ひとりで歩ける、その先で   作:あいおふやまま

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第二話 言葉

 伸びてきた手を取れないまま、俺は二人の顔を見ていた。

 

「どうしたの」

 

 白銀の髪の子が俺の顔を覗き込んだ。俺はその口元から目を離さず、もう一度動くのを待った。

 

「行かないの」

 

 金髪の子が伸ばした手を揺らした。

 

 何が変わったのか、まだ分からなかった。答えようとしても舌は動かず、息だけが口から抜けた。二人は顔を見合わせたが、返事を待つことはなかった。

 

——レオン、まだあの石が気になるんじゃない。

 

 白銀の髪の子が肩をすくめる。金髪の子は平たい石を草の上へ放り、すぐに拾った。

 

「もう一回」

 

 金髪の子が低い丘の向こうを指さした。初夏の草は俺たちの膝より高い。

 

「向こうまで」

 

 白銀の髪の子が頬を膨らませた。

 

——こんどは私が勝つから。「さっき」はころんだだけ。

 

 俺は白銀の髪の子へ顔を向けた。

 

「走ろ」

 

 金髪の子に袖を引かれ、俺も草へ足を踏み入れた。

 

——「先」についたほうが勝ちだからね。

 

 俺は金髪の子の横へ並び、低い丘へ爪先を向けた。

 二人が走り出す。袖が手から抜けてから、俺もその後を追った。短い足が草に取られ、三人とも左右へ何度もよろけた。

 丘まで着く前に、白銀の髪の子が転んだ。すぐに起き上がり、金髪の子へ草の汁がついた手を振る。

 

——「リク」、いまのはなし。草に足を取られたんだから。

 

 俺は二人のそばへ寄り、白銀の髪の子の口を見た。リクが首を振る。

 

「リーゼの負け」

 

 リーゼがもう一度何かを言った。長い音は聞き取れなかった。俺はしゃがまず、その場に立っていた。リーゼは土を払いながら同じ調子で言い直した。それも途中から崩れた。

 

「もう一回」

 

 リクが丘を指す。今度は袖をつかまれる前に走った。

 帰る頃には、膝も肘も草の汁で緑になっていた。母は戸口に立った俺を見て、両手を腰へ当てた。

 

——まあ、どこでそんなに汚してきたの。膝まで真っ青じゃない。

 

 俺は顔を上げなかった。後ろで言い合うリクとリーゼの口元を、振り返って見ていた。

 母が俺の腕を取り、裏返し、擦り傷がないか確かめる。手の動きは分かる。声は分からない。

 父が畑から戻り、俺の膝を見た。

 

——転んだのか。

 

 短いのに、それも聞き取れなかった。父は俺の頭を一度撫で、土のついた靴を脱いだ。母が父へ何か言い、父が短く返す。どちらの音にも継ぎ目はなかった。

 

 翌日、戸の外で二人の声がした。俺は待たずに外へ出た。リーゼは細い枝を両腕に抱えている。

 

——「きょうは枝で家をつくる。大きいのを」集めて。

 

 俺はリーゼの正面へ回った。リーゼは返事を待たず、落ちている枝を拾いながら、もう一度同じことを言った。俺はその口元が見えるところを歩いた。

 草地へ着くと、リーゼが枝を下ろしてこちらを向いた。

 

「きょうは枝で家をつくる。大きいのを集めて」

 

 俺はリーゼが示した枝へ手を伸ばした。

 

「リク、そっち持って」

「リーゼがそっち持ってよ。ぼくは大きいのを持つから」

 

 リクは腕ほどもある枝を持ち上げようとして、尻から地面へ落ちた。リーゼが笑う。

 

「大きいのを持つって言ったでしょ」

「言ったけど、これは大きすぎるよ」

 

 俺たちは枝を草の上へ並べた。家と呼ぶには屋根がなく、壁もない。

 

「ここが私のところ。リクは向こうにつくればいいよ」

「何もないよ。ぼくはこっちに座る」

 

 リーゼとリクと三人で座る。完全に体がはみ出しており、これではただの地面と変わりはなかったが、二人は嬉しそうだった。

 

 それから何日か、二人が話し始めるたび、俺は声のそばへ行った。長い言葉が崩れると、その口がもう一度動くまでそこにいた。二人は答えがなくても先へ進み、同じことを何度も言った。

 戸口では大人の声が長い音になる。

 

——また来たの。今日は暑いから、川のほうへ行っては駄目よ。

「川じゃなくて、昨日の家の続きをしよう」

——お昼までには戻ってくるのよ。

「分かってる。お腹が空いたら帰ってくるよ」

 

 リクが手を伸ばすより先に、俺は二人と並んで外へ出た。

 母の声は、耳を向けるとすぐに崩れた。畑から戻った父の声も、道で呼び合う村人の声も同じだった。リクとリーゼのどちらかが口を開けば、長い言葉まで形になった。

 道へ出ると、俺はリクとリーゼの間に入った。どちらかの口が動くたび、そちらへ顔を向けた。

 

      ◆

 

 草地の長い草が刈られ、道の脇に束ねて干される頃、戸も窓も一日じゅう開け放たれるようになった。

 母の話し方が変わった。

 俺の前へしゃがみ、両手で椀を持つ仕草を見せる。

 

「椀を。持ってきて」

 

 一語ごとに、妙に長い隙間があった。声も普段より大きい。

 俺は棚の下から木の椀を取り、母へ渡した。

 母の目が丸くなった。

 

「そう。これ。よく、できたね」

 

 俺は空いた手を下ろし、母の顔を見た。

 母は椀を胸へ抱え、笑った。俺の頬を撫でる手に、粉がついていた。

 そこへ父が入ってくる。

 

——水路のところが崩れてる。午後から直す。

 

 母が振り向いて返す。

 

——この暑さなのに。先に何か食べていって。

 

 俺は椀を渡した場所に立ったまま、二人を見ていた。

 母は俺へ向き直る。

 

「座って。ここ」

 

 俺は母の指した腰掛けへ向いた。

 母は俺の目を見たまま、腰掛けをもう一度指した。

 俺は示された腰掛けへ座った。母は安心したように息を吐き、豆と青物の入った椀を置く。

 

「食べて。ゆっくり」

 

 匙を取ると、母は満足そうに頷いた。

 母が切り分けてくれる声は、二人の以外から初めて届いた言葉だった。

 幼い子へ話すよりも、さらにゆっくりと。

 

「水」

「戸」

「ここへ」

 

 母は必死だった。だから俺も、分かったものにはすぐ従った。母が嬉しそうにするたび、冷たい水を飲んだ後のように胸の奥が縮んだ。

 

 父の話し方はあまり変わらなかった。

 干し草の束の前で、父は俺を見て顎を動かした。

 

「来い」

 

 俺は父の前まで歩いた。

 小さな束を渡される。

 

「持て」

 

 両腕で抱えると、父は納屋の壁際を指した。

 

「そこだ」

 

 父はもともとあまり喋らなかった。俺への気遣いでそうしているのではなかったが、それが都合よく働いた。

 束を運び終えると、父は俺の肩を叩いた。

 

——次はこっちの「小さいの」を、崩さないように積んでみろ。

 

 俺は大小の束を見比べた。

 俺が立ったままでいると、父は眉を寄せた。もう一度、今度は束を指して言う。

 

「これを。そこへ」

 

 俺は小さな束を抱え直し、壁際へ運んだ。

 できることと、できないことの境が、毎日動いた。

 朝に分かった言葉を、夕方には取り落とすこともある。母の最初の二語だけが残り、その先が音へ戻ることもあった。聞き直す術がないので、母の手元を見て当てるしかない。

 それでも少しずつ聞き取れる言葉は増えていった。

 

      ◆

 

 盛りの夏が終わりに近づくと、麦の色が変わった。

 青みが抜け、畑一面が乾いた金色になる。穂を撫でる風の音まで軽くなった。

 刈り入れの朝、母は俺の上着の紐を結び直し、指を四本立てた。

 

「今日で、四歳ね」

 

 俺の髪を撫でると、すぐ鎌を持って外へ出た。竈には朝の粥が残り、食卓の上に特別なものはなかった。父はもう畑にいる。

 村中の人間が麦畑へ出ていた。

 腰を曲げた大人が鎌を動かし、切った麦を後ろの者が束ねていく。乾いた茎が擦れ、同じ間合いでざくざくと倒れた。荷車の周りでは年上の子供たちが束を運び、小さい子供は俺も含めて畑の端へ集められていた。

 リクとリーゼが左右に座る。少し離れたところでは、俺たちよりずっと大きい少年が退屈そうに踵で土を削っている。幼い子が二人、麦藁を取り合って泣きかけていた。

 

「ここから出たら駄目だって」

 

 リクが刈り手の列を眺めながら言った。

 

「出ないよ。鎌があって怖いもん」

 

 リーゼはそう言いながら、畑へ入りかけたリクの服を引いた。

 大人の声がいくつも飛び交う。

 

——「そっちの束を先に荷車へ積んでくれ。」雲が出る前に片づけたい。

——「紐が足りないよ。納屋からもう一巻き」持ってこさせよう。

——水は木陰だ。「倒れる前に飲め。」

 

 拾った端から、次の声に埋もれていく。鎌の音と、麦を踏む足音と、何人もの言葉が重なっていた。

 昼が近づき、刈られていない麦が畑の半分ほどになる。空気は乾いているのに、汗が首から背中へ流れた。

 母が水桶を運んでくる。誰かが受け取り、別の誰かへ声を投げた。

 

——「ヨナス、そっちが終わったら」畑の端も頼む。

 

 父は鎌を動かし続けていた。声の主が息を吸い直す。

 

「ヨナス、聞こえてるか。そっちが終わったら畑の端も頼む」

 

 俺は刈り手の列から父を探した。

 父が顔を上げ、鎌を持った手を振る。

 

「分かった。そこまで行ったら替わる」

 

 父の手が麦の穂の向こうへ戻った。

 すぐそばで、年嵩の女が母へ水の椀を返した。

 

「グレーテ、この子たちは本当に丈夫だね。朝からずっとここにいるのに、一度もぐずらない」

 

 母は椀を桶へ戻した。

 

「ええ。体は丈夫なんです」

「丈夫なのは何よりだよ。畑は体が資本だからね」

 

 麦束を抱えた男が、俺を見て足を止めた。

 

「ただ、働き方を覚えられるのかレオンは心配だな。言って聞かせられないとなると、危ない仕事もある」

「うちのは二つでもう喋ってたよ。同じ年頃でも、ずいぶん違うもんだ」

 

 別の女が悪気なく言い、俺へ笑いかけた。その手は麦の切り口で細かく傷ついていた。

 

「一度、教会へ相談してみたらどうだい。子供のことも見てくれるだろう。早いほうが、この子のためだよ」

「この子は分かってます」

 

 母の返事だけが少し速くなった。

 

「頼んだこともします。家の手伝いだって、言えばちゃんとできるんです。言葉が出ないだけで」

「責めてるんじゃないよ、グレーテ。みんな心配してるんだ」

「分かっています」

 

 父は何も言わなかった。

 足元の麦を刈り終え、刃についた茎を親指で払う。口を挟まず、次の株へ鎌を入れた。いつもと同じ速さだったが、柄を握る指の節だけが白かった。

 大人たちは、俺が聞いているとは思っていない。

 分かっている、と伝えるだけでよかった。舌を持ち上げ、唇を開く。息は歯の裏を擦って抜けただけで、誰もこちらを見なかった。

 膝に落ちていた麦粒を拾い、指先で殻を剥いた。中身はまだ少し柔らかい。

 年嵩の女が俺の前へしゃがみ、水の椀を差し出した。

 

「喉が渇いたでしょう。ゆっくり飲みなさい」

 

 俺は両手で受け取った。

 女は満足そうに立ち上がり、母へ言う。

 

「ほら、ちゃんと分かってるようにも見えるね」

「だから、分かってるんです」

 

 母は今度こそ強く言った。

 少し離れたところで、年上の少年がまだ踵で畝を削っていた。

 

「ハンス、畝を崩すんじゃないよ。小さい子たちを木陰へ連れていっておくれ」

 

 ハンスは露骨に嫌そうな顔をしたが、土を蹴るのはやめた。

 

「ほら。行くぞ」

 

 俺たちより小さい子の手を取り、木陰へ歩き出す。リクがすぐ後へ続き、リーゼが俺の手を取った。

 背後で女たちの話がもう次へ移っていた。

 

「あの子も来年の冬にはハンスと一緒に行かせるのかい」

「そのつもりだよ。五つになるし、教会で字を教わる歳だからね」

 

 速い声だった。俺はリーゼに手を引かれたまま、木陰へ向かった。

 

      ◆

 

 木陰には、刈り入れの日に増やされた飯が運ばれていた。新しい麦を柔らかく煮た粥が、大鍋から順に配られている。母は深い椀を一つ選び、俺の前へ置いた。

 四歳になった日の祝いはなかった。日が長いうちに、一本でも多く刈らなければならない。

 母は椀の縁を親指で拭った。

 

「熱いから。ゆっくりね」

 

 俺は頷き、匙で表面を押した。

 粥に張った薄い皮が、端から静かに折れた。

 




Tips ── 料理
▪ 麦の粥
グリュッツェ(Grütze)は、大麦や燕麦を粗く挽いた挽き割り穀物のこと。
それを煮た粥は中世ドイツの農民の主食で、パンと並ぶ日常食でした。
大麦のものをゲルステングリュッツェ、燕麦のものをハーファーグリュッツェと呼びます。
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