パルス史をひも解くうえで、ギーヴの名を無視することは不可能であろう。その名に触れずして、解放王アルスラーンの業績をあまねく羅列することはできないからだ。
後世の歴史家を悩ませるのは、このギーヴと言う男が、ルシタニア戦役のエクバターナ籠城戦にて囚われの万騎長シャプールを生者の手のとどかぬ世界へ解放する一矢を放つまで、どこで何をしていたのかがまったくわからないことであった。
これほど目立つ男が、それまで全くの無名だったのである。
ギーヴ本人は亡国の王子を自称したりもしたのだが、与太話であることは明らかだった。
どこそこの領主の息子が行方不明になっているが、これこそがギーヴだったのではないか。いや、弓の名手で知られたパルス騎士の弟が病死したことになっているが、これこそがギーヴの前歴である。違う違う、マルヤム公国の貴族に眉目秀麗な子息がいたが、出奔している、これこそがギーヴであるに違いない。
さまざまな推測、あるいは憶測が並べられたが、それらは無責任な噂話の範疇をでるものではなかった。
出自不明、という点でいえば、リョーツーンも歴史家の悩みの種であった。
郵政官に抜擢されるまでの経歴というと、旅商人、ただそれだけしかわからない。しかも、この旅商人という前歴も、リョーツーンの自称にすぎないのである。
もっとも、リョーツーンとしては、後世の歴史家の悩みの種になることなど、気にも留めはしない。
ダリューンを「ちょっとした行き違い」で激怒させた角刈りの郵政官は、戦士の中の戦士の頭が冷えるまで、遠方へ赴くことにした。テライスに伝言させた通りにギーヴに会いにゆくつもりなど、毛頭ない。
赴く先に、パルスの隣国チュルクを選んだのは何故なのか。
リョーツーンのチュルク来訪が、結果として歴史にどんな影響を及ぼすことになったかを知った後世の歴史家は、その疑問にも、ずいぶんと悩まされることになる。
「あの時にリョーツーンがチュルクに滞在していたなど、偶然にしてはできすぎている。なにか理由があってのこととしか思えない」
といった具合に……。
「へっへっへ。長逗留するならメシと酒が旨いところに限るぜ」
リョーツーンは屋台で買ったばかりの羊の串焼きをほおばった。
チュルクの国都ヘラートでのことである。
あっさりとした塩味のもの、香辛料を複雑に組み合わせたもの、さっぱりとしたヨーグルトをきかせたものと、多彩な肉料理を楽しめるチュルク料理はリョーツーンの好みによく合うのだった。
「新鮮な海の幸には縁遠いのがチュルク料理の泣き所だな……」
次はどの肉料理に舌鼓を打とうか、並ぶ屋台を物色していると、道ゆく人々のなかに、見知った顔を見つけた。
「よう、めずらしいところで会うな。あの魔導士どもとは手を切ったのか?」
「……そういう貴様は、ぼったくり商売からは足を洗ったのか?」
リョーツーンに声をかけられた男は、心底いやそうな声を出した。その端正で精悍な顔は、右半分を薄い布でおおわれていた……。
「なにゆえ、貴様がこんなところにいるのだ」
「ちょっとした行き違いで黒衣の騎士を怒らせてな、ほとぼりが冷めるまで逃げ回っているんだ」
「なにをやらかしたのだ」
「国王陛下にどぎついお下劣絵画を送りつけてしまってな」
「……相変わらずのようだな」
「久しぶりで会ったのに、立ち話もなんだ。河岸を変えようぜ」
酒場のバルコニー席にて、リョーツーンはヒルメスとあらためて久闊を叙した。
「いつのことだったか、ミスルの港町でケンカ別れをして以来か」
「そうなるな」
そこでいったん会話はとぎれ、涼風がふたりのあいだを吹き抜けた。
「……めざとい貴様のことだ。俺が旗揚げすれば、すぐに駆けつけてくるものと踏んでいたのだがな」
「無茶をいうな。あんときゃワシは絹の国だ。パルスがえらいことになってるってんで商売をきりあげて戻ってみりゃ、ルシタニアは撤退してて、エクバターナがアンドラゴラスの葬式と洒落込んでやがった」
「そうだったのか……」
「お主は盲目の佳人と駆け落ちしたそうだが、その様子だと、めでたくフラれたようだな」
「勝手に決めつけるな。イリーナは身重ゆえ、宿でやすんでもらっているだけだ」
「なに! そいつはめでたい! 健やかな子が産まれてくることを祈って!」
リョーツーンが杯を陽気に掲げると、ヒルメスはしぶしぶといった態でそれにならった。
「そうか、そうか。奥方がおめでただから、山を下りようとしてたところだったんだな」
「……どういう意味だ。おちついて出産ができるように、チュルク国王を頼りにヘラートに到着したところだぞ。チュルクの王となったカルハナには多少の縁と貸しがあるのでな」
「そいつは感心しないな。この季節のチュルクはすごしやすいが、これからはどんどん寒さが骨身にしみるようになる。山国だからか空気も薄い。ここで生まれ育って慣れた者や、ワシやお主のように頑健なものならともかく、箱入り娘にはつらいだろう。万一のこともあるかもしれんぞ」
「イリーナは、そんなそぶりなど見せなかったが……」
「けなげなイイ娘を射止めたようだが、それに甘えっきりじゃ男の甲斐性が泣くってもんだぜ」
「……うむ……しかし、では、どうしたら……シンドゥラの国王はアルスラーンめと誼を通じていると聞くし……」
妻のために懊悩するヒルメスを見て、リョーツーンは愛嬌のある笑顔になった。
「なあ。じつは近頃、ワシはトゥラーン王宮に顔が利くようになってな……」
……リョーツーンがパルス王宮に顔を出すと、すかさずダリューンが怒鳴りこんできた。
「ここにいたか、リョーツーン!」
「ヒルメス王子にお会いしました」
「…………うん?」
「ヒルメス王子の奥方がおめでたです」
「………………うん?」
「それと、今はクシャーフルと名乗ってトゥラーン王宮の警護隊長をやってもらっています」
「どういうことだ、リョーツーン!」
黒衣の騎士は、困惑もあらわにさけぶのだった……。