折れた皮を匙で押し込み、粥と一緒にすくった。口へ運ぶ前に、舌を持ち上げる。
分かった。
そう返すつもりで唇を開いた。歯の裏を息が抜け、匙の上の粥が少し冷えただけだった。
母は大鍋のそばで、次の椀を受け取っていた。父も村人も麦畑へ戻る支度をしている。誰もこちらを見なかった。
もう一度、舌先を上の歯へ当てた。今度は顎まで力が入り、口が閉じた。喉の奥は鳴らない。
俺は粥を食べた。いつもより早く匙を動かした。
畑へ戻った大人たちの声が、木陰まで届いていた。どの言葉にも継ぎ目がある。誰が誰を呼んでいるのかも、何を頼んでいるのかももう分かる。
返す声だけがなかった。
◆
刈った麦が納屋へ入り、朝の空気が冷えるようになると、村では脱穀が始まった。棒で穂を打つ音が一日じゅう続き、細い川の水車は夜になっても止まらなかった。
俺は納屋の裏へ回り、積まれた麦藁の陰にしゃがんだ。
口を大きく開ける。息を吸う。喉を閉じようとすると首まで固くなり、吐こうとすると先に口から空気が逃げた。
舌を上げれば顎がついてくる。唇を丸めれば舌が引っ込む。別々に動かしているつもりなのに、どれか一つへ力を入れると残りまで同じ方向へ引かれた。
何度目かで、喉が短く鳴った。
「ぁ」
出したかった音とは違った。細く、裏返り、麦藁の隙間へ消えた。
同じことをしようとすると、今度は息しか出ない。喉のどこを使ったのか、自分でも分からなかった。
口の奥が痛くなり、唾を飲み込む。口のほうは、痛むだけまだましだった。
別の日、井戸端で母を待っていると、籠に入れられた赤ん坊が声を上げていた。
「あう。ば。うあ」
意味はなかった。そばにいる女も返事を求めず、布を絞りながら似た音を返している。
「ああ、そうかい。うあ、なのかい」
赤ん坊は足をばたつかせ、また口を動かした。唇が閉じ、開き、舌が覗く。外れた音が出ても止めない。喉を鳴らし、息を漏らし、同じ形を何度も作っていた。
俺は自分の口元へ手を当てた。
生まれて間もない頃、意味のない声を出すのをやめた。通じないものを続けても仕方がないと思ったからだ。
あれは喃語で、口を動かす稽古でもあったらしい。
自業自得だった。
壊れているわけではない。それなら、やることは決まっていた。
赤ん坊の籠から少し離れ、井戸の石囲いへ顔を向ける。唇を閉じ、開いた。
「ま」
声にはならなかった。鼻から息が抜け、妙な音がした。
籠の赤ん坊が、なぜか楽しそうに笑った。
家では、母も俺の口を動かそうとした。
「み、ず」
母は椀を持ち、唇を大きく動かした。
「み」
俺は口元を見て、同じ形を作る。舌をどこへ置くのかが見えない。息を出すと、唇の隙間から弱い音が漏れた。
「ぅ」
「もう一度。み」
母の目が俺の口へ集まる。父まで仕事の手を止め、食卓の向こうから見ていた。
喉が固まった。
父は椀を受け取り、自分の顔へ近づけた。
「みず」
「あなた、もう少しゆっくり」
「み……ず」
父は普段の倍ほど口を開けた。眉間に皺が寄り、何かを脅している顔になった。
「そんな怖い顔をしたら、余計に出ないでしょう」
父は皺を消そうとした。口だけが横へ広がり、さらに怖くなった。
俺の鼻が鳴った。
母が口元を押さえ、父は椀を置いた。笑われたと思ったらしく、今度は真顔で俺を見る。その顔でまた鼻が鳴った。
「ほら、あなたが変な顔をするから」
「普通の顔だ」
父は不満そうに水を飲んだ。
翌朝、父は束ねた根菜を納屋へ運んだ。俺に言葉で教える代わりに、小さな籠を一つ持ち上げて壁際へ置く。それから同じ大きさの籠を俺の前へ置き、手を離した。
俺が持ち上げるまで、父は待っていた。
紐の結び方も同じだった。父が一度結び、ほどいて渡す。俺が真似る。違えば黙って自分の手を重ね、指の順を戻した。
俺が結び終えると、父は紐を引いて確かめ、頷いた。
◆
秋の終わりには霜が降りた。豚を飼うハンスの家で屠畜があり、村の何軒かが手伝いに出た。
その日の夕食にブルートモースが出た。血が固まる前に挽き割り麦と刻んだ内臓を混ぜ、香草と塩を入れて火の縁で焼き固めたものだ。血も内臓も日持ちしないので、屠った日にしか作られない。
切ると断面が黒く、鉄の味がした。濃い匂いが家に残り、板戸を閉めても消えなかった。
食後、母は棚の上から薄い本を下ろした。
革の表紙は角が丸くなり、綴じ糸が一か所緩んでいる。婚礼のときに教会から渡された祈祷書で、特別なものではないらしい。ほかの家にも同じような本がある。
母は竈の火へ椅子を寄せ、本を膝へ置いた。
最初の数行は、紙を見なくても声が出た。母の指だけが文字の並びを滑っていく。俺は横から覗き込み、指と声を追った。
ページをめくったところで、母の声が止まった。
「……日々の、糧を」
指先が一つの形に戻る。
「糧を、与え……」
母は次の形でまた止まり、唇だけを動かした。何度か小さく読み直してから、ようやく先へ進む。
翌晩、俺は棚の下に立ち、祈祷書を指した。
「読んでほしいの?」
頷くと、母の顔が明るくなった。
「同じところでいい?」
俺は本を持つ母の腕へ触れ、昨日の頁を開かせた。
母はまた同じ行でつっかえた。同じ形へ指が戻り、同じ音を拾う。その次の夜も、止まる場所は変わらなかった。
知らない頁を開かせると、母の指はもっと遅くなった。
◆
雪が積もると、外の仕事はほとんどなくなった。父は家の中で道具を直し、母は糸を紡いだ。リクとリーゼも朝から来て、板戸の向こうが暗くなるまで帰らない日が増えた。
ある昼、リーゼがリクの頬を両手で挟んだ。
「リク」
次に自分の胸を指す。
「リーゼ」
俺の額を指で押した。
「レオン」
それで終わると思ったが、リーゼはまたリクの頬を挟んだ。
「リク」
「知ってるよ」
「レオンに言ってるの。リク」
俺が口元を見ていると、リクが顔を近づけた。
「り」
歯の間から舌の動きが見える。
「り」
同じ形を作ろうとした。舌先が歯へ当たり、息が横へ抜けた。
「い」
リーゼがすぐに真似した。
「い」
リクも続ける。
「い」
二人が同じ音を返すので、俺ももう一度出した。今度は喉が鳴り、先ほどより太い音になった。
「うぃ」
「うぃ」
「うぃ」
三人で顔を見合わせた。
リーゼが頬を膨らませ、もっと低い声を出した。
「うぉ」
リクが鼻をつまんで真似る。
「うぉ」
俺もやった。
「うぉ」
誰の口から始まった音か分からなくなった頃、三人とも腹を抱えていた。俺は舌を上げ、唇を丸め、意味のない音を次々に出した。外れても二人が返す。返されると、もう一度やりたくなる。
大人の頭で、四歳になってから赤ん坊をやり直している。心が体に吊られているためなのかもしれないが、こんなことで笑えると思わなかった。
順序としてはひどいものだが、今さら気にしても口は動かない。
この羞恥が俺を成長させると強く思い込むようにした。
翌日、俺は二人が来る前から竈のそばで声を出していた。
「あ。う。ま。い」
戸が開き、雪を肩に載せたリーゼが入ってくる。
「あ、う、ま、い」
後ろからリクも同じ音を出した。
俺は二人へ向き直り、続きを始めた。
夜になると、母が祈祷書を開く。
「日々の、糧を……」
指が止まる。
「与え、給い……」
同じ場所で止まり、同じ順で進む。
何日目かの夜、母が本を閉じても、紙の上にあった形とその声が頭に残った。俺は竈の灰を指で平らにし、最初の形をなぞった。
母はそれを見て、もう一度祈祷書を開いた。
◆
翌朝、リーゼがいつものようにリクを指す。
「リク」
リクが唇を動かす。
「り」
俺は舌先を上げた。喉を鳴らし、息を切らさないように少しだけ吐く。
「り」
二人が揃って頷いた。
「く」
リクの口が閉じ、奥で音が切れた。
俺も唇を動かす。
「く」
舌の奥が引っかかり、咳が出た。リーゼが同じ咳をした。リクまで真似したので、三人でしばらく咳をする遊びになった。
次に二つを続けようとすると、息が足りなかった。一音目で全部吐いてしまい、二音目は口の形だけになる。
リクが何も言わず、また顔を寄せた。
「りく」
短い。ひと息だった。
俺は息を吸った。
「り、く」
背後で、糸車が止まった。
母が椅子から立ち上がる。膝に載せていた糸が床へ落ちた。
「いま……いま、何て」
「リクだよ」
リーゼが答えた。
「ちゃんとリクって言ったよ。次は私ね」
母は俺の前へしゃがんだ。両手が肩へ伸び、途中で止まる。
「レオン。もう一度、言える?」
口を開いたが、今度は舌が固まった。母の目が近すぎた。
父が作業台のそばに立っていた。手には直しかけの鍬の柄がある。しばらく動かず、それから柄を壁へ立てかけた。
「急かすな」
「分かってる。でも、この子が」
母は口元を押さえた。笑おうとしているのに、息が震えていた。
父は俺の頭へ手を載せた。いつもなら一度撫でて終わる手が、その日はなかなか離れなかった。
床へ落ちた糸と、壁に立てかけられた鍬の柄へ目をやった。二人がようやく吐いた息は、俺が思っていたより長かった。
リーゼが俺の袖を引いた。
「次、リーゼ」
「先にもう一回、リク」
「さっき言ったでしょ」
「ぼくはもう一回がいい」
二人はどちらの名前をレオンに呼ばせるかで言い争っていた。
◆
雪解けの道が泥になり、朝だけ薄く凍る頃には、一音ずつなら狙ったものが出るようになっていた。
ある朝、俺は空の椀を母へ差し出した。
「みず、ほしい」
途中で舌がもつれたが、母は何も言わず水を注いだ。
「冷たいから、一度に飲みすぎないでね。飲んだら、その籠をお父さんのところへ持っていって」
以前のような大きな声も、一語ごとの長い隙間もなかった。
父は囲いの壊れた板を外し、新しい板を当てていた。俺が籠を置くと、穴の場所を指で示す。父が一本打ち、槌を渡した。
「ここ」
「曲がる」
「最初は曲がる」
俺が釘を打つあいだ、父は手を出さなかった。三本目は横へ逸れ、父の指へ当たりかけた。
「危ない」
「だから、指を離した」
父は曲がった釘を抜き、また新しい釘を置いた。
種蒔きが始まると、村人も普通に話しかけてくるようになった。
「レオン、その袋の口を押さえておくれ」
「これ?」
「そう、それだよ。こぼさないようにね」
畑には農家の子供がひととおり出ていた。ハンスが荷車から袋を下ろし、ケーテは畝の端で小石を拾っている。いちばん上のオットーは大人に混じって鍬を振っていた。
この村では子供も働き手の一人だった。
リクの家は鍛冶で、リーゼの家は薬草だ。二人はここにいない。刈り入れのときだけ村の全員が畑へ出るが、それ以外の畑仕事で顔を合わせることはない。
二人とは空き時間に毎日のように遊んだ。
「今日は川へ行こう」
「まだ水、冷たい」
「入らなければいいよ。石を投げるだけ」
「リーゼ、昨日もそう言って濡れたよ」
「昨日は滑ったの」
返事をしても、リーゼは最後まで喋った。リクは俺の答えを待たずに手を取り、先へ歩いた。
夜には、母の代わりに俺が祈祷書を開くようになった。
母がよく読む頁なら、指で追わなくても声が出る。知らない頁では、一つの形に何度も戻った。口の中で音を変え、前後へつなぐ。合わなければ、母がつっかえた場所まで戻る。
「日々の糧を与え給い、我らの手より成るものを……」
声にすると遅かった。それでも母は途中で助けず、最後まで聞いていた。
「そこ、私より上手に読めてるかもしれないね」
母は笑い、緩んだ綴じ糸を指で押し込んだ。
竈の灰を平らにし、祈祷書の形を指で写す。線の向きは似せられる。どこから始めるのか、どの線を先に置くのかは分からない。
「これで合ってる?」
母は灰と本を見比べた。
「形は同じに見えるけど……書くほうは習ってないの。私は読むのを少し教わっただけだから」
母は申し訳なさそうに指を組んだ。
「五つになれば、教会で教えてもらえるよ」
外でも試してみた。湿った土に祈祷書の一行を写し、横にもう一度書く。二つは少しずつ違っていた。どちらが正しいのか、そもそも両方違うのかも分からない。
春の雨が降り、土の上に書いた文字のようなものは消えてなくなった。
◆
草が膝まで伸びる頃、三人で低い丘を登った。
初夏の日は長い。畑にはまだ青い麦が揺れ、刈られていない草が道の両脇から倒れ込んでいる。
リーゼが丘下の木を指した。
「向こうまで競争しよう」
「今度は転ぶなよ」
「去年のは草が悪かったの」
リクはもう足先を木へ向けていた。リーゼがその横へ並び、俺も二人の隣に立つ。
走り出す前に、俺は息を吸った。
「リク。リーゼ」
二人が同時に振り返った。
「なに」
「早くしないと、置いてくよ!」
リーゼは先に走り出した。リクも慌てて駆け出す。俺も二人に負けないように、走り出す。
Tips ── 料理
▪ ブルートモース
ドイツのブルートヴルスト(Blutwurst)やパンハス(Panhas)に当たります。
血に穀物や脂を混ぜて固めた保存食で、ヨーロッパ各地に似たものがあります。
イギリスのブラックプディングも同じ系統です。