「はぁ……」
「遅いな、先生……」
思わずため息をついてしまう。
待ち合わせ場所にした駅の壁時計を見ると12時32分。
今日は先生を休ませるために一緒に街を歩いたりする約束をしているのだ。
待ち合わせの時間からもう30分も経っている。さすがにため息の一つぐらい出るだろう。また、あの人が今も仕事に追われている可能性は、否定しきれない。そんなシャーレの労働環境にも、ため息が出る。
脳裏に、ある可能性がよぎる。
先生は普通の人間だ。銃弾一発で致命傷を負う可能性がある。さらにさっきかけた電話は反応なし。もしかしたら───。
少し嫌な予感がする。
シャーレに行こうか。しかし先生が今向かってきてくれているはずだ。すれ違いになったらどうしよう。そう迷っていた矢先、
"あっ!カヨコ!"
不意に声がした。
「先生……遅かったね」
振り向くと、そこにはいつもの先生がいた。
"ご……ごめん……過労で倒れちゃったらしくて……"
「もう……ちゃんと休んでよ?少し心配したんだから……」
"ははは……まぁ、今日はカヨコとデートだからね。仕事は片付けておきたかったんだ"
途端に顔が赤くなる。デートなんて、そんな……
「先生は、本当に……」
"?どうかした?"
「はぁ……先生、行くよ」
少し早めに歩を進める。赤くなった顔を見られたくなかったからだ。
"ちょ、ちょっと、カヨコ、速いよ……!"
「うるさい、先生、早く行くよ」
"ちょ、ちょっとだけ遅くしてもらえると助かるかな……?"
そんな他愛のない話をしながら、街へ向かう。
「先生、今日はいつも使ってるタブレットないんだ」
"……あ、本当だ。シャーレかな……"
「珍しいね。忘れ物?」
"慌ててたかな"
"……まあ、大丈夫か"
呟きは私の耳に入らなかった。
そしてお昼を食べる。あんまり高いところは入りたくないから、普通のファミレスで済ませた。比較的安い値段で、かつそれなりに多くのものを食べられるここは、学生に人気だ。
……便利屋はここすら来れない時がある。
でも、今は違う。
「先生、まさか奢ろうとか、考えてないよね」
"え?"
「その顔やっぱり……。今日は私も出すから」
先生は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
食後。太陽が少しずつ高度を下げ始める頃合い。
そのまま街を歩きながらゲームセンターに入る。あるクマのぬいぐるみと目が合った。
……可愛い。少し間の抜けた表情がクセになる。手足が短くて、全体的にもちもちだ。
……恥ずかしいことに、それを数秒凝視していた。
そうしたら先生がやってきて、筐体に100円玉を入れ始めた。
しかし、クレーンゲームはそう簡単に景品を取らせてはくれない。
"あとちょっと……。もう少しだから……"
「……やめていいよ。別に、少し見てただけで、欲しかったわけじゃないから」
"じゃあ……。私がカヨコにあげたいから取るだけ"
「……じゃあまあ、いいけど……」
それから大きめのモールでショッピングすることになった。雑貨屋やスーパーから高級な化粧品や服まである。私たちが行ったのは、主に雑貨屋の方だった。
こんなモールに入るのは久しぶりだから、先生の少し後ろを歩いていた。すると彼はドラッグストアへと足を運ぶ。
「先生、それ何?」
"えっと……。ヘアワックスだよ。新しいの出たんだ"
「ふうん……それ欲しいの?」
"無くても困らないけど……"
「……じゃあ、買ってあげる。いつも色々してもらってるし」
"え"
「今日は私、お金あるから」
そして便利屋のためにいくつか食料を買っておく。
少しずつ貯めていたお金がこんなに役立つとは思っていなかった。
買い物を終えて大通りに出た。日は暮れる少し手前。まだ夕焼けは見えないが、それでも夕方を感じさせる風情があった。
……先生と一緒にスーパーに行くことを、夫婦みたいだとか……そう思うのは、良いのだろうか。通りの猫カフェに佇む黒い猫と目が合う。その子はすぐに鳴いた。肯定してくれたのかもしれない。
嫌な予感は杞憂だったようだ。
「荷物持ってくれてありがと」
"いいよ、お安い御用だよ"
そのあとすぐ、先生が言った。
"それに、カヨコと一緒だと楽しいし"
「〜っ……!」
先生は平気でこんなことを言う。なんとかしてほしいものだ。心臓がもたない。
「ま……まあ、先生が楽しいなら、いいけど……」
顔が赤くないか気になって、先生のほうを見られない。
"カヨコも楽しんでね?行きたいところあるなら言ってよ?"
「はぁ……今日は先生の息抜きなんだから、先生が行きたい場所を言ってよ。」
「……私は先生と一緒ならどこでも楽しいから……」
"うーん、じゃあ、そうだなぁ……信号渡った先の猫カフェでも行く?"
「ね……猫カフェ?なんで……?」
"私が行きたいっていうのと、あと、カヨコがさっき見てたから!"
この人はどこまでもそういう人だ。絶対に生徒のことを一番に考える──というより、自分を二の次にする。
そんなところが…… いや、今はいい。
この気持ちは、後で伝えよう。
これ以上言っても彼の考えは変わらないだろうし、私は決めた。
「うん……そうだね。じゃあ、行こっか。」
先生と話しながら歩を進める。
先生の手に触れる。確かな温かみが、ある。
先生の声が聞こえる。温かい声。
横断歩道へと歩を進める。
信号が赤に変わる。
黒猫が1匹、道路の中央に佇んでいた。
なんで。
“危ない!!"
先生が走った。
手の温もりが消えてしまった。
そんなことを考える暇もなく、視界の端に捉えたのは
——大型トラック。
「先生ッ!!」
先生を庇うために走った。
一歩——あと一歩だけ、間に合わなかった。
骨が砕ける音がする。
肉が裂ける音がする。
何かが潰れる音がする。
濃い血の匂いがする。
ひどく——嫌な匂いだ。
気づいた時には、目の前に先生だったものが、飛び散っていた。
頭が潰れて、脳が飛び出ていた。体が二つに分かれかけていた。
クマのぬいぐるみは赤く染まっていた。
「ぇ、あ……?」
「せっ、せんせい……?」
肉塊は何の音も立てない。
聞こえたのは、先生が助けた猫の声。
「うっ……おえええええッ!」
なんで、なんでこんなことに?
守れなかった、私のせい?
私は、何を、したらいい?
「う、うう……うああああああああ!!!」
———
「はぁ……」
「遅いな、先生……」
思わずため息をついてしまう。
待ち合わせ場所にした駅の壁時計を見ると12時32分。
今日は先生を休ませるために一緒に街を歩いたりする約束をしているのだ。
待ち合わせの時間からもう30分も経っている。さすがにため息の一つぐらい出るだろう。また、あの人が今も仕事に追われている可能性は、否定しきれない。そんなシャーレの労働環境にも、ため息が出る。
脳裏に、ある可能性がよぎる。
先生は普通の人間だ。銃弾一発で致命傷を負う可能性がある。さらにさっきかけた電話は反応なし。もしかしたら──。
ふと視界の端に黒猫が映った。
嫌な、予感がする。この日を、何度か体験した気がする。
"あっ!カヨコ!"
不意に声がした。
「先生……遅かったね」
まあ、いい。
今日も、明日も、先生と一緒に——