人差し指の指先に、もう一度意識を集中した。
さっき触れたものが、まだそこにあった。境界の奥へ残りを押し込み、外へ出した分だけを、そのまま持つ。
板戸が鳴った。
肩が上がりかけた。力を抜き、息を吸う。
輪郭は消えなかった。
指先にあるものを、落とさずにいられた。
次の息を吸っても残った。火の中で薪が折れ、板戸を雪が叩いた。それでも落ちなかった。
指へ向けていた意識をほどくと、輪郭は体の中へ紛れた。
竈の火が低くなるまで確かめ、薪を一本足した。父も母も起きてこなかった。
翌朝は飯の途中で椀を持つ手を替え、右手を伸ばして再度指先に集中させた。
「食べないの?」
「食べてる」
「指を見ながら?」
「見てるだけ」
母が俺の椀へ匙を戻した。指から目を離したときには、輪郭が散っていた。
真冬の食卓には、ファスクラウトが出た。
秋に刻んだ菜を塩と一緒に樽へ詰め、出た汁へ沈めて酸っぱくしたものだ。
噛むとしゃきりと鳴り、冷えた頬の内側が酸味で縮んだ。
食べ終えれば、空の椀の横へ指を伸ばした。寝床へ入ってからも毛布の中でやった。父が起きる前の暗いうちにも竈の灰を均し、その前へ座った。
三日目には、母が糸を切る音がしても落とさなかった。椀を置かれても、呼ばれて顔を上げても、指先の感覚を残せた。
竈の薪を取ってと言われたときだけは、返事をしてからも指を見ていた。
「レオン」
「聞いてる」
「聞いているなら、薪」
「今取る」
「その指で?」
「反対の手で」
左手で薪を差し込み、右の人差し指は伸ばしたままにした。母は何も言わず、糸車へ戻った。
少しずつ境界を手のほうへ押し込むと、その手前が空いた。空いたところで、外へ出した魔力を動かせるようになった。初めは指まで動いた。指をもう片方の手で押しつけて止めると、中のものだけがずれた。七日目には、指だけではなく、右手の端から端まで行き来させられた。
皮膚のぎりぎりまで近づけると、輪郭が広がった。
指の中では問題ないのに、外へ押し出そうとすれば散る。狭く集め直せば、皮膚の手前でまた集まった。
体内の操作は少しずつ上達し、境界を腕の根元まで押し込み、取り出した魔力を腕の中で自由に行き来させられるようになってきた。
しかし、本に書いてある順で魔力を体から出して火へ変えようとしても、霧散してしまう。母の指の向きを真似ても同じだった。指へ力を入れれば爪が白くなり、押し出せば輪郭ごと消えた。
魔力の動かし方を掴んでから三週間ほどたった夜、父と母が寝床へ入ったあとで布団の中で試している最中のことだった。
境界をいつも通り、腕の根元まで押し込む。空いた腕へ扱う分だけを出し、一か所へ集めて指の腹まで運ぶ。指先から、拡散しないように少しずつ出すことを意識する。
その時、人差し指の腹が濡れていた。
一粒の水が、指の溝に乗っていた。手を返すと爪の脇へ滑り、膝へ落ちた。
もう一度やった。出なかった。
三度目には、水がまた指先で滲んだ。今度は一粒では止まらず、指を伝って掌まで濡らした。
火ではなく水を出すほうが容易なようだ。
翌朝、飯より先に確かめた。指の腹に一粒だけ出た。
朝のファスクラウトを噛みながら食卓の下でも試し、今度は床へ二粒落とした。母が布で拭くまで、俺は濡れた指を見ていた。
◆
晩冬、教会の裏には屋根から落ちた雪が固く残っていた。日向の道は泥になり、朝に凍った跡だけが薄く光っている。
リクが雪の塊を蹴り、リーゼが割れたところを靴先で崩していた。
「二人に見せるものがある」
リクは蹴りかけた足を下ろした。リーゼはすぐに俺の手元へ寄った。
右の人差し指へ魔力を集め、魔力が拡散しないように外に放出する。指の腹に水が浮いた。
「濡れてる」
リーゼが両側から指先を覗き込んだ。
「すごいでしょ」
「どこから出たの?」
「指からだよ」
「手を洗ってきたんじゃないよね?」
「洗ってない」
「どうやってるの?」
俺は指を服で拭いた。
リクは自分の右手を目の前へ突き出した。
「ぼくにも絶対できる。見てて」
拳を固く握り、肩まで持ち上げる。頬が赤くなった。何も出ない。もう一度、左手で右の手首を押さえ、指先を睨む。
「出ない」
「出ないね」
「でもレオンは出した」
「端を分けて、少しだけ出すんだよ」
「わかった」
リクは言い切ったまま、さらに拳を固くした。
リーゼは胸へ左手を置き、右手の指を揃えた。母親の手つきと同じように、胸から腕へ撫で下ろす。
「私もやる。ここから指へ持ってくればいいんでしょ」
「持ってくるのは後」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「指先だけ見て。それ以外は考えなくていい」
リクが両目を指先へ寄せ、集中し始めた。リーゼは胸に置いた手を下ろさない。
「それから?」
「まだ動かさない。そこにあるって分かるまで待つ」
「待つだけ?」
「待ちながら、指先に端を作る。自分と魔力を、その線で分けるんだ」
リクは拳を開き、また握った。
「レオン、もう一回。今度はもっと短く言って」
「指先だけ見る。指先に端を作る」
「作った」
「指に力が入ってる」
「入れてない」
「爪が白い」
「寒いからだ」
リクは手を雪へ突っ込んだ。抜いた指は赤くなっていた。
「これなら白くない」
「もっと分からなくなるんじゃない?」
リーゼがリクの濡れた指を、リクの袖で拭った。リクは袖を取り返し、また指先を見た。
その日は二人とも掴めなかった。
◆
次に三人で座ったときも、リーゼは教会の火鉢のそばで同じ手つきを続けた。広間の向こうでは蝋板を引っかく音と、祈りを読み違えて笑う声がしていた。
リーゼは胸へ触れ、腕に沿って指を下ろす。母親がやる順を一つも飛ばさない。
「レオン、私のお母さんとやり方が違うよ。やっぱお母さんのやり方のほうがいいんじゃない?」
「どうなんだろう。もしかしたら、リクもリーゼも魔力が多いのかもしれないね」
「確認できないの?」
俺の魔力を動かしたときのマティアスの手を思い出した。触れれば量が分かる。二人も、探すものがどんな感覚なのかを知ることができる。
「できる。マティアスに頼もう」
三人で机まで行くと、マティアスは帳面から顔を上げた。
「リクとリーゼの手を取って、魔力を少し動かしてほしい」
「私たちも、何を探せばいいのか知りたいの」
マティアスは理由を聞き返さなかった。羽根ペンを置き、椅子を机の横へずらす。
「分かった。順に手を出しなさい」
「ぼくからやる」
リクが右手を突き出した。マティアスは左手でその掌を支え、もう片方の手で指を包んだ。リクの肩が上がる。
「力を抜きなさい。手は動かさない」
しばらくして、リクの指先が一度だけ跳ねた。
「手を動かしてないのに、中だけ動いた」
「覚えておきなさい」
次にリーゼが右手を重ねた。マティアスの指が手首へ触れると、リーゼは胸へ置きかけていた左手を下ろした。目を閉じたまま、右の人差し指を伸ばす。
「胸から指先まで、同じものがつながってる。今、そこだけ別に動いたよ」
マティアスはリーゼの手を離し、自分の掌を見た。
「二人とも、魔力が多いな」
「多いと、何が違うの?」
俺が聞いても、マティアスは答えなかった。椅子を机へ戻し、羽根ペンを取る。
リクは右手を開いたまま、左の指で手首から指先までをゆっくり辿った。リーゼはそれを見て、自分の手には触れずに目だけを動かす。二人とも、もう胸や腹を手当たり次第に探してはいなかった。
火鉢のそばへ戻ると、リクもリーゼもすぐに右手を膝へ置いた。さっきまでと違い、探すものはもう決まっている。
「指先だけを見る。体全部から探すと、また分からなくなる」
「指先で、さっき動いたものを探すんでしょ?」
「そうだよ。指先の中に、自分と魔力の境界を置く。境界より奥へ、あふれてる魔力を押し込むんだ。押し込んだら、指先だけが空く。そこへ少しだけ出す。出しても、まだ動かさない」
リーゼは胸へ左手を戻し、母親と同じように腕を撫で下ろしかけた。隣でリクが人差し指を立てる。
「リーゼ、まだ動かさない。先に指先へ集めるんだ」
「リクはまだ自分で見つけてないでしょ」
「先に言っておいただけだ」
二日目、リーゼは胸へ手を戻しかけ、途中で止めた。両手を膝へ置き、右の指先から目を離さない。息を吸っても、指へ力は入らなかった。
「指先にある。前動かされたものと同じだよ」
「動かさずに、そのまま集めて」
リーゼは一度頷いた。もう一度胸へ向かいかけた左手を止め、膝へ戻す。
「母さんの真似、いらなかったんだ」
リクはその横で、まだ指先へ力を入れていた。
「それ、指先へ力を入れてるだけじゃない?」
「入れてない。魔力を集めてる」
「集める前に、指へ力を入れてるよ」
「今のは違う。足がすべっただけ」
火鉢の脇で、リクの踵が床板を擦った。
「足は指先と関係ないよ」
「ある。座りにくかったから力が入ったんだ」
「リク、ずっと同じところに座ってるじゃない」
「だから、ずっと座りにくかった」
リーゼが袖で口元を隠した。リクは床へ座り直し、膝の上で両手を開く。
「レオン、力を入れないなら、どうやって魔力を集めるんだ」
「力で狭くするんじゃない。境界を指先の中に置いて、そこより奥へ押し込むんだ。指先が空いたら、そこへ少しだけ出す。さっきマティアスが動かしたのは、その出した分だよ」
「見つけたあとは?」
「境界をもっと体の中へ押し込む。奥へ行くほど、手前が広く空く。俺は腕の根元まで押し込めるから、腕ぜんぶが使える。そこでなら、出した魔力を好きに動かせるんだ」
「そのまま外に出すの?」
「外へ出すのはもっと後だよ。集めたものを固めながら、拡散しないように出す」
リクは人差し指を伸ばした。肩が上がったので、俺がその肩を押して下げる。今度は腹へ力を入れた。
「そこも力を抜いて」
「全部抜いたら寝る」
「寝たら起きてからやればいい」
「今は寝ない」
四日目、教会の裏に残っていた雪は半分ほど泥になっていた。リクは平たい石に座り、リーゼが雪の塊を崩しても指先から目を離さなかった。
何度目かに、リクの肩が下がった。握っていた左手も開く。右の人差し指だけが膝の上へ残った。
リクは何も言わなかった。
右手を開き、閉じた。もう一度開き、親指から順に指を曲げる。人差し指だけを残し、また閉じる。
「できたの?」
リーゼが石の向こうから覗き込んだ。リクは答えずに息を吸い、また右手を開いて閉じた。
「まだ指先にある?」
「ある。手を開いても消えない」
「動かしてみた?」
「もう手のひらまで動かしてる」
本の順は、魔力が一か所にとどまっている人のためのものだったのだろう。初めからそこにあるなら、境界を作る必要はない。探して、取り出せばいい。母がそうしているように。
俺たちは、動かされた感覚を知り、境界を作って押し込んでからでなければ始められなかった。
◆
リーゼの家へ呼びに行くと、干した葉を束ねる途中でも指先を見ていた。紐を取り落としても、右の人差し指だけは伸ばしたままだった。
リクの家の鍛冶場を覗けば、リクは鞴を踏みながら空いた手を開いて閉じている。炉の火が跳ねてもそちらを見ず、俺に気づくと指を立てた。
「ここまで動く」
「端は残ってる?」
「残ってる。鞴を踏んでも落ちない」
「じゃあ、次は集める」
「もう集めた」
教会へ来るたび、二人とも前にできなかったところを出来るようになっていた。
体の中で動かす。集める。皮膚の近くへ運ぶ。散らないように固めて留める。
ほかの子供が帰ったあとの広間で、三人は火鉢を囲んだ。
「集めたものを、固めながら外に出す」
「レオンはそれで水が出たんでしょ。火は?」
「出ない」
「一回も?」
「一回も」
「じゃあ、ぼくが出す」
リクは膝を火鉢へ向け、人差し指を伸ばした。指先で掴み、指の腹へ集める。肩が上がりかけ、すぐに下がった。
指から離れたところに、赤い点がついた。
豆より小さな火だった。細く揺れ、丸くなり、リクが手を返す前に散った。
「出た!もう一回やる。次はもっと大きくする」
リーゼは火鉢の縁へ顔を寄せた。
「私も同じところまで来てるでしょ。固めながら外に出せばいいんだよね?」
「そうだよ」
「そのまま出しちゃダメなの?」
「散るよ」
リーゼは右の人差し指を立てた。指の腹へ集めたまま、長く動かなかった。赤いものが指の先に浮いた。
リクのものより小さい。火は針の頭ほどしかなかった。だがリーゼが息をしても、手を傾けても消えなかった。
「まだあるよね?」
「ある」
「手を返しても?」
「消えてない」
「じゃあ、もうちょっとこのままにして置く」
リーゼは火を見たまま、左手で火鉢の縁を掴んだ。
俺も同じ順でやった。火にするつもりで、固めたまま外へ出した。指の腹から水が溢れ、掌を伝って床へ落ちた。
リクが俺の濡れた手を見た。
「また水だ」
「また水だな」
「レオンは火が向いていないじゃない?」
リーゼの火はまだ残っていた。
二人が火を作り直す横で、俺も五度やった。一度は何も出ず、あとは水だった。リクのように一度に出しても、リーゼのように細く出しても、火にはならなかった。
リクが手本を見せると言い、指先へ集め直した。さっきより大きくしようと、肩と腹と頬へ一度に力を入れる。息まで押し込んだらしく、耐えきれず火鉢へ向けて吐いた。
灰が舞い上がった。
リクの金の髪が灰色になり、向かいにいたリーゼの白銀の髪も半分だけ灰色になった。俺の顔にも温かい粉がかかった。リーゼの火は消えていた。
「リク」
「今のは違う。灰が軽すぎた」
リーゼが息を吸い、リクの顔を見て吹き出した。俺も口を閉じられなかった。リクは二人を見比べ、自分の袖についた灰を払おうとして、さらに頬へ塗った。
マティアスが帳面から目を上げた。
「笑う前に掃きなさい」
三人で灰を集めた。リクが箒を動かすたび、残った灰がまた薄く舞った。
◆
種蒔きが始まると、教会へ子供が集まる日は終わった。
俺は父と畑へ出た。起こした土へ種を落とし、間が空けば戻って埋めた。リクは鍛冶場から来ると袖に黒い粉をつけ、リーゼは干した葉の匂いをさせていた。
三人だけで教会の裏へ回った。壁際の雪は消え、地面には冬のあいだ押し潰されていた草が張りついている。
誰かに呼ばれたわけではなかった。
三人で壁を背にして並び、右の人差し指を伸ばした。
「一緒に魔法を出そう。一番長く維持できた人が勝ちね。私が数える」
リーゼがこちらを見て言った。
「同じ速さで数えて」
「レオン、数が同じなら同じ速さでしょ」
「前に途中から速くしたやつがいる」
「あれは数が増えた」
リクは言い切り、もう指先へ端を置いていた。
「じゃあ、いくよ。一、二、三」
リクの指先に火がついた。三人の中でいちばん大きく、豆より少し小さい。六までに細くなり、七で散った。
リーゼの火は針の頭ほどだった。十を越えても同じところに残っている。
「まだ続ける?」
「消えるまで」
「じゃあ、二十一、二十二……」
「飛ばした」
「リクが数えるときより飛ばしてないよ」
俺の指からは、また水が指の間まで溢れた。握っても形にならず、手首を伝って袖を濡らした。
「レオンのは数えられないね」
リーゼが自分の火を見たまま言った。
「落ちた粒なら数えられる」
「泥に落ちてるよ」
「じゃあ無理だ」
手を服で拭いた。
リーゼは火を消すと、次に水を出した。指の脇に小さな粒が浮き、指を横へしてもそこに残った。
「今度は水。これも数える?」
「火と同じだろ」
「違うかもしれないじゃない?」
リクが三まで数えたところで、自分の指へ火をつけた。リーゼのように残そうとして、赤い点を小さく絞る。
「もういい」
「まだ五だよ」
「動かさないのは飽きた」
リクが手を振ると、火はすぐ散った。
リーゼは今度、リクのように一度に外へ出した。いつもより大きな火が一瞬だけ開き、指から離れる前に消える。
「リクのやり方だと残らない」
「もう一回やれば残る」
「じゃあリクがやって」
「ぼくは大きくする」
俺はリクのように、一度に外へ出した。水が勢いよく溢れ、膝へかかった。
リーゼのように細く出して待った。水は一粒にならず、指の左右から垂れた。
「どっちでも水だね」
「そうだな」
「次は、レオンのを私たちがやる?」
リーゼが水の粒を指に残したまま聞いた。
リクは首を振り、火の消えた指をもう一度伸ばした。
「全部やる。リーゼは大きくする。ぼくは消さない。レオンは水を落とさない」
「一度に?」
「一度に」
リーゼが先に指先へ目を戻した。
三本の人差し指が、泥の上へまた並んだ。
Tips ── 料理
▪ ファスクラウト
ドイツのザワークラウト(Sauerkraut)。刻んだキャベツに塩を振って樽へ詰め、
重石で押します。出てきた汁に浸ったまま置くと、葉についていた乳酸菌が
勝手に働いて酸くなります。酢は一滴も使いません。