─────ヒナが髪を切ってから、三日が経った。
「……暇ね」
風紀委員会の執務室。ヒナは頬杖をつきながら、目の前に積まれた書類を眺めていた。
簡単に呟かれた暇という言葉。しかし、机の上の書類は明らかに矛盾していて。
むしろ昨日より多いんじゃないだろうかと執務室で作業をしていた委員が首をかしげる。だというのに、ヒナの手は妙に軽やかだ。
「なんでだろ」
自分で呟いてから、少しだけ驚く。そうだ。いつもなら一枚の書類を処理するたびに、無意識に端末へ目を向けていたんだ。
もちろん相手は先生で。新しい任務の連絡はないか、モモトークでなにか来ていないか。そんなことばかりを考えながら仕事をしていた。
けれど今は違う。端末を確認する回数は、明らかに減っていた。
「……別に、忘れたわけじゃないのだけれど」
誰に言い訳するでもなく小さく呟く。書類に目を通し、委員に渡す。目を通して印を押し、目を通して丸めてゴミ箱に投げ捨てる。
淡々と作業をこなしていく最中、机の隅に置かれたスマホが震えた。そこには、今届いたばかりの新しいメッセージが表示されており。
『お疲れ様、少し力を貸して欲しい案件があるんだ。詳細は添付しておくから。連絡、待ってるよ』
途中まで読んで、画面を閉じる。先生からだった。
任務の確認。イオリやチナツに対してだってそんなに変わらない文面で、それだけの、ごく普通のなんともない連絡。
それなのに以前なら、その短い文章を何度も何度も読み返していた。書類なんてほっぽり出して、返信の内容ばかり考えてしまっていた。
けど、今は違う。必要なことだけ確認して、必要な返事だけを返す。そんなこともできないかもしれない。あの日少しだけ不安に思ったそれが、問題なくできている。
「なにも、問題ないじゃない」
なんだか自分が進化しているみたいで、ほんの少しだけ胸を張る。その時だった。
「─────委員長!」
激しい音を立て、勢いよく扉が開く。両開きのその扉の真ん中で、扉を押し開けた姿勢のまま叫ぶのはアコだった。
「……アコ、どうしたの」
「校門前でまた温泉開発部が、それもどこかから雇ってきたのか異様な数で」
「……そう」
それは大変ね。そんなことを呟いて椅子から立ち上がる。
ふと思うのは、やはりこれまでの私。こういうちょっとした瞬間にも、先生とのことを考えてしまっていたかもしれない。
けれど今は、目の前の問題に最大限意識を集中できている。そう、先生と出会う前のように。
「イオリは?」
「現在食堂に現れたパンケーキと交戦中です」
「チナツは?」
「避難誘導を」
「そうなると、みんなじゃ対処しきれなさそうね。私が直接温泉開発部を叩くわ」
「お願いします!」
窓を開ける。すると当然、風が吹き込む。暑さが去り始め、少し涼しく優しい風になってきた。
そんな風に、短くなった白髪がふわりと揺れる。以前なら、その感触を鬱陶しいと思っていたかもしれない。
だが今は、首筋に触れる髪は軽く、風が通る度に首筋をくすぐっていって、自分の髪だというのになんともこそばゆかった。
窓枠に足をかけ、ヒナは小さく笑った。
「……悪くないわね」
チラリと横を見ると、薄くガラスに反射する私の姿。アコの手で整えられた髪型は、なんだか様になっている。
続いて見下ろす校庭には、たしかに数の多い敵戦力と、物陰に追い込まれる風紀委員会の姿。上空から背後に周り、火力で一網打尽にしてしまおう。
そうと決まれば、腰を踏ん張り羽を広げる。そして、いつものように校庭の空へと飛び上がった。
△
その日の昼。アコと2人っきりの執務室に、ジャスト12時を告げるチャイムが響いた。
「委員長」
「なに?」
チャイムが鳴り終わると同時に席を立つアコ。書類を書く手を止めた私が何かと思って見てみると、彼女の手には紙袋がふたつ。
「……これ」
「……?」
「お昼です」
「そう」
「そう、じゃありません!」
なぜそんなに素っ気なく。むっと眉をひそめて地団駄を踏み、しかし咳払いひとつで気を取り直すと。
「委員長、ここ数日間しっかりとした食事をちゃんと食べれていますか?」
「もちろん」
「では、昨日は?」
「……カップ麺、新発売のやつ」
「それをしっかりした食事とは言いません!」
「でも、美味しかった」
「そういう問題じゃありませんよね!?」
いつものやり取り。いつものアコ。私のことを気遣ってくれて、色々と考えてくれて。当たり前だと思いたくない彼女の姿に、しかし思わず笑ってしまう。
なんで笑うのかと唇をすぼめるアコだが、そっと手にした紙袋のうちのひとつを私の机の上に置き、そして自分の席へと戻ってゆく。
「……ありがとう」
「……え?」
「お昼、用意してくれて」
「……いえ」
背中を向けているからこそ、アコの表情はわからない。だがきっと、決して悪い顔はしていない。
「……どういたしまして」
静かな執務室でふたり、昼食を取る。もちろんその間、アコは先生のことを一度も口にしない。私だって、あえて自分から話すつもりはなかったし、それでいいと思っていた。
わざわざアコに言えば余計な心労をかけるか、それか先生に食ってかかりそうだから。
もしくは、言葉にしてしまえばまたこれまでの私と同じ気持ちに、あっさりと戻ってしまいそうだったからなのかもしれない。
「これ、美味しいわね」
「ほんとですか!?」
「えぇ。……もしかして、アコの手作り?」
「はい、はい!そうなんですよ、実はっ」
─────余計なこと言ったかも。
紙袋から出てくるサンドイッチ。すこし不細工な見た目の割に、中々どうして美味しいそれは、どうやらアコの手作りだったようで。
スイッチの入ったアコは、話したいことを話終えるまで止まらない。いかに素材にこだわったか。パンはどこで買ったか。マヨネーズは手作りで低カロリー。そして込めに込めたという私への思い。あまり興味もない情報の羅列に、こういう時に限って緊急の連絡が来ないものかと少し沈む。
しかし、話終えれば静かなもの。小ぶりに思えたそれは、思っていたよりも私のお腹を満たしてくれて、アコに感謝を伝えれば恍惚とした顔で笑い返された。
「……委員長」
「なに?」
「─────髪、のことなんですけれど」
ついに来たと、内心そう思った。だが、これまでのことを思えば、良くぞここまで聞かずにいてくれたなとも思う。
「似合っています」
「……そう」
「はい」
「切ってよかったと思う?」
「私は、そう思います」
でも、そう前置きしたアコは目を伏せる。そして、少しだけ間を置いて続けた。
「委員長が、大切な何かを否定するために。もしくは、無理やり捨てるためではないのなら、ですが」
絞り出すようなアコの言葉に、紙袋を畳んでいた手が止まる。
「髪を切ることって、思っている以上に勇気がいるじゃないですか。それも、委員長にはきっと、髪を伸ばしていたそこに、大切な何かがあったはずです」
「……そうね」
「だから。……いえ、だからこそ」
アコは微笑んでいた。そして、優しい目で私のことを見ていて。
「委員長がご自身でそう解決して。そして今、いつも通りの日常を送れているのなら、私はそれが1番だと、そう思います」
「……そう」
微かに涙を称えたアコの笑顔に、私は短くなった髪に触れる。
「─────ありがとう、アコ」
「はい」
それから、部室にはしばらく穏やかな時間が流れた。
△
決して平和とは言えない毎日。騒がしい日常は、しかし驚くほど普通に過ぎていった。
銃声、爆音、破砕音。戦闘、書類、会議。マコトの暴走、イオリの愚痴、チナツのため息、そして、アコの怒鳴り声。
校庭に大穴を開けた温泉開発部。自治権の不安定な地区で飲食店を爆破する美食研究会。なにかとボヤ騒ぎを引き起こす便利屋68。食堂で給食一揆を起こす多数の不良たちに、どこからか入り込んだイリーガルな企業。
それはこれまでと変わらないゲヘナ、これまでと変わらない風紀委員会を意味していた。
ただ一つ変わったことがあるとすれば、ヒナが以前より少しだけよく笑うようになったことだ。
まだその変化に気がつくのは、日常的にヒナの一挙手一投足に注目するアコでしか気づかないようなもの。しかし、どこか雰囲気が明るくなったと風紀委員会の中でも噂になっていて。
─────取っ付きにくそうでしたからね。
ヒナの承認権限が必要な書類の束を手に取り、すぐ横について手渡した。これまで見なかった白くて綺麗なうなじに、アコは思わず見入ってしまう。
「……アコ?」
「んんっ。委員長、確認をお願いします」
「ん」
「……ふふっ」
「どうしたの?」
「……いえ」
書類を受け取ったヒナの表情に、アコがクスリと笑みをこぼす。
「最近、また少し機嫌がいいですよね」
「そう?」
「はい」
「やっぱり、考えることが減ったからかしら」
「それだけですか?」
「……かっこつけてがんばる理由も、なくなったわね」
少し目を伏せ、ヒナは答える。それは決して嘘ではない。全部ではない、それだけだ。
変な責任感が消えたのかもしれない。ゲヘナの秩序を担う組織の長として、学園の最大戦力として。とうに覚悟のできていて、これまでなんとも思わなかったそういった責務。
それ以上に重くのしかかっていたのは、先生に褒められたいがために頑張る私という存在だったのかもしれない。
胸の奥にあった重たいものは、まだ完全には消えていない。モモトークや業務連絡上は問題ないけれど、先生の姿を見れば、きっと胸が痛むだろう。
あの声で名前を呼ばれれば、きっと嬉しくなる。優しくされれば、以前の気持ちを思い出してしまうだろう。
─────それでも。
それでいいのだと思えるようになった。なにも、私が恋をしたことまで否定する必要はないのだから。
好きだった。本当に好きだった。だからこそ、終わってしまった恋を、無理に嫌いになる必要なんてない。
「……そういえば」
思い出したように、ヒナはふと顔を上げる。
「シャーレから、任務が来てたわね」
「はい」
「先生も、来るかな」
「おそらくは、そのはずです」
「そう」
ほんの少しだけ、胸が跳ねる。それでもヒナは、これまでのようにその感情を追いかけなかった。
私は風紀委員会の委員長。そこに先生が求めているのは、きっと私自身ではなく、風紀委員会という戦力。私が頼られているなんて思い上がりは、もう必要ない。
「じゃあ、準備しておかないと」
「……はい」
「任務の陣頭指揮にはイオリを。あとはイオリに選ばせてあげればいいわ」
「そうですね」
そう言って再び書類と向き合うヒナの背中に、アコは何も言わなかった。ただ、少しだけ安心したように笑うだけだった。
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反応よかったら、これはこれで色んな生徒で続けてみたいかも……?