八月二十日朝、山口の町は、いつもと何も変わらないように見えた。
少なくとも、俺にはそう見えていた。
朝餉を済ませ、館の中庭へ出る。夏の終わりとはいえ日差しはまだ強く、庭の木々からは蝉の声が聞こえていた。いつものように天狗を探そうか、それとも今日は館の中で兄上たちの様子を見に行こうか。そんなことを考えながら歩いていた俺は、ふと、普段とは違う空気に気がついた。
館の中を行き交う人間が、妙に多い。
しかも、みんな顔が怖い。
小声で何かを話している者もいれば、慌ただしく廊下を駆けていく者もいる。武士たちは皆、いつでも刀を抜けるように身支度を整え、馬を用意する者までいた。
「……何かあったの?」
近くにいた侍女へ尋ねてみたが、彼女は一瞬だけ俺を見て、それから無理に笑った。
「何もございません、若君。ただ、少し騒がしくなっているだけでございます」
「ふーん……」
何もない人間の顔には見えなかった。
俺がそう思った、その時だった。
遠くから馬の蹄の音が響いてきた。
ただの使者ではない。尋常ではない速さだった。
やがて門の向こうから姿を現した騎馬武者は、馬を止めるなり大声で叫んだ。
「厳島が落ちたぞ!」
その声を聞いた瞬間、周囲の空気が変わった。
厳島。
俺にとっても馴染みのある名だった。
安芸の国にある厳島には、大内家が深く関わる厳島神社がある。山口から遠く離れた場所ではあるが、俺も話には何度も聞いている。
その厳島を、陶方が押さえた。
それがどういう意味なのか、当時の俺にはよく分からなかった。
ただ、大人たちの顔を見れば、普通ではないことだけは理解できた。
「陶……?」
誰かが呟いた。
その名を聞いた瞬間、俺の胸の奥がざわついた。
陶隆房。
父上の家臣で大内家の重臣。
俺自身も顔を見たことがある。優しい人という印象ではないが、少なくとも俺にとっては、父上のそばにいる偉い武士の一人に過ぎなかった。
その陶家の兵が、大内家の領地を攻めている。
――何が起きているのか
分からなかった。
ただ、いつもの山口が、少しずつ壊れていくような気がした。
その日のうちに、町の様子も目に見えて変わっていった。
商人たちが店を閉め、荷物をまとめている。家財道具を背負って逃げようとする人々もいる。泣いている子供を抱えた母親が、周囲を気にしながら足早に通り過ぎていく。
俺が大好きだった山口の町が、まるで別の場所になってしまったようだった。
「どうして?」
思わず呟いた。
誰に聞けばいいのかも分からない。
ただ、ひとつだけ分かった。
みんな、怖がっている。
そして俺も、怖かった。
❖
それでも、父上は普段と変わらないように振る舞っていた。
大友家から来た使者を迎え、家臣たちと話をし、そして酒宴まで開いている。
周囲がこれほど騒がしくなっているのに、どうしてそんなことをしているのだろう。
俺には理解できなかった。
「父上」
「どうした、興童子」
「陶殿が攻めてくるって、本当?」
俺が尋ねると、父上は一瞬だけ黙った。
それから、いつものように穏やかな笑みを浮かべる。
「心配するな」
「でも……」
「大丈夫だ」
父上はそう言った。
その声は優しかった。
けれど。
俺には、いつもの父上とは少し違って聞こえた。
何かを隠している。
そんな気がした。
俺の二つ上の兄、義尊も同じだった。
義尊の兄上は、父上の嫡男であり、次の大内家当主になる人だ。
普段の兄上は落ち着いていて、俺なんかよりずっと大人びている。俺が館を抜け出して怒られた時なども、笑いながら「興童子、少しは大人しくしていろ」と言ってくれる人だった。
そんな兄上が、その日はずっと父上の近くにいた。
「兄上」
「ん?」
「怖くないの?」
俺が聞くと、義尊は少し困ったように笑った。
「怖いよ」
「……兄上でも?」
「私だって人間だからね」
そう言ってから、兄上は俺の頭に手を置いた。
「だが、興童子。お前は心配しなくていい」
「でも……」
「大丈夫」
父上と同じ言葉だった。
俺は何も言えなくなった。
そして、その時の俺にはまだ分からなかった。
兄上自身が、その言葉を信じようとしていたのだということを。
❖
八月二十七日。
父上は能興行を行った。
山口の町では陶軍が迫っているという噂が広がり、誰もが不安に駆られている。それでも館では能が行われていた。
今思えば、それは異様な光景だったのだろう。
けれど幼い俺には、その異様さすら理解できなかった。
ただ、父上が能を見ている。
兄上もいるし、姉上もいる。
それなら、きっと大丈夫なのだ。
そう思っていた。
姉上は、俺よりずっと大人びて見えた。
父上の長女であり、俺にとっては優しい姉だった。俺が館の中で悪さをしていると、「また興童子が天狗を困らせている」と笑うこともあった。
「あら興童子」
「何?」
「今日は大人しくしているのね」
「俺だって大人しくするときくらいあるよ」
「ふふっ。それは失礼しました」
そんな姉上の笑顔を、俺は覚えている。
それが、俺が最後に見た穏やかな姉上の姿だった。
❖
八月二十八日になると、山口へ向かって陶軍が進んでいるという話は、もはや単なる噂ではなくなっていた。館の中を行き交う武士たちの表情からも、それがただ事ではないことは幼い俺にも分かったし、父上もまた内藤興盛殿や杉重矩殿へ参陣を命じ、急ぎ兵を集めようとしていた。
けれど、二人は動かなかった。
それを聞いたとき、館の中に漂っていた空気が、それまでとは明らかに違うものへ変わったように感じた。大人たちは俺の前ではなるべく平静を装っていたけれど、廊下の端で小声を交わす家臣たちの顔には隠しきれない動揺が浮かび、いつもなら聞こえてくる笑い声も、町から聞こえる人々の話し声も、どこか遠いものになっていた。
味方が来ない。
その事実が何を意味するのか、当時の俺にはまだはっきりとは理解できなかった。それでも、これまで「大丈夫だ」と言っていた大人たちが、今度ばかりは何も言わなくなったことで、俺の胸には言葉にできない不安が広がっていた。
そんな日の夜だった。
人の気配も少なくなった館の一角で、天狗が俺の前に姿を現した。
いつもなら、俺を見つけるなり「興童子、また勝手に出歩いていたな」と呆れたように笑うところなのに、その日の天狗は妙に険しい顔をしていた。冗談を言う様子もなく、周囲を確かめるように一度だけ視線を巡らせてから、低い声で俺に告げる。
「若、俺について来い」
「どこへ?」
「いいから。早くしろ」
いつもとは違う天狗の様子に戸惑いながらも、俺はその後を追おうとした。けれど、数歩進んだところでふと足を止める。
「……父上は?」
その問いに、天狗は答えなかった。
ほんの一瞬の沈黙だったはずなのに、俺にはそれが妙に長く感じられた。いつもなら何かしら返してくれる天狗が黙っている。それだけのことが、胸の奥に嫌な予感を呼び起こした。
「父上は?」
もう一度尋ねると、天狗はようやく俺の肩へ手を置いた。
「大丈夫だ」
返ってきたのは、いつものような力強い言葉だった。
けれど、その声には明らかに無理があった。
「……本当に?」
「ああ。本当だ」
そう言いながら、天狗は俺から目を逸らした。
その仕草が、かえって不安を大きくした。
「兄上は?」
「……」
「姉上は?」
今度も答えはなかった。
俺は天狗の顔を見上げた。何かを言おうとして、けれど言葉を飲み込んでいるような顔だった。
やがて天狗は、小さく息を吐くと、突然俺の身体を抱き上げた。
「天狗?」
「時間がねぇ」
「嫌だ。俺、父上のところへ行く」
「興童子」
「父上のところへ――」
「若君!!」
怒鳴られた。
今まで、どれだけ俺が無茶をしても、天狗がここまで声を荒らげたことはなかった。
俺は驚いて口を閉じた。
抱き上げられたまま天狗の顔を見ると、そこには怒りよりも、焦りと苦しさのほうが強く浮かんでいた。
「……」
天狗は少し間を置いて、低い声でそう言った。
「御屋形様からの御命令だ」
俺には、それ以上何も言えなかった。
父上のところへ行きたい。
兄上にも、姉上にも会いたい。
けれど、俺を抱いている天狗の腕はいつになく強く、今まで感じたことのないほど切羽詰まっていることだけは伝わってきた。
「……うん」
小さく頷く。
すると天狗は、それ以上何も言わず、俺を抱いたまま館の奥へ進んでいった。
その夜、俺は天狗に連れられて山口を離れた。
本来ならば、法泉寺へ退いた父上のもとへ向かうはずだった。しかし天狗が選んだのは、長門へ通じる街道ではなく、人目を避けて山中へ入る道だった。何度も振り返りながら歩く天狗の様子を見ていると、俺はようやく、自分がただ遊びに出かけるのではないのだということを理解し始めた。
「どこへ行くの?」
山へ入ってしばらくしてから尋ねると、天狗は前を向いたまま答えた。
「石見だ」
「石見?」
「ああ。吉見様の領地まで行く。そこまで行けば、少なくとも今よりは安全だ」
俺にはもう何が何だか分からなかった。
どうして山を越えるのか。どうして父上のところへ行けないのか。どうして天狗は、こんなにも急いでいるのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
それでも、俺はそれ以上尋ねることができなかった。
天狗の背にしがみつきながら、ふと後ろを振り返る。
木々の隙間から、山口の町が見えた。
夜の闇の中に、いくつもの灯りが浮かんでいる。
あの一つ一つの灯りの下で、いつもと同じように人が暮らしているのだと思っていた。商人たちが店を開き、寺では僧侶たちが勤めをし、家々では夕餉を囲み、明日になればまたいつもの朝が来る。俺にとって山口とは、そういう場所だった。
生まれた場所であり、育った場所であり、父上や兄上たちと過ごしてきた場所。
そして、俺が大好きな場所だった。
「天狗……」
「なんだ?」
「また帰ってこられる?」
俺がそう尋ねると、天狗はすぐには答えなかった。
しばらく黙ったまま山道を歩き、それからようやく、俺を背負う腕に少しだけ力を込めた。
「……ああ」
それだけだった。
けれど、その声がひどく寂しそうに聞こえたことを、俺は今でも覚えている。
やがて木々が深くなり、山道が曲がる。
それを境に、山口の灯りは見えなくなった。
俺は何度も振り返った。
けれど、もう一度その灯りを見ることはできなかった。
❖
「あの者は興童子と共にうまく抜け出せたか」
「天狗のことですか?」
「ああ」
山口の館から引き退き、わずかな兵を伴って法泉寺へ入った大内義隆は、そう尋ねると、しばらく何もない山の方角を眺めていた。
天狗と呼ばれている山伏の男が、幼い三男・興童子を連れて館を脱したことは、義隆も把握していた。あの男については以前から興童子の傍にいることを許していたが、まさかこのような形で息子を託すことになるとは思ってもいなかった。
「恐らくは。あの者なら、若君を連れて無事に抜けられたかと」
側にいた家臣が答える。
「そうか……」
義隆は小さく息を吐いた。
興童子はまだ幼い。戦のことなど何一つ分からぬ年頃であり、今この瞬間にも自分の置かれている状況を理解できずにいることだろう。それでも、あの子は昔から妙に好奇心が強く、館を抜け出しては山口の町を歩き回り、寺社を訪ね、珍しいものを見つけては嬉しそうに話していた。
そんな息子が、今頃は山道を越えている。
そう考えると、義隆の胸には言いようのない寂しさが込み上げてきた。
「……せめて、あの子だけでも無事に逃れてくれればよいのだが」
その言葉に、誰も答えなかった。
法泉寺へ退いた時点で、義隆の手勢はすでに大きく削られていた。山口館を出た時には三千ほどの兵が付き従っていたものの、逃走の途中で離脱する者が相次ぎ、今となってはその数さえ正確には分からない。
それでも義隆は、まだ事態が完全に決したとは考えていなかった。
陶隆房が挙兵した。
内藤興盛が動かない。
杉重矩も参陣しない。
そして、山口へ迫る陶軍。
確かに状況は最悪だった。しかし、大内家がこれまで築き上げてきた九か国という巨大な領国が、かような乱によって一夜で崩れ去るなど、義隆にはどうしても信じられなかった。
「陶隆房め……」
低く呟いた義隆の声には、怒りよりも困惑が滲んでいた。
やがて法泉寺の周囲にも敵兵の姿が見え始めた。
「御屋形様!」
見張りの兵が駆け込んでくる。
「陶方の軍勢が近づいております!」
その報告に、義隆の周囲にいた家臣たちがざわめいた。
義隆は静かに立ち上がると、寺の外へ出た。
山口を離れてから、それほど時間は経っていない。それなのに、周囲の景色はまるで別世界のようだった。
遠くに敵の旗が見える。
それまで自分の命令に従っていたはずの者たちが、今や敵としてこちらへ迫っている。
「……ここまで来たか」
義隆はそう呟いた。
その横顔を見ていた冷泉隆豊は、主君の顔に疲労が色濃く浮かんでいることに気づいた。
それでも義隆は取り乱してはいなかった。
むしろ、妙なほど落ち着いている。
それが冷泉にはかえって不気味だった。
「御屋形様」
「何だ、隆豊」
「まだ戦えます。ここで迎え撃ちましょう」
冷泉の言葉に、義隆はしばし黙った。
「……ああ」
やがて、そう答えた。
「そうするしかあるまい」
法泉寺に集まった兵たちは、必死に戦の支度を始めた。
しかし、その数はあまりにも少なかった。
しかも、味方であるはずの国人衆や重臣たちが次々と陶方へ傾いている。兵たちの間にも動揺は広がり、夜になる頃には逃亡する者まで現れ始めていた。
義隆はそれを止めようとはしなかった。
止めたところで、どうにもならないと分かっていたからだ。
❖
夜が更ける。
法泉寺の一室では、義隆と嫡男・義尊が向かい合っていた。
「父上」
「何だ」
「……興童子は、無事に逃げられたでしょうか」
義尊の第一声も、やはり弟のことだった。
義隆は少し驚いたように息子を見る。
義尊はまだ若い。
父の跡を継ぎ、大内家を背負うことになるはずだった少年である。普段ならば、どこか大人びた落ち着きを見せている義尊だったが、今ばかりはその顔にも不安が隠しきれなかった。
「天狗が連れて行った。あの者ならば、興童子を守ってくれるだろう」
「そうですか……」
義尊は安堵したように頷いた。
「ならば、よかった」
「お前は、自分のことを心配せぬのか」
義隆が苦笑すると、義尊は少し困ったような顔をした。
「私は……大内家の嫡男ですから」
その答えを聞き、義隆はしばらく息子を見つめた。
まだ若い。
あまりにも若い。
本来ならば、これから家臣たちと政務を学び、国を治める術を身につけ、いつの日か自分の跡を継ぐはずだった。
それが今では、父と共に寺へ逃げ込み、敵軍に囲まれようとしている。
「義尊」
「はい」
「この義隆の子に生まれずば、かかる苦労もなかったろうにな」
そこまで言って、義隆は口を閉ざした。
義尊はしばらく黙っていたが、やがて静かに笑った。
「父上」
「……何だ」
「私は、父上の子に生まれたことを無上の誉れだと思っています」
「義尊……」
「大内家の嫡男であることを誇りに思います。ですから、最後まで父上のお側におります」
義隆は何も言えなかった。
ただ、息子の肩へ手を置いた。
「……すまない」
それだけを言うのが精一杯だった。
❖
その頃、別の部屋では、義隆の長女・珠光もまた、迫り来る戦の気配を感じ取っていた。
乳母の操が不安そうに外を眺めている。
「姫様、どうかこちらへ」
「操」
「はい」
「父上は大丈夫でしょうか」
「もちろんでございます」
即座に答えたものの、操自身がその言葉を信じられていないことを、珠光は感じ取っていた。
珠光は静かに目を伏せた。
父は優しい人だった。
少なくとも、珠光にとっての父はそういう人だった。
政務や国のこととなれば難しい顔をすることもある。家臣たちと意見が衝突することもあった。それでも、娘である珠光に向ける眼差しだけはいつも穏やかだった。
「興童子は……」
「若君なら、きっと無事でございます」
「そうね」
珠光は微笑んだ。
けれど、その微笑みはどこか寂しかった。
「興童子は、まだ小さいものね」
「はい」
「あの子には、何も分からないでしょうね」
幼い弟の顔を思い浮かべる。
いつも楽しそうに山口の町を駆け回り、天狗を連れて寺社へ遊びに行き、父に怒られては、それでも翌日にはまた何か面白いものを探している。
珠光は、そんな弟が好きだった。
「……あの子だけでも、山口から遠くへ逃げられていればいいのだけれど」
そう呟いた時だった。
外から、兵たちの怒号が響いた。
寺の周囲で敵兵が動き始めたのだ。
珠光はびくりと肩を震わせた。
操がすぐに彼女の傍へ寄る。
「姫様……」
「大丈夫よ」
そう言った珠光の声も、わずかに震えていた。
❖
翌日、法泉寺は完全に包囲された。
陶隆房、内藤興盛、杉重矩らの軍勢が寺を取り囲み、逃げ道はほとんどなくなっていた。
それでも義隆は、すぐに降伏することを選ばなかった。
前関白・二条尹房らが仲介に入り、義隆を隠居させ、嫡男の義尊を当主とするという条件で和睦を求めた。
義隆自身も、その話を聞いた時にはわずかな望みを抱いた。
義尊ならば、大内家を立て直せるかもしれない。
自分が表舞台から退けば、陶隆房も満足するのではないか。
そう考えたのだ。
だが、その願いは聞き入れられなかった。
「……そうか」
報告を聞いた義隆は、長い沈黙の末にそう答えた。
もはや、道は残されていない。
その夜、陶方の攻撃が始まった。
法泉寺に残っていた者たちは必死に抵抗したが、兵力の差はあまりにも大きかった。やがて陶隆康、陶隆弘らが殿を務め、義隆たちを逃がすために戦場へ残った。
「御屋形様! お早く!」
冷泉隆豊が叫ぶ。
義隆は振り返った。
燃え上がる法泉寺。
その炎に照らされる家臣たちの顔。
そして、その向こうに広がる夜の闇。
「……隆康」
義隆は小さく呟いた。
だが、もう戻ることはできない。
義隆たちは法泉寺を脱し、長門へ向かって逃れた。
❖
八月三十日の明け方、義隆一行は仙崎へ辿り着いた。
海が見えた。
義隆は、その光景を見た瞬間、初めてほんのわずかに安堵した。
船さえあれば逃げられる。
海を渡り石見の吉見正頼を頼れば、まだ道はある。
そう思った。
しかし、海は味方してくれなかった。
船を出そうとしたところへ強い風が吹き付け、船は沖へ進むどころか、押し戻されてしまったのである。
「……神仏までもが、私を見放したか」
義隆は海を見つめながら、力なく笑った。
冷泉隆豊は何も答えなかった。
やがて一行は仙崎を離れ、長門深川にある大寧寺へ向かった。
寺へ入ると、住職の異雪慶珠が義隆たちを迎えた。
「よくぞお越しくださいました」
「異雪殿……しばらく世話になる」
「もちろんにございます」
大寧寺は静かだった。
あれほど激しい戦乱の中にいるにもかかわらず、寺の境内にはどこか俗世から切り離されたような静けさが漂っていた。
義隆はその静けさの中で、異雪と仏法について語り合った。
戦の話ではない。
政の話でもない。
ただ、人は何のために生きるのか。
仏とは何なのか。
死とは何なのか。
そんな話だった。
その夜、義隆は久しぶりに穏やかな顔をしていた。
けれど、その穏やかさが何を意味しているのか。
冷泉隆豊には分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがあった。
大内義隆の逃げ道は、もうどこにも残されていなかった。
❖
九月一日、陶軍によって包囲された大寧寺にて義隆は自刃。
――討つ人も討たるゝ人も諸共に
命を討つ者も、討たれる者も、どちらも露や電光のように儚い存在である。この世の万物はすべて刹那的で幻のようなものなのだから、そのように真理を見つめるべきであるという辞世の句であり、文化・教養に富んだ義隆らしい辞世の句でもあった。
大内義隆
大寧寺にて没する
享年45歳。法号は「竜福寺殿瑞雲珠天大居士」
今宵はここまでにいたしとうございまする。
ご視聴ありがとうございました。