かいなでの絵師
上っ面しか見ない、物事を適当に判断するおざなりな絵師のこと。

また、思うがままに絵を描かない愚かな者とも言う。
或いは…そうするしかない哀れな者とも。


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かいなでの絵師

 

 

 

 

L社が折れて間も無く。

足らなくなったエネルギーとL社の遺産を求めて五本指さえも慌てふためくあの喧騒に、私は娘を連れ蜘蛛の巣から逃げ出す事を選んだ。

 

もう何も忘れないように、もう何も失わないように。

 

 

「はっ。いやいや、いんや。もう喋るな、ずっとそうやって口とじt」

 

俺をチケット呼ばわりした女の頭。

無駄に肥大化したプライドばかりが詰まった頭を、そのご大層な目玉ごと貫く。

 

 

「パパに何か怒りたいことあっt」

 

俺の大切なものを何一つ守ってくれなかった。

利己的でおめでたい子供みてぇな頭ん中。ダサいおかっぱ頭ごと綺麗に切り飛ばす。

 

 

「ああ。これ以上刻まないでください、ヨシヒデ。

あなたの為に10年以上かけて組み上げt」

 

頑固で凝り固まった救えない男。

口先ばかりのズレた凡人。未熟さを象徴するその頭を、その身体を串刺しにする。

 

 

「…ヘルメス……これは、話が違うんじゃないか?」

 

……何もかもが手遅れな男。

言いなりで、酷くつまらない。自分の意思なんてない哀れな男の頭を、せめて綺麗に焼き切ってやる。

 

 

「ひううい…んあえあい…。ここわ…くもんおふ」

 

もう止まれない。

ただその覚悟で憎い女の前に立つ。

愛などとは無縁な、俺に傷跡だけを残したその舌を抜き取り、そして……。

  

 

「っは…!」

 

その心を、抉る。

 

最後の親方。

その女の脳だけきっちり切らなかったのは、一抹の同情とそれまで断ち切ってきた者達への未練からだったのだろうか。

 

 

…息も絶え絶え、ふらつく足で、最も愛おしいそれの元へ。

 

 

「おかあさん!」

あぁ…良かった。

 

俺は、…私は部屋の片隅で縮こまった愛しい娘に抱きつく。ちっとも変わってない見た目の娘と、傍に置いたK社アンプル。身体の傷をアンプルで癒やし、心の傷を娘に手当してもらう。

 

この腕の中にある温もりの為に、ここまでやった。この温もりも消させない為にここまでやった。

 

「アラヤ」

「なぁに、おかあさん」

 

「泣くな、死んじゃいないから」

「うんっ」

 

 

さぁ…逃げよう。

誰の指も届かない場所へ、誰の悪意も届かない巣の中に。

 

 

 

 

 

 

 

「良秀、出来たか?」

「出来ている。入・許・サ・ル」

「つくづく無礼な奴じゃな」   

 

深く耽っていた思考を水面へと浮上させ、その紅い瞳を開けて現実を見る。木造の12坪、俺の仕事場、俺の部屋。アラヤが来てはいけない場所。

 

扉を叩く男の声に、万短至芸をもって返答をする。

 

扉を開けてずけずけと部屋に入り込んでくる男は、俺が止まれの代わりにと打刀を抜こうする直前で足を止めた。

 

「チッ…」

「ひっどいのぉ〜、止まらんかったらワシの足切り飛ばしとるだろ〜良秀〜」

 

「キ・ショ」

「すまんて……ワシが悪かったから刀を離さんか」

 

仕立ての良い着物に老猿の頭が乗っかっているようなアンバランスさの老人は、俺をどおどおと収めようとする。

 

そんなサルジジイ……ヒデヨシに俺は打刀を離さずに一枚の紙を投げつけた。

 

「おっ、大事にせぃ!。これ一枚に我が社の命運が掛かっとるんじゃぞっ!。……おっ…おぉ〜〜〜」

「そのサル声をやめろ、斬るぞ」

「そっ、そうは言ってものぉ良秀…」

 

 

やはりお主は、地獄絵図を描くにおいてはこの巣1番の絵師じゃのう。

 

一枚の紙。

もっと正確に言えば地獄絵図が描かれたその紙を見つめ、ヒデヨシは〝青褪めた顔〟でそう言った。感嘆の声と表情の中には恐怖と嫌悪、そして期待が混ぜ込まれている。

 

その反応に俺は黙って、作業場に置いてある画材を見つめ……再び思索するように目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

五本指の魔の手から逃亡する俺とアラヤの手を取ったのは…とある企業。もっと言えば、かつて俺の〝宿題〟の1人が居た場所だった。

 

 

全てを消し去る大太刀の刃を、振るう。

物打ちが胴を断ち、それを起点に肉体が、その者の全てが焼却されていく。

 

「き、貴様、よくも……よく、も…?」

「思い出せないか、俺も思い出せないな。名は…ノブ……ノビなんだったか」

「ワシらの殿は、社長は……そんな者、いたのか?」

 

何を消し去ったかも定かではない。

だが一つ、俺が消し去った者は……恐らく絵描きが好きだった。

 

事件現場は何の変哲もない。

少し護衛が居た程度の縁側。

 

護衛の死肉と血の海に沈み、地獄絵図となった庭先に、真っ白なキャンバスが立てられていた。

 

阿頼耶識の刀身を鞘に納め、それの前に立つ。

そんな俺の事を怪訝な目で見る者こそ、その時抹消された者の部下。ヒデヨシだった。

 

地に転がっていた筆を持ち、死血の水溜りから〝赤〟を抜き取り。

 

キャンバスに〝今〟を描き殴る。

物の数分でキャンバスには周囲に負けず劣らずの赤い、赤一色の地獄絵図が描かれていた。

 

気まぐれ、ただの気まぐれ。

思いの外宿題が早く終わったから手慰みをしただけ……それだけの産物を、しかしヒデヨシはじっと見つめていた。

 

その目に恨みはない、それは恨む理由さえも焼却され碌に残されていないからだろう。

 

 

だが俺は、その目に野心が沸々と煮えていることを確と見ていた。

 

 

 

 

 

 

「我が社が開発した〝画材〟がある」

「…」

 

裏路地に座り込んだ私とアラヤ。

蜘蛛の巣から脱し。五本指の追跡から逃げ、消耗した俺達の前に現れたのは何時か見たサル顔の老人。

 

「その画材を用いた絵は…人の精神に作用してな。

花の絵は人に安らぎを生み出させ、恋人の絵は人に喜びを湧き出させる。

 

そして…地獄の絵は人に地獄を与えるんじゃよ」

 

 

「……私に、何をさせたい」

「描いて欲しい、…あの日のような鮮烈な地獄を」

 

 

 

 

返答は歩き或いは泣き疲れ、腕の中で眠りこけたアラヤを見てから書いた。

 

自分から溢れる血で…指文字を書いたんだ。

 

 

 

如・使・阿・為

 

如何なる手を使えども、アラヤの為。

 

私はアラヤの未来の為に、サルの手でも使うことにした。

 

 

 

 

 

サルの会社は、きっかけさえあれば翼になれると言っても過言ではない大企業だった。

 

どうやら俺が消し去った推定前社長の時代から手広く仕事をしていたようで、それ故に特異点と呼べる技術がなかったという。

 

あの画材を発明するまでは…。

 

 

「おかあさん!」

 

私が試しに描いてみた絵、それも幼児向けの…優しい絵。〝拙いそれ〟を受け取ったアラヤは、最近見せなかった心からの笑顔を湛えた。

 

逃亡生活で苦労ばかり掛けて、ヒデヨシの手により安全な場所を手に入れてもアラヤは何時もの調子を取り戻してはくれなかった。

 

手に入れた家で久しく見た夢の中、取り繕ったアラヤの笑顔がチラつく。そんな日々がつい先までだったのに。

 

「絵による…精神の保護……」

 

ヒデヨシは嘘を言っていなかった。

渡された画材で描いた私の優しい絵は、アラヤを笑顔にして、私の心までも保護した。

 

「…………誰より過程を知っている描き手には機能しないことは、言わん方がええかの」

「おい」

「ほっほっ、良いではないか。お主の心を救ったのは絵ではなく娘だったのだから」

「…」

 

でもその娘を、アラヤを救ったのは私の絵だった。

 

私の……俺が、俺として手ずから描いた絵のお陰だった。

 

 

 

 

そしてその画材による絵は、確かに精神を保護するばかりではなく。

 

「こいつは…」

「驚いたか、良秀。

怪文字と似た物ではあるんじゃがな、ワシら場合は絵じゃ」

 

刀身に絵が彫られ、そこに画材が流し込まれている。そしてその絵を見た瞬間、俺は言い知れない不快感と肉体的な痺れに包まれた。

 

「……見・デ・フ・か」

「見るだけでデバフを喰らう刀、中々面白いだろう?…逆に盾などの内側に精神を保護する絵を描き使い手にバフを掛けようと思っている…ツヴァイからは巨額の投資も受けれたしの」

「悪くないな、M社からのちょっかいが面倒そうだが」

「分かっとる喃……あそこも精神保護を売りにしているゆえ」

 

その刀、その刀身に彫られた絵を見た時、俺の芸術的な部分が刺激されているが分かった。

 

 

情報量が多すぎる。

 

「ペンと紙を貸せ、万短至芸を見せてやる」

 

 

スラスラと、無駄なものを削ぎ落とす。

それは刀鍛冶の最中、不純物を飛ばす為に折り返し鍛錬するかの如く。無駄なものを抉り、角度さえも狂気的なレベルで調整し、凡ゆる事を短縮していく。

 

画材はここに、先の展開など分かっていたようにヒデヨシは一つのケースを置く。そして俺は間髪入れずに画材を取り出し、万短至芸へと最低限の色を塗っていった。

 

薄め、塗らず、短縮する。

だというのに。

 

完成した絵は多くの想定外を産んだ。

 

 

「っは、はははは!!!、これ程までか良秀!!!、万短至芸とはかくも素晴らしきものか!?」

 

片膝を突いて青褪め、脂汗をかいたヒデヨシの狂笑。地に沈みゆくそれ以外の周囲。そして何時より満足げな俺自身。

 

その中心には、万短至芸をもって描かれた地獄絵図があった。

 

「凡ゆる余分を切り捨て、意図だけを強調する…!。ワシの目は狂っていなかった!、良秀!。お前こそが、お前の万短至芸だけがこの画材の真価を引き出せる!!!」

 

ヒデヨシの言葉に、もう俺は居ても立っても居られなくなった。

 

書きたい、描きたい、刻みたい。

俺の万短至芸を存分に発揮させたい。

 

芸術家たる〝俺〟が、地獄絵図を描けと絶叫している。

 

 

 

 

そして同時に、この姿を、この絵をアラヤに見せる訳にはいかないと────

 

 

────母親たる〝私〟は決心することになった。

 

 

 

 

 

「おかあさん、どうしたの?」

「…あぁ、いや。何でもない」

 

私はアラヤと隣り合い、共に炬燵へ足を突っ込みながら色ペンを握る。閉じられた襖の向こう側は雪で真っ白になった庭が広がっているだろう、それも真ん中に大きな雪だるまが立っている。

 

ペンを持つまだほんのり冷たい指先に力を入れた。

 

画材、と言っても様々だ。

水彩用のそれから油絵用、マーカーやクレヨンなんて色物まで作っている。

 

そしてアラヤはギターを弾くのと同じくらい、これらで絵を描くことも好きになった。…ギターに絵を描いた時は流石に驚いたが。

 

「ふんふふーん♪」

 

楽しげに犬の絵を描くアラヤを見て私はそれもまた良いかと微笑んだ。

 

少し目を離しただけでギターや絵描きの腕は良くなっている。私は見れなかったアラヤの頑張る姿を惜しく思いながらも、過程を知らぬからこそ結果が映えているとも考えた。

 

この画材もまた、過程を知るほどに結果の効力を失うのだから。

 

「アラヤ」

「なぁに?、おかあさん」

「袖が付いてる」

「?……わっ!」

 

ピンク色に塗られていく犬、既に塗られた足先にアラヤの着物の触れていていた。注意してアラヤが気付くと、大きく手を振り上げて慌てふためく。

 

「汚しちゃった!」

「見せてみろ。……大丈夫だ、このぐらいならすぐ落ちる。でもこれからは気を付けろ」

「はぁい…」

 

ヒデヨシお爺ちゃんから貰ったのやつなのに…。

そう言ってぶすくれるアラヤの頭を撫でながら、私は廊下の電話が鳴っていることに気付いた。

 

「アラヤ、少し待っていろ」

「うん、おしごとの電話?」

「あぁ…」

 

休日に私へ電話をしてくる奴は限られているが、明後日に決められた〝予定〟を思い出した俺は受話器をとって少し溜息を吐いた。

 

「ヒデヨシ、何のようだ?」

「もしもし良秀、すまんの休日に」

「本題を言え」

「明後日のK社との会談は覚えておるな、彼方の理事長殿がお前の地獄絵図に興味を持っておられる」

「…俺は出席しない手筈だった筈だ」

「すまん」

 

申し訳なさそうに声を漏らすヒデヨシに俺は嫌な予想が当たったと目を閉じる。

 

「何やら趣味で我が社の絵を収集していたようでな。詳しい話は聞けなかったが〝お前の地獄絵図が一番泣いてくれる〟らしい」

「……拷問か?、良い趣味してるな」

 

「とにかく、個人的に理事長はお前と話がしたいようだ」

「俺におべっかをしろと?」

「頼む、計画しているK社との合同研究の為にも向こうとは良い縁を作りたいんじゃ」

 

「…」

 

暫くの沈黙。

俺は一度だけ深く息を吐き、わかったと言うしかなかった。

 

ヒデヨシには恩がある。

五本指に掴まれる未来しかなかった俺とアラヤを救ってくれた。仕事を与え、俺の才能を発揮させる場まで用意されたのだ。

 

仕事の合間、俺がアラヤの面倒を見てられない時にも助力を惜しまなかった。

 

ヒデヨシ自身、アラヤの事を孫のように可愛がっている。……口ではどう言っても俺自身奴に好印象を持っているのは事実だ。

 

「感謝する、良秀」

「そう思うならもう少し休みを寄越せ。それとアラヤを甘やかし過ぎるんじゃない。服もギターも話も、これじゃ俺の相手が要らなくなるだろう…」

 

 

「……………っは、ははは!!!

それはすまんかった!。もしや寂しかったのか!?」

「…もう寝ろジジイ」

 

どうせ俺らしくない、などと思ったのだろう。

受話器越しで吹き出したヒデヨシを内心で罵倒しながら俺は電話を切った。

 

廊下から部屋へと戻る。

 

そこには完成した絵を私に見せるように立つアラヤが居た。

 

「おかえり!、できたよ私の自信作、なまえはラブリィちゃん!」

「また傑作が出来たな」

 

大きく描かれたピンク色の犬の両隣には、私とアラヤが立っている。

 

少しだけ私は鬱々とする心が救われるような心地がした。

 

殆どアラヤと一緒に描いたものだが、最後はどうやって描かれたものなのか分からない。だから少しだけ、私にも効いた。

 

 

……犬が欲しいんだろうか?、今度の休みにはペットショップに寄ってみようか。

 

だが甘やかしが……。

 

 

………いや、これはヒデヨシが悪い。

母親である私を差し置いて出張ってるジジイが悪いのだ。それにアイツは社長なのだからもっと働いていろ。

 

そして私にアラヤとの時間をもっと寄越せ。

 

「ねぇねぇおかあさんも描いてよ!」

心中で愚痴を吐く思考を、視界の下でぴょんぴょん跳ねるアラヤを見て切り捨てる。

 

無駄な考えだった。

仕事やヒデヨシの事を考えるのは止そう、今は大切な娘との時間だ。

 

「あぁ、万短至芸を見せてやる。私・大・切・娘」

「もっー…だから縮め方が違うって〜」

 

頬を膨らませて私の身体をぽかぽかと叩くアラヤ。そのいじらしい仕草に口元がムズムズしたが、きっと煙草が恋しいだけだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ヒデヨシ、もしお前が……本当に俺の…」

 

 

寝静まった暗がりの中。

 

その言葉の先は出なかった。

 

 

その言葉の先にあるものを私が、俺が……何より未練となった奴等が、許すはずがなかった。

 

 

ぎりぎりぎりぎり。

断ち切ったはずの糸が、身体に巻き付いて締め付けてくる。糸に釣られた人形のように俺の身体は動きを見せた。

 

 

腕の中ですぅすぅと眠っていたアラヤを手放し、布団から出て立ち上がる。幽鬼のように廊下を歩き出す。

 

未だ半分寝ている頭に、懐かしくて憎たらしい声が響く。

 

 

『チケット、ぐぇっ…飯にウォッカを混ぜて食ったことあるか?』

 

 

廊下を歩き、一つの扉の前に立つ。

 

 

『娘ちゃん、欲しいもんあるなら遠慮なく言え!

パパが全部買ってやる!』

 

 

襖ばかりの屋敷の中、場違いと言えるほど頑丈に作られた扉。

 

 

『私の授業にきちんと付いてきてください。美しさも力も、知識という盤石の上に築かれるもの。美学の勉強を、今から始めましょう。ヨシヒデもいつか、自分だけのギャラリーを作るべきではないでしょうか?』

 

 

まるで金庫のように固く閉じられた俺の部屋、そして仕事場。

 

 

『娘、今日はどんな童話を読んであげようか』

 

 

 

その扉へ、手をかける。

 

 

『笑うな。私が惨めなのだから、お前も惨めになってこそ公平だろう』

 

 

 

そして開いた。

 

 

 

 

波の音が、小さなレコードから聞こえる。

 

12坪の小さな仕事場には、絵を描く為に必要な全てが揃っていた。

 

 

俺の仕事は絵描きだ。

それも完成品のレベルを更に上げる役割を持った。

 

 

ヒデヨシの画材で描かれた絵には二種類ある。

 

一般の社員が描いた〝影打〟と、その影打を俺のような〝添削員〟が万短至芸をもって描き直した〝真打〟だ。

 

影打と真打の性能差には超えられない壁がある。

俺も万短至芸を同僚に教えようと教鞭を取る時間を設けているが、いかんせん上手くいっておらず、精々が俺の半分程度の実力ばかりだ。

 

俺は唯一の〝五級添削員〟という立場。

三、四級の奴らに任せることもあるが仕事は多く、面倒事は更に多い。

 

それこそ、まだ夜と言っていい時間から仕事場に立たねばならない程に忙しい。

 

 

「…」

 

机の上、書類束のように積み上げられた影打の絵がある。壁には立てかけられた無数の影打武具がある。

 

俺は絵の束から一枚取って見た。

 

視界に入る一つの絵。

剣山に貫かれた人間達が描かれたそれを見て、俺の身体にもそれに近しい痛みが入る。

 

「…っ」

 

拷問用だろうその絵を観察し、俺はそれを元に絵を描き始めた。万短至芸によって真価を発揮し、また万短至芸の価値を高める画材を使いながらだ。

 

 

「…は、目覚めにはちょうど良い」

 

月光石は使わない。

影打を見てこの身に降り掛かる苦痛も、吐き気も、恐怖も、万短至芸に必要な画材であるからだ。

 

 

ずきずき、ずきずき、身体が痛む。

 

「……アイツの絵か、多少は見れるようになったな」

 

剣山の地獄絵図。

その作者は俺が少し手解きしてやった職員。

前より精度が良くなっているのを見て感じるに、まぁ努力は怠っていないようだ。

 

だがやはり、少し情報が多すぎる。

もっと削れば、もっと短縮すれば絵の美しさも機能の精度も更に良くなる。

 

一枚、万短至芸で剣山の地獄絵図を描き直した時。しかし日はまだ昇りきっていない時間帯だった。

 

描き直す影打はまだ、多い。

 

仕事場は家にあるが、もう少し経てばアラヤは学校へ行く。

 

 

今日アラヤと会えるのは朝食と夕食、そこから少しの休憩の時間だけだろう。

 

 

「…」

 

何度仕事を放棄することを考えたか、何度この宿題から逃げようと考えたか。

 

 

だが逃げたところで、その先に何があるんだ?

 

 

私は知っている。

この巣から出ればどれだけ酷い逃亡生活を送る羽目になるか。

 

指どもの追跡から逃れようとして、どれだけアラヤを泣かせたか。何度この身が傷付いたか。

 

俺は、逃げ出した先の地獄を知っている。

 

逃れられない地獄の巣を知っている。

 

 

蜘蛛の巣から飛び出しても、その足には無数の糸が絡み付いていて逃れる事が出来ない。

 

誰の手を使っても、絡み付いた糸は解けないし断ち切れない。

 

 

逃げ込んだ先は、また別の蜘蛛の巣でしかなかった。

 

 

蜘蛛の巣の主人がどれだけ獲物を大切にしていようが、糸に絡まった獲物はいずれ衰弱し死に至る。

逃げ出した筈の巣からも糸は伸び、それは今の巣の糸と絡まりもつれていく。

 

私を雁字搦めにするのは、五本指から伸びる糸であり、このヒデヨシの会社から伸びる糸でもあり…そして都市そのものが張る糸だ。

 

利益、大義、夢、規則、恩、好気、野心、価値、苦痛。

 

もう誰が張った糸なのかも分からない。

誰にもその絡まった糸を解けない。

 

 

 

だから……もういいんだ。

 

これ以上を、私は求めない。

 

 

アラヤが泣かないでいてくれる、アラヤが笑ってくれているなら。

 

 

私は俺を殺し、ただの〝かいなでの絵師〟となろう。

 

 

優れた芸術家である事と、良い親である事は、両立できない。実際に私はそういった人間を見てきた。親である前に〝何か〟であろうとするのは、許されないんだ。

 

 

ならもう俺は、芸術家であることを夢見ない。

垂らされた蜘蛛の糸を、自ら断ち切ってしまうことが恐ろしいから。

 

 

私は俺の翼を毟り、へし折り、滅多斬りにしてしまおう。

 

 

あぁ…そうだ。

 

元より私は地獄しか見て来ていないのだから。

 

地獄しか描ける筈がないんだ。

 

 

結局。

私は…俺は、この都市で生まれた、かいなでの絵師に過ぎないのだろう。

 


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