『西国の小覇者』~織田信奈の野望二次創作~   作:宇京

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美少女がやってきた次は美少年がやってきた!

それでは本編どうぞ!


第十一回:背負うもの

 夏が訪れた。津和野へ来たばかりの頃は、あれほど寒い寒いと文句を言っていたのに、今度は暑さに文句を言っている自分がいるのだから、人間というのは勝手なものだと思う。もっとも俺の場合は、環境に文句を言うだけの精神的な余裕が出てきたのだと捉えるべきなのかもしれない。

 

 蝉の声が山々にどこまでも響き渡り、青々と茂った木々の葉が夏の風に揺れている。冬の間は雪で真っ白に覆われていた景色も、今ではどこを見渡しても鮮やかな緑ばかりだ。そんな夏の山道を、俺は馬に揺られながらゆっくりと進んでいた。

 

「若君、少し先に獣の気配があります」

 

 前を行く元豊が、馬上で静かに振り返りながら俺に告げた。

 

「本当?」

 

「はい。足跡が新しいので、おそらく近くにいるかと」

 

 元豊は周囲の藪や木々に鋭い視線を巡らせつつ、落ち着いた声でそう答えた。そのすぐ隣では、元満が自分の馬を少し前へと進めようとしていた。

 

「なら、こっちでしょう」

 

「元満、勝手に先へ行かないでよ」

 

「大丈夫ですよ、若君。逃げたら追えばいいだけです」

 

「そういう問題じゃないって」

 

 俺が呆れたように言うと、元満は実に楽しそうに笑ってみせた。

 

「では、若君も一緒に来ればよろしいではありませんか」

 

「いや、それは……」

 

 俺は自分の乗っている馬を見下ろした。馬自体はとても大人しく、素直に俺を乗せてくれている。問題は馬の機嫌ではなく、俺が元満について行った場合、絶対に何か危険なトラブルに巻き込まれる気がすることだ。

 

「……元満」

 

「はい?」

 

「前より強引になってない?」

 

「そうでしょうか?」

 

「うん」

 

「気のせいですよ」

 

「絶対気のせいじゃない」

 

 俺たちがそんなやり取りを交わしていると、後ろから元豊が小さく笑いを漏らした。

 

「元満は昔からあまり変わっておりません」

 

「元豊まで!」

 

「ふふ」

 

 元満は悪びれる様子もなく、どこか誇らしげに笑っている。こうした賑やかなやり取りも、最近ではすっかり日々の当たり前になっていた。

 

 冷泉元豊と元満の姉妹。少し前までは名前すら知らなかった二人だというのに、それが今ではこうして一緒に馬を並べ、山へ出かけてはくだらないことで言い合いまでしている。

 

 俺が一人で家臣を集めなきゃと焦っていた時には、まさかこんな関係になれるとは思ってもいなかった。そもそも家臣というものはもっと堅苦しく、俺が何か命令をして二人が「はっ」と頭を下げて終わるような、冷たい関係を想像していたのだ。

 

 ところが実際には、元満には普通に言い返されるし、元豊には静かに諭される。俺が間違ったことを言えば二人とも遠慮なく指摘してくるのだ。……まあ、元満の場合は遠慮がないというより、最初から遠慮という言葉を知らないだけな気もするけれど。

 

「若君」

 

 考え込んでいた俺に気づいたのか、元豊がこちらを見つめた。

 

「どうかされましたか?」

 

「いや……」

 

 俺は自嘲気味に少しだけ笑って見せた。

 

「なんでもない」

 

「そうですか」

 

 元豊はそれ以上追及せず、そっと前方に視線を戻した。その付かず離れずの心地よい距離感も、俺にはとてもありがたかった。

 

 

 

 

 山道をさらに奥へと進んだところで、元満が突然馬の手綱を引き、ピタリと足を止めた。

 

「いました!」

 

「えっ?」

 

 俺が慌てて顔を上げると、少し離れた木々の隙間を、何かが静かに蠢いていた。

 

「鹿です」

 

 元豊が声のトーンを落とし、静かに教えてくれる。その隣で元満はすでに弓を手に取り、背を丸めて構えていた。

 

「若君、あちらへ回りましょう」

 

「うん」

 

 俺も息を殺しながら、自分の弓を構えた。頼定に弓の手ほどきを受け始めてから、もうかなりの時間が経っている。最初は固い弦を引くことすら難しかったけれど、毎日少しずつ練習を重ねるうちに、今ではこうして馬上からでも弓を構えられるようになっていた。

 

 もちろん年上の元豊や元満のような熟練の技には程遠い。それでも、何もできなかった以前の俺からすれば大きな進歩だった。

 

「焦らずに」

 

 元豊が背しろから聞こえるか聞こえないかほどの小声で囁く。

 

「うん」

 

 木漏れ日の中を、鹿が緩やかな足取りで歩いている。俺は荒い息をそっと整え、指先に力を込めて弓を限界まで引き絞った。

 

 しかしその瞬間、気配を察したのか鹿がクルリとこちらへ顔を向けた。

 

「……っ」

 

 鹿と目が合った瞬間、俺の腕がわずかに震えてしまった。鹿は一瞬だけこちらをじっと見つめたあと、弾かれたように森の奥深くへ駆け出していった。

 

「あっ!」

 

 俺は慌てて指を離し、矢を放った。しかし放たれた矢は勢いなく空を切ると、鹿の遥か手前の地面へと空しく突き刺さった。

 

「……逃げちゃった」

 

「惜しかったですね」

 

 失敗して肩を落とす俺に、元豊が穏やかな声で寄り添ってくれる。

 

「全然惜しくないよ」

 

 俺がすっかり落ち込んでいると、横から元満が明るい声をかけた。

 

「次がありますよ」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「じゃあ追おう!」

 

「もちろんです」

 

 元満が馬の腹を蹴り、勢いよく走らせていく。

 

「待ってよ!」

 

 俺も慌てて馬を走らせ、その後を追った。夏の澄み切った山々に、三人分の力強い馬蹄の音がどこまでも響き渡っていく。

 

 俺は風を切りながら笑っていた。いつからだろう、こんなふうに誰かと一緒にいることが、当たり前のように思えるようになったのは。

 

 

 

 

 昼を過ぎる頃、俺たちは満足して城へ戻ってきた。狩りの成果自体はそれほど大きくはなく、というより俺自身は一匹も仕留めることができなかった。

 

 元満が誇らしげに掲げる獲物を横目で見ながら、俺は少しだけ悔しい気持ちになっていた。

 

「次は俺が獲る」

 

「はい」

 

 俺の言葉に、元豊が頼もしそうに頷いてくれる。

 

「そのためにも、日々の鍛錬を続けられるのがよろしいでしょう」

 

「うん」

 

「若君」

 

 二人の会話を横で聞いていた元満が、楽しそうに口を挟んできた。

 

「何?」

 

「次は私と競いましょう」

 

「え?」

 

「どちらが先に獲物を仕留めるか」

 

「……絶対負けるじゃん」

 

「それはやってみなければ分かりません」

 

 元満が悪戯っぽく笑い、俺も思わずつられて笑ってしまった。

 

 そんな他愛もない話を交わしながら城の門をくぐった、まさにその時だった。大手門の近くに、見慣れない男たちが数人身を寄せるように立っているのが目に入った。

 

 彼らの衣服は破れて酷く汚れており、引き連れている馬も骨が浮き出るほど疲弊しきっている。どう見ても、想像を絶する過酷な長旅を経て辿り着いた者たちだった。

 

「……誰だろう?」

 

 俺がぽつりと呟くと、隣にいた元豊の表情が一瞬で険しく変わった。

 

「若君。少々お待ちください」

 

「うん」

 

 元豊は素早く馬を降りると、警戒しながら彼らの様子を確かめに向かった。俺も胸騒ぎを覚えながら、後を追うように馬を降りる。

 

 すると、城の中から焦った様子の家臣が慌ただしく駆けてきた。

 

「若君!」

 

「どうしたの?」

 

「先ほど、長門方面より参った者たちが……」

 

「長門?」

 

 予想もしなかった地名に、俺は首を傾げた。

 

「はい。陶方の目をかいくぐり、こちらまで参ったとのことです」

 

「陶方を?」

 

 その言葉だけで、単なる旅人ではなく只事ではない事態が起きているのだと理解できた。

 

 俺は改めて男たちの方へと目を向けた。人数は決して多くなく、ほんの数人程度だ。けれどその中で一人だけ、他の者たちに守られるようにして少し前へ出ている人物がいた。

 

 歳の頃は俺とそう変わらない少年に見えた。顔は疲労でやつれ切っていたけれど、その瞳だけは必死な光を宿し、こちらをじっと見つめていた。

 

「……若君」

 

 家臣が声をさらに低く落として告げる。

 

「あの方が、お目通りを願っております」

 

「名前は?」

 

「宗像氏隆様にございます」

 

「宗像……」

 

 その名を聞いた瞬間、俺はわずかに目を見開いた。宗像という名前には聞き覚えがあった。以前、父上から話を聞いたことがある筑前の名門・宗像氏だ。大内家とも古くから深い縁のある家柄である。

 

 けれど、そんな遠方の人間がどうしてこんな津和野の地にまでやってきたのだろうか。

 

「分かった」

 

 俺は力強く頷いた。

 

「会おう」

 

 言い知れぬ緊張感を胸に秘めながら、俺たちは彼らを案内して客間へと向かった。

 

 

 

 

 部屋へ入ると、先ほど見かけた少年が一人で静かに座っていた。そのすぐ後ろには、過酷な道をともに生き延びてきたのであろう付き従いの家臣たちが重苦しい空気で控えている。

 

 皆、極限まで疲れ果てていた。衣服には泥が乾きつき、痛々しい傷跡や足元の汚れがこれまでの旅路の過酷さを物語っている。それでも俺たちが部屋に足を踏み入れると、少年はハッと姿勢を正した。

 

「お初にお目にかかります」

 

 少年は畳に両手を突き、深々と頭を下げた。

 

「宗像氏隆と申します」

 

「えぇっと…大内興童子…です」

 

 そう答えてから、俺は少しだけ対応に困ってしまった。相手の立ち振る舞いがものすごく丁寧で、格式ばっていたからだ。

 

「えっと……そんなに畏まらなくてもいいよ」

 

「いえ」

 

 氏隆は顔を上げると、生真面目な表情で首を横に振った。

 

「そういうわけには参りません」

 

 本当に根が真面目な子なのだろう。元満なら、たぶんこの辺りでもう「堅いですね」と軽口を叩いていそうな雰囲気だ。

 

 気になってちらりと横を見てみると、驚いたことに元満は口を結んでじっと黙っていた。いつもお喋りな元満にしては珍しい光景だった。横に立つ元豊もまた、氏隆の姿を静かに見つめている。無理もない、二人にとっても宗像氏隆という人物とは今日が初対面なのだから。

 

「こちらに控えるは俺の直臣。冷泉元豊」

 

 俺が紹介すると、元豊が丁寧に一礼した。

 

「冷泉元豊にございます」

 

「……お初にお目にかかります。宗像氏隆と申します」

 

 氏隆も改めて深く頭を下げて挨拶を返す。

 

「そして、こっちが元満」

 

「妹の元満にございます」

 

「お初にお目にかかります」

 

 元満もいつになく大人しい様子で、恭しく礼を返した。その珍しい畏まりようを見て、俺は緊張をほぐすように少しだけ笑った。

 

「元満、今日は静かだね」

 

「若君」

 

「はい」

 

「今は真面目な場ですので」

 

「……はい」

 

 元満がこういう真剣な顔をする時は、心底空気を読んで場を弁えている時だ。数か月間一緒に生活を共にしてきてだんだんわかってきた。そして俺も元満を見習い、少々浮ついた気持ちを捨て、姿勢を正した。

 

「それで、氏隆」

 

「はい」

 

「どうしてここへ?」

 

 俺が核心を尋ねると、氏隆の顔がわずかに強張った。

 

「……はい」

 

 絞り出すようなその声は、消え入りそうなほど小さかった。

 

「僕は……」

 

 そこで一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。

 

「宗像の家の者たちとともに、ここまで参りました」

 

「宗像の?」

 

「はい」

 

 氏隆は膝の上に置いた両手を、痛いほどの力で強く握り締めた。

 

「……大寧寺の変で、御屋形様がお亡くなりになり、父も亡くなってからというもの、宗像では一族の内に争いが起きるようになりました」

 

 俺は言葉を挟まず、黙ってその話を聞いた。御屋形様、つまり亡き父上のことだ。その名を聞くと、今でも胸の奥に刺さった棘が疼くように痛む。けれど、今は自分の感情を口にする時ではなかった。

 

 氏隆は苦しげに言葉を続けた。

 

「誰が家を継ぐのか、誰が誰につくのか……これまで同じ一族として過ごしてきた者たちが、互いを疑うようになっていきました」

 

「……うん」

 

「その争いは、次第に大きくなっていきました」

 

 怒りと悲しみが混ざり合っているのか、氏隆の声が少しずつ震えていく。

 

「そして……山田の一件が起きました」

 

 俺は息を呑んだ。山田事件。その凄惨な噂の存在は知っていたけれど、詳細までは詳しく知らなかった。だから俺は固唾をのんで続きの言葉を待った。

 

「僕の母も……祖母も……」

 

 氏隆が言葉を詰まらせ、喉を鳴らす。それでも溢れ出そうになる感情を必死に抑え込み、何とか言葉を繋いだ。

 

「家族の者たちも、そこで命を奪われました」

 

「……」

 

「僕自身も、いつ捕らえられるか分からない状況になって……」

 

 氏隆は耐えかねたように深く俯いた。

 

「宗像の地に留まることができなくなりました」

 

 静まり返った部屋の中、外から聞こえる蝉の声だけが虚しく響いていた。あれほど騒がしかった夏の音が、今の俺たちにはまるで遠い異世界の出来事のように感じられた。

 

「それから、長門へ……」

 

「はい」

 

「どうやって?」

 

「少数の家臣たちに助けられながら、山道を抜けました」

 

 氏隆は己の無力を恥じるように、苦しそうに自嘲の笑みを浮かべた。

 

「陶方の目を避けながらです」

 

「……怖かったでしょう?」

 

 感情を抑えきれず、俺は思わずそう尋ねてしまった。氏隆はすぐには答えず、ただ静かに視線を落としていた。

 

「怖かったです」

 

 それは、弱々しくも偽りのない本音だった。

 

「ですが……僕一人なら、どうにでもなったのかもしれません」

 

 氏隆はゆっくりと首を振り、後ろに静かに控えている傷だらけの家臣たちを振り返った。

 

「僕には、ついてきてくれた者たちがおりました」

 

 その震える声の中には、消え残ったかすかな誇りと気高さが込められていた。

 

「だから、僕だけ逃げるわけにはいかなかった」

 

 その言葉がまっすぐに胸に刺さり、俺は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

 

「何度も……もう駄目だと思いました」

 

 畳を掴む氏隆の手が、限界を超えて細かく震えている。

 

「どこへ行けばいいのか分からなくなって、それでも歩いて……」

 

 そして彼は最後に、振り絞るような声で締めくくった。

 

「ここへ参りました」

 

「……どうして?」

 

 俺はさらに重ねて尋ねた。氏隆は濡れた瞳で、まっすぐに俺を見つめ返してきた。

 

「他に……行くところがなかったからです」

 

 その切実な答えを聞いた瞬間、俺は胸を突かれ、ようやく全ての事情を理解した。

 

 この人たちは。本当に。本当の意味で藁にも縋る思いで、死に物狂いでここまで辿り着いたのだ。俺のところへ来れば確実に助かるという保証があったわけではない。俺に追手を跳ね返すような大軍がいるわけでもなく、大内家の威光を取り戻したわけでもないのだ。俺は今だって、ただの無力な子供に過ぎない。

 

 それでも、どこにも行く宛がなかったから。絶望の淵で、それでもここだけを信じて頼ってきたのだ。

 

 だったら――。

 

「……氏隆」

 

「はい」

 

 俺はたまらずその場に立ち上がった。突然立ち上がった俺を、氏隆は不思議そうに見上げてくる。

 

「えっと……」

 

 何を言えばいいのか分からなかった。こんな時にかけるべき上手い言葉なんて、何一つ思いつかない。

 

 だから俺は考えるのをやめ、そのまま歩み寄って氏隆のすぐ正面に座り――

 

「若君?」

 

 戸惑う彼を、俺は力任せにぎゅっと抱きしめた。

 

「……え?」

 

 不意を突かれた氏隆の身体が、氷のようにカチコチに固まる。俺自身、自分がどうしてこんな突飛な行動に出たのかよく分かっていなかった。ただ、命がけでここまで来てくれた。その事実が、たまらなく嬉しかったのだ。

 

「苦しい中だったろうに参陣してくれて、ありがとう!!」

 

「…………」

 

「本当に、ありがとう!!」

 

 俺の口からは、溢れるような感謝の言葉しか出てこなかった。俺の腕の中で、氏隆の華奢な身体が小さく震え始めた。

 

「……若君」

 

「うん」

 

「……申し訳ありません」

 

「え?」

 

 氏隆の声が酷くかすれ、震えている。

 

「申し訳ありません、ちょっと……」

 

「え、えっと……大丈夫?」

 

 泣き出しそうな様子に、俺は少し慌ててしまった。

 

「俺、何か変なことした?」

 

「違う……」

 

 氏隆は俺の肩に顔を埋めたまま、必死に首を横に振った。

 

「違うんです……」

 

「氏隆?」

 

 俺が問いかけると、ついに決壊したように彼の感情が溢れ出した。

 

「……ずっと」

 

 氏隆の声が大きなしゃくり上げによって途切れる。

 

「ずっと、怖かったんです」

 

 あまりの切実さに、俺は言葉を失った。

 

「父が死んで……家族もいなくなって……誰を信じればいいのかも、分からなくなって……」

 

 堤防が決壊したように、氏隆の感情がボロボロと溢れ出していく。

 

「僕が逃げたら、皆が死ぬと思って……でも、僕が何をすればいいのかも分からなくて……」

 

「……うん」

 

「ずっと、怖かった」

 

 その言葉とともに、張り詰めていた緊張が切れたのか、氏隆の身体から完全に力が抜けた。俺の肩口に、氏隆の熱い額がぐったりと預けられる。

 

「怖くて……仕方がなかったんです」

 

 俺は何も言わず、ただそのままの体勢で彼を強く抱きしめ続けた。立派な武将のように気の利いた言葉をかけてやることはできない。だって、俺だって本当はずっと怖かったのだ。

 

 大寧寺の変が起きたあの日。山口を命からがら逃げ出した時。父上や兄上や姉上が全員死んだと聞かされた時。俺だってずっと、恐怖で押し潰されそうだったのだから。

 

 だからこそ今だけは、この同い年の少年が人目を憚らずに泣いていてもいいのだと思った。

 

 

 

 

 しばらくしてようやく涙が枯れたのか、氏隆が落ち着きを取り戻した。俺はゆっくりと腕の力を抜き、彼の身体を離した。

 

「……ごめん」

 

「いえ……」

 

 氏隆は赤く腫らした目を袖で何度も拭った。

 

「こちらこそ、申し訳ありません」

 

「謝らなくていいよ」

 

「ですが……」

 

「だって、怖かったんでしょ?」

 

「……はい」

 

「じゃあ、泣いていいじゃん」

 

 氏隆は何も言えず、ただ口を結んでいたけれど、やがて憑き物が落ちたようにほんの少しだけ微笑んだ。

 

「……ありがとうございます」

 

 晴れやかなその顔を見て、俺も心から笑うことができた。

 

 けれどその時、静かに扉が開き、重厚な気配とともに正頼が入ってきた。

 

「若君」

 

「伯父上」

 

 正頼は部屋の隅にいる氏隆へ、厳しい視線を向けた。

 

「宗像氏隆殿」

 

「はい」

 

 氏隆はハッと我に返り、すぐに姿勢を正した。

 

「改めて、ここまでよくぞ参られました」

 

「……ありがとうございます」

 

 正頼はしばらくの間、熟考するように氏隆の姿を見つめていた。

 

「しかし、若君」

 

「うん」

 

 正頼の声音が、重く厳粛なものへと変わる。

 

「宗像殿を受け入れルということは、氏隆殿お一人を受け入れるということではございません」

 

「……うん」

 

「後ろに控える家臣たち、その家族、そして宗像家に連なる者たち。若君のもとへ参るということは、それらすべての命をも若君が預かるということでございます」

 

 俺は何も言えず、ただ黙ってその言葉を受け止めた。

 

「そして、宗像殿を受け入れれば、陶方に我らの動きが知られる可能性も高くなりましょう」

 

「……分かってる」

 

 本当のところを言えば、政治や戦略のすべてを理解できているわけじゃない。けれど、ボロボロになりながらここまで命を繋いできた氏隆たちの顔を見たら、彼らを見捨てるなんて選択肢は俺の中に存在しなかった。

 

「それでも」

 

 俺はまっすぐに正頼を見つめ返して答えた。

 

「俺を頼って来てくれたんだから、受け入れたい」

 

 正頼は俺の決意を確かめるように、静かに目を細めた。

 

「……そうですか」

 

「うん」

 

「ならば、私も力を尽くしましょう」

 

 正頼の心強い言葉に、氏隆は再び深く畳に頭をこすりつけた。

 

「ありがとうございます。伯父上」

 

 俺はその感謝する姿を見つめながら、静かに思いを巡らせていた。俺はまた一人、大切な家臣を増やしたのだ。味方が増えてくれたこと自体は素直に嬉しい。だけど――胸の奥底には、今まで感じたことのない異質な感覚が重く残っていた。

 

 

 

 

 その日の夕方。夕闇が迫る頃、俺は元豊と元満、そして少し落ち着いた氏隆とともに屋敷の庭へ出ていた。ほんの少し前までは互いの顔すら知らなかった者同士なのに、今はこうして当たり前のように同じ景色を眺めている。

 

「氏隆殿」

 

 元豊が静かな声で気遣うように声をかけた。

 

「はい」

 

「長旅でお疲れでしょう。今日はどうかゆっくりお休みください」

 

「ありがとうございます」

 

 氏隆は丁寧にお辞儀をした。

 

「元満も、何かあれば遠慮なく申し付けてください」

 

「はい」

 

 元満が力強く頷いてみせると氏隆が続ける。

 

「……元満殿は」

 

「はい?」

 

「いえ……」

 

 氏隆は少しだけ圧倒されたように、困ったような苦笑いを浮かべた。

 

「随分とはっきり物を仰る方なのですね」

 

「そう?」

 

 俺が不思議そうに聞くと、元満が誇らしげに笑った。

 

「若君、それは褒め言葉でしょうか?」

 

「たぶん」

 

「では、ありがたく頂戴します」

 

「いや、たぶんだからね?」

 

 呆れる俺の横で元豊が小さく笑い、氏隆もまた、引きつっていた表情を緩めてほんの少しだけ笑ってくれた。

 

 その穏やかな光景を見つめていると、俺の胸の奥にもじんわりと温かいものが広がっていった。

 

 少しずつ。本当に牛の歩みのように少しずつではあるけれど、俺の周りに人が集まり、賑やかになっている。元豊、元満、そして今日加わった氏隆。

 

 以前の俺なら、そんな変化を感じるだけで無邪気に嬉しくなっていたはずだ。味方が増えた、仲間が増えた、これで大内家を取り戻すための力が大きくなったのだと、単純に喜んでいただろう。

 

 けれど、今日こうして氏隆の壮絶な過去と涙に触れてからは、その意味が少しだけ違って見えていた。

 

 

 

 

 すっかり夜が更けた。俺は一人部屋を抜け出し、静まり返った庭に出ていた。昼間の刺さるような暑さは綺麗に消え去り、涼しい夏の夜風が心地よく頬を撫でていく。

 

 満天の星空を見上げながら、俺は縁側にゆっくりと腰を下ろした。

 

「……重いなぁ」

 

 静寂の中に、思わず本音が口から漏れ出していた。

 

「何がだ?」

 

 闇の中から、聞き覚えのある声が背後で響いた。

 

「天狗」

 

「俺以外に誰がいるんだよ」

 

 姿を現した天狗が、当然のような顔で俺の隣へ腰を下ろす。

 

「今日は珍しく静かじゃねぇか」

 

「ちょっと考え事」

 

「ほう」

 

 天狗はそれ以上野暮に追及してこなかった。だから俺の方からぽつりぽつりと話し始めた。

 

「氏隆のこと」

 

「ああ」

 

「今日、話を聞いたんだ」

 

「そうか」

 

「父親が死んで、一族で争いが起きて、家族も失って……それでも家臣を連れて逃げてきたんだって」

 

「……ああ」

 

「俺のところへ来るしかなかったんだって」

 

 俺は膝を抱え込み、小さく丸くなった。

 

「なんかさ」

 

「なんだ」

 

「味方って、増えればいいだけじゃないんだね」

 

 天狗は何も言わず、ただじっと静聴している。

 

「俺、前は味方が欲しいって思ってた」

 

「知ってる」

 

「大内家を取り戻すなら、家臣が必要だって。兵も必要だって。だから、もっともっと増やさないとって」

 

「ああ」

 

「でも……」

 

 俺は昼間に見せた氏隆の表情を思い出していた。あの震える声と、泣きながら絞り出した「怖かった」という生々しい言葉。

 

「人が増えるってことは、その人たちのことも考えないといけないんだね」

 

「……そういうこった」

 

「その人たちにも家族がいて、守りたいものがあって、失いたくないものがあって」

 

「ああ」

 

「俺が何か決めたら、その人たちの人生も変わる」

 

「そうだな」

 

「……重いなぁ」

 

 俺は膝に顔を埋めながら、もう一度呟いた。すると天狗は呆れたように鼻で笑ってみせた。

 

「今さら気づいたか」

 

「今さらって言わないでよ」

 

「お前が欲しがってたもんだろ」

 

「そうだけど……」

 

「味方が欲しい」

 

「うん」

 

「家臣が欲しい」

 

「うん」

 

「大内を取り戻したい」

 

「うん」

 

「だったら、その分だけ背負うもんが増える」

 

 天狗は腕を組み、深く広がる夜空を見上げた。

 

「それが将ってもんだろ」

 

 俺は何も言えず、固まってしまった。天狗の言葉を聞いた瞬間、以前に頼定が語ってくれた言葉が鮮明に脳裏に蘇ってきた。

 

 将とは、己一人で何もかも成し遂げる者ではない。自分より詳しい者に尋ね、自分より優れた者の力を借り、最後に自らが決めるのだと。

 

 あの時はそれを聞いて、肩の荷が下りたように少し安心したものだ。自分一人ですべてをこなさなくていい、周りを頼ってもいいのだと教えてもらったからだ。

 

「……でも」

 

「なんだ」

 

「一人で全部やらなくていいんだよね?」

 

「当たり前だ」

 

「じゃあ、背負うってどういうこと?」

 

 天狗は少しの間だけ黙り込んだ。やがて呆れたようにため息をつくと、俺の頭をぽんと軽く叩いた。

 

「全部自分で抱え込むことじゃねぇよ」

 

「……え?」

 

「お前が背負うってのはな」

 

 天狗はいつものようにぶっきらぼうな、けれど確かな温かみのある声で続けた。

 

「そいつらのことを、最初から最後まで自分一人で面倒を見るって意味じゃねぇ」

 

「じゃあ?」

 

「そいつらの命を預かった以上、逃げずに考えるってことだ」

 

「……」

 

「分からなきゃ、頼定に聞けばいい。兵のことなら詳しい奴に聞け。政のことなら正頼に聞け。自分より強い奴がいるなら、その力を借りろ」

 

「……うん」

 

「けどな」

 

 天狗は鋭い眼光で、まっすぐに俺の目を見つめた。

 

「最後に決めるのは、お前だ」

 

 俺は思わず息を呑んだ。

 

「それが将ってもんだ」

 

 その言葉が、すとんと胸の奥深くに落ちていくのを感じた。

 

 重い。確かに途方もなく重い。氏隆の人生、元豊と元満の人生、そしてこれから先増えていくかもしれない家臣たちの人生。その人たちの背後にいる家族や、守りたい大切なものすべて。

 

 俺が大内家を取り戻すということは、もはや俺一人の我儘や夢ではないのだ。いつか俺の背中を信じてついてくる人間が増えれば増えるほど、俺が判断を間違えた時に巻き込んでしまう犠牲も大きくなる。

 

 正直に言って、恐ろしいと思った。けれど――。

 

「……じゃあ」

 

 俺は膝の上で、力強く拳を握り締めた。

 

「もっと強くならないと」

 

「そうだな」

 

「弓も上手くなって」

 

「ああ」

 

「馬にももっと上手く乗って」

 

「ああ」

 

「戦のことも勉強して」

 

「そうしろ」

 

「人の話もちゃんと聞いて」

 

「それもだ」

 

「あと……」

 

 俺はさらに腕を組み、うーんと深く考え込んだ。

 

「……もっとちゃんとした人にならないと」

 

 俺の生真面目な答えに、天狗が堪えきれずに吹き出した。

 

「それが一番難しいかもしれねぇな」

 

「ひどい!」

 

「事実だ」

 

「俺、ちゃんとした人だよ!」

 

「どの口が言ってんだ」

 

「ひどい!」

 

 俺が頬を膨らませてむくれると、天狗は声を上げて豪快に笑った。俺もつられて、さっきまでの重苦しさを忘れて笑ってしまう。

 

 夜の静かな庭に、二人の明るい笑い声が心地よく響き渡った。

 

 しばらくして笑いが収まると、俺は改めて夜空を見上げた。吸い込まれそうな夏の夜空の向こうには、まだ誰も見ることのできない未来が広がっている。

 

 いまの俺は何も持っていない。威張れるような広大な領地もなければ、威圧するような大軍もない。この立派な城だって自分のものではなく、借り物に過ぎないのだ。

 

 それでも、俺のところへ命がけで来てくれる人がいる。俺という存在を信じて頼ってくれる人がいる。ならば、その真っ直ぐな信頼から目を逸らすわけにはいかない。背負うことの重さを恐れて逃げ出すわけにはいかないのだ。

 

 ただし、一人で無謀に抱え込む必要もないのだと分かった。頼定が教えてくれたように人の知恵と力を借りればいい。正頼に教意を乞えばいい。元豊や元満の言葉に耳を傾け、氏隆のように俺を頼ってくれた人間の声もしっかりと受け止めればいい。

 

 そうやって、皆で肩を並べて進んでいけばいいのだ。

 

 俺はまだ弱い。まだ何も知らない。だからこそ――。

 

「……もっと強くなろう」

 

 自分自身に言い聞かせるように、小さく呟いた。隣に座る天狗が、短く力強く応えてくれる。

 

「ああ」

 

 その頼もしい声を聞きながら、俺は静かにまっすぐ前を見つめた。

 

 味方を増やすということは、ただ単に都合の良い仲間が増えるということではない。一人増えるたびに、守るべき大切なものが増える。一人増えるたびに、絶対に失いたくないものが増える。一人増えるたびに、俺が背負い、考え抜かなければならない責任も増えていくのだ。

 

 それはきっと、想像を絶するほど重く苦しいことなのだろう。けれど、その重さから逃げるつもりは微塵もなかった。

 

 だって、俺はもう、決して一人ではないのだから。

 

 夜風が静かに頬を吹き抜けていく。遠くの草むらで、夏の虫たちが優しく鳴いている。俺はその声に耳を澄ませながら、明日もまた立ち上がり、弓を引こうと心に誓った。

 

 そしてもっと人の話を聞こう。もっと戦の理を学ぼう。もっと強い人間になろう。いつの日か、俺を信じてついてきてくれた人たちが「この人についてきてよかった」と心から思えるような、立派な人間になるために。

 

 その日が訪れるまで、俺は一歩ずつ諦めずに進んでいく。今までずっとそうしてきたように。昨日より今日、今日より明日。少しずつでも確実に、前へ前へと進み続けるために。




おっきー:宗像氏隆とその家臣・郎党約30人が仲間に加わった!
元豊&元満:美少年男子同士がぎゅーっと抱きしめあってるのを見て何か新しい扉を開きそうになった。
氏隆:史実では長門で帰農して90歳まで生きたという。この世界では石見に興童子がいて、大内再興のため動き回っているという噂(大体あってる)が大内領国中に広まってるので、藁にも縋る思いでやってきた

 今宵はここまでにいたしとうございまする。
 読んでいただきありがとうございました。
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