「――おやおや?」
冷たい雨の滴を弾きながら、カメラを小脇に抱え、不敵な笑みを浮かべて暖簾をくぐったのは、鴉天狗の新聞記者、射命丸文だった。文は店内に一歩足を踏み入れると、目ざとくストーブの横の席を見つめ、大げさに声を張り上げた。
「あの噂の店にきましたけど、このお嬢さんは誰ですか?」
その鋭い視線と大きなカメラを真っ直ぐに向けられ、水瀬るいは短い悲鳴を上げてスマートフォンの画面を強く握りしめた。恐怖でガタガタと震えながら、必死にアリスの背後へと隠れようとする。
「ちょっと射命丸、いきなり入ってきて私の連れを怖がらせないで頂戴!」
アリスがすかさずるいを庇うように立ち塞がり、彼女の肩の上では上海人形が小さなフォークを文に向けて無言で威嚇した。だが、里の情報通である新聞記者は、そんなことでは一切怯まない。
「あややや、アリスさん怖いですねぇ! 私はただ、里の端っこにできた変わったパスタ屋の噂を取材しに来ただけですよ? ……ですが、そこのお嬢さんの服。どう見ても外の世界の人間じゃありませんか! その手に持っている割れた板は何ですか!? どこからどうやって迷い込んだんですか!? さぁさぁ、文々。新聞に詳しくお聞かせください!」
文はノートとペンを取り出し、アリスの横からしつこく距離を詰め、マシンガントークでるいを問い詰めていく。
カツン、と厨房から小気味良い音が響いた。律がフライパンの縁を叩いて音を鳴らしたのだ。
「おい、天狗」
エプロンの紐を小さく締め直した律が、カウンター越しに文を真っ直ぐに見据える。
「うちの店は神聖な厨房だ。客を脅かすような奴の取材はお断りだ。……どうしても話が聞きたきゃ、記者らしく、まずは俺の出す『皿』を綺麗に平らげてからにしな。お前のお喋りな口を塞ぐ、とっておきのパスタを出してやるよ」
「おやおや、店主さんまでつれないですねぇ。ですが、そこまで言われて引くのは新聞記者の名が廃ります。受けて立ちましょうじゃありませんか!」
文がニヤリと笑ってカウンター席に腰掛けるのを確認し、律は間髪入れずにフライパンを強火にかけた。
大蒜を素早く刻み、オリーブオイルをたっぷり注いだフライパンに、真っ赤な唐辛子と一緒に放り込む。シュワシュワシュワ……!と油が弾ける心地よい音が店内に響き渡る。次の瞬間、ピリッとした唐辛子の刺激的な辛みと、大蒜の暴力的なまでに香ばしい匂いが一気に立ち上った。
「くしゅんっ! ……な、なんですかこの、鼻を突き抜けるような凄まじい香りは……!」
さっきまでしつこく喋っていた文が、思わず言葉を詰まらせて厨房を凝視する。律は茹で上がったばかりの黄色い艶やかな麺をフライパンに投入し、手際よく煽った。オイルと大蒜の旨味が麺に完璧に絡み合っていく。
「はい、お待ち遠様。うちの『大蒜と唐辛子のペペロンチーノ』だ。熱いうちに食え」
目の前に置かれたのは、オイルでツヤツヤと黄金色に輝くシンプルな一皿だった。
「ほう……ただの油と麺に見えますが、この香りは尋常ではありませんね。では、いただきます」
文はフォークを不器用に使いながら麺を巻き付け、勢いよく口に放り込んだ。次の瞬間、文の身体がびくんと硬直した。
「――ッ!? な、なんですかこれ……ッ!?」
口に入れた瞬間に爆発する、大蒜の濃厚な旨味と、唐辛子のキリッとした鮮烈な辛み。具材がシンプルだからこそ、麺のモチモチとした抜群の歯ごたえと小麦の香りが、ダイレクトに脳を揺さぶる。里の優しい出汁文化には絶対にない、強烈な一撃だった。
「辛いっ、でも美味い……! なんですかこの、風神の私をも追い抜くようなスピード感ある美味さは! 食べる手が止まりません!」
文はもう取材のことなど完全に忘れ、ものすごい勢いでペペロンチーノを口に運び始めた。ものの数分で、皿の上のオイルの一滴すら残さず完食した文が、ぷはぁ、と満足そうに息を吐き出す。そしてハッと我に返った。
「……ハッ! 私は一体何を……! 完全に胃袋を掴まれて取材を忘れるところでした……あややや」
悔しそうに口を尖らせる文の前に、律はふっと笑いながら、食後の温かい珈琲をそっと置いた。深く芳醇な香りが、店内のピリついた空気を優しく包み込んでいく。
「どうだ、射命丸。記事を書くなら、迷子の話じゃなくて『ひだまり庵の絶品パスタ』にした方が、里の人間も喜ぶ大スクープになるんじゃないか?」
文は珈琲をゆっくりと口に含み、その落ち着く苦味に目を細めると、降参したように苦笑いした。
「……一本取られました。分かりました、今回はお近づきの印として、そのお嬢さんのことは秘密にしましょう。その代わり、このお店を文々。新聞の一面で大々的に宣伝してあげますからね!」
「ああ、頼むよ」
文は「いやぁ、良い店を見つけました」と満足げに鼻を鳴らし、風のようにガラガラと引き戸を開けて去っていった。
嵐のような天狗が去り、静けさを取り戻した店内で、るいがマグカップを両手で包みながら「面白い天狗さんでしたね」と、少しだけ表情を和らげて笑った。
アリスがそれを見て、珈琲をすする。
「これでこの店も、明日から大繁盛で忙しくなるわね。店主さん、るいちゃんをこの店で雇ってあげたらどうかしら? ちょうど人手が必要になるでしょう?」
「えっ、私が……ですか……?」
るいが驚いて目を見開く。律はエプロンをポンと叩き、優しく笑いかけた。
「いいね。行く当てがないなら、ここで働くか? 外の世界の料理のアドバイスも欲しいしな」
「はい……! よろしくお願いします!」
るいの心からの笑顔が、ひだまり庵をさらに明るく照らす。文々。新聞による大繁盛の予感と、新しい看板娘の誕生に、料理人・文月 律は心地よいワクワク感を胸にエプロンの紐を小さく締め直すのだった。
第5話をお読みいただきありがとうございました!
しつこい文さんを特製ペペロンチーノで黙らせ、るいちゃんが『ひだまり庵』の看板娘として一緒に働くことになりました!
次回の第6話、新聞記事の効果で店が大繁盛……!?
どうぞお楽しみに!