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五月十五日 水曜日
雨の音は、こんなにうるさかっただろうか。
息を吸うたび、喉の奥が焼けるように痛んだ。
走り続けた心臓は、痛いほど高鳴っている。
黒いパーカーはとっくに水を吸いきって、肩にも背中にも重たく張りついている。
靴の中までぐしゃぐしゃで、一歩踏み出すたびに気持ちの悪い音がした。
帽子は何処に落としたのかもわからず、顔に雨が打ち付ける。
頬の傷が雨がしみる。
それでも止まれなかった。
止まったら終わる。
そのことだけは、もう嫌というほど分かっていた。
胸に抱えたバインダーを雨から庇うように持ち、私は東雲市の路地裏を走った。
表通りから何台ものパトカーのサイレンが聞こえる。
前から。後ろから。遠くから。近くから。
赤い光が雨に濡れた壁へ反射して、細い路地を不規則に染めていた。
あと少し。誰かに渡せればいい。
これさえ、ちゃんとした人に渡せれば。
角を曲がった瞬間、私は足を止めた。
黒い雨具の上から防弾装備を着込んだ警察官。
その前に立つ、見覚えのないヒーロー。
後ろを振り向く。そこにも二人。
横道からも足音が近づいてくる。
私は囲まれていた。
「常盤奈緒! その場から動くな!」
怒鳴り声が雨を裂いた。
私は反射的にバインダーを抱き締めた。
「っ、な、なんで…!」
声が震えた。
「私は、私はやってない...」
誰も動かない。
銃口も、ヒーローの構えも下がらない。
「バインダーを地面に置け。両手を見える位置へ」
「これに証拠があるんです!」
「動くな!」
「本当にあるんです! 私じゃないって、ここに――」
何度言えばいいんだろう。
私はやってない。
最初から、ずっと、それしか言っていないのに。
指名手配されて、マスコミに作られた知らない自分が怖かった。
自分という「敵<ヴィラン>」が社会に浸透していくのが怖かった。
本当の私を、知って欲しかった。
そのとき。
雨音の向こうから、聞こえた。
「奈緒ッ!」
心臓が止まりそうになった。
振り返る。
路地の向こうに、制服ではない職場体験用のコスチュームを着て、ずぶ濡れになって走ってくる女の子。
黒紫色の髪。耳から伸びた、見慣れた二本のジャック。
逃げてる時に何度も会いたいと願った大好きな幼なじみの姿。
「……響香ちゃん」
何日ぶりだろう。
いや。
ちゃんと顔を見るのは、もっと久しぶりだった気がした。
胸の奥にあった何かが、一気に崩れた。
助かった。そう思った。
もう逃げたくない。ここで終わらせて安心したい。
響香に抱きしめて欲しい。
あなたは悪くないって言って欲しい。
響香なら。
響香なら、信じてくれる。
私はバインダーを抱えたまま、一歩踏み出した。
「響香ちゃん、これ……!」
「動くな!」
また警告が飛ぶ。
でも、止まれなかった。
逃げて。逃げて。何日もまともに寝れず、目の前の希望にすがるしかなかった。
「これを、オールマイトに渡して!そうすればみんなわかってくれるの!私はやってない!」
響香が目を見開いた。
「奈緒、待って! 今そっち行くから!」
「お願い! これ見れば分かるから! 私、本当に――」
「奈緒!駄目!動かないで!」
もう一歩。
響香へ向かって手を伸ばす。
その瞬間だった。
「ーーーーーー」
誰かが叫んだ。
「え」
直後、身体の横から凄まじい衝撃が叩き込まれ、世界がひっくり返る。
雨空が見えた。建物の壁が見えた。響香の顔が見えた。
それら全部がぐるりと回って、次の瞬間には背中から硬い地面へ落ちていた。
息ができない。
少しして、誰かに攻撃されたのだとわかった。
バインダーが手を離れ、濡れたアスファルトを滑っていく。
血が辺りに広がって、バインダーが滲んでいくのが見える。
「――奈緒!!」
響香の声。
身体を起こそうとしたけど動かない。
寒い。
さっきまで走って暑かったはずなのに、急に寒くなった。
あんなに高鳴っていた心臓が静かになっていくのを感じる。
ヒーローが人を殺すわけない。
大丈夫。死なない。きっと大丈夫。
そう思っても心が冷めていく感覚が止まらない。
視界の端で、黒い靴がバインダーへ近づき、それを拾い上げる。
駄目。
それは。
それがないと、私は。
「きょ……か……」
声にならない。
響香が何か叫んでいる。誰かと揉み合っている。こっちへ来ようとしている。
見つけてくれた。
昔、約束した通りに。
本当に、見つけてくれた。
なのに。
「……やって、ない……」
雨が頬を叩く。
ーー違う。
視界が滲んでいく。
ーー私は誰も殺してない。
雨が頬を流れた。
ーーおねえちゃんのことでヒーローを恨んだことなんてない。
ーー人を殺すために人体を勉強したんじゃない。
ーー助けたかった。
ただ、それだけだった。
「わたし、じゃ…ない……」
どうして。
どこで間違えたんだろう。
あの日、逃げたから?
証拠を探したから?
誰かを疑ったから?
誰かを信じたから?
それとも――もっと前?
響香の声が遠くなる。
雨音も、サイレンも何もかもが水の底から聞こえてくるみたいにぼやけていく。
ーーヒーローはヴィランを殺さない
子供の頃から当たり前だった。
何度かヒーローがヴィランを殺した、というニュースは聞いたことがあった。
けど、それはどれも凶悪ヴィランだったし、そうしなければヒーローも、民間人も危険だったからという場合のみだった。
何を間違えたんだろう。
なんで殺されなきゃいけないんだろう。
そもそも彼らは普通のヒーローなんだろうか。
考えても、もう分からなかった。
あの日と同じ雨とサイレン。
傷つきながらも、血を流しながらも、私を想ってくれたあの人はもういない。
「おねえちゃん……」
ただ最後まで、
一つだけは分かっていた。
私は。
私は、やってない。
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――少し、時間を戻そう。
かつて、超常は超常だった。
人が空を飛ぶことも、指先から炎を出すことも、身体が獣のように変貌することも、物語の中にしか存在しないはずの出来事だった。
けれどある時を境に、人類の中へ説明のつかない能力を持つ者が現れ始め、それは世代を重ねるごとに増えていった。
現在、世界の総人口のおよそ八割が何らかの超常能力――〝個性〟を持っている。
火を出す者がいる。身体を硬くする者がいる。身体から粘着性の球を生み出す者もいれば、耳たぶから伸びる器官で壁の向こうの音を聞く者もいる。
派手なものも、地味なものも、便利なものも、本人にとっては扱いづらいものもある。
生まれ持ったそれは、今では血液型や身長と同じように、その人間を説明する情報の一つになっていた。
そして、力を持つ人間が増えれば、それを犯罪に使う人間も現れる。
〝個性〟を悪用し、他者や社会へ害をなす犯罪者。
彼らは、敵――〈ヴィラン〉と呼ばれた。
それに対抗するため生まれたのが、ヒーローという職業だった。
災害現場へ飛び込み、瓦礫の下から市民を救い出す。暴れるヴィランを取り押さえる。
火災を鎮め、人質を救い、逃げ遅れた者を背負って走る。
定められた資格を持ち、自らの〝個性〟を社会のために行使する者たちは、人々の憧れとなった。
中でも平和の象徴、オールマイトの存在は大きかった。
彼がいる。ただそれだけで、人々は安心できた。
子供たちはテレビの前で拳を握り、誰かを救い上げるヒーローの姿を真似た。
ヒーローを育成する学校は憧れの進路となり、その最高峰である国立雄英高校には、毎年全国から多くの少年少女が集まった。
個性を使って人を救う者は、ヒーロー。
個性を使って人を傷つける者は、ヴィラン。
ニュース番組では毎日のようにその二つの言葉が使われ、ヒーローがヴィランを捕らえれば、人々は安心して明日の生活へ戻っていく。
もちろん、本当の世界が二つの言葉だけで分けられるほど単純ではない。
けれど、それを知らなくても生きていける人間は多かった。
少なくとも――耳郎響香も、常盤奈緒も。
子供の頃は、そうだった。
二人ともヒーローを信じていた。
助けを求めれば誰かが来ると信じていた。
そして、自分たちもいつか、誰かの助けを求める声に応えられる人間になれるのだと、疑っていなかった。
一人は、ヒーローを目指した。
一人は、救急救命士を目指した。
違う道だった。
けれど二人が見ていた未来は、よく似ていた。
――二人でいれば、もっとたくさんの人を助けられる。
『響香ちゃんが怪我したら、私が絶対止める』
『奈緒が助けてって言ったら、ウチが絶対見つける』
『『約束』』
それは、小学生の少女二人が交わした、あまりにも幼く、あまりにも真っ直ぐな夢だった。
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常盤奈緒が、いつから私の隣にいたのかと聞かれると、正直よく覚えていない。
気づいた時にはいた。
小学校へ上がるより前から互いの家を行き来して、夕飯を食べて、そのまま眠ってしまえばどちらかの親が迎えに来る。
日曜日に奈緒の家族が出掛けるとなれば私まで一緒についていくことがあったし、逆にウチで父さんと母さんが楽器を鳴らしている横で、奈緒が宿題をしていることも珍しくなかった。
奈緒は、昔から目立つ子ではなかった。
教室の中心で騒ぐでもなく、かといって一人でいるわけでもない。
誰かが消しゴムを落とせば拾うし、給食当番が重そうな食缶を持っていれば黙って片側を持つ。
そういう、小さなことを当たり前みたいにやる子だった。
「奈緒ってさ、損するタイプだよね」
五年生の頃、帰り道でそう言ったことがある。
奈緒はランドセルを揺らしながら、きょとんとした顔をした。
「なんで?」
「今日だって日直でもないのに黒板消してたじゃん」
「だって残ってたから」
「先生がやればいいじゃん」
「先生も忙しいでしょ」
本気でそう思っている顔だったから、私は呆れてため息を吐いた。
「そーいうとこ」
「響香ちゃんだって、困ってる子いたら助けるじゃん」
「ウチは奈緒ほどじゃないし」
「そうかな」
奈緒は笑った。
どこにでもいる普通の女の子だった。
髪も、服も、声も、笑い方も。
でも私にとっては、それで十分だった。
奈緒の〝個性〟が発現したのは、私より少し遅かった。
名前は後になって分かりやすく「止血」と呼ばれるようになったけれど、最初はそんな立派なものでもなかった。
転んで膝を擦りむいた同級生の傷へ奈緒が触れたら、なかなか止まらなかった血が妙に早く止まった。
それが何度か続いて、病院で調べてもらって、触れた相手の血管を一時的に収縮させられる個性だと分かった。
奈緒は大喜びした。
「響香ちゃん、これすごくない?」
「すごいけど、地味」
「えー!」
「だってウチのこれ見てよ」
私は耳たぶから伸びるジャックを得意げに揺らしてみせた。
奈緒はしばらくそれを見つめてから、
「うー、私だって響香ちゃんみたいに人助け出来るもん!」
と言った。
「人助けって?」
「響香ちゃんって音を聞けるんでしょ?」
「まあね」
「じゃあ誰かが助けてって言ってたら、すぐ見つけられるじゃん」
「なにそれ、ヒーローってこと?」
その頃の私は、まだヒーローになると決めていたわけじゃない。
音楽は好きだった。父さんと母さんの影響もあって、家にはいつも音があったし、自分で楽器を触るのも好きだった。
ヒーローも好きだった。
でも、それはたぶん他の子供たちと同じ程度だったと思う。
テレビにオールマイトが出れば見るし、ヴィランを倒せば格好いいと思う。
そのくらい。
私たちはまだ、自分たちの〝個性〟が将来何のためにあるのかなんて、真剣に考えたこともなかった。
六年生になるまでは。
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その日は、放課後から天気が悪かった。
夕方、家で宿題をしていた私は、母さんが電話を取った声で顔を上げた。
最初は普通だった。
「はい、耳郎です」
その直後、母さんの表情が変わった。
私はその顔を、今でも覚えている。
「……え?」
椅子が鳴って、母さんが立ち上がった。
「どこですか」
胸の奥がざわついた。
父さんも別の部屋から出てきた。
「どうした?」
母さんは答えなかった。
電話を耳に押しつけたまま、真っ青になっていた。
そして。
「常盤さんのところの――」
その名前が聞こえた瞬間、私は立ち上がっていた。
奈緒達のことだ。
何があったの、と聞こうとした。
でも、母さんの次の言葉を聞くより先に、遠くから何台ものサイレンが聞こえてきた。
病院へ向かう車の中で、私は母さんに聞いた。
「奈緒は?」
「…病院にいるって」
「奈緒のお姉さんは?」
「……奈緒ちゃんと一緒。病院にいるみたい」
「奈緒のお父さんとお母さんは?」
「………」
母さんは答えなかった。
それで、聞けなくなった。
車の窓の水滴がすごい勢いで後ろに流れていく。
窓の向こうを濡れた街灯が次々と流れて残像が目に残る。
父さんが運転する車はいつもよりずっと速いはずなのに、どうしてか全然進んでいないように感じた。私は膝の上で両手を握り締め、耳から伸びたジャックを何度も指に巻きつけた。
事故、と母さんは家を出る前に言った。
ヴィランが暴れた。
そのせいで車が何台も巻き込まれた。
建物も壊れた。
それ以上は分からない。
救急入口の前には、見たこともない数の人がいた。警察官、救急隊員、ヒーロー、泣いている人、血のついた服の人。
ストレッチャーが次々と運ばれ、誰かが名前を叫び、館内放送が途切れることなく流れていた。
そこで私は奈緒を見つけた。
廊下の椅子に座っていた。
服のあちこちが赤黒く汚れている。
最初、それが奈緒自身の血だと思った。
「奈緒!」
走っていこうとした私を、母さんが肩を掴んで止めた。
奈緒は顔を上げた。
頬にも血がついていた。
でも怪我をしているようには見えなかった。
両手だけが、ひどかった。
小さな手が、手首近くまで真っ赤だった。
「……響香ちゃん」
いつもの声だった。
だから私は少しだけ安心してしまった。
「大丈夫!?怪我したの!?」
「ううん」
奈緒が自分の手を見る。
「これ、おねえちゃんの」
何も言えなくなった。
奈緒のお姉さんはまだ処置室の中にいた。
事故で何があったかは、その場では誰も私に教えてくれなくて、後から知った。
両親とも、事故の直後にはもう助からない状態だったことを。
でも、お姉さんは違った。まだ生きていた。
奈緒は救助が来るまでずっと隣にいた。
傷口へ両手を押し当て、自分の〝個性〟を使い続けて。
けれど小学六年生の奈緒には、自分の能力でどの血管をどの程度収縮させればいいのかなんて分からなかった。
強くしていいのか。
もっと止めていいのか。
止めすぎたら別の場所が死んでしまうんじゃないか。
それが怖くて。
傷から溢れる血を完全には止められなかった。
私は何も知らず、奈緒の隣に座った。
「……ヒーロー、来たよ」
奈緒がぽつりと言った。
「すごかった」
何の話をしているのか分からなかった。
「瓦礫、すぐ退けてくれた。私のことも抱えて出してくれた」
奈緒の声には、怒りがなかった。
ただ、疲れていた。
「おねえちゃんも、すぐ運んでくれた」
そこで奈緒は黙った。
しばらくして、処置室の扉が開き、医者が出てきた。
その人の顔を見ただけで、私は分かった。
奈緒には分からなかったのかもしれない。
「おねえちゃんは?」
医者が奈緒の前で膝をついて、何かを言った。
それを全部、私は覚えていない。
覚えているのは、奈緒が一度だけ、
「……間に合わなかったの?」
と聞いたこと。
医者が、ゆっくり頷いたこと。
そして奈緒が泣かなかったことだった。
少なくとも、その場では。
「ヒーローがもっと早く来ていれば」
待合室のどこかで、誰かがそんなことを言った。
別の負傷者の家族だったのだと思う。
私は奈緒を見る。
奈緒にも聞こえていた、でも。
「違うよ」
小さな声だった。
「え?」
「来てくれたもん、ヒーロー」
奈緒は血で汚れた自分の両手を見つめていた。
「ちゃんと、来てくれた」
その手が震え始める。
「……私が」
奈緒は息を吸った。
「私が、もうちょっと止められてたら」
そこで初めて、奈緒は泣いた。
声を出さずに、ただ涙だけがぼろぼろ落ちた。
私は何も言えなかった。
慰め方なんて知らなかった。
だから隣に座って、奈緒の震える手を握った。
血はもう乾き始めていた。
奈緒が必死にお姉さんを救おうとした証が掠れていく。
ーーその夜、常盤奈緒は家族を全員失った。
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奈緒がウチに来たのは、その二日後だった。
親戚の人が引き取ることはすぐ決まったらしい。
でも突然のことだったから、部屋の用意や学校の手続きや、奈緒の家に残されたものをどうするかで少し時間が必要だった。
その数日だけ、家族ぐるみの付き合いだったウチで預かることになった。
奈緒は、小さな旅行鞄を一つだけ持ってきた。
それを見たとき、変な感じがした。
何度も泊まりに来た家なのに。
いつもなら「お邪魔します」と言ったあと、勝手知ったる顔で私の部屋まで上がってくるのに。
その日は玄関でずっと立っていた。
「……お世話になります」
頭まで下げた。
「何それ」
思わず言った。
奈緒が顔を上げる。
「いや、お世話になるし……」
「前から週一くらいで勝手に来てんじゃん」
「勝手には来てないよ」
「似たようなもんでしょ。ほら」
私は奈緒の鞄を取った。
思ったより軽かった。
家族四人で暮らしていた十二歳の女の子が、これから別の家へ行くために持ってきた荷物が、こんなに軽くていいはずがないと思った。
けど。
それは言わなかった。
「ウチの部屋でいいよね?」
「……うん」
その夜、二人で同じ布団に入った。
私は昔から、奈緒が寝るときの呼吸を知っている。個性を使うまでもない。
寝入ると少しだけ息が深くなる。
けれど隣から聞こえてくる呼吸は、何分経っても浅いままだった。
「奈緒」
「……起きてた?」
「そっちこそ」
暗闇の中で少しだけ布団が動いた。
「響香ちゃん」
「ん?」
「私さ」
しばらく間があった。
「もっと勉強する」
何の話か分からなかったけど。
「勉強?」
「血のこと」
そこで分かった。
「お姉ちゃんのとき、怖かったんだ。私の個性、強く使えばもっと血を止められたかもしれない。でも、止めすぎたら駄目なんじゃないかって思って」
奈緒の声が震えた。
「分かんなかったから、できなかった」
「奈緒のせいじゃないじゃん」
すぐに言った。
「小学生だよ、ウチら」
「でも、これが私の個性なの」
「だからって――」
「次は知ってたい」
静かな声だった。
「どこの血を止めたらいいのか。どこは止めちゃ駄目なのか。どれくらいなら大丈夫なのか。ちゃんと知ってれば、次は怖くないかもしれない」
『次』
その言葉が嫌だった。
奈緒に、またあんなものを見てほしくなかった。
でも奈緒は続けた。
「救急救命士になりたい」
私は暗闇の中で奈緒を見た。
「ヒーローじゃなくて?」
「うん」
少しだけ考えてから、奈緒は言った。
「ヒーローって、すごいじゃん」
「うん」
「だからいっぱい呼ばれる。でもみんなの所にすぐに行けるわけじゃないからーー」
家族を失った子供が言う言葉じゃないと思った。
もっと怒っていいはずだった。
もっと恨んでもいいはずだった。
でも奈緒は。
「ーーだから、来るまで誰かが繋いでればいいんだよ」
そう言った。
「ヒーローが来るまで五分かかるなら、その五分を私が繋ぐの。十分なら十分。お医者さんまで運ぶ間も」
布団の中から、小さな手が出た。
あの日、姉の血で真っ赤になっていた手。
「この個性なら、できると思う」
胸が詰まった。
たぶん、私がヒーローになろうと決めたのは、その瞬間だった。
「……じゃあウチはヒーローになる」
「え?」
私は耳から伸びたジャックを指で摘まんだ。
「ウチの個性、遠くの音も聞けるから。助けてって言ってる人、奈緒より先に見つける」
「響香ちゃんが?」
「そ。で、奈緒んとこまで連れてく」
暗闇の中で奈緒が笑った気がした。
「じゃあ響香ちゃんが怪我したら、私が止めてあげる」
「縁起でもないんだけど」
「ヒーローになるなら怪我するでしょ」
「まだなるって言ってないし」
「今の完全になる人の言い方だったよ」
「うっさい」
今度は確実に、奈緒が少し笑った。
だから私も笑った。
「じゃ、約束」
私は小指を出した。
「奈緒が助けてって言ったら、ウチが絶対見つける」
奈緒の小指が絡む。
「響香ちゃんが怪我したら、私が絶対止める」
「「約束」」
「二人いればさ」
「うん」
「みんな助けられるんじゃない?」
「うん。きっと助けられるよ」
本気でそう思った。
だって私たちは子供だったから。
みんなを助ける、なんてオールマイトでも出来ないことを知らない。
でも、その夜交わした約束を。
私は今も、忘れることができない。
きっとこれが、私の「ヒーロー」としてのオリジンだったんだと思う。
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奈緒は、それから本当に勉強を始めた。
親戚の家へ移ったあとも学校は変わらなかったから、朝になればいつも通り教室に奈緒がいた。
席に座って教科書を開き、友達に話しかけられれば普通に笑う。
最初の頃こそ周りも気を遣っていたけれど、子供の時間は残酷なくらい早く日常へ戻っていって、半年もすると奈緒の家族のことを話題に出す人はほとんどいなくなった。
ただ、私だけは知っていた。
奈緒の鞄の中に、前にはなかった分厚い本が増えていったことを。
「……何それ」
放課後、図書室の机に置かれた人体図を見て、私は顔をしかめた。
「循環器の本」
「それは見れば分かる」
ページいっぱいに描かれた心臓と、そこから枝分かれする赤と青の血管。
奈緒はノートへ何かを書き込みながら答えた。
「大動脈、頸動脈、冠動脈……こっちは静脈。太い血管は下手に止めたら危ないし、脳とか心臓に行く血まで止めたら絶対駄目だから」
「小学生が読む本じゃなくない?」
「もう中学生」
「入学して二か月じゃん」
「じゃあ中学生が読む本」
「そういう問題じゃないって」
呆れて言いながら、私は向かいの席へ座る。
最初は付き合っているだけだった。
奈緒が勉強しているから、私は雄英の過去問を開く。
奈緒が人体模型の図を睨んでいる横で、私は数学の公式を覚える。
でも、次第にそれが当たり前になった。
「響香ちゃん、そこ違うよ」
「は?」
「その式。符号逆」
「……マジだ」
「ちゃんと見なよ、雄英行くんでしょ?」
「奈緒に言われたくないんだけど。さっきから血管しか見てないじゃん」
「私はこれが勉強なの」
「ウチだってこれが勉強だし」
そんな日々が三年間続いた。
勉強だけじゃない。
休みの日には、二人で〝個性〟の練習もした。
私はジャックを壁や地面へ差し込み、離れた場所に置いた目覚まし時計の位置を当てる。
最初は一つ。次は複数。
父さんに家の中を歩いてもらって、どの部屋にいるのか音だけで探したこともある。
奈緒はもっと慎重だった。
ーー奈緒の通ってた病院、なんて名前だったっけ。
そうだ。「東雲因子研究病院」だ。
その病院で救命講習用の器具や、講習で指導を受けながら、人間へ使っていい範囲を少しずつ覚えていった。
〝止血〟は、便利な個性だった。
そして、怖い個性でもあった。
ある日、奈緒が机に広げたノートを覗いて、私は妙なページを見つけた。
赤いペンで大きく、
『絶対に強く作用させない』
と書いてある。
下には心臓や首、頭部へ向かう血管の名前が並んでいた。
「……これ何?」
奈緒の手が止まった。
「危ない場所」
「危ないって?」
「止めたら、人が死ぬかもしれない場所」
さらっと言ったように聞こえた。
でも奈緒の指先は、ペンを強く握っていた。
「覚えなきゃ駄目なの」
「助ける方だけ覚えればよくない?」
そう聞くと、奈緒は首を振った。
「どこなら大丈夫か知るには、どこが駄目かも知らないと」
それから少し黙って、
「私の個性は間違えれば触るだけで人を殺せる。だから、絶対に私の個性で人を死なせたくないの」
と言った。
その言葉が妙に頭に残った。
だから私も勉強した。
奈緒だけにそんなものを背負わせたくなかった、なんて当時は言葉にできなかった。
ただ、奈緒が夜まで机に向かうなら私も隣にいた。
奈緒が救命士になるなら、私は雄英へ行く。
奈緒が命を繋ぐなら、私はそれを必要としている人を見つける。
ーーーそして三年生の冬。
雄英高校ヒーロー科の受験票を見せると、奈緒は自分のことみたいに喜んだ。
「絶対受かってよ」
「プレッシャーかけんな」
「だって約束したじゃん」
「そっちこそ」
私は奈緒の額を指で小さく弾いた。
「ちゃんと救命士になれよ」
「なるよ」
迷いのない返事だった。
そして春。
私には雄英高校から合格通知が届いた。
奈緒も、将来救急救命士を目指すための環境を選び、県外の高校へ進学することが決まった。
ずっと一緒だった私たちが、初めて別々の道を歩き始める。
それでもあの頃の私は、不安なんてほとんど感じていなかった。
道が分かれただけだと思っていた。
いつかまた、同じ現場で会える。
私が誰かを見つけて。
奈緒がその命を繋いで。
二人で笑って帰る。
そんな未来が、本当に来るのだと信じていた。
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翌日に雄英高校体育祭を控え、テレビでは朝からその話題が繰り返されていた。
USJでの敵〈ヴィラン〉襲撃を経験した一年生たちが、予定を変更せず体育祭へ臨む。
次代のヒーロー候補は誰か。今年はどの生徒にプロからの指名が集まるのか。
スポーツ番組だけでなく朝の情報番組まで雄英の校門前から中継を行い、街の大型ビジョンには昨年度の体育祭映像が流れていた。
その日、日本中の視線は「これからヒーローになる子供たち」へ向いていた。
だから、都内の一角で起きた異変に最初に気づいた者はほとんどいなかった。
午後五時十二分
ヒーロー関連企業や個性医療事業者が複数入居する雑居ビル、その六階にある「発現機構研究所」ーーの窓口事務所から警備会社へ異常通知が入った。
火災ではない。侵入警報でもない。
室内に設置された生体監視装置が、複数人の急激な異常を同時に検知しただけだった。
警備員が到着したのは五時十九分。
扉には鍵がかかっていなかった。
「失礼します。警備会社の――」
返事はない。
室内には資料が広げられ、紙コップにはまだ湯気が残っていた。
椅子が倒れ、床には人がいた。
一人ではない。二人。三人。さらに奥にも。
「……救急! 救急呼んで!」
警備員の叫び声が廊下へ響いた。
最初に到着した救急隊員は、現場を見て一瞬だけ動きを止めた。
血がない。刺された痕も、撃たれた痕もない。
争った形跡もほとんどない。
なのに、倒れた人間たちは誰も呼びかけに応じなかった。
「脈なし!」
「こっちも!」
「AED!」
「数足りません!」
救急の応援を呼ぶ中、次々と処置が始まる。
それでも、脈は戻らない。
数十分後には警察が到着し、さらに個性犯罪の可能性を疑った捜査員が呼ばれた。
室内に毒物反応はない。有害ガスも検出されない。
飲食物への混入物も、少なくとも簡易検査では発見されなかった。
現場にいた全員が、ほぼ同時刻に突然倒れている。
にもかかわらず、原因だけが見えない。
「防犯カメラは?」
「確認中です」
「出入りした人間を全員洗え。個性登録もだ」
午後七時を過ぎた頃。
運び出された遺体の簡易所見が届いた。
担当刑事は、紙に書かれた文章を二度読み直した。
「……血流?」
「はい」
鑑識官も困惑した顔をしていた。
「断定は司法解剖後になります。ただ……脳、心臓、その他主要臓器への血流が、ごく短時間に異常なレベルまで低下した形跡があります」
「全員?」
「現時点で確認した限りは」
「そんなことが同時に起こるのか」
答えはなかった。
そのとき、別の捜査員が部屋へ駆け込んできた。
「映像、出ました」
全員がモニターの前へ集まる。
ビル入口の防犯映像が映る。
映像の時間は午後四時五十分。
画面の端から、一人の人物が入ってくる。
制服ではない。黒いパーカーに、暗い色のズボン。
黒に近い焦げ茶色の髪。
顔は俯いており鮮明とは言い難かった。
「照合できるか?」
「この映像だけでは不可能かと」
映像の人物はエレベーターへ乗り込んだ。
そして二十分ほど後。
再び一階へ降りてきて、何事もなかったようにビルを出ていく。
その頃には六階で、何人もの人間が死んでいた。
午後八時三十八分
現場から採取された微量の生体痕跡と、個性使用時に残されたと推定される個性因子の分析が始まった。
照合作業は夜まで続いた。
そして、その結果が警察の端末に表示された。
登録者、一名。
十六歳。
女性。
犯罪歴なし。
個性事故歴なし。
現在、県外の高校に在学。
将来希望――救急救命士。
名前はーーーー常盤奈緒。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午後九時五分
奈緒はベッドの上に寝転がり、枕元のスマートフォンをスピーカーにしていた。
机にはさっきまで開いていた循環器系の参考書とノートが残されている。
テレビでは明日に迫った雄英体育祭の特集が流れ、昨年度の競技映像や雄英高校の校舎が派手な音楽と一緒に映し出されていた。
『だからさ、何回も言ってるけど、たぶんウチそんな映んないから』
スマートフォンから響香の声がした。
「全国放送なんでしょ?」
『そうだけど』
「絶対見る」
『恥ずいからやめて』
「なんで。せっかく雄英入ったんだから見せてよ」
『いや見るのはいいんだけど、録画とかすんなよ』
「もう予約した」
『消して』
奈緒は笑った。
こうして話していると、中学の頃とほとんど変わらなかった。
毎日のように会えなくなっただけで、電話を繋げば響香は響香だった。
「クラス、どう? 面白い?」
『濃い』
「それ前も言ってたじゃん」
『だって濃いもん。上鳴とか今日ずっと体育祭で目立ったら女子からモテるとか言ってたし』
「いつも響香ちゃんって上鳴くんの愚痴言ってない?……もしかして気になってる?」
『っ…バッカ!そんなわけないじゃん!あいつはいつもテキトーなこと言ってるから愚痴が増えるだけ!』
「はいはい」
『……もう。で、それに瀬呂と峰田まで乗っかって、芦戸が呆れてた』
「楽しそうなクラスだね」
『見てる分にはね』
響香の声が少し笑う。
「入試一位の爆豪君は?」
ちょうどテレビで爆豪君の話が出たから聞いてみる。
『……あいつはもういい』
「何それ」
『明日一位取るとか、全員ぶっ潰すとか、朝からうるさい。ていうか入学式からずっとうるさい』
「響香ちゃん、苦手そう」
『苦手っていうか音量下げてほしい』
「それ、響香ちゃんが言う?」
『ウチは必要な時しか爆音出さないし』
テレビでは雄英の一年生について、専門家らしい人物たちが好き勝手に予想をしていた。
USJで実際のヴィラン襲撃を経験した一年生。例年以上に注目が集まる世代。
誰が次代を担う存在になるのか。
奈緒には、その中に響香がいるということが少し不思議だった。
つい数か月前まで、隣で問題集を解いていたのに。
「頑張ってね」
『うん』
「助け求めてる人、ちゃんと見つけられるヒーローになるんでしょ」
一瞬だけ、電話の向こうが静かになった。
『……覚えてんじゃん』
「忘れるわけないでしょ」
『奈緒もね』
「何が?」
『ちゃんと救命士になってよ。ウチだけヒーローになったら約束違反だから』
「分かってるよ」
その時、テレビ画面の上部に赤い帯が現れた。
――速報。
奈緒は何となくテレビへ視線を向ける。
《都内のビルで複数人死亡 警察、個性犯罪の可能性も視野に捜査》
アナウンサーの声も途中で変わった。
『速報が入ってきました。本日夕方、都内のビル内で複数の男女が倒れているのが発見され、その後、死亡が確認されたということです――』
「……え」
奈緒が身体を起こした。
電話の向こうでもテレビをつけているらしく、響香が小さく、
『うわ……』
と漏らす。
画面には規制線の張られたビルが映っていた。
赤色灯。警察車両。ブルーシート。
詳しい死因も、犯人がいるのかどうかさえまだ分かっていないらしい。
「嫌だね……」
『うん』
「明日体育祭なのに、ヒーローの人たちも大変だろうな」
『だね』
二人とも少しだけ黙った。
知らない人が何人も亡くなって、悲しいニュースだった。
けれど、それ以上のものではなかった。
奈緒にとっても。響香にとっても。
その時は。
『……まぁ、それよりも』
先に響香が声を戻した。
『明日ウチ、朝めっちゃ早いから、もう寝る』
「うん。体育祭終わったら連絡して」
『する。奈緒もちゃんと見ろよ』
「録画もする」
『だから消せって』
「優勝したら永久保存」
『しないから』
「最初から諦めないの」
『いや爆豪とか轟とかいるんだって。マジで』
笑いながら、通話を切る。
「おやすみ、響香ちゃん」
『おやすみ、奈緒。また明日』
奈緒は画面が暗くなったスマートフォンを充電器へ繋ぎ、テレビを消した。
部屋が静かになった。
明日は響香の体育祭を見る。
終わったら電話をして、どんな競技だったのか聞く。
それから月曜日になれば学校へ行って、いつも通り勉強して、いつか救急救命士になる。
そう思いながら奈緒は布団へ入った。
数十分もすると、静かな寝息が部屋に響き始めた。
机の上には人体の血管を描いたノート。
枕元には、明日の雄英体育祭を録画予約したスマートフォン。
『それよりも』と流した事件のことはもう頭から抜け落ちていた。
今日は五月四日。
明日ーー五月五日に行われる雄英高校体育祭はもうそこまでに迫っている。
「また明日」と交わした約束が、果たされることはない。
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