朝、目が覚めたとき、母が二人いた。
昨日まで父だった人は、台所に立っていた。
「おはよう」
いつもと変わらない声だった。
私はしばらく黙って、その人を見た。
「……お父さん?」
「何?」
振り返った顔は、確かに父の顔だった。
けれど、女性の顔だった。
私はスマートフォンをつかんだ。
ニュースを開いた。
何もない。
速報もない。
災害もない。
政府からの発表もない。
SNSを開く。
検索欄に「男性」と入力した。
出てきたのは、漫画、映画、童話、ゲーム。
架空の生物。
「男性」という架空の存在について語るページ。
私は震える指で投稿した。
《男性がいなくなった》
数秒で返信がついた。
《何の冗談?》
《男性って架空のやつでしょ》
《朝から釣り?》
《怖いこと言うなよ》
《設定としては面白い》
私は写真を投稿した。
昨日撮った家族写真。
父が写っている。
少なくとも昨日までは、父だった。
けれど画面の中でも、父は女性になっていた。
「違う」
声が出た。
「違う、違う……」
写真を何枚見ても同じだった。
父の姿だけが、最初から存在しなかったみたいに消えている。
私は友人に電話した。
「昨日、男の先生いたよね?」
「男?」
「数学の先生。ほら、背の高い――」
「女性の先生でしょ?」
「違う!」
「どうしたの?」
電話の向こうで、友人が笑った。
「寝ぼけてる?」
私は電話を切った。
SNSには、同じような投稿が増えていた。
《昨日まで男だった人、どこ行った?》
《父親が女になってる》
《私だけじゃないよね?》
それに対する返信は、ほとんど同じだった。
《嘘》
《何の冗談?》
《男性なんていないよ》
《フィクションと現実を混同してない?》
《病院行ったほうがいい》
私はその日、一日中、街を歩いた。
男性はいなかった。
一人も。
コンビニの店員も。
警察官も。
教師も。
老人も。
子供も。
全員、女性だった。
けれど誰も、それを不思議に思っていなかった。
夕方、私は駅前で、昨日まで男性だったはずの人を見つけた。
近づいて、名前を呼んだ。
「ねえ」
「はい?」
「あなた、昨日まで男性だったよね?」
その人は困ったように笑った。
「男性?」
「そう」
「……ああ」
少し考えてから、その人は答えた。
「昔話とかに出てくる、架空の存在?」
私は息をのんだ。
「あなた、自分が男性だったことを覚えてないの?」
「私は最初から女性だけど」
その答え方は、あまりにも自然だった。
私は何も言えなくなった。
その人は私を気遣うように、
「大丈夫?」
と聞いた。
私はうなずいた。
その夜、母に聞いた。
「子供って、どうやって生まれるの?」
母は笑った。
「コウノトリが運んでくるのよ」
冗談だと思った。
でも、母は本気だった。
翌日も、SNSには投稿が溢れていた。
《男性は存在した》
《昨日まで普通にいた》
《お願い、誰か覚えてない?》
けれど返信は、
《だから男性は架空でしょ》
《新しい都市伝説?》
《創作なら創作って書いて》
ばかりだった。
私は一件ずつ読んだ。
その中に、妙な投稿があった。
《男性って、女と何が違うの?》
私は返信欄を開いた。
誰かが書いていた。
《そもそも男性って、物語の中の存在だよ》
別の誰かが、
《でも、なんでそんなに詳しいの?》
と返していた。
そこから先は、急にコメントが途切れていた。
私は画面を見つめた。
男性。
存在しないもの。
架空のもの。
誰も実在したとは認めないもの。
なのに、私たちは知っている。
姿も。
声も。
名前も。
身体も。
生き方も。
そして、昨日まで確かにいたことも。
私はもう一度、駅前で会った女性の顔を思い出した。
彼女は言った。
「私は最初から女性だよ」
その言葉が、なぜか引っかかった。
私は彼女に会いに行った。
「あなた、男性について詳しいよね」
「まあ、架空の存在だから」
「じゃあ、男性が何だったか説明して」
彼女は少し笑った。
そして、まるで学校の授業を思い出すように話し始めた。
男性とは何か。
どういう特徴があったのか。
どんな物語に登場するのか。
私は聞き終わってから、一つだけ尋ねた。
「あなたは?」
「え?」
「あなた自身は、男性だった?」
彼女は不思議そうな顔をした。
「何言ってるの?」
私は黙った。
彼女も黙った。
しばらくして、彼女が笑った。
「変なの」
そう言って、彼女は帰っていった。
私は一人で駅に残った。
ホームを電車が通り過ぎる。
窓の向こうには、女性ばかりが座っていた。
私はスマートフォンを取り出した。
検索欄に「男性」と打つ。
検索結果の一番上には、Wikiのページが出てきた。
男性
男性(だんせい、英: male)とは、人類が他の多くの動物と同様に有性生殖を行う生物であったと仮定した場合に想定される、架空の性別である。
「男性」という概念は古代ギリシアで生まれた概念である。
哲学者アナクサゴラが「人間だけが、なぜ他の多くの生物と異なり、一種類の個体だけで子を残すのか?」との疑問から「もし人間にも、現在の人間とは異なる生殖上の役割を持つ個体が存在するとしたら?」と仮定した思考実験を行った。
構成においてソクラテアそれを整理体系化し「二種類の人間を仮定するなら、それぞれを区別する名称が必要だ」とし「女性から何かを差し引いたものではなく、女性に存在しない性質を加えた仮想的人間」として定義した。
これを取り込んだ寓話作家アイソピアの名作女王の旅と7人の王子である。
現代においてはソクラテアの「人間」に記された思考実験の元ネタよりもアイソピア寓話にでてくる架空の種族として広く知られている。
私は画面を閉じた。
そのとき初めて、
自分だけが、
架空のものを覚えているのかもしれない
と思った。