変転の魔女 ―奈落都市グリンザ― 作:玉露
その年の初雪は、音もなく降った。
ランタン亭の二階、屋根裏に近い狭い部屋の窓は、鎧戸の合わせ目から白い光をこぼしていた。雪の光は月明かりより青い。燭台の蝋燭は半分まで減って、煤けた梁に、寝台に横たわる母の影を大きく揺らしていた。
母さんの息は、もう音でしか聞き取れなかった。
吸うたびに喉の奥で何かが擦れ、吐くたびに胸が小さく沈む。その間隔が、宵の口から少しずつ長くなっている。俺は寝台の脇の椅子に座って、その間隔を数えていた。数えていれば、次の一つが来ると信じていられた。
枕元の盥には、湯がまだ少し温かいまま残っていた。日が暮れる前に、宿の娘が運んできてくれたものだ。階下の竈で沸かしたばかりの湯気を立てて、娘は扉の隙間から盥だけを差し入れ、「お湯、置いときますね。何かあったら、呼んでください」と言った。それから、少し迷って、「……あなたも、ちゃんと食べてね」と付け足した。
返事はしなかった。できなかった。あの子の声が明るすぎて、この部屋に入れてはいけない気がした。
医者は、夕方に一度来て、すぐに帰った。灰の口の金貸しから借りた金で呼んだ医者だった。脈を取り、瞼を裏返し、薬瓶を二本置いて、「今夜が山だね」とだけ言った。山を越えた先に何があるのかは、言わなかった。
母さんの手を取る。
細い。薬草を摘み、乳鉢を挽き、呪いの紐を結んで、俺の髪を括ってくれた手が、今は枯れ枝のように軽い。指先だけが、熱でひどく熱かった。
「……ユーリ」
呼ばれて、顔を上げた。
母さんの目が、開いていた。熱に潤んだ菫色の目。俺と同じ色の目が、天井ではなく、ちゃんと俺を見ていた。
「起きてたの。……水、飲む?」
「いらない」
掠れた声だった。けれど、口の端が少しだけ上がっていた。恐れを深く呑み込んで笑う、母さんのいつもの癖だった。追っ手の松明が丘の向こうに見えた夜も、母さんはこうして笑って、「さ、荷物まとめな」と言ったのだ。
「あんたに、渡すもんがある」
「後でいいよ。今は寝てて」
「後は、ないよ」
母さんは、自分の言葉に驚いた様子もなかった。事実を一つ置くように言って、俺の手を、弱い力で引いた。
「シャツ、開けな」
意味が分からなかった。母さんはもう一度、同じことを言った。今度は、逆らえない声だった。
俺は外套を脱ぎ、シャツの紐を解いた。冬の部屋の空気が、汗ばんだ胸に冷たく触れた。母さんは震える指を伸ばして、俺の胸の真ん中、心臓の少し上に、人差し指の腹を置いた。
熱かった。熱で火照った指よりも、もっと熱い何かが、その一点から肌の下へ入ってきた。
「あんたは、男に生まれちまったから」
母さんの指が、動いた。
円を描き、線を引き、また円を描く。薬袋に縫い取ってあった紋に似ていた。子供の頃から見慣れた、母さんの印。指が通った跡に、焼けた針でなぞられたような痛みが残る。俺は歯を食いしばった。声を出したら、母さんの手が止まる気がした。
「魔女の力の入れ物が、ない。……だから、あたしの形を、あんたにあげる」
痛みが、皮膚の下へ沈んでいった。
骨だった。胸骨の奥で、何かが軋んだ。肋の一本一本が、自分のものでないように重くなり、それから、ゆっくりと形を変えようとして――止まった。止まった、というより、眠った。骨の中に、別の骨の形が畳まれてしまわれたのが分かった。言葉ではなく、身体で分かった。
母さんの指が、俺の胸から離れた。指先から、熱が抜けていた。
「……今の、何」
「〈変転〉。あたしの家の、秘術だよ」
母さんは息を整えるのに長いことかかった。蝋燭の火が二度揺れて、窓の外の雪の光が少し明るくなった。
「使い方は、身体が覚えてる。……あんたが要る時に、ほどけばいい」
「要る時って、いつだよ」
「逃げる時さ」
母さんは、また笑った。
「逃げ道は、多いほうがいい」
その言い方が、あまりにいつもどおりで、俺は笑いそうになり、それより先に、目の奥が熱くなった。
逃げてばかりの人生だった。俺が物心ついた時には、母さんはもう追われていた。村の外れで薬を売り、病人の熱を下げ、子供の咳を止め、そうして少しだけ信用されかけた頃に、教会の噂が届く。魔女がいる、と誰かが言う。その夜のうちに、俺たちは荷物をまとめる。母さんの背中を見ながら、俺は何度も、知らない道を歩いた。
母さんが俺に教えたのは、読み書きと、薬草の見分け方と、人に紛れて生きる用心深さと――それから、まっとうに生きろ、ということだった。嘘をつくな。借りたものは返せ。困っている人間を見捨てるな。追われて生きる魔女が、息子にそれだけは叩き込んだ。
「それとね、ユーリ」
母さんの手が、俺の手首を掴んだ。
さっきまで枯れ枝のようだった手に、どこからか、驚くほどの力が戻っていた。
「グリンザの穴にだけは、近づくんじゃないよ」
この町の真ん中に口を開けた、底なしの竪穴のことだと、すぐに分かった。〈奈落〉。この町は、あの穴を喰って生きている。冒険者が潜り、魔物の骸と光る石を担いで上がってくる。俺たちがこの町に流れ着いたのは、ここなら人に紛れられると思ったからだ。五十万の人間がひしめく町なら、流れ者の魔女と息子一人くらい、誰も気に留めない。
「なんで」
「あれは……あたしたちの血に、関わりがある」
それ以上、母さんは言わなかった。
言えなかったのか、言わなかったのか。菫色の目が、俺の顔の向こうの、どこか遠いところを見ていた。何かを思い出している目だった。俺の知らない何かを。
手首を掴んでいた指から、力が抜けた。
それが、最期の言葉になった。
母さんはそれから一度も目を開けず、明け方近く、雪が止む少し前に、息をしなくなった。数えていた間隔の、次の一つが来なかった。俺は長いあいだ、来ない一つを待っていた。
階下で、竈に火が入る音がした。薪を割る音。桶の水を汲む音。宿の一日が始まる音だった。
やがて階段を上がってくる、軽い足音が聞こえた。
足音は扉の前で止まり、ノックしようとして、やめた。たぶん、何かを察したのだと思う。しばらくして、足音は来た時よりもずっとゆっくり、階段を下りていった。
俺はシャツの紐を結び直した。
胸の真ん中、母さんの指が触れた場所は、もう痛まなかった。ただ、骨の奥に畳まれたものの重さだけが、確かにそこにあった。
窓の鎧戸を開けると、町は白かった。擂鉢の斜面に張りついた屋根という屋根に雪が積もり、煙突の煙が鉛色の空へまっすぐ昇っていた。底の方、町の真ん中に、雪を呑んで黒々と口を開けた穴が見えた。
近づくんじゃないよ。
母さんの声が、まだ耳の中にあった。
それが、俺がこの町で迎えた、最初の冬の朝だった。