放ったのだ。
「……聞き捨てならないねぇ、死神さん」
ロズワールの低い声が、室内のマナを急速に励起させていく。
「先生の魂を解き放つ……? それが何を意味するのか、君は理解して口にしているのかい? 彼女の叡智、四百年前に失われた偉大なる知識の集積を、ただの魂の循環とやらに流し去るなど……この世界に対する冒涜以外の何物でもないよォ」
ロズワールが寝台の上に立ち上がると同時に、その周囲の大気が赤、青、緑、黄、白、黒の六色の光を放って渦を巻いた。
火、水、風、土、陽、陰――世界に存在する全属性の魔力を極限まで掌握した宮廷魔導士の威容。石室の壁がマナの圧力に耐えかねて亀裂を走らせ、床の石畳が細かく振動を始める。
「ロズワール、やめて!」
エミリアが叫び、氷の障壁を張ってスバルたちを庇おうとする。
「エミリア様、下がっていなさい」
ロズワールの双眸が冷酷に細められ、六色の光がその両の手の平へと凝縮されていく。
「君の存在は、私の持つ『叡智の書』の記述にない絶対的な不確定要素だ。スバルくんに過酷な運命を乗り越えさせ、ただ一つの守るべきものを選ばせるための盤面……それを力づくで塗り替えられては困るのさ。ここで消えてもらうよォッ!」
解き放たれる六重複合魔法。
火炎の奔流が空間を焼き、絶対零度の氷槍が虚空を満たし、真空の刃が石壁を細切れに切り裂きながら、宗弦の全方位を取り囲んで殺到した。城壁すら一瞬で蒸発させるほどの、規格外の破壊エネルギーの濁流。
だが、宗弦は微動だにしなかった。
両腕を死覇装の袂に収めたまま、静かに息を吸い込む。
「『縛道の八十一・断空(だんくう)』」
詠唱破棄。
宗弦の周囲に、巨大な透明の霊圧防壁が円筒状に展開された。
次の瞬間、六属性の複合魔法が『断空』の表面に真正面から激突した。
ズガァァァァァァァァンッッ!!!!
凄まじい衝撃波が石室の窓ガラスを一瞬で粉砕し、屋根の一部を吹き飛ばす。巻き起こる白煙と熱波。だが、ロズワールの放った最高密度の魔導光は、透明な防壁の表面を滑るように四散し、宗弦の羽織の裾一枚すら揺らすことができなかった。
「な……ッ!?」
ロズワールが息を呑み、その両目が驚愕に見開かれた。
「私の……六属性同時詠唱の極大魔法を、ただの障壁一枚で……無傷で防ぎ切っただと……!?」
「魔力なるエネルギーの純度を極限まで高めた術式ではある。だが――」
宗弦の姿がブレた。
瞬歩。
爆煙を貫く一条の疾風。ロズワールが防御魔法の再構築を開始するよりも早く、宗弦の影はすでにロズワールの懐へと滑り込んでいた。
「事象を拒絶する『断空』の前には、火熱も冷気も等しく無に帰す」
宗弦の右手が、ロズワールの胸元――心臓の直上へと音もなく触れた。
「『縛道の五十八・掴趾追雀(かくしついじゃく)』」
掌から放たれた微細な霊圧の網が、ロズワールの体内に巡るマナの流路(ゲート)を完全に掌握し、その循環を内側から瞬時に凍結させた。
「ガッ……!? マナが……身体が、動か……ない……ッ!?」
ロズワールの全身から六色の光が霧散し、魔導の接続を断たれた男は、糸の切れた人形のように寝台の上へと崩れ落ちた。指一本動かせず、ただ荒い息を吐きながら、見下ろしてくる死神を戦慄の瞳で見上げる。
宗弦はロズワールの手から転がり落ちた黒い装丁の本――『叡智の書』を拾い上げ、薄墨色の瞳でその頁を一瞥した。
「未来が記されると信じ込まされた、因果の偽書か。己の思考を放棄し、定められた破滅の筋書きをなぞるだけの人形に、理を語る資格はない」
宗弦が指先に微弱な霊圧を込めると、黒い本は青白い光に包まれ、頁ごと文字の記録構造を粉砕されて白紙の束へと還っていった。
「あ……あぁ……! 先生の……私の、叡智の書が……ッ!」
絶望に叫ぶロズワールを背に、宗弦は踵を返した。
崩落した石室の土煙が、冷え切った大気の中にゆっくりと沈んでいく。
全身の魔力循環(ゲート)を完全に掌握され、寝台の上に崩れ落ちたロズワール・L・メイザースは、虚無に染まった双眸で天井の亀裂を見上げていた。四百年の妄執を支え続けた『叡智の書』が灰燼と帰した今、彼には死神の歩みを阻む術も、己の意志を叫ぶ気力すら残されていなかった。
宗弦は一度も振り返ることなく、石室の出口へと歩みを進めた。
「エミリア、スバル。案内しろ。この森の墓所へ向かう」
「あ、ああ……!」
スバルは息を呑みながら頷き、エミリアと共に先導する。後ろからは、腹の痛みを堪えながら険しい表情で追従するガーフィールと、静かに見守るリューズの姿があった。もはや誰も、死神の決定に異を唱える者はいなかった。
集落の最奥、生い茂る木々の梢が天を塞ぐ鬱蒼とした窪地に、その巨大な石造りの建造物は鎮座していた。
『墓所』
太古の巨石を積み上げて築かれたその霊廟は、周囲の空間から切り離されたかのような異様な静寂を放っていた。苔むした石段の先に口を開ける暗黒の入り口からは、大気中のマナとは根本的に異なる、甘美で重厚な魂の残滓が絶え間なく漂い出ている。
「ここが……墓所よ」
エミリアが胸元に手を当て、緊張に声を震わせた。
「この中に入ると、資格を持つ者は『試練』に引きずり込まれる。自らの過去と向き合わされ、精神を試される……この結界を解くための唯一の場所よ」
「試練など受ける必要はない」
宗弦は石段の前に立ち、薄墨色の瞳で暗がりを見据えた。
「滞留する魂魄を回収し、結界の動力源となっている霊子構造を断てば、領域はおのずと解放される。……スバル、貴様はエミリアたちと共に外で待機しろ」
「えっ……待ってくれ! 俺も一緒に行くんじゃ――」
「この奥に渦巻いているのは、純粋な精神干渉の奔流だ。貴様の魂魄にはすでに『死の巻き戻し』による無数の亀裂が存在する。これ以上の不確定な精神負荷を受ければ、魂魄そのものが内側から崩壊しかねん」
宗弦の言葉は極めて冷徹であり、同時に少年の命を守るための絶対的な宣告であった。
「……分かったよ。無理に入って足手まといになるのは御免だ。頼むぜ、宗弦さん」
スバルが奥歯を噛み締めて退くと、宗弦は迷うことなく石段を踏みしめ、墓所の闇の中へと一人足を踏み入れた。
暗黒の回廊を進むにつれ、周囲の空間がぐにゃりと歪み始めた。
重力の向きが定まらず、石壁の質感が水飴のように融解していく。
本来ならば、資格者の精神のみを肉体から引き剥がして構築される心象世界。だが、宗弦が全身に纏う高密度の霊圧は、精神世界の境界を力づくで物理次元へと縫い止め、肉体を保ったままの侵入を可能にしていた。
空間が硝子のように砕け散り、眩い純白の光が視界を埋め尽くす。
光が収まった先に広がっていたのは、どこまでも青く澄み渡る果てしない空と、風に揺れるなだらかな草原であった。
草原の中央には、豪奢な日傘と、真っ白なテーブルセット。
テーブルの上には湯気を立てるティーカップが置かれ、そこに一人の女性が腰掛けていた。
純白の長髪を風になびかせ、喪服のような漆黒のドレスを纏った美女。肌は透き通るように白く、その漆黒の双眸には、底の知れない知的好奇心と怜悧な光が宿っている。
「やあ、ボクの茶会へようこそ。……と言いたいところなんだけどね」
女性は優雅な所作でティーカップをソーサーに戻すと、立ち上がり、宗弦をじっと見つめた。
「精神領域への侵入に際して、精神体ではなく肉体ごと、しかも空間の法則を力づくで押し広げて踏み込んでくるなんて……四百年を生きて、死後四百年思念として存在し続けてきたボクでも、こんな経験は初めてだよ」
女性は胸元に手を当て、優雅に一礼した。
「名乗ろうか。ボクの名前はエキドナ。『強欲の魔女』と、そう呼ばれる存在さ」
エキドナの視線が、宗弦の漆黒の死覇装、そして純白の隊長羽織へと注がれる。その瞳は、未知の事象を前にした学者のように妖しく輝いていた。
「君の身に宿るそのエネルギー……マナではないね。オドでもない。魂そのものの質量を限界まで圧縮し、独自の法則で励起させている……素晴らしい、実に素晴らしいよ! 君は一体どこの世界の理から零れ落ちてきた存在なんだい? ボクの知らない事象の記録、ぜひとも聞かせてほしいな」
知の渇望を露わにする魔女。
だが、宗弦はその言葉に一片の感慨も示さなかった。薄墨色の瞳を眇め、眼前の思念体を冷徹に見据える。
「知を求める妄執の果てに、己の魂を檻に閉じ込め、現世の因果を四百年も腐敗させていた元凶か」
宗弦の声が、平原の風を切り裂いた。
「『強欲の魔女』エキドナ。貴様の存在は、三界の魂魄循環における重大な滞留物だ。……これより貴様の魂魄を回収し、輪廻の環へと還す」
エキドナの笑みが、すっと消え失せた。
「……ボクを消し去る、というのかい? この世界から、ボクの持つ全ての叡智とともに」
「叡智であろうと怨念であろうと、死者の魂が留まり続けることは理の侵犯だ」
宗弦が静かに右手を前へと翳した瞬間、エキドナの纏う空気が一変した。
「――それは困るね。ボクにはまだ、知らなければならない世界の全てがある。君のような未知の事象を前にして、解明もせずに消え去るなんて……そんなの、ボクの『強欲』が許さないよ!」
エキドナが両手を広げた瞬間、青空が赤黒い天蓋へと染まり、草原が底なしの泥濘へと反転した。
精神世界の絶対的な主による、心象風景の完全な兵装化。
大気中のマナが異常な密度で励起され、四百年間蓄積された知識の具現たる無数の幾何学術式が、虚空を埋め尽くすように展開される。
「この精神領域において、ボクの思考は絶対の法則となる! 肉体を持たぬ魂の深淵で、君の異質な力がどこまで通じるか……見せてもらおうか!」
エキドナの指先が宗弦を指した瞬間、頭上から数千本に及ぶ黒紫色の魔力槍が、音速を超えて一斉に降り注いだ。
同時に、足元の泥濘から無数の死者の怨念が腕となって這い出し、宗弦の四肢を物理的・概念的に縫い留めようと絡みつく。
宗弦は足元の拘束に視線すら向けず、全身の霊圧を一気に解放した。
ドッ――!!
不可視の衝撃波が全方位へ爆発し、絡みついていた怨念の腕を一瞬で霧散させる。
迫り来る数千の魔力槍に対し、宗弦は右手を天へと掲げた。
「『破道の五十八・闐嵐(てんらん)』」
詠唱破棄。
宗弦の手の平から解き放たれた超高密度の竜巻が、前方の空間を薙ぎ払うように吹き荒れた。
ギャリィィィッ! と凄まじい破壊音を立て、殺到していた魔力槍の群れが、闐嵐の暴風に巻き込まれてことごとく粉砕されていく。砕け散った魔力の破片が光の塵となって舞い散る中、宗弦の姿が掻き消えた。
瞬歩。
音も風も置き去りにした超高速の踏み込み。宗弦は瞬時にエキドナの眼前に肉薄し、その胸元へ向けて手刀を繰り出した。
だが――。
ガギィィィンッ!!
金属同士が激突したような甲高い音が響いた。
宗弦の手刀を受け止めたのは、エキドナの周囲に展開された三重の回転障壁――四百年前の古代魔導における絶対防御結界『アル・クラウゼリア』。
「……なるほど、圧倒的な初速と質量打撃だ」
障壁の内側で、エキドナの漆黒の瞳が怪しく光る。
「だが、一度見せてもらった現象なら、ボクの叡智で術式の構造を逆算できる! 君の放つ力は、マナではなく魂の波長……ならば、その波長を反転させて相殺する術式を編めばいい!」
エキドナが両手を交差させた瞬間、回転障壁が青黒い光を放ち、宗弦の手刀から流れ込む霊圧を逆流させるように励起した。
バチィッ! と強烈な反発力が生じ、宗弦の身体がわずかに後方へと弾かれる。
空中で姿勢を制御し、音もなく泥濘の上に着地する宗弦。その薄墨色の瞳に、わずかな鋭さが宿る。
「霊圧の波長を読み取り、即座に相殺術式を構築したか。ただの思念体にしては、思考の処理速度が際立っているな」
「褒めてくれて光栄だよ、死神さん!」
エキドナが手を天に掲げると、背後の空間が裂け、六つの巨大な魔法陣が出現した。
火炎の巨竜、絶対零度の氷塊、天空を断つ真空波、大地を穿つ隕石、空間を歪める重力波、そして精神を直接腐食させる呪詛の光球。
世界に存在する全六属性の極大魔法が、精神世界の無尽蔵のマナによって限界を超えて増幅され、宗弦を完全に消滅させるべく一斉に解き放たれた。
「ボクの知識の全てをぶつけさせてもらうよ! 君という存在の『理』を、ボクに暴かせておくれ――!!」
天地を揺るがす破壊の奔流が、全方位から宗弦を呑み込まんと殺到する。
空間そのものが軋み、精神世界の大地が崩壊を始めるほどの圧倒的な熱量と質量。
押し寄せる六色の終焉を前に、宗弦は静かに息を整えた。
その表情からは、これまでの戦闘で見せていた無機質な余裕が完全に消え去っていた。
宗弦の左手が、腰の斬魄刀の鞘を静かに押し下げる。
そして右手が、黒漆の柄へと音もなく添えられた。
「……鬼道と体術のみで削ぎ落とせる器ではない、か」
冷徹な言霊が、迫り来る魔導の轟音を切り裂いて響き渡る。
「ならば――因果ごと、断ち切るまでだ」
宗弦の全身から、それまで抑え込まれていた真の霊圧が、天を衝く黒銀の柱となって爆発的に解き放たれた。
死神の刃が、今まさに鞘を離れようとしていた。