初陣を終えた翌朝、布団の上で目覚めた俺を待っていたのは、未だかつて経験したことのないような全身を苛む重苦しい倦怠感と、頭の奥底に澱のようにこびりついて離れない強烈な精神的疲労であった。
昨日、戦場という異様な空間の中で初めて己の手で人を斬り殺したという厳然たる事実は、一夜明けたからといって決して消え去るものではなく、それどころか時間が経つにつれてかえって鮮明なリアリティをもって俺の心身を押し潰そうとしていた。
刀を振り回し走り回ったせいで腕は鉛のように重いし、両肩には鈍い痛みが走り、足腰にも未だに力が入らず踏ん張りが利かない。
布団に入った瞬間に泥のように眠りに落ちたはずなのに、目を覚ましても身体の深部から疲労が抜け切っていない感覚が明白に残っていた。
「あ゛ぁ゛~……」
身体の物理的な痛みに唸り声をあげたが、輪をかけて俺を苦しめていたのは、頭の中を絶え間なく支配し続けている狂おしいほどの精神的な疲労感であり、どれほど重い瞼を閉じようとも視界の裏側には昨日の不吉な光景が鮮明にフラッシュバックしてきた。
鼓膜を破らんばかりの怒号や恐怖の悲鳴、刃と刃が激しくぶつかり合って飛び散る火花と金属音、固い土を強く踏みしめる多数の靴底の足音、そして何よりも――俺がこの手で刀を突き立て、命を奪ったあの男の最後の表情が鮮烈に浮かんでは消えた。
あれは本当にほんの一瞬の出来事に過ぎず、立ちすくむ隙すら与えられない極限の混乱の中で、気がついた時には俺の握る刃が吸い込まれるように相手の肉体へと深々と入り込んでいたのであり、俺はその男の生前の名前はおろか、どんな人生を歩んできたのかすら一切知らないまま命を奪ってしまったのだった。
「……はぁ」
静まり返った室内で、俺は布団の上に仰向けのまま小さく長い溜息を吐き出し、胸の内に渦巻く割り切れない感情を少しでも外へ押し出そうと試みた。
昨日という日を迎えるまで、俺にとって戦というものはどこか歴史物語の中の出来事のように遠く感じられ、現実感を伴わない架空の概念のようなものとして捉えていた側面が少なからず存在していた。
もちろん、過去に大寧寺の変という残酷な事変を目の当たりにして経験しているし、目の前で大勢の人間が命を落としていく惨状を幾度となく見てきたつもりではあったが、それでもなお、自分自身の掌で刀の柄を握り締め、他人の肉体を切り裂いて殺めるという行為は、それまで傍観者として目撃してきた死とは全く次元の異なる恐怖と衝撃を俺の魂に突きつけていた。
「……疲れるなぁ」
誰もいない部屋の中でぽつりと漏らしたその呟きは、虚空に力無く消えていき、俺はふとした拍子に戦国の世を生きる武将たちの姿について奇妙な疑問を抱かずにはいられなかった。
物語や講談に登場する戦国時代の武将という人々は、どうしてあのように豪快で豪放磊落な性格の人間が多く、殺伐とした戦場の中でも平然としていられるのだろうかという素朴な問いが脳裏をよぎったのである。
激しく刀を振るって何人もの人間を斬り倒し、地獄のような惨劇がようやく終わったかと思えば、陣中で平然と酒を酌み交わして高らかに笑い合っているような豪胆な人物の描写を思い出し、もしかすると彼らとて最初から狂っていたわけではなく――
そうやって意識的に豪快に振る舞い、酒を飲んで狂気を演じでもしなければ、正気を保ってやっていられなかったのではないかという考えに至った。
「……いや、違うかな」
自分の中で導き出したその推測に対して、俺はすぐに一人で言葉を否定し、布団の上で静かに首を横へと振って余計な雑念を払いのけようとした。
歴史の波に揉まれて生きてきた本当の武将たちが何を思い、どんな覚悟で刀を握っていたのかなど、現代からやってきて数度人を斬っただけの俺に分かるはずもなく、自身の勝手な妄想で彼らの生き様を推し量ること自体が無意味で不遜なことなのかもしれなかった。
ただ確かな事実として言えるのは、たった一日の戦で数人の人間を斬っただけでこれほどまでに心身が擦り切れて疲弊しているという現実であり、これから先も何度も何度も悲惨な戦を繰り返していくのだとすれば、心を麻痺させるか豪快な仮面を被らなければ、とてもではないが精神が壊れて持たないのかもしれないという切実な予感だけであった。
そんな取り留めのない自問自答を繰り返しながら、俺は重い頭をなんとか持ち上げて布団からゆっくりと起き上がり、現実の時間へと意識を戻していった。幾重にも重石を乗せられたかのように身体は痛むように重かったが、いつまでも温かい布団の中で丸くなって塞ぎ込んでいるわけにはいかず、俺には果たすべき役割と背負わなければならない現実が存在していた。
❖
部屋を出て城内の廊下へと足を踏み出すと、そこには昨日までの逼迫した空気とは明らかに異なる、どこか底冷えするような独特の雰囲気が漂っていた。
敵の襲来に怯え、いつ命を落とすか分からない緊張感に包まれていた昨日までの張り詰めた気配は確かに薄れていたものの、かといって勝利を喜ぶような明るく活気のある雰囲気など微塵も存在していなかった。
通路の脇では、血に染まった布を巻かれた負傷した者が担架や背中に背負われて次々と運ばれていき、その横では激しい打撃によって歪み壊れた具足を真剣な眼差しで修理している職人や兵の姿があった。
地面や濡れ縁の隅には、戦場で回収された折れた矢や壊れた兵器が集められて小山のように積まれており、武者たちは昨日の死闘で使い古した己の刀や槍の刃こぼれを念入りに確かめ、手入れに余念がなかった。
「若様」
不意に背後から静かだが通りやすい声で呼びかけられ、俺は重い身体を捻るようにして振り返った。そこに立っていたのは、いつものように冷静で落ち着いた佇まいを崩していない元豊の姿であった。
「元豊」
「おはようございます」
「おはよう」
元豊は俺の疲れ切った顔色をじっと見つめると、その整った眉をほんの少しだけ悲しげに下げ、心配そうな色を瞳に宿した。
「よく眠れましたか?」
「うん。たぶん」
「たぶん、ですか?」
「寝たことは覚えてる。でも、起きても疲れてる」
「そうでしょうね」
元豊は俺の素直すぎる返答を聞くと、緊張をほぐすように小さく笑みを浮かべて頷いた。
「昨日は大変でしたから」
「元豊は?」
「私も疲れておりますよ」
俺の問いに対して、元豊は威張ることも悲観することもなく、意外なほどあっさりと己の疲労を認める言葉を返してきた。
「昨日は私も戦いましたから」
「……そっか」
元豊のその言葉を聞いて、俺はハッとさせられると同時に、自分の視野がいかに狭くなっていたかを痛感させられた。
昨日の地獄のような死闘の中で戦っていたのは決して俺一人ではなく、元豊もまた命を懸けて刀を振るったのだし、元満も、頼定も、そして波多野の勢力の人々も皆、それぞれの場所で血を流しながら戦い抜いたのである。
俺だけが特別な苦しみや疲労を背負っているわけではなく、この城にいる誰もが同じように傷つき、疲れ果てながらも必死に立っているのだという事実に気づかされ、胸の奥が少しだけ軽くなるような感覚を覚えた。
「若様」
「うん?」
「こちらへ」
「どこ?」
「負傷した方々のところです」
元豊から提示された行き先を聞いた瞬間、俺はほんの少しだけ足を止め、行くべきか否か躊躇するような仕草を見せてしまった。というのも、その言葉を聞いた瞬間に昨日の惨劇や血の匂い、切り裂かれた肉体の光景が脳裏にフラッシュバックし、本能的な拒絶反応が起きたからであった。
しかし、自分の弱気から目を背けて逃げ出すわけにはいかないと思い直し、俺は重い足取りを引きずりながら元豊の少し後ろをついて歩き始めた。
救護所として使われている広間へと続く廊下を進んでいくにつれて、昨日までの戦場では聞こえてこなかった異様な音や声が、耳に直接届くようになってきた。
皮膚を裂かれ骨を折られた兵者たちが漏らす絶望的な苦しそうな声や、耐えかねて漏れ出るうめき声、うわごとのように遠くの家族や誰かの名を呼ぶ声が交錯していた。昨日の激しい乱戦の最中においては、目の前の敵を倒すことだけに意識が没頭しており、そうした傷病者の悲痛な叫びなど耳に入る余剰は一切存在していなかったのである。
相手を斬る、攻撃を避ける、なんとしても生き残る――その極限状態の三つだけに全神経をすり減らしていたが、戦という狂気が過ぎ去った後に城内に残されるのは、ただただ惨めに傷つき苦しむ生身の人間たちであるという現実に俺は胸を締め付けられた。
「若様、こちらをお願いいたします」
広間に入ると、元豊は手際よく準備を進めながら、並々と清らかな水が満たされた木の器を俺の手へとそっと差し出してきた。
「これ?」
「はい」
「分かった」
俺は渡された器の重みをしっかりと両手で受け止め、床に力無く横たわっている負傷した兵の側へと静かに足を進めて運んでいった。それからは、元豊のテキパキとした指示に従うまま、血を拭うための綺麗な布を渡したり、汚れた水を新しい水に取り替えたりといった作業を黙々と繰り返した。
当然のことながら、俺のような若造に兵たちの深手を直接治療するような知識や技能があるはずもなく、専門的な医術の心得など何一つ持ち合わせてはいなかった。だからこそ、専門的な知識を持つ者に手当てを任せ、自分にできる範囲の雑用や世話だけに没頭するしかなく、ただひたすらに目の前の作業へと没頭することで心を落ち着かせようとしていたのだった。
「……痛いか?」
患部に巻かれた布から血を滲ませている兵の前にかがみ込み、俺はかけるべき言葉も見つからないまま思わずそう尋ねていた。
「は、はい……少々」
「そっか」
相手の痛みを少しでも和らげるような気の利いたセリフなど思いつくはずもなく、俺はどう言葉を繋げばいいのか分からないまま、手にしていた水の器をゆっくりと相手の口元へ差し出した。
「これ、飲める?」
「……ありがとうございます」
傷を負った兵士は、まさか総大将である俺から直接水を差し出されるとは思ってもみなかったようで、目を丸くして驚いた表情を浮かべた。
そして、恐縮したように震える手で恐る恐る器を受け取ると、渇きを切望していた喉へと愛おしそうに水を流し込んでいった。
「御屋形様に、そのようなことをしていただくわけには……」
「いいよ」
恐縮しきっている兵士の言葉に対して、俺は飾らない口調で静かに返事を返した。
「俺にもできることだから」
「しかし……」
「昨日はよく戦ってくれたから」
その言葉をかけた瞬間、横たわっていた兵は驚きでさらに大きく目を丸くし、固まったように俺の顔を見つめ返してきた。
「だったら、これくらいさせてよ」
兵士はしばらくの間、言葉を失った様子で無言のまま俺の顔をじっと見つめ続けていた。
やがて、その瞳にじんわりと熱いものが宿るのと同時に、布団の上で深く深く頭を下げて感謝の意を示した。
「……ありがたき幸せにございます」
「そんなに畏まらなくてもいいって」
俺が恐縮して頭を掻きながらそう口にすると、そのやり取りをすぐ近くで横になって見ていた別の負傷兵が、小さく声を漏らして笑った。
「御屋形様は、変わったお方ですな」
「そう?」
「はい」
その兵は比較的軽症だったのか、痛む体をかばいながら傷を負っていないほうの腕を巧みに使って、ゆっくりと上半身を起こした。
「昨日、戦場で我らと共におられたかと思えば、今日はこうして我らの傷まで気にかけてくださる」
「……」
「ありがたいことでございます」
直球で感謝の言葉を投げかけられ、俺は自分の行いがあまりにも小さなことに思えて、猛烈に照れくさくなってしまった。
「俺、別に大したことしてないよ」
「それでも、でございます」
兵士の迷いのないきっぱりとした言葉に対して、俺はそれ以上うまく言葉を返すことができず、ただ黙り込むことしかできなかった。
自分はただ頼まれるままに水を運んだだけであり、傷口を拭くための布を手渡しただけに過ぎず、何一つ立派なことを成し遂げたわけではない。
それにもかかわらず、手当てを受ける兵たちの俺を見る目が、昨日の戦前とは明らかに異なり、温かく深い信頼を帯びたものへと変化しているのを肌で感じていた。
❖
「若君!」
遠くのほうから、聞き慣れた元気で少し甲高い声が聞こえてきて、広間全体に響き渡った。
俺が声のしたほうへ振り向くと、手に手拭いを握りしめた元満がこちらに向かって一目散に歩いてくるところであった。
「元満」
「こんなところにいたんですね!」
「うん。元豊の手伝いをしてた」
「私も手伝います!」
「元満も疲れてるんじゃない?」
「疲れてます!」
元満は自分の疲労を隠す様子もなく、清々しいほどの即答で声を張り上げた。
「腕も痛いですし、足も痛いです!」
「じゃあ休んだほうがいいんじゃない?」
「でも、若君も手伝ってるじゃないですか」
「俺は……」
食ってかかるような元満の勢いに押され、俺は次の言葉を探して少しだけ言葉に詰まってしまった。
「俺は、これくらいしかできないから」
「だったら私もします」
元満は迷いのない瞳でそう宣言すると、言った先から近くに横たわっている兵士の元へ歩み寄り、甲斐甲斐しく水を渡し始めたのだった。
それからというもの、俺と元満は自然と肩を並べる形になり、城内の負傷者たちの手当てや世話に勤しむこととなった。
「若君」
「うん?」
「昨日のこと、気にしてます?」
「……うん」
俺の重苦しい返答を聞くと、元満は一瞬だけ作業の手を止め、静かに沈黙を守った。
「私も、怖かったですよ」
「元満も?」
「はい」
元満は手元でタライの水を取り替えながら、噛みしめるように言葉を紡ぎ出した。
「昨日、若君が動けなくなった時、相手が刀を持って近づいてきたでしょう?」
「うん」
「だから、斬りました」
「……うん」
「でも、斬った後は……やっぱり嫌な感じがしました」
俺は横に立つ元満の横顔をじっと見つめたが、そこには普段見せるような無邪気で底抜けに明るい表情はなく、幼いながらも戦の理不尽さを噛みしめる切ない陰りが宿っていた。
「戦場だから仕方ありません。でも、仕方ないから何とも思わない、ということではないと思います」
「……そっか」
「若君だけじゃありませんよ」
重くなりかけた空気を払いのけるように、元満はいつものように明るい笑みを顔に浮かべてみせた。
「怖かったのは、私も同じです」
「ありがとう」
「なんでお礼を言うんです?」
「なんとなく」
「変な若君」
「元満に言われたくない」
「ひどい!」
元満はぷくっと両頬を膨らませて子供のように不服を申し立ててみせた。
自分たちのすぐ近くで二人の会話を耳にしていた負傷兵たちから、思わずといった風に小さな微笑ましい笑い声が漏れ聞こえてきた。
昨日という日においては、お互いに武器をとって殺し合っていた殺伐とした世界にいたはずなのに、今日はこうして傷を寄せ合いながら穏やかに笑い合っているという光景が、どこか現実離れしていてひどく不思議に思えた。
けれど、その奇妙な温もりによって、俺の押し潰されそうだった心はほんの少しだけ救われ、軽くなったような気がしていた。
❖
太陽が天頂近くまで昇り、昼近い時間帯になると、殺気立っていた城内の動きも幾分か落ち着きを見せ始めていた。
そこへ、威厳に満ちた足取りで周囲を警戒しながら、頼定がこちらに向かって歩いてやってきた。
「御屋形様」
「頼定」
「お疲れではございませんか」
「かなり疲れてる」
「それは何よりです」
「それ、さっきも元豊に言われた」
「皆、同じことを考えているのでしょう」
頼定は深く納得したように頷くと、静かな眼差しで忙しく動く広間全体の様子を見渡した。
「現在、負傷者の確認と手当てを進めております。また、武具や馬の状態も確認しております」
「戦が終わったら、やることっていっぱいあるんだね」
「はい」
頼定は俺の言葉に深く肯き、重厚な声を響かせた。
「戦は、敵を退ければ終わりというものではございません」
「うん」
俺は改めて周囲の光景に視線を巡らせ、目を背けたくなるような現実を観察した。
体のあちこちに痛々しい帯を巻いた傷ついた兵たち、刃がこぼれ柄が砕けた壊れた武具、そして激戦で疲労困憊しきった馬たちの姿。
昨日のたった一日の戦いによって失われてしまったものの多さは、戦う前に俺が頭の中で想像していた規模よりも遥かに大きく、深い爪痕を残していた。
「……俺、昨日は勝てばそれでいいと思ってた」
「それは自然なことでございましょう」
「でも、違った」
「はい」
「勝った後にも、やらなきゃいけないことがいっぱいある」
「その通りです」
頼定は鋭くも温かい眼差しを俺に向け、じっとこちらを見つめた。
「だからこそ、戦を始める前に考えなければならぬことも多いのです」
「……死ぬ人を減らすため?」
「それも一つです」
頼定の言葉を聞きながら、俺の脳裏には昨日の激しい合戦の記憶が鮮明に呼び起されていた。
頼定があらかじめ危険を見越して険しい山道に伏兵を配置していたことや、波多野滋信たちが取り決められた通りの正確な時刻に手勢を動かしたこと、そして俺たちが死守すべき嘉年勝山城を最後まで守り抜いたこと。
もしもそれらの細やかな作戦や統制が存在しなかったならば、今頃この場所にはもっと多くの死体が転がり、何倍もの人間が激しく傷ついていたに違いなかった。
「頼定」
「はい」
「戦で、人が死ぬのは仕方ないの?」
頼定はその重い問いかけに対して即答することはせず、一瞬だけ深く沈思黙考するような間を置いた。
「避けられぬ場合もございます」
「……うん」
「ですが」
頼定は言葉を切り直し、力強いトーンで言葉を続けた。
「減らすことはできます」
「どうやって?」
「無用な戦を避けること。敵の動きを知ること。地形を使うこと。兵を無理に動かさぬこと。退くべき時に退くこと」
軍略の真髄とも言える極意を、頼定は一つひとつ噛み砕くように、静かだが重みのある言葉で紡いでいった。
「それらを考えることも、将の務めでございます」
「……そっか」
俺は外へ視線を向け、遠くにしなる山々の稜線を見つめた。
昨日、俺たちが血を流して死闘を繰り広げたあの凄惨な場所。
あの過酷な戦場において命を落とし、二度と身を起こすことのなくなった人々が存在し、そして俺自身の手によって命を断たれた男もまた、あそこに眠っている。
「強いっていうのは、敵をたくさん倒すことじゃないんだね」
「それだけではございません」
頼定は力強く言葉を返し、深く頷いた。
「いかにして己が兵を生かすか。それもまた、強さでございます」
その至言が俺の胸の奥深くに染み込んでいき、俺は言葉を失ったまましばらくの間、静寂の中に身を置いた。
❖
昼が過ぎ、太陽が西へと傾き始めた午後になっても、負傷者の中には傷が深く自力で体を起こすことすら叶わない者が大勢残されていた。
俺は少しの休憩を挟んだ後、再び兵たちが横たわっている救護の場所へと足を運んだ。
「御屋形様」
兵の一人が俺の姿をいち早く見つけると、驚きを含んだ声を漏らした。
「どうした?」
「いえ……また来てくださったのかと」
「うん」
俺は相手の緊張を解きほぐすように、努めて柔らかい笑みを返した。
「何か必要なものある?」
「いえ、そこまでしていただかなくとも……」
「遠慮しなくていいよ」
俺は広間の隅々にまで視線を走らせながら言った。
「水なら持ってこられるし」
すると、恐縮している兵のすぐ隣で横になっていた別の兵が、ゆっくりと口を開いた。
「御屋形様」
「うん?」
「昨日の戦で、我らは総大将のお姿を見ておりました」
予期せぬ言葉をかけられ、俺は少し意外に感じて目を見開いた。
「俺を?」
「はい」
「俺、そんなに何かしてた?」
「戦場で逃げずに立っておられました」
「……」
「それだけでも、我らには心強いことでございました」
さらにその奥にいた別の傷病兵も、同意するように深く頷いた。
「それに、今日はこうして我らのところへ来てくださる」
「俺は……」
兵たちの真っ直ぐな称賛の眼差しを前にして、俺は何と返答するのが正しいのか分からなくなってしまった。
「俺は、みんなに戦ってもらってるんだから」
思考を挟むよりも早く、俺の口からは飾らない本音が自然と零れ落ちていた。
「だったら、俺が何もしないのは違うと思う」
兵たちは誰一人として言葉を発さず、静まり返った室内でじっと俺の顔を見つめ続けていた。
やがて、一番近くにいた一人の兵士が、目頭を熱くさせながら深く深く頭を下げたのだった。
「……ありがたきお言葉にございます」
その過剰とも思える心からの敬意を前にして、俺はどう振る舞うべきか少々困惑してしまった。
「だから、そんなに畏まらなくていいって」
俺が困り顔でそう口にすると、緊張が解けたのか兵士は柔らかく笑った。
「では、ひとつだけお願いしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「明日も、御屋形様のお顔を見せていただければ」
「……それくらいなら」
俺も肩の力を抜き、穏やかな笑みを返した。
「もちろん」
その一言を聞いた瞬間、周囲にいた負傷兵たちの陰りある表情が、まるで陽光が差したかのようにパッと明るく華やいだ。
俺はその光景を目にしながら、胸の奥底から込み上げてくる何とも言えない感慨に包まれていた。
水を運び、言葉を交わすというたったこれだけのささやかな行いで、これほどまでに人間は救われ、喜んでくれるものなのだ。
昨日という日を迎えるまで、俺はそんな民や兵の心の機微について深く考えたことすら存在しなかったのである。
❖
陽がすっかり傾き、空が茜色に染まる夕方近くになると、ようやく城内の慌ただしい仕事もひと段落を見せ始めた。
俺は疲れた身体を休めるため、城壁のすぐ近くにある石垣の腰掛けにぽつりと腰を下ろしていた。
そこへ、一日中忙しく立ち回っていた元豊が静かな足取りでやってきて、隣へと並んで座った。
「若様」
「うん?」
「今日はよく動かれましたね」
「そうかな?」
「はい」
「俺は、水を運んだだけだよ」
「それでもです」
元豊は全てを見通すような穏やかな笑みを浮かべながら語りかけてきた。
「兵たちは嬉しかったのでしょう」
「……そういうものなのかな」
「きっと」
俺は口を噤み、薄暗くなり始めた城内の情景をじっと見渡した。
そこに広がる景色は、昨日まで見ていた景色とは明確に違って見えていた。
ここに集い、泥にまみれている人々は、単に俺という頭領に従っているだけの記号的な存在などではないのだ。
昨日、同じ戦場で血を流しながら共に地獄をくぐり抜けた仲間であり、傷つき苦しんでいる生身の人間たちなのである。
そして何より、俺という存在のために命を賭して戦ってくれている大切な人々であった。
彼ら一人ひとりにも当然ながらかけがえのない家族が存在し、無事の帰りを待つ温かい家が存在しているのだという当たり前の事実に思い至った。
「……元豊」
「はい?」
「俺、もっと強くならないといけないね」
「はい」
「でも、弓とか刀だけじゃないんだ」
元豊は口を挟むことなく、静かな眼差しで俺の言葉の続きを待ってくれた。
「戦う時のことだけじゃなくて、戦った後のことも考えないといけない」
「はい」
「みんなを生きて帰すことも、俺の仕事なんだよね」
「そうだと思います」
俺は立ち上がり、ゆっくりと城壁の向こうにそびえる深い山々へと視線を向けた。
あの山の向こう側には、昨日の地獄のような凄惨な戦場が広がっているはずであった。
今はもう暗闇に包まれ、何も見ることはできない。
しかし、あの場所で何が起き、どれほどの命が失われたのかを俺の魂は一生忘れることができないだろう。
俺は昨日、初めて己の手で刀を握り、人の命を奪った。
その強烈な罪悪感と感触は、これから先の人生においても永遠に消え去ることはなく、背負い続けていかなければならない呪縛となった。
恐怖で震え、嫌悪感で吐き気がし、できることならば二度とあのような惨劇は繰り返したくはないと強く願っている。
しかしながら――自分が立っているこの過酷な時代においては、どうしても戦わなければならない瞬間が存在することもまた理解していた。
宿敵である陶晴賢と決着をつけ、失われた大内家の誇りと領地を取り戻す。
その途方もない目標を果たすためには、これから先も避けられない戦いが幾度となく立ち塞がるはずであった。
だからこそ。
ただ闇雲に腕っぷしを鍛え、敵を薙ぎ払うだけの強さを手に入れれば良いというわけではないのだ。
ただ目の前の敵を叩き潰せば満足というわけでもない。
いかにして被害を抑えて勝利を掴むのか。
いかにして無用な戦いを回避し、戦わずに済む道を探るのか。
どうすれば、流される血の量を減らし、死に往く人間を少なくできるのか。
そして、どうすれば――。
俺の背中を信じてついてきてくれる人々を、一人でも多く守り抜くことができるのか。
「……難しいな」
胸の奥から溢れ出た弱音のような呟きが、静かな夕暮れの空気に溶けていった。
「はい」
元豊は否定も肯定もせず、ただ寄り添うように静かに言葉を返してくれた。
「ですが、若様」
「うん?」
「昨日まで知らなかったことを、今日は一つ知ることができました」
「……そうだね」
俺は自分の未熟さを噛みしめながら、少しだけ苦笑いを浮かべた。
戦うことの本当の恐ろしさと、他人の命を奪うことの取り返しのつかない重み。そして、戦いが終わった後に残される過酷な現実と守るべきものたち。
昨日の俺は、ただ己が強くさえなれば大切なものを守れるのだと安直に信じ込んでいた。
もちろん、今でも強くなりたいという願いに変わりはない。けれど、ただ武器を振るう力だけでは圧倒的に足りないのだということを知った。
人々の声に耳を傾け、自らの無力を認めて能力ある者に仕事を任せる柔軟さ。
戦を始める前にあらゆる可能性を想定して考え抜く知恵。
戦いが終わった後も、打ち捨てられた人々から目を背けずに寄り添う誠実さ。
それら全てを背負って進むことこそが、領主であり将である俺に課せられた真の義務なのだ。
俺は意を決して、石垣から力強く立ち上がった。
「明日も、やることはたくさんありそうだね」
「はい」
「じゃあ、今日はもう休もう」
「それがよろしいかと」
俺は静かに歩みを進め、温かい光が灯る城内へと戻っていった。
背後からは、未だに夜を徹して負傷した兵たちの手当てを続ける仲間たちの忙しない足音が届いていた。
俺は敷居を跨ぐ直前、一度だけ立ち止まって後ろを振り返った。
昨日、俺たちは確かに勝利を収めた。しかし、俺たちの戦いはこれで終わりではなく、これから先も長く続いていくのだ。
だからこそ俺は、もっともっと強くならなければならない。それは、単に刀や弓を巧みに扱うための技術などではなく。かけがえのない人々を守り抜くための本当の強さだ。
そして――
大勢の人の命をその肩に預かる者としての、真の覚悟と強さを手に入れるために。
おっきー:受けか攻めかで言ったら断然受けかな…(自分から攻めないといけないから疲れる)
元豊:受け……!?
今宵はここまでにいたしとうごさいまする。
読んでいただきありがとうございました。