「目を閉じなさい」
マティアスは間を置かずに言った。
「息を整える。胸でも腹でもいい。体の中の温かいところを探しなさい。そこに、自分で動かせるものがある。見つけたら手へ寄せ、皮膚の近くまで運ぶ」
「そのあとは?」
「外へ出す。火にするなら、それから火へ変える。水にするなら、水に変える」
「それだけ?」
「それだけだ。まずやってみなさい」
本に書かれていた順とほとんど同じだった。
目を閉じた。屋根を打つ雨と、マティアスが椅子へ座り直す音が聞こえた。息を吸い、吐く。胸は温かい。腹も温かい。握った手の内側も、しばらくすれば汗ばんだ。
そのどれもが、ただの体だった。
温かさなら、息の通る喉にも、膝の裏にもあった。息を長く止めれば胸が熱くなり、額へ指を当てれば脈に触れた。どちらも自分で動かせそうにはない。息を止めるのをやめると、熱さだけが引いた。
胸の奥から右腕へ辿り、肩まで戻る。腹から指へ寄せようとすると、腹に力が入っただけで終わった。指を伸ばしても、爪の先にあるのは空気の冷たさだった。
目を開けると、マティアスは帳面の続きを書いていた。
「何もない」
「初めはそうだ」
「温かいところなら幾つもある」
「温かさは手がかりにすぎない。君が動かせるものを探しなさい」
「どれくらいで見つかる?」
「人による」
もう一度目を閉じた。今度は右手だけを握り、温かくなるまで待った。開けば手のひらが冷える。握ればまた温まる。それを繰り返しているうちに足が痺れた。
動いたのは血と足だけだった。
羽根ペンが紙を擦り始めた。答えはそれで終わりらしい。
家へ帰ってから、母にも頼んだ。母は俺の右手を両手で包み、指を竈へ向けた。
「中にあるものを、こう……こっちへ持ってくるのよ」
「どうやって?」
「だから、こうよ」
俺の指を曲げ、また伸ばす。母は自分の手を並べ、同じ動きをした。指先に小さな火が灯り、薪のささくれへ移る。
「今の、何をした?」
「考えないほうがいいのかもしれないわね」
「考えないと、何を考えないのか分からない」
「困った子ね」
母は笑い、俺の髪を撫でた。
「母さんは、誰に教わった?」
「私の母さんよ。たしか、今のあなたと同じくらいの頃」
「何て教わった?」
「手を持って、こうするのよって。それだけだったわ」
「それで分かったの?」
「いつの間にかね」
母は俺の手をもう一度竈へ向けた。さっきよりゆっくり指を伸ばしたが、違いはなかった。
「そのうちできるわ」
俺の指先には、竈の熱だけが残った。
◆
晩春、畝の草を抜き終えたあとにも試した。
土の上へ座り、膝に右手を置く。朝から草を引き続けた腕は重く、指の腹には茎の汁が乾いていた。胸から手へ、腹から手へ、次は肩を飛ばして手だけを探す。
人差し指の中で、肉とは違う何かが寄りかけた気がした。
父に呼ばれて立った瞬間、それは消えた。
「そっちの畝も終わったか」
「終わった」
「なら籠を持て」
翌朝、同じ場所へ座った。腕は軽く、指の痛みも引いていた。前の日と同じ順で辿ったが、今度は何もなかった。
違ったのは疲れと、手についた草の汁と、父に呼ばれた頃合いくらいだ。草の汁をつけ直してみた。指が青臭くなっただけだった。
その気で見始めると、自分よりも年上の村の子供が魔法を使うところを何回かかけた。
どの子供も火種に使ったり、水で布を濡らす程度の使い方なので、魔法というのはあまり大きなことはできないのかもしれない。
どうして他の人にできて自分にはできないのだろう。
◆
初夏の草が膝まで伸びた頃、村はずれでリクとリーゼに聞いた。
「二人は、火をつけられる?」
「つかないよ」
「私もまだ」
リクは拾った枝を捨て、両足を開いた。
「こうだろ」
拳を握り、肩を上げ、顔まで赤くする。やがて右の人差し指を突き出した。何も出なかった。
「何も出ないね」
「もう一回!」
「もうやめたら?」
リクはもう一度全身へ力を入れた。今度は踵が土へめり込んだ。
「出ないなー」
リクは枝を拾い直し、離れた切り株へ投げ始めた。
リーゼは胸に左手を置き、右手の指を揃えた。母親の手つきらしい。胸から指へ撫で下ろし、最後に指先を軽く振る。
「母さんはこうするよ」
「それで出る?」
「母さんはね」
右で駄目なら左だと言って、左右を入れ替えた。どちらも同じだった。三度目には順を間違え、指から胸へ撫で上げた。
「今、逆だった」
「分かってる。こっちも試したの」
「家では何て教わった?」
「母さんも、こうって言うだけ」
「リクは?」
「父さんは、そこにあるって」
「どこに?」
「聞いたら、そこだって」
リクは自分の胸から腹までを指した。それでは広すぎる。
翌日、俺が指を見ていると、リーゼが横から覗き込んだ。
「何してるの?」
「昨日の続き」
「昨日、何したっけ」
リクが木の上から呼び、リーゼは返事も待たずに走っていった。
二人ともできない。二人の家でも、急かされてはいなかった。できたところで、火打石の出番が少し減るだけだ。二人にとっては、昨日登った木に今日も登るほうが大きなことだった。
俺は木の下に残り、右手の指を一本ずつ曲げた。
手のひら全部では何も分からない。人差し指だけを見ていると、ときどき近い気がする。近いだけで、掴めないことは変わらなかった。
◆
今年も収穫の日がやってきた。また同じ畑へ村中の人間が出た。
去年は袋の口を押さえた。今年は小さく束ねた麦を荷車まで運んだ。両腕で抱えると穂が顎を擦り、服の中へ芒が入った。リクは荷車の上で束を受け取り、リーゼは落ちた穂を籠へ集めている。
日が傾いても空は明るかった。最後の荷が出る前、畑の端の木陰へ水を飲みに行った。腕が上がりにくいほど疲れていた。
椀を置き、人差し指だけを探す。
あった、と思った。
掴もうとした途端、桶を持ったリーゼの足が目の前で止まった。
「飲み終わった?」
「もう少し」
「じゃあ、それ貸して」
空の椀を渡す。指の中には何も残っていなかった。
刈り入れのうちに六歳になった。
去年と同じ場所で、俺はまだ指先を見ていた。
刈った麦が脱穀へ回ると、村じゅうで棒の打つ音が続いた。ミナの家の水車は新しい麦を挽き、止まる時間が短くなった。俺は父と藁を集め、空いた畑から根菜を掘った。
秋の雨で土が重くなり、朝には指がかじかんだ。土の中から根を探すことはできても、自分の中から探すものは出てこなかった。掘った根菜が穴蔵へ積まれ、畑に霜が残るようになった。
◆
やがて初雪が降り、村の子供が教会へ戻ってきた。
マティアスは読み方を忘れた者には祈りを読ませ、字を忘れた者には蝋板を渡した。
「胸も腹も温かい。どれを掴めばいい?」
「動かせるものだ」
「どれも動かない」
「なら、手から探してみなさい」
次に聞いた日は、手から始めても何も見つからなかった。
「何かを押して動かそうとして駄目だった」
「掴んでいないものは押せない。肩が疲れるだけだ」
マティアスはそこで話を切り、クルトが書いた数字を直しに行った。
言い方を変えられても、やることは同じだった。目を閉じ、息を整え、体の中から探す。胸、腹、肩、腕、手。逆からも辿る。温かい場所は幾つもあるのに、動かせるものは一つも出てこない。
別の日には、拳を握らず、手を開いたまま試せと言われた。右が駄目なら左へ替えた。椅子に座り、床へ寝て、立ったままでもやった。格好が変われば、重くなる場所は変わる。探すものは出てこない。
マティアスは、そのたび同じところへ戻した。
「息を止めるな」
「止めてない」
「今、止まっていた」
「勝手に止まった」
「なら、勝手に止まらないようにしなさい」
それで見つかるなら苦労はなかった。
冬の日は短かった。高い窓が暗くなるまで残った。蝋板を棚へ戻す前にまた聞いた。
ほかの子供はもう帰っていた。扉の外で、雪を踏む足音が遠ざかる。広間には火鉢の炭が割れる音と、頁をめくる音だけが残った。
「手から探しても駄目だった。次は?」
「こちらへ来なさい」
マティアスは厚い帳面を閉じた。俺を机の脇へ立たせ、右手を出すように言う。
「何をするの?」
「本来は、もう少し大きくなって、それでも魔力がつかめない人にすることだ。私が少し魔力を動かす。力を抜きなさい」
差し出した手を、マティアスの左手が下から支えた。もう片方の手が俺の指を包む。紙と乾いた墨に触れていた指は冷たかった。
しばらく、何も起きなかった。
指が重なったところから、俺のものではない何かが入ってきた。
右の掌の奥がずれた。
反射で手を引きかけたが、マティアスの指が支えていた。
温かくはない。痛くもない。音もなかった。それまで肉や血と分けようのなかった何かが、ほんの一筋だけ手首のほうへ引かれ、指先へ押し戻された。皮膚も筋もそのままなのに、その下にあるものだけが別の向きへ流れた。
動いた。
どこから来て、どこへ行ったのかが分かった。分かったから、動く前とあとの違いも残った。
これだった。
マティアスの指が離れる。
途端に、細い一筋は体の中へ紛れた。手はさっきまでと同じ、ただの手に戻った。
「今のが、魔力?」
「ああ」
「もう一度」
「今のを自分で辿りなさい」
目を閉じた。動いた感触は思い出せる。だが、その感触を持つものを探すと、また胸も腕も指も同じになった。手に力が入り、マティアスが指を外す。
「覚えているか」
「覚えてる」
「なら、それを忘れないことだ」
マティアスはすぐには机へ戻らなかった。自分の掌を見て、それから俺の顔を見る。
「多いな」
「何が?」
「君の魔力だ。これでは自分では分からんはずだ」
「前から分かってた?」
「いや。触って、今分かった」
「多いと、何が違う?」
マティアスは答えなかった。
「どうすればいい?」
「分からない」
マティアスは帳面を開いた。
羽根ペンを持ち上げたものの、すぐには紙へ下ろさなかった。穂先に墨が膨らみ、縁へ落ちる前に瓶へ戻される。
「もう一回だけ」
「自分でやりなさい」
今度こそ、羽根ペンが帳面を擦り始めた。
◆
家へ帰ってから何度も、あの一筋を辿った。
左手で右手を包み、マティアスの指が触れていたところへ自分の指を置いた。同じ強さで押したつもりでも、右手が痺れるだけだった。押す指をずらせば、痺れる場所もずれた。あのとき動いたものには届かない。
動いた感触は消えていない。どちらへずれたかも思い出せる。全部を同じように動かそうとすると、あの感触も体の中へ紛れた。
多い。
それが良いことなのかは、マティアスは言わなかった。今の俺にとっては、見つからない理由が一つ増えただけだった。
雪が積もり、戸を開けられない日が続いた。父は柄の緩んだ農具を直し、母は竈のそばで糸を紡いだ。俺は灰を平らにして、これまで近づいたときのことを並べた。
草取りのあと。干し草を運んだあと。刈り入れの木陰。
どれも疲れていた。
試しに薪を何度も運び、肩が重くなってから座ったこともある。それだけでは何も変わらなかった。近づいた日はいつも、元気なときとは探し方が違っていた。
疲れた体では、全身を細かく辿れない。手だけ、指だけで済ませていた。
胸から足先まで探した夜は何もなかった。手のひら全部でも駄目だった。近かったのは、指一本を見ていたときだ。全部を動かそうとすれば、どこも動かなかった。
指で灰に引いた線を消す。
少ないなら、体の中に自分とは違う場所がわかる。多すぎるなら、探す場所まで同じもので埋まっているのではないか。
水の中に立って、水を探せと言われているようなものだ。
掴むには端がいる。端のないものは、手にかからない。
なら、先に輪郭を作るしかないと考えた。
人差し指の爪先だけに意識を集中させる。そこから下の指も、手も、腕も、今はないことにする。
動かすのは後でいい。まず、その狭いところに自分と魔力の境界を作る。
最初は爪の裏がむず痒くなっただけだった。
次は息を止めすぎて、胸の音が指まで響いた。三度目には指へ力を入れ、爪が白くなった。
何も掴めないまま、竈の薪が一本崩れた。
翌日も同じところから始めた。指の爪先だけ。動かそうともしない。爪先から内側にあるものと、そこから外れたものの間へ、自分で端を置く。
昼は糸車の音に崩された。夜は眠気に負けた。朝は指が冷えすぎて、触れている膝の布しか分からなかった。
吹雪いた夜、板戸が鳴るたびに竈の火が揺れた。父も母も先に寝床へ入り、俺だけが残った火の前に座っていた。
右の人差し指を伸ばす。爪先だけを区切る。
動かされた一筋を思い出す。
何かが、そこにあった。
温かくない。光らない。音もしない。それでも、ここまでが掴むものだと分かった。
爪の先を見た。何も変わっていない。膝へ置いた手も、竈の火も、板戸を叩く雪の音もそのままだった。俺の肩だけが上がり、息が止まっていた。
息を吸った瞬間、輪郭は消えた。
もう一度区切る。
今度は触れたところで取り落とした。
俺は冷えた人差し指を曲げて温め、もう一度、膝の上へ伸ばした。