春。
桜の花びらが舞う坂道を、俺は一人で歩いていた。
烏野高校。
今日から始まる高校生活に、特別な期待があるわけじゃない。
中学まで続けていたバレーボールも、もうやめるつもりだった。
理由は単純だ。
「……俺には向いてなかった」
そう呟いて、校門をくぐる。
入学式を終え、教室で簡単な自己紹介を済ませる。
クラスメイトとの会話もそこそこに、放課後になると俺はまっすぐ帰ろうとした。
そのときだった。
体育館のほうから、何度もボールを叩く音が聞こえてきた。
――ドンッ。
――バシッ!
足が止まる。
懐かしい音だった。
「……まだやってるんだな」
体育館を覗くつもりなんてなかった。
それなのに、気がつけば足はそちらへ向かっていた。
扉の隙間から中を見る。
そこでは、数人の男子生徒がバレーボールを追いかけていた。
その中でも、とりわけ目を引く二人がいた。
小柄な一年生。
そして、長身の二年生。
「すげえ……」
思わず声が漏れた。
小柄な選手が、ありえない高さまで跳ぶ。
次の瞬間。
鋭いスパイクが床を叩いた。
「ナイスキー!」
体育館に声が響く。
その光景を見ていると、不思議と胸の奥が熱くなった。
もう一度、バレーをやりたい。
そんな気持ちが、ほんの少しだけ顔を出した。
「見学?」
突然、背後から声がした。
「うわっ!」
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の女子生徒だった。
長い黒髪。
落ち着いた表情。
手にはバレーボールが入った袋を持っている。
俺は一瞬、言葉を失った。
「……えっと」
「男子バレー部?」
「い、いや。俺は一年で……」
「そう」
彼女は淡々と答える。
そして、体育館の中へ視線を向けた。
「見ていく?」
「……いいんですか?」
「別に」
そう言って、彼女は体育館の扉を開けた。
俺はその横顔を見ながら、ふと思う。
――綺麗な人だ。
それが、俺と清水潔子の最初の出会いだった。
***
翌日。
俺は男子バレー部の部室前に立っていた。
昨日の光景が頭から離れなかった。
バレーを辞めた理由なんて、大したものじゃない。
ただ、自分より上手い奴がいくらでもいることに気づいて、勝手に諦めただけだ。
でも。
昨日、あの体育館で見たプレーを思い出すと、もう一度ボールを触りたくなった。
「……入部届、出すか」
そう呟いた瞬間。
「何してんだ?」
「!」
後ろから声がする。
振り返ると、昨日見た小柄な一年生が立っていた。
「お前、昨日体育館にいた奴だろ!」
「覚えてたのか?」
「ああ! 俺、日向翔陽!」
「俺は――」
名前を告げる。
すると日向は、嬉しそうに笑った。
「お前もバレーやるのか?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「まだ迷ってる」
「じゃあ一緒にやろうぜ!」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
俺は思わず笑ってしまう。
「……お前、すごいな」
「何が?」
「いや。なんでもない」
その日。
俺は男子バレー部の入部届を提出した。
そして、もう一つ。
俺には新しい目標ができた。
もう一度、本気でバレーをやること。
そして――
「……清水さん、今日もいるかな」
自分でも気づかないうちに、体育館へ向かう足が少しだけ速くなっていた。
***
「こんにちは」
体育館に入ると、清水潔子がいた。
いつものように、部員たちのために備品を整理している。
俺に気づくと、彼女は少しだけ顔を上げた。
「昨日の一年生」
「覚えてくれてたんですね」
「うん」
たったそれだけ。
それだけなのに、妙に嬉しかった。
「今日から入部することになりました」
「そう」
「よろしくお願いします」
頭を下げる。
しばらく沈黙が続いた。
そして彼女は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「頑張って」
その一言で。
昨日まで辞めようと思っていたバレーを、俺は本気で続けようと思った。
――この人のいる場所で。
それが、俺の高校生活の始まりだった。