変転の魔女 ―奈落都市グリンザ― 作:玉露
その少年が〈ランタン亭〉の扉を開けたのは、雪まじりの雨が石畳を白く濡らす夕暮れだった。
扉についた真鍮の鈴が、ひどく頼りない音を立てた。
「いらっしゃいませー!」
いつもの調子で声をかけたクレアは、すぐに笑顔を引っ込めた。
灰色の外套をまとった、小柄な少年が立っていた。濡れた銀髪が頬に張りつき、唇は寒さで青ざめている。
その背には、ひとりの女が負われていた。
長い銀髪の女だった。少年の母親だろう。外套の隙間から覗く顔は蝋のように白く、浅い息をするたび、喉の奥でかすかな音がした。
「父さん!」
クレアが呼ぶより早く、少年は言った。
「部屋を、ひとつ貸してほしい」
幼さの残る顔に似合わない、硬い声だった。
「母さんが病気なんだ。静かで、火のある部屋ならどこでもいい。寝台はひとつで足りる」
帳場から出てきた父は、少年とその背の女を見比べた。
「医者には診せたのか」
「まだだ。先に、横にさせたい」
「流行り病なら、ほかの客もいる。症状は?」
少年の肩がわずかに強張った。
それでも、逃げるようには目を伏せなかった。
「熱と咳だ。発疹はない。俺がずっと看てるが、うつってない。……薬のことなら、少し分かる」
そう答えてから、少年は片手で腰の袋を探った。
卓の上に並べられた硬貨は、ひどく少なかった。
銅貨が数枚。欠けた小銀貨が一枚。
少年はそれを、一枚ずつ指先で揃えた。
「今夜のぶんだ。足りないなら、荷運びでも薪割りでもする。明日には金を作る。だから——」
声が、そこで初めて揺れた。
「母さんを、外に戻さないでくれ」
クレアは食堂の柱の陰で、盆を抱いたまま二人を見ていた。
少年は濡れた外套の下で震えていた。けれど、自分が寒いとは一度も言わなかった。
母親の身体がずり落ちそうになるたび、細い腕に力を込めて背負い直す。その手つきだけが、彼がどれほど長くこの人を運んできたのかを物語っていた。
父は卓上の硬貨を見下ろした。
「三階の端なら空いてる」
「父さん、二階の奥がいいよ」
クレアは思わず口を挟んでいた。
父と少年が、同時にこちらを見る。
「三階まで、この人を運ばせるの?」
「……クレア」
「二階の奥なら竈の真上だから、夜も冷えにくいし。隣も空いてるから、ほかのお客さんには離れてもらえる。窓も開くよ」
そこまで一息に言ってから、クレアは少年に向き直った。
「お湯を用意します。濡れた服のままじゃ、余計に身体が冷えちゃうから」
「でも、金が」
「お湯にお金なんて取りません」
少年は何か言い返そうとした。
施しを受けるくらいなら、雨の中へ戻りかねない顔だった。
だからクレアは、笑って言葉を継いだ。
「その代わり、元気になったら、うちのスープが美味しかったって言ってください。父さん、そういうのには弱いんです」
「余計なことを言うな」
父は渋い顔で帳面を開いた。
けれど卓上の硬貨を全部は取らず、銅貨を二枚だけ引き寄せた。
「先払いは今夜のぶんだけでいい。名前は」
少年はしばらく黙っていた。
それから、母親を背負い直しながら答えた。
「ユーリ。母さんは、リヴィア」
父が帳面に二人の名を書きつける。
クレアはその横顔を、そっと見ていた。
銀の髪。紫がかった、不思議な色の瞳。年は自分と同じくらいかもしれないのに、雨に濡れた姿はずっと年下に見えた。
なのに、その目だけは妙に大人びていた。
泣くことも、誰かに頼ることも、とうに諦めた人の目だった。
「こっちです、ユーリくん」
名前を呼ぶと、少年はわずかに眉を寄せた。
「……くん?」
「あ。嫌でした?」
「いや。呼ばれ慣れてないだけだ」
クレアは先に階段を上がり、二階の奥の扉を開けた。
寝台の毛布をめくり、枕を整える。ユーリが母親を横たえる間に、濡れた外套を受け取った。
リヴィアは薄く目を開けた。
「……ユーリ」
「いるよ、母さん」
少年の声が、初めて年相応に聞こえた。
「ここにいる。もう歩かなくていい」
クレアは何も言わず、部屋を出た。
聞いてはいけない声のような気がした。
その夜、クレアは根菜をいつもより細かく煮込み、麦を柔らかく潰した。病人でも喉を通るように薄くしたスープと、少年のぶんの黒パンを盆に載せる。
代金を気にするだろうから、帳面には書かなかった。
部屋を訪ねると、ユーリは寝台の脇に座り、母親の額に濡れ布を当てていた。
「食事は頼んでない」
案の定、最初に出たのはそれだった。
「余りものです」
「嘘だ。まだ湯気が立ってる」
「じゃあ味見をお願いしてるんです。うちのスープ、自信作なので」
「……俺に?」
「はい。お母さまが目を覚ましたら、少しずつ飲ませてあげてください。ユーリくんも、ちゃんと食べること。看病する人が倒れたら、困るでしょう?」
少年は返事をしなかった。
ただ、母親の額から布を外し、その冷たさを確かめるように握った。
クレアは盆を置き、それ以上は踏み込まなかった。
「何かあったら呼んでください。あたし、下にいますから」
扉を閉める直前、かすかな声が追いかけてきた。
「……ありがとう」
あまりに小さくて、聞こえなかったふりをしたほうがいいような声だった。
「どういたしまして」
それだけ答えて、クレアは扉をそっと閉めた。
翌朝、盆を下げに行くと、スープの椀は空になっていた。
黒パンも、ひとかけら残っていなかった。
寝台ではリヴィアが眠り、その傍らでユーリが椅子に座ったまま眠っていた。母親の手を、両手で包むように握っている。
クレアは足音を忍ばせて盆を持ち上げた。
窓の隙間から入り込む朝の光が、二人の銀髪を同じ色に染めていた。
この時のクレアは、まだ何も知らない。
リヴィアがどんな人生を逃げ続けてきたのかも。
少年が母を救うため、どれほど大きな借金を背負うことになるのかも。
やがてユーリが姿を消し、代わりに「姉」を名乗る銀髪の女が、この宿で暮らし始めることも。
ただクレアは、その朝から少しだけ、二階の物音に耳を澄ませるようになった。
母親を背負って雨の中から現れた、無口な少年が。
今度はちゃんと、自分から「お腹が空いた」と言えるようになるまで。