変転の魔女 ―奈落都市グリンザ― 作:玉露
無縁墓地は、救貧院の裏手にあった。
下層〈溝〉のはずれ、蓋のない排水溝が三本合流するあたりに、すすけた石造りの院が建っている。その裏の、低い石垣に囲われた猫の額ほどの地面に、彫りもない粗末な木標が不揃いに並んでいた。名のあるものは半分もない。それでも、どの木標の根元にも冬支度の敷き藁が敷かれ、小さな野の花が供えてあった。
雪は昨日のうちに溶けて、地面は泥だった。
母さんを入れた棺は、救貧院の下男が二人で担いできた。棺と呼べるほどの代物ではない。継ぎ接ぎの板を打ち付けた箱で、蓋の隙間から、母さんを包んだ麻布の白が覗いていた。俺に払える金はなかった。救貧院は、身寄りのない死人を只で埋める。その只で、俺は母さんを土に返した。
「お名前を、伺っても」
木標に字を書く係のシスターが、筆を手に訊いた。
俺は少し迷ってから、母さんがこの町で使っていた名を答えた。
「エダ、です」
ランタン亭の宿帳にも、金貸しの証文にも、母さんはそう書いていた。本当の名は、どこにも書かなかった。名前は追っ手の足跡になる、と母さんは言っていた。だから母さんは、本当の名を持ったまま、偽の名で死んだ。
シスターは木標に「エダ」と二文字だけ書いた。墨が板の木目に滲んで、字の端がぼやけた。
祈りを捧げたのは、もう一人の、若いシスターだった。
修道頭巾の下に収めた髪が、項からこぼれて、灰色の空の下でそこだけ月の色をしていた。俺より少し年上に見えた。棺が穴に下ろされるあいだ、彼女は胸の前で両手を組み、低く透き通る声で祈りの言葉をなぞっていた。光神ルーメンの御加護を、迷える魂に安らぎを。
教会の祈りだった。母さんを焼こうとしてきた神の祈りだ。
俺は黙って、それを聞いていた。母さんなら、たぶん笑っただろう。笑って、「ありがたく貰っときな。祈りに罪はないよ」と言っただろう。
土がかけられ、木標が立てられた。下男たちは鍬を担いで去り、字を書いたシスターも院へ戻った。
祈りを捧げた若いシスターだけが、残っていた。
彼女は木標の根元に藁を敷き、どこから摘んできたのか、萎れかけた白い花を小石で留めた。それから立ち上がって、俺に一礼した。
「……お母さまは、安らかでしたか」
「分かりません」
正直に答えた。
「最期は、ずっと眠っていたので」
「そう、ですか」
彼女は頷いた。慰めの言葉を探して、見つけられなかったような頷き方だった。代わりに、両手で俺の右手を包んだ。冷えた指だった。冷えているのに、包まれた場所だけ、不思議と温かかった。
「無理を、なさらないでくださいね。……光神ルーメンの御加護が、ありますように」
そう言って顔を上げた彼女の目が、俺の目とまっすぐ合った。
澄んだ菫青の目だった。その目が、ふと、止まった。
俺の顔を見ているのではなかった。俺の目の奥の、もっと深いところを覗き込んでいるような、焦点の合わない止まり方だった。包んでいた指が、かすかに強張った。
「……血の、色が」
彼女の唇が、そう動いた。
聞き返す前に、彼女ははっとして手を離した。ヴェールの端を引き寄せて、顔の半分を隠す。
「も、申し訳ありません。なんでも、ありません。……失礼、いたします」
逃げるように院の方へ歩いていく背中を、俺は見送った。
血の色。
胸の真ん中が、かすかに疼いた。母さんの指が触れた場所だった。
ランタン亭に戻ったのは、日が暮れてからだった。
黒鉄区の市場通りに面した、木骨組の三階建て。軒先の腕木に吊るした魔石灯が、琥珀色の光を石畳に落としていた。扉を押すと、竈の煙と焼けた麦の匂いが押し寄せてきて、食堂の客の声が、急に遠い世界のものに聞こえた。
カウンターの奥で、宿の親父がちらりとこちらを見た。無骨な、職人気質の男だ。何も言わずに、顎で階段を示した。部屋代のことは、まだ何も言われていない。言われたら、払えない。
階段の下で、銀色の髪が動いた。
盆を抱えた宿の娘が、俺を見つけて足を止めた。昨日、扉の前まで来て、ノックをやめた子だ。何か言おうとして、口を開いて、閉じた。
結局、彼女は何も言わなかった。ただ、俺が階段を上がりきるまで、下から見上げていた。
部屋の鍵をかけた。
燭台に火を入れると、狭い部屋が浮かび上がった。寝台が一つ。母さんが二晩前まで寝ていた寝台だ。藁の敷布は剥がされて、新しいものに替えられていた。宿の娘がやったのだろう。母さんの匂いは、もうほとんど残っていなかった。
壁に、小さな鏡が掛けてあった。
錫の枠の、歪んだ硝子の安物だ。母さんが髪を梳かすのに使っていた。覗き込むと、燭の火の中に、自分の顔が映った。銀の柔らかな髪を後ろで小さく括った、痩せた子供の顔。十八にもなって、まだ誰も十八とは思わない顔。菫色の目が、疲れて落ち窪んでいた。
胸の真ん中に、手を当てた。
骨の奥に、畳まれたものがある。母さんが遺したものが。
使い方は、身体が覚えてる。母さんはそう言った。あんたが要る時に、ほどけばいい。
今、要るわけではなかった。逃げる時ではなかった。ただ、確かめずにいられなかった。母さんが最期に俺に遺したものが何なのか、この目で見ておきたかった。それを見ないまま、今夜を越せる気がしなかった。
胸の中の、畳まれたものの端に、意識で触れる。
糸の結び目のような手触りがあった。それを、そっと引いた。
――骨が、鳴った。
肋が内側から押し広げられ、同時に縮んでいく。矛盾した二つの力が、胸の中で同時に働いていた。鈍い熱が背骨を駆け上がり、肩が狭まり、腰の骨が軋みながら開いていく。膝が折れそうになって、壁に手をついた。その手の指が、目の前で細く長く変わっていく。爪の形が変わる。手の甲の骨の浮き方が変わる。
頭皮が引きつれた。括っていた髪の紐が弾けて、何かが背中を滑り落ちた。髪だった。銀の髪が、波打ちながら腰まで流れ落ちていく。
胸が、重くなった。
前に引かれるような、知らない重さだった。シャツの布地が張りつめて、紐が肌に食い込んだ。息を吸おうとして、吸う場所が変わっていることに気づいた。喉が細い。声を出そうとしたら、出てきたのは、聞いたことのない高い掠れ声だった。
「……っ、は……」
熱が引いていった。
壁に手をついたまま、どれくらいそうしていたのか分からない。目の高さが変わっていた。鏡の位置が、さっきより低い。俺は顔を上げた。
鏡の中に、女がいた。
長い銀の髪が、燭の火を受けて波打っていた。菫色の目。整いすぎた鼻筋と、ふっくらした唇。俺より一回りも年上に見える、大人の女の顔だった。張りつめたシャツの胸元が大きく膨らみ、細く括れた腰の下で、ズボンの布地が窮屈に引きつれていた。
知らない女だった。
知らない女なのに、その顔を、俺は知っていた。
母さんだった。
俺が生まれる前の、若い頃の母さん。俺は一度も見たことのない、けれど、母さんの笑い方の奥にずっといた顔。病みつく前の、目尻にまだ皺のない、追われ疲れる前の母さんが、鏡の中から俺を見返していた。
「……母さん」
女の唇が動いて、女の声で、そう言った。
俺は鏡に手を伸ばした。歪んだ硝子の向こうで、細い指が、同じように伸びてきた。指先が硝子に触れた。冷たかった。
あたしの形を、あんたにあげる。
これが、そうなのか。母さんが遺したのは、母さんそのものの形だったのか。
涙が出た。男の身体で泣く時とは、違う泣き方だった。嗚咽より先に、涙が勝手にこぼれた。借り物の睫毛が濡れて重くなるのを、俺は他人事のように感じていた。
その時だった。
階段を上がってくる足音がした。重い。一段ごとに、板が悲鳴を上げるような足音だった。宿の娘の軽い足音でも、親父の足音でもない。
「おう、ユーリ! いるんだろ、開けな!」
だみ声が、扉越しに響いた。
血の気が引いた。聞き覚えのある声だった。母さんの薬代を借りに行った夜、灰の口の質店の奥で、帳場から身を乗り出して俺を見下ろした男の声。
「母ちゃんが死んだからって、夜逃げなんざ考えてねえだろうなあ! 証文の名義はてめえだぞ、ユーリ!」
拳が扉を叩いた。蝶番が軋んだ。
戻らなければ、と思った。今すぐ、元の姿に。
胸の中の結び目を探した。見つからなかった。ほどいた時の糸の端が、どこにもない。骨の奥を探るたびに、知らない形の骨が指先に触れるだけだった。焦れば焦るほど、手がかりが滑っていった。
「開けねえなら、こっちで開けるぜえ」
扉が、蹴り開けられた。
古い閂が弾け飛び、廊下の暗がりから、樽のような胴回りの男が転がり込むように入ってきた。臙脂の胴着を汗で湿らせ、太い指に指輪を三つ嵌めている。禿げ上がった額が燭の火を照り返した。金貸しのバッソだった。後ろに、頬に刀傷のある大男を一人連れていた。
バッソは部屋を見回し、寝台の上にもその下にも少年がいないのを見て取り、それから、部屋の真ん中に立つ女に目を留めた。
目が、細くなった。
「あん?」
女の顔から、喉へ、張りつめたシャツの胸へ、腰へ、脚へ。視線が這い下りていき、また這い上がってきた。
「誰だ、てめえは」
頭が、真っ白になった。
何か言わなければならなかった。この女が誰なのか。なぜユーリの部屋にいるのか。ユーリはどこへ行ったのか。どれか一つでも間違えたら、終わる。何が終わるのかも分からないまま、ただ、終わると分かった。
口が、勝手に動いた。
「……姉です」
自分の声とは思えない、女の声だった。
「ユーリの」
バッソの眉が、ぴくりと上がった。
沈黙があった。燭の火が揺れた。バッソの後ろで、刀傷の大男が退屈そうに首を鳴らした。
やがてバッソは、喉の奥で痰の絡んだ笑いを鳴らした。
「へっへ……ほおん? 姉貴がいたたあ、聞いてねえが」
一歩、近づいてきた。脂と安酒の匂いがした。俺は下がろうとして、背中が壁に当たった。
「弟はどうした。どこへ行った」
「……外の、仕事に。今夜は、戻りません」
「仕事ねえ」
バッソは俺の顎の下に、太い指を差し入れた。持ち上げられた。指輪の冷たい金属が、喉に当たった。俺は動けなかった。男の指一本に、身体が凍りついていた。少年の身体なら、払いのけられたかもしれない。この身体では、どうしていいのか分からなかった。
「……ま、いいや」
指が離れた。
バッソは胴着の懐から、折り畳んだ紙を取り出して広げた。燭の火にかざす。見覚えのある紙だった。母さんの偽の名と、俺の名と、数字が書かれている。
「母ちゃんの薬代に、薬師の出張料。利子込みで、〆て二千だ。期日は、今日から三十日。びた一文まからねえぜ」
二千。
母さんが寝込んでから、俺が一日中走り回って稼いだのは、日に十Gにもならなかった。三十日で二千。数字が、数字のまま、頭の中で意味を持たなかった。
「弟によぉく言っとけや。期日を一日でも過ぎたら、証文は〈鎖の座〉に回る。……意味は、分かるよなあ?」
檻通りの奴隷商だ。借金のかたに、人を商品にする組合。首輪を嵌められたら、自分では外せない。
「……分かり、ます」
「いい子だ」
バッソは証文を懐に戻し、もう一度、俺を上から下まで眺めた。今度は、隠す気もなく、ゆっくりと。舌が、厚い唇を舐めた。
「にしても、姉ちゃん。灰の口にゃもったいねえ身体してんなあ、ええ?」
背中を、冷たいものが這った。
「金に困ったら、うちに来な。姉ちゃんなら、証文なしで貸してやってもいいぜえ。……返し方ってのはなあ、金だけじゃねえのよ。へっへっへ」
笑いながら、バッソは背を向けた。刀傷の大男が、壊れた扉を足で脇へ寄せる。廊下へ出かけて、バッソは振り返った。
「弟によろしくなあ。……顔くらい、見せろって言っとけや」
足音が、階段を下りていった。
板の悲鳴が遠ざかり、階下の食堂のざわめきが一度大きくなって、また元に戻った。
俺は壁に背をつけたまま、ずるずると床に座り込んだ。
膝が震えていた。震えている膝が、自分の膝ではなかった。白く、柔らかく、ズボンの布地の下でいやに丸みのある膝だった。両手で抱えると、胸の重みが腕に当たった。
姉です。
その一言が、部屋の中にまだ残っている気がした。
もう、取り消せない。今さら少年の姿で出ていって、「さっきのは俺でした」と言うわけにはいかない。それを言えば、俺が何者なのかを言うのと同じだ。人の形が変わる。魔女の術だ。この町の広場では、魔女は焼かれる。
それに、と、冷えていく頭の片隅で考えた。
証文の名義は、ユーリだ。バッソが追うのは、ユーリだ。期日を過ぎて〈鎖の座〉に回されるのも、ユーリだ。この町の外には、母さんを追ってきた教会の狩人たちがいる。その連中が覚えているのは、母さんと、母さんの後ろを歩いていた銀髪の子供の顔だ。
この女の顔なら。
誰も、知らない。
逃げ道は、多いほうがいい。
母さんの声が、耳の奥で笑った。母さんは、こうなることまで分かっていたのだろうか。それとも、ただ、生き延びてほしかっただけだろうか。
長い時間をかけて、胸の中の結び目を探した。
焦らずに探すと、それはちゃんとそこにあった。ほどいた糸の端を、もう一度結び直す。骨が軋み、熱が背骨を下り、髪が縮んで、胸の重さが消えていった。肩が戻り、重心が上がり、目の高さが少し上がる。
鏡の中に、痩せた銀髪の少年が戻ってきた。
ぶかぶかになっていたシャツが、元通りの寸法で肩に乗った。俺は鏡の前で、しばらく自分の顔を見ていた。さっきまでそこにいた母さんの顔が、もうどこにもなかった。
寝台に横になった。母さんが死んだ寝台だった。
壊れた扉の隙間から、廊下の冷気が流れ込んできた。階下で、誰かが笑っていた。竈の火の爆ぜる音がした。宿の娘の、「はーい、ただいまー」という明るい声がした。
明日から、俺は姉になる。
この町で、母さんの顔をして生きる。
天井の梁の染みを数えながら、俺は、母さんが生きているあいだ一度もつかなかった種類の嘘を、自分がついたのだと思った。母さんは逃げるために名前を偽った。俺は、名前ごと自分を偽った。
嘘をつくな、と母さんは言った。
ごめん、母さん。
返事は、もちろん、なかった。