軍神と逃げ上手 作:伊勢守
建武二年(1335年)八月四日 相模国
我らは時行様とともに、出陣してゆく名越高邦様の見送りを行った。三つ鱗の紋を掲げ、高らかに鬨の声を上げる名越軍の将兵らだが、傷やアザだらけで痛々しくまともに戦える者は数える程。見送る我らの表情にも影が落ちる。
失礼にあたるが、我は前の生で『名越高邦』の名も『北条高邦』の名も耳にしたことがない。その諱から察するに、名越高家公の子であろうか。この乱の結末を鑑みるに……恐らくは、彼を目にするのは最後となるであろう。
名越軍の損害は惨憺たる有様であり、彼らの誇る豪傑や知将らの大半が戦闘不能という状態。前夜にて我が予想立てした損害とおおかた一致していた。
そのような状態で、ましてや戦力を砦に四分割するのである。尊氏軍の勢いにもよるが、碌に抵抗も出来ず壊滅すると予想する
「負け……か」
認めたくはないが、我はその言葉を皆に聞こえぬように口から
三浦が如何程の強さかは知らぬが、どれだけ奮戦しようと、手負いの名越軍を蹂躙してきたのみの足利軍には敵いはしないだろう。名のある将を一人二人討ち取れれば上々である。となれば最後の砦、我ら北条だが……
「しょうがねぇけど、みんな参っちまってるな」
「仕方がないよ。まさかこんなことになるなんて……」
目に見えるほど士気が低下している。手伝い戦に駆り出された国人の軍よりかはよっぽどマシではあるが、天変地異すら操る足利軍に皆恐れ慄いている。兵らの瞳の奥にはしっかりと不安が刻み込まれていた。それは我ら郎党にも同様に。
「心配することはないさ。あれだけ勇猛な高邦殿のことだ、きっと尊氏の首を挙げてくれる」
時行様はそう言うが、顔は暗い。大将の不安という物は末端の兵まで届く。逆に末端の者らが皆不安を抱けば、それは大将に伝わる。常勝の北条軍に暗雲が立ちこみ始めた。
◆◆◆◆◆◆
その日、我は皆が寝静まるまで狸寝入りをすることにした。
見張りの者以外が就寝したことを確認した我は、誰も起こさないようにこっそりと宿舎を抜け出す。草木の陰に隠れ、家屋の陰に隠れ、ひょいひょいと見張りの観察の隙を縫っていく。
何をしているのか。それは情報収集である。時行様のこれからを案じて我自らが草の者のように情報を集めるのだ。
「ん?今なにかいたか?」
危ない。どうやら気が逸りすぎたようだ。いま一度呼吸を整える。
結果は分からないが、我の予想ではこの戦いは九割がた我らの負けである。名越の件は我にそう思わせるのには十分であった。時行様に不安が生まれた以上、そこに必ずや尊氏は刃を突き立ててくる。我が大将ならば斯様な逆境も如何様にも乗り越えてくれようが、十五にも満たぬ時行様にそれを求めるのは酷であろう。
とにかく、此度は負けである。その再起のための軍略を練るために、情報が必要なのだ。我の二百年先の知識なぞアテにならない。地勢・砦や城の位置・血縁・交友関係・外交・勢力の分布・中央の情勢………それらの情報が少しでも欲しい。
我はどこに向かっているのかというと、大倉にある旧足利直義邸である。どうやら北条勢が鎌倉を奪った時に、臨時の政庁として接収したようなのである。
すなわち、今の北条の首脳が詰めている場所ということとなる。北条泰家様や頼重様、その他北条一門や有力御家人が居られるのだ。情報収集にはうってつけである。
「ふむ、しかしやはり逸ったかもしれん。玄蕃くらいは連れてくればよかった。奴ならば細かいことは気にせんだろうに」
我がこのような行動に及んだのには理由がある。それは動機だ。我は時行様がこの戦に敗れた後のことを考えている。もし正直に「この戦は負ける故、良い逃亡先についてお教えください」などと言えば無礼として討たれても文句は言えぬ。
「見えてきたか。しかし、やはり見張りがおるな。どうやって忍び込んだものか」
家屋のそばからひょっこりと目的地を望む。当然ながら警備の兵はおり、隠れて忍び込めるような場所もない。
「ならば私が一言伝えてやろう」
「む。何者かは知らぬが、忝のうござる」
──────ふむ。どうやらマズいことになったようだ。
聞き覚えのある声に、頬を引き攣らせながら振り返る。雪のように白い格衣に冠。そして時折、時行様に見せていた味の悪そうな笑み。瞳をかっ開き、我に向けて歯を見せつける。
「では、お話をしようか」
「………ははッ」
◆◆◆◆◆◆
建武二年(1335年)八月四日 相模国 旧足利直義邸
今日は時行様の郎党を道端で拾った。名は景虎という。これからここで飼うことにしよう。
「某は犬猫の畜生ではござらんよ!?」
「ほう。私の頭の中まで分かるのか」
「いえ。何となくその様な失礼極まりないことを考えてそうな顔をしておりましたゆえ」
景虎はそう言うと、また子供らしからぬ様子で私に頭を下げた。その所作は流麗であり、幼い頃から礼儀作法を叩き込まれた時行様(逃げてはいたが)にも匹敵する美しさがあった。
……長尾景虎。つい二日前に時行様の郎党に加わった、長尾景忠の甥を名乗る男。誠実かつ謙虚な立ち振る舞いと、快活なその姿から諸将からの覚えもよい。時行様の郎党の皆も彼の人柄に何となく信頼感を寄せ始めている。
しかし捕らえた直義軍の捕虜らは「長尾景虎なる者の名は聞いたことがない」と口を揃えて証言している。景虎が言う父、長尾為景という武士も調べたが存在が確認できていない。だから私はこの男を信用できていない。
どう見ても怪しさが満載であり、足利の間者だと私は思った。子供とは思えない所作や周囲への取り入り方の上手さ。名越軍の壊滅も、雫に聞けば足利の仕業だという。タイミングといい益々怪しい。
それゆえ、この景虎がおかしな行動を起こさないか私は見張っていたのだ。そうしたら案の定引っかかり、今こうして私の前まで引き摺り出すことに成功した。証拠があるわけではないため、こうして向かい合って、この景虎の正体を暴こうということである。
「で、聞かせてもらおうか。時行様の元を抜け出して何をしようとしていたのか」
「………時行様の天下取りを支えるため、情報を集めたかったのでございます。それゆえ諸将の居られるこの屋敷で何かお聞かせ願えるかと思い立った次第」
私には景虎が嘘は言っている様には見えない。しかしそれならば、時行様を伴って陽が昇っているうちに訪れればよい話。『ものは言いよう』と言うべきか、恐らく景虎は都合のいい事実を切り取って私に話し、誤魔化している。
曖昧に聞けば曖昧に答えてくるのなら、直接聞いてみるしかない。
「なぜこんな夜中に?もし間者に間違われても何も言えないだろう」
「……申し訳ありませぬ。新参者の立場の危うさというものを理解しかねておりました。これよりは軽挙を慎み、皆様に信頼していただけるような武勲を立てまする故、ご容赦を下さいませ」
今度は素直に謝って取りつく島をこちらに与えないか。やはりこの男、小慣れている。言葉の節々に『このようなものは窮地にも入らない』という余裕さを孕んでいる。
そしてやっぱり、見えない。………何より不可解なのが、この男だけ未来が何ひとつ見えないことだ。初めて出会ったときからずっと、この男の存在がぽっかりと抜けた未来しか見えない。
「景虎。私はお前のことを少し調べたのだが」
「……はッ」
「捕らえた直義軍の者らは、長尾景虎も長尾為景もその名を耳にしたことがないと口を揃えて言った。勿論、上杉の元で働いていた者もいる。これはどう説明する」
私がそう口にすると、平伏した景虎に僅かな揺らぎが起こった。表面上では何も変化はなかったが、形容しがたい一瞬の迷い。
「それは当然のことと存じます。某は此度の戦に関わっておりませぬ故」
「関わっていない?」
「ははッ。第一に、某が直義について戦っていたのならこの鎌倉にいる筈が有りませぬ。考えてもみて下され、もし某が他の長尾一族とこの戦で槍を振るうでもしていたならば、北条の勝利で駿河へ逃げた直義に付き従っているはずでございます。
勝ち馬に乗ろうと離反したというのも難しいのでございます。自らが持つ兵も無く、父も亡く、若輩の某が……もし直義を裏切ろうという動きを見せた途端、捕らえられるか殺されるかするでございましょう。
頼重様、逆でございます。直義の兵が某を知らぬというのならば、それが我が直義に与するものでないという何よりの証拠。関わりのない者を間者にするのは難しゅうございます」
……流石の頭の回転の速さ。嘘でも真でも、よく言い淀まずにつらつらと言えたものだ。もし本当にやましい事はなく、時行様に純真な忠義を誓っているとしても、詰め寄られたら動揺が見られるものなのだが。
私の問いで一瞬現れた景虎の揺らぎは、弁明のうちに煙に巻かれた。私は今、時行様の安全と発展を天秤にかけている。この景虎がもし時行様に誠心誠意尽くすというのならば、時行様が歩む道を切り拓く逸材となるだろう。
しかし、これほどの逸材が実は敵方だったとなれば目も当てられない。経験が足りない時行様では、これほど優秀な者の暗躍には気付けないだろう。第一、人を疑うということをしない御方だ。弧次郎や亜也子たちも同様に。吹雪ならば気付くこともできるかもしれないが……彼にはあまり良くない未来が見えるため、彼に託すのは危険と感じる。
「……まだひとつ、確かめなければいけないことがある」
「はッ。我が時行様への忠義の疑いが晴れるのならば、何なりと」
「鶴岡八幡宮でお前と出会った時のことだ。あの時、お前が目覚めて声を上げた瞬間……一瞬お前が別人に見えた。時行様たちは何も違和感は持っていなかったが、私は確かに見た。さあ景虎、今度は知らないとは言わせないぞ」
「────何ですと………!!もう一人……!? そ、それは如何なる姿をしていたのですか!?」
「男だった。齢は五十ほど。出家していたのか、被っていた頭巾の隙間から坊主頭が見えた。それと……法衣は真っ黒だったな」
私の渾身の疑問だ。未来が見えないのも、行動が疑わしいのよりも、私はこっちの方がよほど気になっていた。このような経験は数十年生きてきて初めてだったからだ。
景虎もこれには驚きを隠せないようで、下げ続けていた頭を挙げ、驚愕といった表情で私を見る。私が厳しく景虎の顔に眼光を浴びせると、景虎はこれ以上ないほどの焦燥を見せた。聞き取れない独り言をプツプツと口にして、首筋にひどく汗をかきはじめた。そして私の顔を信じられない物を見たかのように覗き込んでくるのだ。
「み、見間違いではないのですか」
「ああ。……思えば、景虎。あの男はお前に似ているな。一瞬であったがかなりの衝撃だったから良く覚えている。あの男とお前の目元がそっくりだな」
私がそう言うと、景虎は押し黙った。平伏した体制で顔だけをこちらに向けた無様な格好のまま、時間にして五分以上は静止したまま動かなかった。粗い息だけが、部屋の中に響いた。
景虎が座を正す。何かを覚悟したのか、表情に力が入っている。私としてはようやく観念したかという気持ちだった。景虎はだらだらと垂れた汗を服で拭い、深く息を吐く。
「相判った。全てお話ししようぞ、頼重殿」
「────なっ」
見えた。また見えた。黒の法衣の男が私に向かって座を正していた。
突然、景虎の姿が私の目には全くの別人に映った。私は目を疑う。
しかしその容貌に変化があったわけではない。見た目は先ほどまでと全く同じである。ただ座を正したのみ。それなのに、何度見てもさっきまでの景虎と今の景虎が同一人物だとは思えない。道ですれ違ったなら景虎だと私は気付けないほどに………
私の目の前に胸を張って堂々と座る景虎の姿は、この二日間のあいだで見た何者よりも大きく感じられた。この乱に参加して槍を振るった猛将らよりも、大兵力を率いて参戦した忠義の士らよりも、よっぽど大きな存在に思えて仕方がない。時行様に仕えるだけのこの若武者がである。
「景虎……?お前は……」
生唾を無意識に飲み込む。息が少し震えている。私がこのような子供に動揺させられているのである。私は自分で自分を疑った。
神力が体から少し逃げていくのを感じた。