それでは本編どうぞ!
秋もいよいよ深まりを見せ、津和野の山々を吹き渡っていく風には、日に日に冬の冷たさが混じり始めるようになっていた。ついこの間まで鮮やかな青葉を茂らせていた木々も、いつの間にか赤や黄へとその装いを変え、朝夕の冷え込みは肌を刺すほどに厳しさを増している。
庭に下りて呼吸をすれば吐く息がわずかに白く揺れることもあり、俺は毎朝目を覚ますたびに、温かい布団の中から抜け出すことをほんの少しだけ躊躇するようになっていた。
もっとも、そんな俺の甘えを優しく見逃してくれるほど、この津和野城に集まっている人間たちは甘くはないのだった。
「若君。もう起きておられますか?」
静まり返った室内へ障子の向こうから聞こえてきたその静かな声に、俺は布団の中で思わず体を硬くして固まってしまった。
声の主が誰であるかは、顔を見ずともすぐに思い当たった。他ならぬ元豊である。どうして声を聞いただけで一瞬にして分かるのかと言えば、単に声質が落ち着いているからという理由だけではない。
朝早くから俺の部屋まで足繁くやって来ては「起きていますか」などと丁寧な口調で確認してくるような生真面目で優しい人間が、今の俺の身近にはそれほど多く存在しないからだ。
「……起きてるよ」
どこか寝ぼけた声を意識して作りながら返事を返すと、障子越しに気配が動いた。
「それなら、そろそろお出になってくださいませ。皆様がお待ちでございます」
「分かった」
口ではそう威勢よく返事をしたものの、俺は温もり残る布団の中でもう一度だけ重い目を閉じ、小さく息を吐いた。
五秒。
十秒。
十五秒。
そのまま静寂が流れ、二度寝の誘惑に落ちかけそうになったその瞬間のことだった。
「若君」
「はい!」
即座に返事を跳ね返し、俺は勢いよく布団から這い出した。こういう場面で下手に意地を張って寝た振りを決め込もうものなら、本当に部屋の中まで容赦なく迎えに来られてしまう。
元満なら布団ごと豪快に引っぱがして引きずり出すかもしれないし、頼定なら無言のまま冷気の中に布団を剥ぎ取っていくかもしれない。正頼に至っては、穏やかな笑顔を浮かべたまま「お早うございます」と声をかけてくるだけなのだが、それがなぜか一番逆らいにくい圧力を放っていた。
俺の周りには、朝寝坊というささやかな贅沢を許してくれる優しい人間が一人として存在しないらしい。
「おはよう、元豊」
手早く身支度を整えて部屋の敷居を跨ぐと、薄暗い廊下には元豊が背筋を伸ばして静かに佇んでいた。
そしてそのすぐ隣には、もはや当然の風景のように元満が控えている。
「おはようございます、若君」
「おはよう、元満」
「今日は随分と早いお目覚めですね」
「早い?」
意図せぬ言葉に首をかしげると、元満は真面目な顔で頷いた。
「ええ。いつもよりいささか早くございます」
「そう……」
そんな細かな時間まで正確に数えられているのかと思うと、俺は思わず呆れ顔で元豊の方へと視線を送った。元豊は俺の様子を見て、忍び笑いを漏らすように小さく肩を揺らした。
「元満は朝早くからずっと、若君が起きて来られるのを心待ちにしておられたのですよ」
「ちょっと、姉上! 余計なことを言わないでください!」
「待ってたの?」
「違います!」
間髪を容れずに即答が返ってきた。しかし、そう威勢よく言い張りながらも、元満の頬は分かりやすくもかすかに朱に染まっていた。
「ただ、その……」
「うん」
「若君がいつまで寝こけているのか、様子が気になっただけにございます!」
「それを世間では待ってたって言うんじゃないの?」
「違いますと言っているでしょう!」
「いやいや、どう見ても同じでしょ」
「絶対に違います!」
朝の澄んだ空気の中に、元満の高らかな声が朗々と響き渡っていく。
その意地っ張りなやり取りを見ているうちに、俺は思わず吹き出してしまっていた。こういう他愛もない会話を交わすのが、最近の楽しみの一つなのだ。
「若君」
「うん?」
元満との軽口を優しく見守っていた元豊が、不意にその表情を少しだけ引き締めた。
「正頼様がお呼びでございます」
「伯父上が?」
「はい」
「こんな朝早くから?」
「朝だからこそ、でございます」
その含みを持たせた言葉の響きに、俺は少しだけ首を傾げた。
いつものような日課の呼び出しであれば、何か用件があったとしてもそこまで重苦しい雰囲気を気にする必要はない。しかし、元豊の低い声にはどこか緊張の糸が張り詰めているのが感じ取れた。
俺は先ほどまで残っていた微かな眠気を完全に振り払い、衣服の乱れを正して背筋を伸ばした。
「分かった。行こう」
「はい」
元豊が深く頷く。
元満も先ほどまでの賑やかな態度をすっかり引っ込め、静かに俺の後ろへと続いて歩き出した。その気配の変化だけで、鈍い俺であってもはっきりと悟ることができた。今日は、いつもと変わらぬ穏やかな一日ではないのだと。
❖
正頼の部屋の障子を開けて足を踏み入れると、広い室内にはすでに頼定と佐波興連が席についていた。
俺は思わず入口のところで一瞬だけ足を止めてしまった。
頼定がここにいるのはいつものことだから理解できる。しかし、佐波家の当主である興連までが直々に津和野まで来て顔を揃えているとなれば、ただ事ではない大きな噂や相談事があるのだと察するしかなかった。
「失礼します」
俺が部屋に入ると、上座に座っていた正頼がゆっくりと顔を上げた。
「おお、若君。よく来られましたな」
「伯父上。何か大変なことでもあったんですか?」
俺がストレートに尋ねると、正頼はすぐには言葉を返さなかった。代わりに、低い卓の上に静かに置かれていた一枚の古い書状へと重い視線を落とす。紙そのものはどこにでもある至極ありふれたものに見えたが、それを囲んでいる大人たちの表情は、いつもと明らかに違っていた。
「興連殿」
「はい」
「若君へ説明していただいても?」
正頼に促される形で、興連が静かに俺に向かって頭を下げた。
「承知いたしました」
興連は背筋を正し、まっすぐに俺の方へと向き直った。
「若君。先月お話しいたしました件につきまして、周囲でいくつかの動きがございました」
「福屋とか、周布とか、出羽のこと?」
「はい」
俺は興連の言葉に思わず身を乗り出した。
興連を味方に引き込めた時、興連は佐波家だけでなく、石見国に散らばる他の国人領主たちへも秘密裏に声をかけると言っていた。
福屋。周布。出羽。
どの家も、俺にとっては名前くらいしか聞いたことがなく、実際にどんな人物たちが当主を務めているのかはほとんど何も知らない。だからこそ、その後の働きかけがどのような結果を生んだのか、気になって仕方がなかったのだった。
「それで、一体どうだったの?」
期待を込めて尋ねた俺に対し、興連はどこか困ったような苦笑いを浮かべた。
「そう簡単には参りませぬな」
「やっぱり駄目だったの?」
「はい。誰もが即座に若君の傘下に加わると、よい返事を出してきたわけではございません」
「……そっか」
頭では最初から分かっていたことではあった。
佐波家がこうして味方になってくれたこと自体が、本来であれば奇跡のような大きな進展なのだ。だからといって、他の歴史ある国人領主たちまでが俺の一言で簡単に動いてくれるはずもない。彼らには守るべき独自の領地があり、多くの家臣とその家族がおり、代々受け継いできた大切な家が存在しているのだから。
「ただ」
失望しかけた俺に、興連が力強い声で言葉を続けた。
「誰もが、若君のお名前を無下にして無視したわけではございませぬ」
「俺の名前?」
「はい」
その思わぬ言葉の意味が分からず、俺は少しだけ眉を寄せた。
「それって、どういうこと?」
「若君が生きておられるという事実。そして、佐波家がすでに若君に味方したということ。この二つの報せは、もはや以前のように簡単には隠しきれないものとなっております」
興連の言葉が終わると同時に、部屋の中の空気が一段と重く沈み込んだ。俺は黙って興連の顔を見つめ、その真意を聞き漏らさぬよう集中した。
「佐波家は若君のもとへと旗色を鮮明にいたしました」
興連は静かな口調で事実に触れていく。
「その佐波家が、石見の他の国人たちへ密かに働きかけを行っている。となれば、その尋常ではない動きを陰から観察している者がいたとしても、何ら不思議ではありませぬ」
「……つまり」
俺は胸のざわつきを抑えながら、言葉を選んで尋ねた。
「俺がこの津和野で生きているってことが、もう外に広がってるってこと?」
「その可能性は極めて高いと言わざるを得ません」
俺は小さく息を吐き出し、天井を見上げた。やっぱり、そういうことになってしまうのか。
これまで俺たちは、自分たちの存在を隠すためにできる限りの慎重さを期して動いてきたつもりだった。
今までは俺の生存は大多数からしてみれば噂程度ではあったが、俺自身が表立ってその身健在という姿を現せば、噂は真実となり、それだけ周囲からの危険が増すことになる。だからこそ、佐波興連と密会する際にも細心の注意を払っていたし、やり取りする書状も人目に触れぬよう厳重に管理していた。
しかし、関わる人間の数が増えてしまえば事情は一変する。一人であれば秘密を守り抜くこともできるだろう。二人であっても、まだ何とか誤魔化せるかもしれない。けれど三人、四人と協力者が増えていけば、どうしてもどこかで誰かが動くことになる。そして人間が動けば、必ず誰かの目に留まる。
目撃されれば噂となって広まり、噂になれば――いつかは敵である陶晴賢の耳にも届いてしまうのは必定だった。
「……もう、完全に隠し通すことはできないんだね」
「はい」
傍らに控えていた頼定が、静かだが確信のこもった声で答えた。
「少なくとも、これまでのように『誰にも存在を知られぬまま潜伏する』ということは、不可能になってまいりました」
「そっか……」
俺は腕を組んで、深く考え込んでしまった。
隠れ家が暴かれつつある今、俺たちは一体どうするべきなのだろうか。もっと山奥の誰も来ないような場所へ逃げ延びて隠れるべきなのか。それとも、全く別の道を選ぶべきなのか。
「若君」
思い悩む俺に向かって、正頼が重々しい声をかけた。
「実は、もう一つだけ事前にお伝えしておかねばならない重大な事態がございます」
「もう一つって何?」
正頼はゆっくりと首を振った。
「先ほどから皆で協議していたのですが……どうやら長門の地からも、若君の動向を強く気に掛けている者が現れたようなのです」
「長門から?」
俺がその言葉を噛み砕く間もなく、部屋の外の廊下から慌ただしい足音が響いてきた。
「申し上げます!」
緊張感の走る声に、部屋にいた全員の視線が一斉に障子へと向けられた。
「長門より、使者殿がご到着いたしました!」
俺は思わず正頼の顔を見つめた。正頼もまた、険しい表情で俺を見返してくる。そして頼定と興連が、静かに目線を交わし合った。
「……随分と早いお着きですね」
興連がぽつりと呟いた。
「何が早いの?」
「若君のお名前が、我々の想定よりも遥かに早く長門の重臣のもとへ届いていたということでございます」
「それって、まずいことなの……?」
俺が不安を口にするより早く、正頼が落ち着いた声で真実を告げた。
「内藤興盛殿からの使者でございます」
「内藤……」
その名前には、俺にとっても強い聞き覚えがあった。
大内家に代々仕えてきた絶対的な重臣。そして、長門国守護代を務める人物。父上・義隆の時代から大内家の政権を支え続けてきた巨頭である。
俺とも浅からぬ関係で、何度も遊んでもらった記憶もある。だが、それ以上に興盛は俺の異母兄・亀鶴丸の母方の祖父に当たる。
幼かった俺のなかでも内藤家というのは非常に大きな力を持った存在だった。そんな人物から、今になって俺のもとへ使者が送られてきたのだ。
俺の心臓は急激に鼓動を強め、緊張で手が冷たくなっていくのを感じた。
「どうして今になって、内藤殿が使者なんて送ってきたの?」
「それを、これから使者殿に直接聞くのでございます」
頼定がいつもの冷静な声で言った。その毅然とした態度が、怯えそうになる俺の心を妙に強く支えてくれた。
「……分かった」
俺は大きく息を吸い込み、背筋をピンと伸ばした。
「会おう」
❖
使者が通されて部屋に入ってきたのは、それから間もなくのことだった。
年齢はニ十を少し越えたあたりだろうか。身にまとっている衣服は決して派手なものではなかったが、その立ち振る舞いには一切の隙がなく、部屋へと足を踏み入れ礼をしただけで、場の空気が一瞬にして凛と引き締まるのが分かった。
俺はさらに姿勢を正した。こういう本物の武士を目の前にすると、自分がまだ何一つ成し遂げていない子供に過ぎないのだという現実を嫌でも突きつけられる気がする。
使者は俺の目の前まで静歩で進み座って座を正すと、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります、若君」
「……うん」
「内藤家家臣・内藤盛兼にございます」
「遠いところをわざわざ来てくれてありがとう」
俺が努めて落ち着いた声を出すと、使者の盛兼はほんの少しだけ目元を細めた。
「こうしてお目通りが叶いましたこと、誠にありがたく存じます」
言葉遣いは非常に丁寧で、礼儀に欠けるところは一つもない。しかし、その奥にある瞳は全く笑っていなかった。
俺には直感的に理解できた。この人は、単に挨拶を述べるために来たのではない。俺という人間を、自分の目で直接観察しに来たのだ。
この子供が一体何を考えているのか。これからどのような行動に出ようとしているのか。それを見極め、自らの主君である内藤興盛に報告するためにやって来たのだ。
「
俺が尋ねると、使者は一瞬だけ意外そうに表情を動かした。
「はい。近頃は備後へ出陣がありましたが、お健やかに過ごされております」
「そう。それならよかった」
俺が本心からほっとしたように呟くと、使者はすぐさま表情を元に戻し、鋭い本題へと切り込んできた。
「若君」
「うん?」
「本日、私がこうして津和野まで参りましたのは、単に無事をお喜びする挨拶を申し上げるためだけではございませぬ」
やっぱりそうか、と俺は心の中で思いながら小さく頷いた。
「何を聞きたいの?」
使者はわずかな間を置き、俺の目をじっと見つめ返してきた。
「若君は、これからどうなされるおつもりですか?」
部屋の中が静まり返った。
「……俺は」
俺はゆっくりと口を開き、以前興連にも言った言葉を出した。
「大内家を取り戻したいと考えている」
使者の目元がわずかに痙攣するように動いた。
「それは」
使者は言葉の重みを測るように、慎重に言葉を紡いだ。
「
その直球の問いかけに、俺は一瞬息を呑んだ。
陶晴賢。父上を死に追いやった叛臣。大内家の実権を力ずくで奪い取った男。俺がいつか絶対に倒さなければならないと誓っていた相手。その名を、こうして見知らぬ使者の前で真正面から問われた。
「……うん」
俺はしっかりと頷いた。
「俺は、父を弑逆した陶晴賢に従わないし、諦めるつもりはない。絶対に」
自分でも驚くほど、口から出た声はハッキリと響いていた。
使者は無言のまま、俺の顔を見つめ続けている。
「では」
静寂の後、使者からさらに踏み込んだ問いが飛んできた。
「義長様も、お討ちになるおつもりですか?」
その問いに俺は即答することができなかった。
大内義長。
現在、山口で大内家の当主として擁立されている人物。陶晴賢が自らの傀儡として立てた存在である。
俺にとっては、従兄だけどその前に簒奪者の一人でもあった。義長本人には何の罪もないのかもしれない。彼自身が父上を殺したわけではないのだから。俺の胸の中には、どうしてもその引っ掛かりが消えずに残っていた。だからこそ、これまでその存在について深く考えることを意図的に避けてきたのかもしれない。
けれど、ここで曖昧な返事をして誤魔化せば、きっと未来の道は途絶えてしまう。
「……うん」
俺は覚悟を決め、ゆっくりと首を縦に振った。
「大内義長も、俺は当主として認めない」
言ってしまった、と思った。胸の奥がドクンと大きく脈打つのを感じた。それは俺自身が、自分の立場と敵対する存在を初めて明確に宣言した瞬間だ。
「俺は、大内義隆の息子だ」
自分でも驚くほど、その言葉はすんなりと口から溢れ出てきた。
「逆臣に奪われた大内家を必ず取り戻す」
使者は何も言わず、ただじっと俺の全身を見つめている。
「そのために、俺は陶晴賢と戦う」
俺は膝の上で両手を強く握りしめた。
「大内義長にも、絶対に屈しないし情けをかけるつもりはない」
そこまで一気に言い切ってから、俺は深く息を吐き出した。胸が苦しいほどに締め付けられ、本当は怖くてたまらない。けれど、それ以上に、今まで頭の中に渦巻いていたモヤモヤが晴れ渡り、不思議なほど心が澄み渡っていく感覚があった。
「……なるほど」
使者が深く静かな吐息とともに呟いた。
「若君のお考え、しかと承りたく存じます」
「うん」
「しかし」
使者はそこで言葉を一度区切った。
「それは、並大抵の覚悟で歩める道ではございませぬ」
「分かってる」
「陶晴賢の権勢は、今や大内家中において絶対的なものとなっております」
「うん」
「大内義長様を新たな主君として受け入れ、忠誠を誓っている国人や家臣も決して少なくはありません」
「それも、百も承知だよ」
「そして何より」
使者は俺の目をまっすぐに見据えた。
「若君のもとへと人が集まれば集まるほど、その者たちやその一族もまた、陶方から容赦なき敵と見なされ、命を狙われることになります」
その重い指摘に、俺は言葉を失って黙り込んだ。
それはいつかの夜に、俺自身が一人で深く悩み抜いたことだった。仲間が増える。家臣が増える。
味方をしてくれる人々が増えていく。それは決して単純な歓喜だけではないのだ。集まってくれた人々にはそれぞれ愛する家族がおり、守らなければならない領地がある。
俺が「戦う」という決断を下すことによって、彼ら全ての人生が危険に晒されることになるのだ。だからこそ、その重みを全て背負わなければならない。
「……分かってる」
俺はもう一度、自らに言い聞かせるように答えた。
「だから、俺は自分一人だけの考えで勝手には決めない」
使者が意図を測りかねたように、わずかに目を見開いた。
「戦のことや分からないことは、頼定に聞く」
俺はとなりに控える頼定に視線を送った。
「領地や政治のことは、伯父上に聞く」
今度は正頼を見た。
「山や石見の地理や国人のことなら、興連殿や周りの人たちに教えてもらう」
そして、俺は再び使者の顔をまっすぐに見つめた。
「俺が知らないたくさんのことを知っている人が、この城にはたくさんいるから」
俺は少しだけ微笑んでみせた。
「だから、俺はその人たちの知恵を借りるんだ」
「……」
「でも」
俺は笑顔を消し、声のトーンを落とした。
最後にどうすべきか。それだけは、絶対に他人に預けてはならないのだ。
「最後に決断を下すのは、俺だ」
使者から目を背けず俺は言葉を続けた。
「だから俺は、絶対に逃げない」
返答を聞いて使者はしばらくの間、無言のまま動かなかった。やがて、床に深く礼をした。
「……しかと、承知いたしました。主君にもそのように伝えます」
言葉数こそ少なかったが、その声には先ほどまでの探索するような響きはなく、重みのある敬意が込められているのが伝わってきた。
❖
使者が辞去し、嵐のような時間が過ぎ去った後も、俺たちはしばらくの間その部屋に残り続けていた。
誰一人として口を開こうとせず、重苦しい静寂が室内を支配している。俺は先ほど自分が使者に向かって叫んだ言葉を、頭の中で何度も何度も反芻していた。
陶晴賢と戦う。大内義長も認めない。大内家を取り戻す。
口に出してしまえば、たったそれだけの短い言葉に過ぎない。しかし、その言葉の先には、数え切れないほどの人間たちの血と汗と人生が繋がっているのだ。
「……言っちゃった」
思わず口から漏れ出た呟きに、正頼がこちらを振り向いた。
「はい。仰いましたな」
「もう、後戻りなんて絶対にできないよね?」
「不可能ですな。退路は断たれました」
「やっぱり……」
俺がガックリと肩を落とすと、横から元満が容赦なく口を挟んできた。
「若君」
「うん?」
「今さら何を情けないことを仰っているのですか?」
「え?」
「佐波家を巻き込んだ時点で既に後戻りなどできないところまで来ております」
「……ぐうの音も出ない」
実にその通りだった。興連を味方に引き入れ、他の国人たちへも働きかけをお願いし、今日に至っては内藤興盛の使者に向かって「陶晴賢も義長も叩きのめす」と宣言してしまったのだ。
後戻りどころか、俺たちはもう引き返せないほどの遠い場所まで歩みを進めてしまっていた。
「元満、若君をあまり脅かすようなことを言うものではありません」
元豊が優しく窘めるように言った。
「ですが姉上、紛れもない事実でございます」
「それはそうですけれど」
「元豊まで味方してくれないの!?」
俺が声を張り上げて抗議すると、二人とも耐えかねたようにクスクスと笑い出した。
ピンと張り詰めていた部屋の緊張感が、少しずつ解けていくのが分かった。俺も思わず苦笑いを浮かべてしまった。
どんなに真剣で重大な話をしていたとしても、元満の遠慮のない物言いは相変わらずだった。しかし、今の俺にとってはそれがたまらなくありがたかった。
重い現実ばかりを考え続けていたら、頭が破裂してしまいそうだったからだ。
「若君」
正頼が真面目な顔に戻り、静かに口を開いた。
「内藤家について、少しばかり詳細をお話ししておきましょう」
「内藤家のこと?」
「はい」
正頼は卓の上に広げられた地図へと指を走らせた。
「知っての通り、内藤興盛殿は、長年にわたって長門守護代を務めてこられた大内家の重鎮中の重鎮でございます」
「うん」
「以前、内藤家の不和をお話ししたと思いますが、大寧寺の変以降、内藤家内部も決して一枚岩ではございません」
俺は深く頷いた。
「興盛殿は大寧寺の変の際、陶晴賢の謀反に積極的に賛同されたわけではなく、どちらかと言えば静観の構えを取られました。そして変の後、家督を譲って隠居されております」
俺は黙って正頼の説明に耳を傾けた。
「そして、その跡を継いで現在内藤家の当主となっているのが、嫡孫の隆世殿でございます」
「隆世……」
その名前も、知ってる名だった。
何度も顔を合わせたことがある。
「隆世殿は、義長に忠誠を誓い、明確に陶晴賢を支持する立場を取っております」
「じゃあ、内藤家の中でも意見が割れてるんだ……」
「そういうことでございます」
「隠居された興盛殿と、その五男である隆春殿は、陶晴賢とは意図的に距離を置いておられる。一方で、家督を継いだ隆世殿は完全な陶方として行動しておられます」
俺は地図に描かれた長門の地に視線を落とした。内藤家。大内家を支える最大の柱の一つ。その内部が、今や真っ二つに割れて揺れ動いている。
「じゃあ、興盛は晴賢のことが嫌いなの?」
「単純な好き嫌いという話ではございませぬな」
正頼が苦笑いを交えながら答えた。
「しかし、少なくとも陶晴賢が推し進める現在の政権に対し、心から服従しているわけではないと見るのが妥当でしょう」
「……難しいんだね、大人の世界って」
「戦国の世でございますからな」
正頼が肩をすくめた。
「味方か敵かだけで全てが片付くのであれば、これほど楽なことはございません」
「じゃあ、何でみんな動いてるの?」
「家の存続、領地の利害、血縁の繋がり、過去の恩義、そして未来への打算。それらが複雑に絡み合って動いているのです」
「……」
俺は頭を抱えて唸った。
「やっぱり、すごく難しいよ」
「はい」
正頼が即答した。
「伯父上まで即答しないでよ!」
俺が恨めしそうに睨むと、正頼は珍しく口元に笑みを浮かべた。
「ですが、若君」
「うん?」
「複雑だからこそ、若君がこれから学んでいく価値があるのです」
俺は腕を組んで考え込んだ。確かに正頼の言う通りだ。
敵と味方。その二つだけで世界を分けられれば、どんなに単純で楽だろうか。しかし実際の世の中はそんなに甘くはないのだ。
陶晴賢の旗を掲げている者たちが、全員心から晴賢を崇拝しているわけではない。逆に、俺の正体を知ったからといって、全員が手放しで味方になってくれるわけでもないのだ。
前に氏隆が言っていた言葉が、頭の中に鮮やかに蘇ってくる。
表面上従っていることと、心から忠誠を誓っていることは全く別物なのだ。それは内藤家や大内家という巨大な組織においても、全く同じことが言えるのだろう。
「……じゃあ」
俺は顔を上げた。
「興盛殿は、最終的に俺の味方になってくれるのかな?」
誰もすぐには答えを口にしなかった。その重い沈黙こそが、何よりの答えであるように思えた。
「現時点において、味方であると断言することはできません」
正頼が言葉を選びながら言った。
「ただし、少なくとも若君を排除するために使者を送ってきたのではないことだけは確かでしょう」
「どうしてそう言えるの?」
「本当に敵と定めているのであれば、わざわざ極秘に使者を寄こして問いただす必要などなく、速やかに陶方に通報すれば済む話でございますからな」
「……そっか」
俺は納得した。つまり内藤興盛は、俺という人間の器量を試そうとしているのだ。そして俺たちもまた、内藤興盛という人物の本心を見極めなければならない。
味方か敵かという単純な二元論ではなく、互いの立場を探り合っているのだ。
「じゃあ、俺たちも内藤家の内部事情をもっと詳しく調べた方がいいね」
「はい」
頼定が深く頷いた。
「ただし、焦ってこちらから無理に手を伸ばす必要はございません」
「どうして?」
「内藤家は今、内部で激しく揺れております。外部から不用意に刺激を与えれば、かえって事態を悪化させ、向こうの思う壺になってしまう危険がございます」
「……うん、分かった」
焦りは禁物なのだ。味方が欲しいからといって、無計画に手を広げればいいというものではない。相手の家がどのような事情を抱えているのか。その人が何を守ろうとして苦悩しているのか。そこまで深く推察しなければならないのだ。
俺はいつかの夜、屋根の上で天狗と交わした会話を思い出していた。関わる人間が増えれば増えるほど、背負わなければならない責任も重くなっていく。あの夜は、その重圧に押し潰されそうになって恐怖を感じていた。
今でもその怖さが消えたわけではない。けれど、少しずつではあるが、自分が何をすべきなのかが分かってきた。
「……俺、もっとちゃんと考えなきゃダメだね」
「はい」
頼定が真顔で答えた。
「ですが、考えすぎて何も行動できなくなってしまうのも困りものです」
「え?」
「若君は難しく考え込むと、すぐに顔に出ますので」
「顔に出てるの?」
「はい。実に分かりやすく出ております」
「どんな顔してるのさ?」
頼定は少しだけ首をひねった。
「『難しいです』という顔をしておられます」
「そのまんまじゃん!」
俺がツッコミを入れると、元満が耐えきれずに噴き出した。
「ふふっ」
元豊までもが口元を押さえて笑っている。
「なんでみんなで笑うのさ!」
俺が怒ってみせると、部屋の中にあった重苦しい空気は完全に吹き飛んでしまった。こんな困難な状況の中でも、こうして笑い合える仲間がいることが、俺にはたまらなく嬉しかった。
俺たちはこれから、陶晴賢という巨大な敵との苛烈な戦いへと向かっていく。その現実は何一つ変わらない。だからといって、毎日毎日険しい顔をして絶望している必要はないのだ。昔の俺が山口でそうであったように、くだらないことで笑い、くだらないことで喧嘩し、そうやって明日を迎えていく。
そういう当たり前の時間こそが、今の俺たちには必要なのかもしれない。
興童子:たとえみんなが俺をのけ者にして隠れておいしいお菓子とか食べてたとしても絶対に陶と義長には屈しない…
内藤使者:何の話です?
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。